奥様は元魔王 04



噂が耳に入らぬはずもないだろうに、その件について小十郎は特に何も言わなかった。妻が用意する膳を楽しみ、多少は懐くようになった仔猫を構い、構いすぎては妻が仔猫に嫉妬して、笑って妻の機嫌を取るだけだ。吉は夫のその態度が有難い。女同士の見栄の張り合いには助けを求められるまで敢えて口を出さない──これが一流の男の条件だと知っていた。
「おまえさま」
「ん」
「ほんに、よい男振りであられて」
「──何言ってんだ、お前は」
小十郎は苦笑しつつ、妻の言いたいことを見抜く。妻は微笑み、夫に一献注いでみせた。
「そう言えば」
思い出した小十郎が口を開く。吉は膝に乗ったこまに指を齧らせていたが、首を傾げて夫を見た。
「来週、野元へ行く、と」
「アレ、まァ」
途端に溜息をつく吉ににやりと笑ってみせる。
「言っておいた。取り敢えず、な」
「とりあえず」
「ああ」
「とりあえず、ナ」
「あちらさんの都合が悪くなりゃ、お邪魔するわけにもいかねえさ。なあ?」
妻の膝の上の仔猫をわざとらしくつつく。仔猫が喜び、今度は小十郎の指に噛み付いた。
「これ、こま。だめ。およしや」
「ま、そういうことだ」
「そ、そ。──そう、なァ」
吉もわざとらしく仔猫を撫でる。同時に構われた仔猫は大喜びで、にゃあにゃあと機嫌よく鳴いていた。
「そう、なァ。野元のお家のご都合におさわりあっては、片倉にもはもじなこと」
「よく確認してからだ。取り敢えず、な」
「とりあえず」
「そうだ」
「はい。──お召し物はどうなさるの」
「任せる。どうせ」
どうせ、着やしねえだろ。──声に出したわけではない。だが妻は夫が心の中で言った言葉をしっかりと聞き、ふふ、と笑ってまた仔猫を撫でた。




もう何もしない。おこうにそう言った通り、吉は自分からは何もしなかった。
翌日から噂が勝手に広がって行く。野元には嬉しくないことだろう。
野元が城で何かと小十郎に探りを入れているようだ、という話は風に乗って流れて来たが、小十郎が家で何も言わないのだから知らない振りをしていればいい。
野元の家に挨拶に行くための着物を考え、小十郎の衣服の場所を確認し、おこうに「奥様は何をお召しに」と訊かれては首を傾げるだけにする。おこうは普段事前準備を怠らない女主人にしては行動が遅いと思いながらも、何かお考えがあるのだろうと口を出さないことにしていた。
その間にも噂は留まるところを知らない。


野元の奥様の侍女さんがね。
新しい、高価なものはないかって、毎日あの店に行ってるんだってさ。
野元の奥様が言いつけたわけじゃないらしいけどね。
片倉の奥様の侍女さんが、茶屋で座って茶を飲んだから、対抗心を持ったらしいよ。
そりゃあ、気に入らないだろうねえ。
野元のやり方の方が正しいってことにしたいんだろうねえ。
それじゃあ自分のとこの奥様に勝たせたいだろうねえ。

片倉の奥様は?
あれっきり、家から出ていないんだってさ。
しかし、しかしねえ。

野元の奥様も、おとなげないねえ。
侍女さんが勝手にやってるって言ってもさ。
止めるのが奥様のお立場じゃないのかい。

相手は世間知らずの姫さんじゃないか。
おとなげないねえ。
野元の奥様は、おとなげないねえ。


南の市も東の市も、大口顧客同士の張り合いともなれば噂を止める者がいない。どの店も死活問題だ。片倉はあまり南の市で買い物をしていないが、それでも時たま、東の市にはない高価な物を買うことは確かだった。野元に関しては言わずもがなだ。
噂が噂を呼び、野元は茶会に片倉家を呼べなくなるのではないか、という話まで流れ始めた。いくら政宗に挨拶させる場を作ると言っても、ここまでこじれてしまっては、と。
吉が家から出ないのは、先日の件で小十郎が叱ったからではないか、という噂も流れた。根も葉もないが人々はそういう噂を好む。市に買い物に出る片倉家の使用人が否定しても、でもねえ、とまた勝手な噂が一人歩きしていた。
噂は留まるところを知らない。
遂に案じた義母が、前触れもなく隠宅から息子の家──現在の本家を訪ねた。小十郎が役目で不在の時間だったが、当然のように吉は家にいる。
義母は今回の騒動について、吉に今からでも野元に謝罪なり機嫌伺いの手紙を出すよう言い含めるつもりだった。女同士の争いが家同士の争いに発展しかねないと感じたからだ。政には疎い義母だが、家同士、女同士、正室同士の関係が政治抗争に関わることは重々理解していた。政に情熱を傾ける者、特に男であれば失笑するかもしれないが、確かにこれは大事な、大きな問題なのだ。これを分からせることが自分の務めだと意気込んでの訪問だった。
「お邪魔しますよ」
先代の女主人の登場に、使用人たちは背筋を伸ばす。代替わりからそう長くは経っておらず、控え目ではあったが芯の通った「大奥様」はいまだ敬意の対象だ。
慌てなかったのは吉だけだった。おこうを従え、義母の待つ応接間へ歩きながら呟く。
「やはりお越しに、なァ」
「やはり?」
首を傾げるおこうに、吉は「なんも」と答えただけだった。
「かかさま、ご懸命をこうむりまして」
「突然ごめんなさいね」
「なんも。でも、お召しあらばわらわが参り申すのに」
「きつさん」
「はい」
「にゃ」
「あら、猫」
家の中に動物がいることに慣れない義母は驚いた。
「旦那様が飼うてよいと仰って」
嬉しそうに言う義理の娘の笑顔に、義母は気勢を殺がれて苦笑いを漏らす。小十郎はそれほど動物が好きではなかったはずだが、と。
「名前は?」
「こま」
「あなたがつけたの」
「そ。──おこう、かかさまにお茶。それと朝方、晴久の菓子が届いたであろ。それも」
「はい」
吉と義母に頭を下げ、侍女はいそいそと厨房へ向かう。
「晴久? ご親戚かしら?」
「出雲におるの。良い子だえ」
「お友達がたくさんいるのね」
「ふふ」
政治に疎い義母は、それが出雲の国主だとは思いもよらなかった。吉は何ひとつ嘘をついていない。言わなくても良いことを言っていないだけだ。
「まあ、綺麗な」
おこうが茶と共に出した出雲の四角の菓子を見て、母は思わず言った。上品な甘さを予感させるふっくらとした小豆が、高価な砂糖を惜しげもなく使った透明の衣に包まれている。奥州ではあまり見られない菓子だった。
「薄小倉と申すの。使いの者がすかすかに、美味しいうちにと」
「すかすかに?」
「大急ぎさんに。お召し上がられまし。わらわも朝から頂きとうて、頂きとうて。かかさまがいらして下すって嬉し」
菓子を食べる絶好の機会を得て嬉しい、と素直に言う義理の娘に、義母はまた苦笑いを漏らす。
しかしその苦笑いも、高級菓子の前では鳴りを潜めざるを得なかった。出雲から時間を掛けて届けられたとは思えないほど口当たりが柔らかく、小豆と透明な衣が舌の上でとろけるようだ。砂糖のふわりとした上品な甘さに、義母は嘆息を吐いた。
「美味しいわ。出雲は素晴らしいお菓子があるのね」
「晴久が、茶のお好きさんゆえ。よい菓子にもお好きさん」
「お茶を、ね。その方、出雲では有名な方なのでしょうね」
「ん。とても」
小十郎や政を知る者が聞けば唖然としそうな義母の言葉に、吉は優しく微笑むだけだった。
「そう、お茶で思い出したのだけれど、きつさん──」
「わらわの茶道も、もとは織田の長益と同じゅうものなのだけれど。晴久の茶道の方が楽しゅうて」
「あら、そうなの」
吉が自ら織田のことを語るのは初めてかもしれないと気づいた義母は、用意して来た苦言をつい引っ込める。
「そ。晴久の茶道は、こう、堅苦しゅうのうて。足を崩してもよいの」
「そんな茶道、聞いたことありませんよ!」
「きちっとする時はするの。いつもはほんに、お気楽に、ナ」
「いつも? よく茶を立てる方なの?」
「晴久の気が向けば、ひとりでも。わらわも共におれば、よう立ててもろうたの」
「そんなに茶道が好きなら、それなら野元の義子様とも──」
「菓子が美味しゅうて。茶を立ててもろうたら、菓子が頂けるのだもの。足を崩して菓子を頂けるの。そんな、織田でしたらば長益に叱られる。でも晴久のところではよいの」
子供のような吉の言い分に、話を変えようとした義母はたまらず笑い出してしまった。
吉の話はそれからも止まらない。

いつだったかの時、晴久の妹が作った菓子が恐ろしく不味かったが、妹を可愛がる晴久は顔色ひとつ変えずにそれを食べた。
三河の竹千代が安土に贈ってくれた堅い菓子が届けられる間に崩れてしまい、届けた使いの忠勝という者が気落ちし、慰めるのが大変だった。
加賀の犬千代の妻がむすんだ握り飯が美味しくてよっつも食べてしまった。
瀬戸内の海賊が大阪のお好きさん(恋の相手)のために釣ってやった魚を勝手に焼いて食べてしまったら、海賊が本気で怒ったものだから、供のキンカンと走って逃げるはめになった。
他にもあそこで、こちらで、あれを食べて、これを食べて──

義母は笑い通しで、苦言を呈する機会を完全に逃した。後ろで聞いていたおこうも笑いを堪え切れない。だが侍女ならではの冷静さで、奥様はわざと女が好むご飯のお話をなさることで、大奥様のお説教を封じているのだ、と見抜いていたのだった。
結局義母は小十郎のための夜の膳を吉と共に考えたり、猫を構ったりと、息子の家で穏やかな時間を過ごす。吉の話術が巧みであることには気づかなかった。
そのまま世間話を続けていたが、吉が諸将からもらう手紙の話になった時、ふと吉が零した。
「そういえば、旦那様の」
「小十郎の?」
「旦那様のみずくら。もう、だいぶお使いであらしゃって」
「みずくら──硯、だったかしら」
「そ」
わたしも最初は分かりませんでした、とおこうは二人の女主人に茶を注ぎながら心の中で呟く。
「傷もたくさん、色もたえだえしゅうて、直しに出してもよう書かれぬと零されて」
「書き具合が良くないのなら、新しいものを買った方がいいかもしれないわね」
義母は庭を見る。いい天気だ。そしてようやく、自分がここに来た目的を思い出した。
野元に謝罪の手紙を──だが気が変わった。それは今でなくとも良い。急ぐにこしたことはないが、それよりも、この義理の娘にやってやりたいことを思い付いたのだ。
吉が小十郎に叱責され、家から出られないという噂が流れている。無論義母は小十郎がそんなことをするはずがないと分かっているが、城下には分からぬ者の方がずっと多い。
その噂を払拭してやってからでも良い、と決めた。その程度のはこの、尾張から身ひとつ、夫以外に頼れる者がない立場で奥州へ嫁いで来た嫁を可愛いと思っていた。
「では、買いに参りましょうか」
「え?」
「硯なら南の市かしら。あなたが気に入らなければ、後日に東の市へ行けば良いでしょう」
吉は流石にきょとんとする。つまり義母は「一緒に出かけましょう」と言っているのだ。
「かかさま」
「なあに」
「わらわも参るの?」
「──当たり前でしょう!」
既に腰を浮かせかけていた義母は呆れ果て、やや大きな声を出してしまった。
「主人の硯の調子が悪いのなら、早く整えておやりなさい。そんなことだから城下の者に好きなことを言われるんです! しっかりなさい! 世間知らずも可愛いだけでは済まされませんよ!」
過去を知る誰もが、聞けば腰を抜かすような言い草だ。
しかし義母は大真面目だった。確かに織田で様々な地獄を見たのだろう。小十郎が親にすら語ることを拒む地獄だったのだろう。ならば奥州で──
「きちんと、片倉の正室におなりなさい!」

──幸せにおなりなさい。

吉はまじまじと義母を見る。綺麗すぎる顔立ちの義理の娘に長く見つめられ、義母は自分がやや興奮してしまったことを悟った。急に恥ずかしくなり、咳払いをする。
「きつさん、あのね。行きたくなければいいのよ。そもそも──」
「かかさま、何をなさってあらしゃるの」
「え」
義母はつい、吉を見る。見惚れたと言っても良い。
吉が掛け値なしの、心底の笑顔を義母に初めて見せていた。
「早う参りましょ。早う!」
「え、あら、きつさん!」
「奥様!」
義母の返事を待たず、吉は深窓の姫とは思えぬほど機敏に立ち上がり、外出の準備のために自室へ駆けて行く。おこうも慌てて後を追った。
「ろ」
残された義母は辛うじて声を挙げる。邸内を走る深窓の姫など聞いたこともない。
「廊下を走ってはなりません!」
言いながら自分も立ち上がり、説教のため、速足で吉を追った。
残された仔猫が不満そうに「にゃあ」と鳴いた。




南の市はまたざわめく。噂の片倉家の正室と姑が並んで歩いていれば当然だ。しかも嫁姑にありがちな、ぎすぎすした雰囲気はどこにもない。姑は何くれとなく嫁に小言を言っているようだが、嫁は嬉しそうに笑っているだけだ。やがて諦めた姑も笑っている。侍女までもが笑っている。家庭内の嫁姑問題に悩む男たちは「嘘のような光景だ」と呆然としていた。小十郎を羨ましい、いや、妬ましいと思うほどに。
「わざわざ着替えるなんて」
吉はちょっとした外出には少々質の良すぎる着物に着替えていた。似合うけど、と義母は溜息をつく。
「よろしでしょ。かかさまとお出かけするのだもの」
「その織は奥州のものではないわね」
「これも晴久にもろうたの」
「優しいお友達ねえ」
義母が言い、吉は笑い、おこうは口を挟まないようにする。
「かかさま、茶を頂こ。あそこ、日当たりがよいの」
「外で飲むの? 何てこと」
「よいの。──店主、茶をおくれたも」
吉が南の市に着いたと聞いた時から待ち構えていた店主が、すぐさま挨拶に出る。先日の恐怖がまたぞろ脳裏をよぎったが、そこは商売人の本能が、片倉家の正室が自分の店を「必ず寄る店」に認定したのだと察していた。これは逃すわけにはいかない。吉と義母、おこうにまで丁寧に挨拶をし、やや迷ったが外の席に案内した。
「先日、お気に召して頂けたお席でございますが──本日もこちらでよろしゅうございますか」
「ありがとう、ナ」
先日とは比較にならぬほど親しげな声に、店主はすっかり感激する。この声よねえ、とおこうはしみじみと思った。──この声で、片倉の使用人たちもすっかりやられちゃったのよね。
義母は店先の席で茶を飲むことなど初めてだったが、日当たりの良さと吉の話術に、やがて楽しくなる。吉がおこうを当たり前のように座らせたことや、店主がそのおこうにも茶を出したことには驚いた。織田と片倉の違いなのか、単に吉の性格なのかは分かりかねたが、悪いことではないと思った。
茶を半分飲み終えた時、静かなざわめきが走った。吉は一瞬だけ視線を動かすが、その目の鋭さに気づいた者は誰もいなかった。
ざわめきの原因は野元の侍女が現れたことだった。いつものように小間物屋に顔を出し、何か新しいものはないのかと訊いた帰りだ。今日もめぼしい収穫はなく、憤っての帰り道だった。
野元の侍女が片倉の女たちに気づき、足を止める。強張ったその顔に周囲は恐れ半分、冷やかし半分の態で視線を交し合った。当の吉は涼しい顔だ。周囲の雰囲気で彼女が野元の侍女だと分かったが、敢えて知らない振りをした。野元のご正室義子様の侍女殿です、とおこうが耳打ちをしても、ふうん、と返事をしただけだった。
「こんにちは」
野元の侍女が店に近づき、義母に挨拶をした。吉を無視したのはわざとだ。義母はそのことに気づいたが、取り敢えず「ご機嫌よう」と返事をした。片倉の当主夫人だった頃、この侍女とは何度も顔を合わせている。野元の義子に忠実だが、忠実な余り、片倉への敵意を持つ女だと覚えていた。
「片倉の大奥様、お買い物でいらっしゃいますか」
これは牽制だ。何て低い次元の争いかしら、と義母はうんざりする。だがこれもまた許容して生きて行かねばならないのが女というもの。本来なら挨拶以外に言葉を交わす立場ではないが、周囲が見ている以上、あまり冷たいことも言えなかった。
「ええ、そう──」
「おこう」
野元の侍女の問いに答えかけた義母を遮るように、吉が首を傾げておこうを呼んだ。
「はい、奥様」
「教えてたも。奥州は、侍女が他家の奥方に詮索する地なのかえ」
「え」
周囲が不自然なほどに静まり返った。
義母は唖然として義理の娘を見る。
野元の侍女は固まっている。
「それと。他家の正室に会うても、挨拶ひとつせぬのが奥州の流儀なのかえ」
「え」
「織田では違うてなァ。早う奥州の流儀を覚えとうて、教えてたも」
吉の声に厭味はひとかけらもなかった。純粋に不思議そうに問うている声だ。問われたおこうは困る。そうですよ、などと嘘は言えない。さりとて、そんなはずないじゃないですか、とも言えない。野元の侍女に恥をかかせることになる。既に彼女は顔を赤くし、眦を釣り上げ、吉を睨んでいると言っても良い状態だ。
「きつさん」
義母が静かに吉をたしなめる声を出した。
「滅多なことを言うものではありません。どの家でも流儀は違うのです」
「まァ」
吉は胸元から扇子を取り出し、さも驚いた、という声を挙げた。
「では、片倉ではやめよ。かかさまが御心広き御方ゆえ、わらわも今はこれ以上は申せねど──不快で仕方のうてならぬわえ」
「きつさん! 失礼ですよ!」
「だって。かかさまがご存知のそちらの御方、わらわをご覧にもなられませぬもの。此処におらぬとお思いであろ。おらぬ者が何を申したとて聞こえやせぬもの」
野元の侍女はいよいよ耳まで赤くなった。吉はそれきり黙り、茶を啜る。周囲は静まり返り、義母は義理の娘の今の言葉が素直な疑問なのかあてつけなのか判断しかねている。おこうは「確実にあてつけだわ」と思いつつ、胸がすっとしているのも確かだった。最初に吉を無視するなど、おこうにとっては言語道断だ。同じ侍女として、それだけは他家の正室にしてはならないことだと思っている。彼女のしたことは許しがたい無礼だった。
「御無礼いたしました。野元家に仕えております──」
「下がり」
義母とおこうが息を呑むほど、その声は鋭かった。野元の侍女は思わず喉を鳴らす。
吉は取り立てて厳しい顔をしていたわけではない。だが確かに強く、人に命ずることに慣れている、そして、厳然たる身分の差を感じさせるには充分な声だった。
「うぬの名なぞ耳にしても詮なし」
止めなければ──義母は焦る。だが声すら出ない。そうか、と知った。──そうか。これが──時代を駆け抜けた女の声なのだ。不幸で可愛いだけの姫であるはずがなかった。そうだ。──そうよ。

──小十郎が惚れ抜いた女なのだから。

野元の侍女は震えている。怒りか、羞恥か、それとも怯えか。
吉がもう一度、さらりと言った。
「ささと失せ」
それだけで充分だった。自らが蒔いた種とはいえ、衆目で恥をかかされた野元の侍女は真っ赤になって逃げ出すしかない。義母におざなりに頭を下げ、震える声と早口で挨拶をする。
そのまま身を翻し去ろうとした彼女をちらりと見た吉の足元が動いた。誰にも気づかれないほど、ほんの僅かに。
野元の侍女の爪先に何かが当たる。何であるのかを理解しないまま、彼女は悲鳴を上げ、その身体が大きく傾いだ。
成り行きを見守っていた周囲が大きくどよめく。
「奥様!」
「きつさん!」
義母とおこうが悲鳴を上げた。
何かに躓いた野元の侍女が──吉の上に倒れ込み、支え切れずに席から転がり落ちた吉が地に伏せている。
「あなた、おどきなさい!」
「きつさん!」
おこうが野元の侍女を突き飛ばす。義母は吉を助け起こし、まずは顔に傷が無いかを確認する。女の顔に傷など付こうものなら大変な悲劇だ。
「きつさん、怪我は!」
「大事なし」
この程度の受身など取れて当然、とは言わず、吉は義母に手を取られて立ち上がろうとする。だが次の瞬間、小十郎が聞けば苦笑するような「可愛らしい悲鳴」を上げた。
「着物!」
「着物?」
「茶がかかって!」
席から転がり落ちた時、手にしていた茶碗も一緒に落ちたのだ。着物にかかることは不可抗力と言えば不可抗力だった。
「まあ──せっかく晴久さんが下さった着物が」
帰ったら綺麗にしましょう、と言い掛けた義母の横で、おこうが吉よりも悲嘆にくれた声を出した。
「何てこと! ──尼子様から賜ったお着物が! 何てこと!」
「出雲の守護代様に何と申し開きをすればよろしの!」
吉がわざと「出雲の守護代」と口にしたことを知らない周囲は驚愕する。奥州の重要な交易国の国主からの贈り物を、野元の侍女が汚してしまった。これは大変なことだ。
どよめきは最高潮に達し、もはや大騒ぎと言っても良かった。吉はどうしよう、どうしようと義母に縋り、義母は「晴久」の身分を知って混乱しつつ吉を慰めている。おこうは店主を呼びつけ、吉が休める席を店の中に作るように強く言った。
巡回中の騎馬隊が飛んで来るほどの騒ぎの中、野元の侍女は突き飛ばされた姿勢のまま呆然とし、自分への非難に変わったどよめきをただただ聞くことしかできなかったのだった。わたしは何に躓いたのだろう、とぼんやりと思ったが、真実を知る者は吉以外にいなかった。
並の女にできるはずもない絶妙の足捌きで小石を蹴り、野元の侍女を転ばせた吉以外は。




野元の正室、義子の行動は早かった。
その日の夜には片倉家へ足を運び、出迎えた義母に深く謝罪した。吉は「あまりの心痛に」自室にこもっている、と義母に言われ、恐縮しきって謝罪を繰り返す。
元は自分の見栄がこんなことになったのだ、と義子は痛感していた。未だに吉に対して思うところはあるし、完全に見栄を捨てられるかと問われれば難しいと自覚しているが、今回は決して言い訳が許されない出来事だと理解している。
「何卒」
義母を通し、吉に頭を下げざるを得ない。こうでもしなければ野元の評判は地に落ち、政治闘争にも影響が出て来ることは想像に難くない。
「吉様に、お詫びお伝え下さいませ」
義母は鷹揚に頷き、口を開いた。
「隠居したわたくしが申すことではありませんので、これだけ。──お膳立て頂戴いたしました茶会、もし当家の主の小十郎が出席をお断りすることがありましょうとも、どうぞお気を悪くなされませぬよう、お願い致しますね」
吉が政宗に正式に挨拶をするはずだった茶会に、小十郎は出席しないだろう──義母は言外にそう告げ、義子は承諾する以外には選択肢がない。
侍女が仕出かしたこととはいえ、止められなかった、どこかで敢えて止めなかった自分を呪う。暫くは野元が噂され続けるだろう。


城では騎馬隊から報告を受けた小十郎が、野元長忠に謝罪を受けていた。長忠の行動の素早さは流石だ、と城の重鎮たちは思った。男がうんざりするような女同士の諍いでも、度が過ぎれば家同士の争いになる。野元としてはまだ、片倉家と事を構えたいわけではなかった。ここは早々に、吉の夫である小十郎に頭を下げておいた方がいい。
小十郎は「妻に怪我がなかったようなので、これ以上は結構。但し茶会は暫くご遠慮いたしたい」と納め、なぜか何事かの笑いを堪えるような顔で帰路に着く。
家に帰ると母がいたが、「なぜもっと早く帰って来ないのか、妻が可哀想だと思わないのか」と小言を言ってから帰って行った。使用人の手前、笑うことが出来ないことが辛い小十郎だった。
「帰ったぞ」
心痛に落ち込んでいるはずの妻の自室に入る。その途端、寝具に横たわっていた吉がひょいと起き上がって笑いかけた。
「お帰りなさいまし」
「誰が心痛だって?」
「アレ、いやな」
吉はわざとらしく唇を尖らせて見せた。指でその唇を軽く弾き、小十郎は妻の前に腰を下ろす。
「出雲の守護代様にどう申し開きをするんだ?」
無論、小十郎は分かって言っている。案の定、吉は涼しい顔だった。
「明日、手紙をしたためねば」
「気を悪くするんじゃねえか。会ったことはねえが、気難しいんだろう?」
「素直な子だえ」
「お前からすりゃそうでもな」
「よいの。あれはおまえさまと結婚してすぐ、急ぎで届けてもろうたもので。一度で捨てよ、折を見てもっとよいものを、と言われておったゆえ」
今回の「些細な」出来事を添えて知らせれば、晴久は面白がることだろう。機転を利かせて仰々しく、しかしやはり急ぎで着物を新たに送ってくるかもしれない、と吉は言った。
「あの子はそういう遊びが好きでなァ」
「俺には分からん遊びだが、まあ、お前と晴久殿に好きにすればいい」
小十郎は「それはそれで助かる」と思った。野元へのいい牽制になるからだ。奥州の重要な交易国の国主が片倉家と懇意にしていると知らしめることは政治的に旨みがある。
「きつ」
「はい」
「よくやった」
吉は暫し黙り、それから僅かに声を挙げて笑う。小十郎も笑う。
「大したもんだな。前から計画してたんだろう?」
当然そうなんだろう、と言う顔で小十郎は問うた。だからこそ数日家から出ず、母の訪れを待ち、満を持して家を出たのだろう、と。自分の母を巧く使われたような気もするが、欺くつもりではなかったことは明白だ。その件に関して小十郎は特に憤慨するつもりはなかった。
だが吉があっさり言った。
「なんも。今日のはたまたま」
「たまたま?」
「噂で野元が自滅すると思うておったし、あの噂だけでもおまえさまから茶会をお断り頂く理由が出来ておったのに」
うふふ、と吉は笑う。
「ぜーんぶ」

義母が家に来たことも、
買い物に行こうと誘われたことも、
南の市に野元の侍女がいたことも。

「たまたま、ぐうぜん」

転ばせたことと、
晴久の身分を言ったことだけが、わざと。

そう言うと、吉はまた笑い出した。
さすがに小十郎は笑えない。
とんでもない女だ、と思った。
全て偶然だと言うのか。
女同士の見栄の張り合いを利用して、顔合わせのための茶会を潰そうとしていたことは知っていた。協力を仰がれれば小十郎も動くつもりだった。政宗に正式に挨拶することは重要だが、野元に借りを作るのも癪だったからだ。
だが──今日の全てが偶然で、その偶然で目的が達成された。
「きつ」
「はい」
小十郎は言った。心の底からしみじみと。
「お前は──天運にも惚れられてるんだな」
「ん。わらわもそう思わぬこともなくて」
だって、と吉は笑う。
小十郎が一番好きな、この上なく幸せそうな笑い方だった。
「おまえさまとまた、一緒になれたのだもの」

天下を獲ることに、魔王は天運を使ったと言った者もいる。
でも天下なんて自分で獲れた。
自分にとって一番の天運は──

あの日に分かたれたあなたとまた再び、ここでこうして、共にいられることでしょう。

小十郎も笑い、吉を引き寄せる。
吉は笑いながら夫の腕に転がり込み、勢い余って揃って寝具に倒れ込んだ。
襖の前で部屋に入りたがっていた仔猫を、侍女がそっと連れて行く。


 奥様の名前は吉。
 そして、旦那様の名前は小十郎。
 あまり普通ではない二人は、
 普通ではない恋をし、
 本人たちは普通と思っている結婚をしました。
 でも、多くの違いの中で際立って違っていたのは、
 奥様は元魔王だったのですが、
 旦那様と一緒にいることが一番の幸せだと言う、
 実はどこにでもいる、
 ごくごく普通の女性だったということなのでした。