奥様は元魔王 03



その日、南の市は静まり返った。
よく晴れた青空の下、被衣を被った小柄な女が侍女を一人だけ従えて歩いている。この市では見ない女だ。だからこそ分かった。
片倉の、と誰かが囁いた。
──片倉の奥様だ──織田の姫さんだろ──東の市にはたまに行くって聞いたけど──こっちは初めてだろう──しかも侍女ひとりだけ連れて?
囁きはあっという間に漣のように広がり、ほんの僅かな時間で市の誰もが片倉の正室の訪れを知る。
共に来たおこうは視線に半ば怯えていたが、吉はどこ吹く風だ。
「おこう」
「はい」
「ねこまのお道具はどこにあろ」
「そう、ですわねえ。小間物屋でございましょうか?」
「あァ、それよりも。喉が渇いてしもうたわえ」
「茶屋にお入りになられますか。南の市なら奥まった部屋もございましょう」
行き交う人々の視線どころか、並ぶ店の中からの視線もおこうには慣れないものだった。自分ではなく女主人に注目が集まっていることは重々に分かっているが、お流れ頂戴と笑える心境でもない。奥様は大丈夫なのかしら、と不思議に思うほどだった。
「奥様、あれ、あそこに」
東の市とは違う、いかにも高級な雰囲気を醸し出した茶屋を見つけ、おこうは吉の注意を促す。この店ならば人目に晒されない個室もあるだろう。片倉の名を出せば店主も喜んで一番良い部屋に入れてくれるはずだ。
吉とおこうが店に近づくと、待ち構えていた店主が早速喜色満面で店から姿を現した。吉は当然のように足を止め、店主の口上を待つ。周囲で様子を窺っていた人々は、その不遜とも言える態度に、こりゃあ本物の姫さんだ、と嘆息を吐いた。店主も同じ気持ちではあったが、東の市とは異なり、それなりの身分の者を相手に商売をしている南の市の者として、怯みを隠し、丁寧に頭を下げた。
「片倉の奥様、ようこそお越し下さいました。お初にお目にかかります。店主にございます」
「片倉吉。初に。きょうもじはご気丈さんに」
「本日はよいお日柄で。こんにちは」
慣れぬ言葉に戸惑いかけた店主を救うつもりでもなかったが、私も始めは苦労したものだわ、と思い到ったおこうが横から同じことを言う。察した店主はおこうに感謝しつつ、もちろん知っていますよという顔を必死で作り、吉に笑いかけた。
「御足労、光栄にございます」
「少うし、休ませておくれたも」
「喜んで。お茶でございますか、それともお食事で。ああ、奥にお部屋がございますから、そちらへ──」
「おさっとでよいわえ。それ、そこの」
吉が示したのは店先に備え付けてある席だった。日除けの大きな傘が立てかけてあるとはいえ、この南の市では名家の女が気軽に座る場所ではない。店主は驚き、だがおこうは女主人の気質を理解していて、溜息を隠して店主に言った。
「簡単なもので結構でございます。お茶に、お団子でも。奥様はお疲れでいらっしゃいますから、どうぞお早く」
指示を出すおこうと慌てる店主を尻目に、吉はさっさと日除けの傘の下に陣取る。片倉の家から結構な距離を歩き、多少疲れているのは事実だった。
名家の女にあるまじき場所に座った吉を、周囲の人々は興味深げに観察する。いい家の姫さんの座る場所じゃあないぜ、片倉は大丈夫なのか──ひそひそと囁く声など聞こえぬかのように、吉は被衣を外した。これも深窓の姫にはあるまじきことだ。
だが被衣を外した瞬間、囁き声は嘆息に変わった。天女のごとき美貌が現れれば無理からぬことだ。周囲の反応を予想していたおこうは吉から冷静に被衣を受け取り、丁寧に畳んでから、日除けの傘の角度を調節した。奥州の女の白さとはまた違うが、確かに美しい吉の白い肌を陽光で焼きたくなかったのだ。その行為が吉の身分の高さを周囲に印象付けた。奥の部屋では分からなかったことだろう。
「おこう」
「はい」
「お座りや」
「とんでもございません」
「よいからお座り」
女主人の横に座るなどとんでもない。慌てて辞したおこうに半ば命令し、吉は忠実な侍女を座らせる。おこうは恐縮しきりだったが、実を言えば足が疲れていたので有難かった。
「お待たせ致しました」
店主が手ずから持って来た茶を前に、吉は静かに言う。
「この者の分はないの」
「え」
「侍女の茶のおあしも足らぬと思うておるのかえ」
「ああ、ええ、その──」
店主は戸惑った。吉の言う金の問題ではない。今までこんなことを言った「良家の客」はいなかったのだ。片倉の家と同格である野元の家の者にも同じことをしていたし、叱責を受けたこともなかった。
だが吉はそれを許さない、と言ったも同然だ。
「片倉も低う見られたもの。──よい、おこう、よそへ参るわえ。斯様な店で頂くものなどあろうはずもなし」
静かに言い切った吉は立ち上がる。おこうは面食らいながらも慌てて立ち上がった。店主はようやく、侍女への茶を持って来なかったことに対して吉が機嫌を害したのだと思い至り、一気に蒼褪めた。
「とんでもございません、わたくしの手落ちにございまして、いや、申し訳もございません」
店主は必死で詫びを述べる。土下座せんばかりの勢いだった。目の前の女は「片倉」だ。当主の小十郎は南の市には滅多に来ないが、市から片倉家への出入りの業者は多く、払いも良い。吉が既に片倉の台所を完全に握っているという噂も耳にする。もし吉が南の市との取引を一切停止し、東の市の業者を優遇するようになれば、自分は南の市の業者から恨みに恨まれ、商売も立ち行かなくなってしまうかもしれない。それだけは避けねばならなかった。
おこうはちらりと女主人を窺う。吉が家の外できつい口調で物を言うことは初めてだ。流石に対応が分からなかった。
「店主」
吉の声は冷たい。店主は目の前の美姫の声に身を竦ませ、それでも「はい」と返事をする。
「──帰りに、また。よう頼むわえ」
「はい、──はい、確と! 恐れ入ります!」
その返事に吉は鷹揚に頷き、何も言わずに歩き始めた。店主のみならず、店の者までが胸を撫で下ろし、深く頭を下げて吉を見送る。おこうは半ば呆然としながらも、女主人の被衣を持ち、慌てて後を追った。
用事を済ませたらまた寄る、と理解した店主は、自らの行動を戒めつつ、戸惑ってもいた。片倉の家と他の家と、店での対応を変えて行かねばならないということだろうか。特に片倉と対立する野元へはどうすればいいのか。違う扱いをすれば野元は機嫌を損ねるのではないか。
「何があったんだい」
遠巻きに見ていた近くの店の店主が足早にやって来る。それをきっかけに、茶屋にはどっと人が押し寄せた。店主は半ば泣きたい気持ちを抑え、彼らの協力をあてにしながら説明せざるを得なかった。


「あァ、これはかわゆ」
小間物屋で猫の遊び道具を吟味し、吉は茶屋での一件はどこへやら、嬉しそうな声を出す。騒ぎを見ていた小間物屋の店主は引きつった顔で相手をしていたが、店主の妻はしっかりと「金払いのいい女だ」と見抜き、笑顔の大盤振る舞いで吉を接待する。おこうに対してもしっかりしたものだ。吉も妻の方に話しかけてばかりだった。妻は同性ながらに美姫にうっとりと見惚れ、今まで聞いたことのない言葉で話しかけられることにすっかり舞い上がり、興奮しきっていた。
「片倉様のお家で猫をお飼いになるなんて、初めて聞きました」
「ゆえに、ねこまのお道具が何ものうて、ナ」
「尾張では飼っておられましたの」
「大きな猿がおった」
「まあ、猿!」
「剛力の猿でなァ。おいたが過ぎて、まァ、大変であった」
その猿が秀吉という名だと、無論ここにいる誰も知りはしない。
「南の市には初めてお出でなされましたでしょ。嬉しゅうございますわ」
しかもうちで初めての買い物なんて、と、店主の妻は喜びを隠さない。
「そ。旦那様も、あまり此方にはお出でになられぬとおっしゃるゆえ、わらわも東の市に参っておったのだえ」
「ええ、まあ、小十郎様にもお越し頂きたいのですけれど──こちらは野元様がよくお使いになられますからねえ」
「おい」
店主が慌てて妻をつついた。妻もはっとして口を噤む。すると吉が静かに言った。
「市は市に。良きものあらば、おのずと足を運ぶであろ」
「恐れ入ります」
頭を下げる店主に、吉は僅かに笑んでみせた。
「こちらの市は、片倉の家から少うし遠くて、ナ。ありきのついでに参るには、わらわもおこうも躊躇うてしまうの」
「や、そのような問題がおありでしたか。はあ──」
「野元様のお家は近うておられるゆえ、ナ。此方に来られることも多かろ」
「おっしゃる通りに」
店主はそれ以上の説明を控えた。だが、妻があっさりと言ってしまった。
「あと、東の市より、こちらの南の方が、少し高いものが多いんです。野元様は良いお客様ですわ」
吉ではなく、おこうの眉が跳ね上がった。まるで片倉家が金銭において野元よりも劣ると言われているような気分になったのだ。店主はまた慌てて妻をつついた。妻も自分の失言に気付き、蒼褪めて吉を窺う。だが吉は特に機嫌を害した様子を見せなかった。
「あァ、野元様のお家は斯様なお家なのかえ」
「は、いえ、あの──家内が不躾なことを。申し訳ございません」
「よいの、よいの」
店主夫婦は冷や汗をかきながら、改めて吉に頭を下げる。だがおこうは女主人が怒っていないことを感じ取り、つい首を傾げてしまった。気位の高い女主人が、片倉を──小十郎を謗られたと怒ってもおかしくはない流れなのに。やっぱり奥様は片倉ではなく織田の方なのかしら、とすら思った。
「野元様のお家の方とよう話すのかえ」
「あの、こちらにお出での際には、はい」
「では、野元様のお好きなものもよう存じておろうなァ。如何なるものがお好きなのだえ」
店主夫妻はぴんと来る。片倉家の正室が見栄の張り合いに乗り出したのではいか、と。名家であればよくある話で、これは店にとっては良い機会に成り得る。相手よりも良いものを、高価なものを買わせることができる可能性に繋がるのだ。
夫妻は願ってもない好機に奮い立ち、心からの笑顔を撒き散らしながら、野元がかつて買った中でも高価なものをいくつも引っ張り出し、吉の前に並べてみせた。
「こちらの小箱は野元様の奥様の、義子様が大層お気に召しまして」
「そ」
覗いたおこうはやはり首を傾げたくなる。確かに高価だし素敵だけど、でも──そんな感情を顔に出すことははしたないと分かっているので抑えはしたが、つい女主人の横顔を見てしまう。吉は穏やかな顔のままだった。
吉の反応に危惧を抱き、夫妻はあれもこれもと出して来る。だが吉は相変わらず穏やかなまま、特に反応を示さなかった。焦れた妻がおこうに助けを求めるかのように声をかける。あなたも女なら分かるでしょう、というように。
「侍女様、いかがですか。奥様にお似合いになりましょうか」
「ええ、あの──」
吉が特に何も言わないので、おこうは正直に答えることにした。吉は基本的に使用人が何を言っても怒らない。怒るのは小十郎に対して無礼なことをした時だけだ。
「奥様がお持ちになられているものも、色々ありますから。特にその、小箱のような。──三河の徳川様からお届け頂きまして」
「えっ」
「他にも、そうね、加賀の前田様がお届け下さったのが──それからそちらなら、出雲の尼子様が──」
吉は表情を動かしはしなかったが、よくいちいち覚えているものだ、とおこうを評価してしまった。目端が利く有能な侍女であることはよく分かっていたが、この記憶力は大したものだ。
次々と出て来る諸将の名に呆然とする店主夫妻の反応を見て、ようやく吉は口を開いた。
「此方の品揃えもよう考えられておる。何ぞ欲しゅうなった折は、是非、また寄らせてもらお。今日はねこまのお道具をおくれたも」
にこりと微笑む吉を前に、店主夫妻は頭を下げるしかできなかった。
仔猫が遊ぶには丁度いい紐付きの玩具を買い、吉とおこうは店を出る。相変わらず衆目を集めてはいたが、遠巻きにされるだけで、声をかけてくる者はなかった。
だから吉は堂々と溜息をつく。
「旦那様にお似合いのものもなかったわえ。あれでは旦那様も、こちらにはお越しあそばさぬなァ。東の方がお好きそうなものが多いのだもの」
それを聞き、おこうは嬉しくなった。
──奥様は奥州で、旦那様のものをお揃えになろうとされていたんだ。だからわざわざ、遠くても、値の張る東の市までいらしたんだ。
「奥州にだって、よいものはたくさんございます!」
妙に勢い込んだ声になったおこうを、吉は不思議そうに振り返る。
「当たり前ではないの」
おこうはますます嬉しくなった。
「晴久にでも頼めば、旦那様のものでも何でも送ってくれはするであろうけれど。旦那様に出雲のものはお似合いあそばさぬわえ」
「ええ、ええ、そうですとも」
「旦那様のお手箱と、それとみずくら(硯)も──だいぶお使いであらしゃるから、ナ。探さねばならぬのだけれど」
「ええ、はい」
吉はおこうに眉をひそめてみせた。女同士が垣根を超え、同意を求める顔だった。
「こちらのはむつかしいばかりで、旦那様には、なァ。野元も、あれだけむつかしいものばかり、ようよう、まァ」
高いだけで、夫には似合わないものばっかりだと思わない? それから、野元は見栄っ張り。──そんな問いを女主人に投げられ、おこうは思わず笑い、そして心から同意し、はい、と返事をしたのだった。その返事に吉は笑う。
「茶を頂いたら帰ろ。明日、東の市に参ろうではないの」
二人が件の茶屋に着く頃には、小間物屋での話は知れ渡っていた。──野元様の買い物を棒にも箸にも引っ掛けなかったんだってさ、野元様がお買いになったものを見せられても、涼しい顔して猫の玩具を買っただけだって! 他にもっと良い物を持ってるからだってさ!
値の張る良品を売っている、という矜持がある南の市の店主たちは恐慌に陥ったと言っても良い。茶屋を遠めに囲み、美姫が引きつった顔の店主と話す姿を眺めるしかなかった。
「お買い物は、いかがでございましたか」
今度はおこうにも茶を出し、店主が恐る恐る問う。吉は茶を啜り、「ん」と答えた。
「よいものばかりで、目移りしてしもうて、ナ。またゆるりと参ろ」
「ははあ。──しかし、織田の姫様ならば。大層御目もお高いでしょうに」
「ほうかえ。分からぬこともたくさん」
吉は溜息をついた。それがわざとだと分かったのは、四六時中、ともすれば夫の小十郎よりも長い時間を吉と過ごすおこうだけだった。
「何か、御不明でも」
「野元様が大層お気に入りというよいものを拝見しても、欲しいと思わぬで。物を知らぬは恥じ入るべきことよ」
さて、それはどういう意味か──店主ははかりかねた。自分のことを言っているのか、それとも野元を揶揄しているのか。だが先ほど聞いた噂では、もっと良い物を持っているという理由で、野元が買った数々の良品に食指が動かされなかったと言う。と言うことは──
「その、ああ、──片倉の奥様」
「あれ、ゆかぬ。陽が傾いておるではないの」
いかにもたった今気づいたという風体を装い、吉は声を挙げてみせた。確かに夕暮れ時が近づいている。
「おこう、帰ろ。旦那様の夜のお膳を整えねば、ナ」
「かしこまりました」
「店主、馳走に。金子は此処に」
「ご馳走様でございました」
女主人の代わりに侍女が笑顔を向ける。店主はそれ以上食い下がることができず、どうにかこうにか「ありがとうございました」とだけを口から搾り出し、心なしか速足で帰路に着く美姫と侍女の背中を見送るしかできなかった。
「なァ、おこう」
「はい、奥様」
吉は歌うように言った。
「おなごは恐ろし、ナ」
「あら、どういう意味でございますの」
ふふ、と吉は笑う。その笑い方が本当に何かを小馬鹿にしたようなもので、おこうは何となく、奥様にこんな笑い方をされたくないわ、と思ってしまったのだった。
「わらわはもう、よう何もせぬわえ」
──なせることを、なしただけ。




噂はすぐに広まる。情報が命であることはいつの時代も変わらず、人々の好奇心が情報を口さがない噂に変えることもまた、いつの時代も変わらない。
即日届いた噂を聞いた野元の正室の義子は、すぐさま吉の行動の意味を察し、憤死するのではないかと言うほどに怒り狂った。会ったこともない吉に対して覆しようのない敵愾心を抱くに至るには充分すぎる出来事だ。
こと、政宗と吉の顔合わせを「整えてやる」立場として、これは許し難い挑発だった。
夫の長忠にもそう言ってはみたものの、ろくに相手にされない。
とにかく長忠は片倉に恩を売ることが重要で、正室同士の見栄の張り合いなど興味はなかった。話を聞いた時点で、片倉家の正室が見栄すら張っていないと判断したのだ。長く政治に身を置いている者として、そういった点を見抜く力があった。
むしろ片倉家の正室は敢えて見栄を張らないことによって、わざと義子を怒らせようとしたのではないかと考えたほどだ。
流石にそれは穿ちすぎかと考え直す。何しろ噂で聞く分には、片倉家の正室はかの堅物の小十郎に相当に甘やかされ、舅と姑に苦言を呈されたこともなく、名だたる諸将に気にかけられ、外部から見れば蝶よ花よの深窓の姫君だ。今回のことも特に悪意あってのことではなく、本当に素直に、それこそ「名家の姫君」らしく振舞ったに過ぎないのだろう、と結論付けた。
そもそも本当に悪意があれば、野元よりも良い物を競うように買ったに違いない。長忠や一般的な男が知る女の見栄の張り合いとはその程度のものであり、気にしたい種類の出来事でもなかった。女同士の争いに嘴を突っ込んだところで何も良いことはないと分かっている上に、今回は義子の一人相撲にも思える。
「元より家の格が違うんだ。目も肥えているだろうし、下々への物言いも分からぬだろう。お前もいちいち相手にするんじゃない」
「でも」
義子は夫のうんざりした顔に気づきはしたものの、憤懣やるかたないまま食い下がる。
「いくら織田の直系とはいえ、今は片倉家の正室ではございませんか。その正室の無礼を見逃せば、野元が片倉に見下されるという結果に繋がります。抗議のひとつもして下さいませ」
「抗議? 誰にだ?」
「片倉のご当主に」
「お前、それはないよ」
長忠は呆れ返るしかなかった。妻同士の、相手からすれば勃発すらしていない見栄の張り合いに、なぜ当主同士が乗り出さねばならないのか。噂が流れれば野元が笑いものになる。
「でも、余りにも無礼ではありませんか。これから政宗様とのお顔合わせを整えようという野元に対して、あまりな! まだ御挨拶も頂いておりませんし!」
それは事実だった。野元が正式に政宗と吉との顔合わせの場を提供するということになってから、まだ片倉家から挨拶が来ていない。本来ならば小十郎と吉が連れ立って野元を訪れるのが礼儀だった。
だが長忠は溜息をつく。
「あちらは良い日を選んでいるのだ。小十郎殿からも今日、城で直接伺った。来週には我が家へ参られるそうだ」
「来週ですって? 遅いくらいじゃありませんか!」
「そう喚くな」
長忠はたしなめつつ、しかし首を傾げたくなる。義子は元々、癇癪持ちではない。どちらかと言えば気が長く、滅多に声を荒げない女だった。その女がここまで癇癪めいた様子を見せるとは、よほど吉に対して腹に据えかねたのか。
「とにかく今後も、片倉家とはことを構えぬよう、穏やかにやって行かねばならん」
「それは分かっておりますとも。でもあちらが先に」
「だからな。あちらの──吉姫か。出身が出身だけに、何が無礼かも分かっていないだけだろう。年を経れば自ずと分かるだろうし、小十郎殿も考えるだろう」
義子は明らかに不満そうな顔をしているが、夫の言いたいことは理解した様子で渋々頷く。長忠は溜息を隠して畳み掛けた。
「あちらは当主が小十郎殿に代替わりして、まだ若い。対して我々は相当に歳が上だ。ここで、こんなことで事を起こせば、大人げないと笑いものになるのは野元だぞ。そこは理解して、我慢をしてくれ」
夫の言葉に義子は頷いた。深く息を吐いたが、それは溜息ではなく、自らに言い聞かせるためのものだった。
野元は長く茶の道を嗜んでいるだけに、常に穏やかであろうと心がけている。それが今は功を奏し、義子の心を納めることに成功した。こういった部分はまだ、小十郎の世代では中々辿り着けないものだ。だからこそ野元は片倉の政敵であり続け、義子は奥州では「穏やかな夫人」として認識されていた。



だがその平常心が、翌日、いとも簡単に吹き飛ばされるとは誰も予想していなかった。
予想していたのは──吉だけだ。
片倉家の正室は確かに普通の女ではなかった。
南の市に行っただけ。少し買い物をしただけ。
ただそれだけのことであったのに、話は野元にとって不名誉な方向へ転がり続けることになる。