奥様は元魔王 02



「かかさま、おたのもう」
翌日の昼、引退した小十郎の両親が住む家にふらりと現れた嫁は、義母を大いに驚かせた。
「あらまあ──どうしたの」
「かかさまの御顔を拝見しとうなり申して」
「まま、お入りなさい。お昼は食べたの」
「まだ」
「やっぱり、この子はねえ」
義母は笑いつつも吉を迎え入れる。着いて来ていたおこうは先代の女主人に礼儀正しく挨拶し、義母も微笑んでそれに返した。
「おたのもう、って、どういう意味なの」
「んん──訪いの御挨拶」
「あなたの言葉、小十郎は全て分かるのかしら?」
「お分かりあそばさねば、よう、お訊ねになられるから。大事なし」
普段はあまり交流のない嫁だが、だからこそ嫁姑の問題が起こらないのだと分かっていた。小十郎が突然連れて来た時は腰を抜かさんばかりに驚いたものだ。始めは流石に難色を示したが、吉の人となりを知るにつれ、あの息子ならこの嫁がいいわ、と納得したのだった。その直後に諸将から吉への結婚祝いが続々と届き、「とんでもない嫁だ」と別の意味で腰を抜かしそうになったのだが。
吉が当初、義両親に警戒心を持っていたことは義母にも分かったが、小十郎から大体の生い立ちを聞いていた二人は「それも仕方ない」と思っていた。政宗が吉を特別に扱うという噂も聞いていたし、何より小十郎が妻を大事にしていることも分かっていた。やがて吉も、干渉しない、攻撃しない相手だと理解し、義母には自分から連絡を取るようになり始めた。
「お土産。かが屋のおまんとう」
「あら、嬉しいこと。後でいっしょに頂きましょう」
「わらわはよいから、ととさまとお召し上がりあそばしたもれ」
義母の人生にはなかった言葉を遣う嫁だが、それも嫁の魅力のひとつだ、と思っていた。客間ではなく私室に招き入れ、今では小十郎に譲った片倉家の本邸にいた頃から仕えている老いた侍女に茶を言い付ける。老侍女はてきぱきと働き、すぐに茶と茶菓子を用意した。
「針仕事でも習いに来たの?」
「旦那様がお望みであられないから、やらない」
「そんなこと、ないと思うけれどねえ」
吉の家事が壊滅していること、小十郎も特に吉にそれを望んでいないことを、おこうから聞いて知ってはいるものの、義母はどうしても苦笑してしまう。
「小十郎の着物が急に解れたらどうするの」
「おこうがおるもの、ナ」
吉は後ろで控えている侍女を振り返って微笑みかける。おこうがにこりと笑った。これはこれで良い主従なのでしょうねえ、と、おこうが早々に吉に心酔したと知っている義母は思う。
「針仕事ではないことを、お訊ね申しとうて」
「あら、何かしら」
「片倉の家とご縁のある、野元のお家。かかさまの折はいかなるお付き合いにあられたのかと」
「野元、ねえ」
義母は溜息をつく。片倉家に嫁いでからずっと、旧臣の間では勢力を二分する野元の家には悩まされた。どうにか表面上は親しく、だが均衡が崩れないようにと気を使い、あちらが茶道に誇りを持つならば折々に立て、また野元も、武に誇りを持つ片倉を折に触れて立てたものだった。
「わたしたちは、そうやっていたわね。どうにかこうにか、目立った対立をしたくなかったから」
夫、つまり小十郎の父の代まではそうやって均衡を保っていたが、政宗が伊達を、小十郎が片倉を継いでからは何かと対立が目立つようになっている。そろそろ家督を子に譲ってもおかしくない野元と、智はあるがまだ若い小十郎では仕方ないのかもしれない。
様々な歴史や苦労、今の問題点を吉に話す。吉はじっと聞いていた。
「あなたから、小十郎に言えないかしら。あなたの言うことなら多少は聞くかもしれなし」
吉は首を傾げてみせた。それが本当に「どういう意味だろう」と問う顔で、義母は溜息を押し殺す。
──いくら『かの信長公と共に従軍していた』とはいえ、政治の機微は分からないのでしょうね。
「野元と仲良くやってくれないか、って。一度、夫が言ったことがあるのだけれどね。あの子は聞きやしなくて」
「ととさまが、何をおっしゃったの」
「だから、野元と仲良く。もちろん表面だけでもね」
「仲良く」
「そうよ。天下獲り、だったかしら。政宗様がそれを目指されるこの時に、家臣同士の争いなんて良いはずがないでしょう」
吉は義母を見たまま黙る。言っていることが理解できないのだろうか、と義母が危惧したのは一瞬だった。
義母は愚鈍な女ではなかった。
本来であれば格下の片倉家に嫁ぐような身分ではない女の目が不意に違うものになったことに気づく。そしてそれは、政治を語る夫や伊達の先代と同じものだと知った。
──この子は。
「……きつさん」
「はい」
──分かっているのね。そうよね。
「愚鈍な女は、引っ込むべきね。できることだけすればいいってこと、忘れてたわ」
──そうよね。この子は──地獄を見ているのよね。小十郎は少ししか教えてくれなかったし、この子が語ることもないだろうけれど。
「かかさま」
「なあに」
吉は不意に、にこりと笑んでみせた。その笑い方はずるい、と義母は思う。小十郎の結婚に難色を示した夫は、この笑顔で陥落したものだった。
「なせることをなせばよいのは、ほんにそうであらしゃりましょなァ」
義母は溜息を隠すために笑ってみせた。ああ、と心の中で呟く。
──ああ、わたしは今、この子に切り捨てられたのだわ。無能な者として。
だがそれを寂しいとは思わなかった。時代は確実に変わっているのだ。吉は日の本が激動する時代をまさに駆け抜けた。
「ねえ」
「はい」
駆け抜けた後に、いまだ駆けようとする小十郎の元へ望んで嫁いで来た。織田の権力の復活を望む諸将はいないだろうが、「織田の直系の姫」を望む諸将は多いだろう。片倉の家など比較にならない由緒と力を持つ男たちが、天下獲りの箔付けのためにもこの女を望んだはずだ。
それでもこの女は身ひとつで奥州へ来た。
「あなた、今、幸せ?」
吉はきょとんとした顔で義母を見る。
僅かな沈黙の後、吉はあっさりと言った。
「幸せとは、何を示すの」
義母は微笑んだ。僅かばかり、鼻の奥がつんとした痛みを覚える。
嫁いで来たこの女の詳しい過去は知らない。小十郎は本当に、詳しくは教えてくれなかったのだ。ただ、織田の直系として様々な戦線に関わっていたこと、尾張から安土へ、本能寺にいたこと──織田の再挙兵にも従軍していたということしか、両親に語らなかった。これ以上はきつのためにも申し上げられない、政宗様だけがご存知であらせられる、どうぞお許し願いたい、と頭を下げた。だから両親はそれ以上問うことができなかった。
幸せなのかと問い、はい、いいえ、どちらでもよかった。その普通の答えが聞きたかった。
だが義理の娘は幸せの定義すら分かっていない。人それぞれであるとはいえ、自分の定義すら分かっていない。
この時代の女として当然の、どれほど上流の姫でさえ一通りはこなせるはずの家事が何ひとつできず、それでも政治は分かる目をする。
「小十郎と」
息子が城下で噂になるほどに、嫁を甘やかす理由が分かったような気がした。
「仲良く、おやりなさいね」
吉は首を傾げる。それでも「はい」と素直に返事をした。
──時代を駆け抜けたこの子は、駆け抜けた後、何も持っていなかったのね。
「わたしね」
「はい」
──だから小十郎は、この子に与えたがるのでしょう。あの子が定義する幸せの形を。
「小十郎が立派に育った、って、今やっと分かったわ」
「旦那様が」
吉がこの家に来て初めて、やや勢い込んだ声で言った。
「ご立派であらせられない時なぞ、わらわは存じたことがのうて」
思わず義母は笑った。控えるおこうや老侍女も笑いを堪えている。
政治の話をしなければ良いのだと決めた。可愛い嫁が来た。小十郎のことがいとしくてたまらぬ、ただそれだけの可愛い嫁だ。
それで良い、と義母は思った。
「では、茶の事は野元に任せればよいの」
話を戻し、吉が問う。義母は頷いた。
「とはいえ、小十郎がやりたいようにやれば良いのでしょうね。もうそういう時代なのだから」
「旦那様は、野元に任せよと」
「──何かあったの?」
義母の問いに、吉は素直に話した。野元の茶会でお披露目をする、その席には政宗も来る──義母は「ああ」とつい遠くを見たくなる。そうだ、その問題もまだ残っていた。片倉家の正妻がいまだ正式に政宗に挨拶をしていない。あまつさえ政宗が家に足を運んだという事実。
「口を出すのはやめたいところだけれど、これだけは。きちんと御挨拶申し上げなさい。小十郎のためにもよくありません」
少しばかりきつく言いながらも、義母は吉の話し振りに感心していた。柔らかい独特の言葉回しでありながら、女にありがちな無駄な脱線が一切ない。これならば女の無駄話が好きではない小十郎が気に入るはずだ。
「だから、その茶会で仔りゅ……政宗公に」
「まあ、政宗様がそれで良いとおっしゃるのならそれで良いけれど。先代様では許されなかったわ」
「ふふ」
吉が微笑む。義母はそれを見て苦笑した。何もかもを許したくなるような笑い方を、この義理の娘はいとも簡単に使うものだと思う。
「茶会はいつやるの」
「さあ。近々とは思えど」
「何を着るの? たくさんあるでしょう。甲斐の大虎に頂いたものも素晴らしかったではないの」
「何にしよ。でも、信玄ぼ……信玄公に賜ったのは着とうない」
「あら、どうして。政宗様はそんなことでご機嫌を悪くされる方ではないでしょうに」
「いや」
吉が僅かに怒った様子を見せた。
「斯様によいものを、なにゆえ、野元の茶会なぞに着てやらねばならないの!」
呆気に取られた後、義母は吉の言う意味を理解し、そして耐え切れずに大笑いをしてしまった。
この子はすっかり片倉の女だ、と思いながら。
吉は笑う母に「どうしてお笑いあそばすの」とまた怒ってみせたが、おこうや老侍女も笑っていることに気づき、やがて自分の言ったことを思い出し、困ったように笑ったのだった。


「かかさま」
帰り道、吉は呟く。
「お優しい」
「きつ様、何かおっしゃいまして?」
義母から持たされた小十郎の好物を包んだ風呂敷を手に、後ろを歩くおこうが問う。
「かかさまがお優しいから、わらわは助かる、と思うたの」
「それはもう。小十郎様のお母様ですもの」
「ほんに。助かる、助かる」
──そして、お甘い。
「助かった」
「え?」
「かかさまがお甘くて、助かった。かかさまであられたから、先代から今まで、片倉と野元が均衡を保てたのであろ」
「おこうには、難しいことは分かりませぬ」
「わらわも分からぬわえ」
事実ではなく願望を口にし、吉は歩く。
──仔竜の天下獲りなぞ、どうでもよいけれど。
「……なせることを、なせばよい」


夕餉の膳に懐かしい料理を見た小十郎は、吉に「母上の所へ行ったのか」と問う。
「ん。野元の茶会のことで、ご相談申し上げて」
「お前が相談だって?」
「かかさま、お優しゅうて。ほんに助かるわえ」
「そいつは良かった。俺も助かるよ」
騎馬隊の青年や旧臣が稀に嘆く嫁姑の問題が自分には振りかからないと知り、小十郎は素直に安堵する。吉が母に懐いたことは意外だったが、嫁が母とうまくやってくれることは夫として何よりも助かる。
「何を相談したんだ」
「かかさまの代には野元とどう──これ、旦那様のお邪魔をしてはならぬ」
「にゃ」
いつの間にか小十郎の膳を狙っていたこまをひょいと抱き上げ、吉は「めっ」とやってみせる。仔猫を叱る吉も、叱られてしゅんとする仔猫も可愛く、小十郎は笑った。
「厳しいな」
「ねこまなら、叱れば分かるわえ」
「叱っても分からねえ奴がいるのか」
「野元」
「いつ叱ったんだよ」
「時代が叱っていることを、分かっておらぬわ」
ふうん、と小十郎は笑いを収めて妻を見る。
こういう時、妻はやはりかつての政治の天才なのだと思わせる顔をする。
「なせることをなせばよいと、かかさまがおっしゃって」
「ま、昔からそんなことを言ってたな。お陰で俺もすっかりおとなしく育った」
「おまえさまがおとなしさんなら、日の本の大方はもっともっとおとなしさん」
「おいおい」
仔猫を遊ばせ始めた吉に苦笑し、小十郎は膳を平らげる。久々に食べた母の味はやはり懐かしく、美味いものだった。
おこうに膳を下げさせ、ついでにこまも追い出す。心得たおこうは早々に就寝の挨拶をし、もっと遊びたがる仔猫を抱いてさっさと場を下がった。ご夫婦が仲良しなのはよいことなのよ、邪魔しては駄目よ、とこっそり仔猫に言い聞かせながら。
「きつ」
「はい」
「俺にやらせたいことは何だ?」
「何のことやら」
「源爺に聞けばすむことを、わざわざ母上の所にまで足を運んで、何を知りたかった?」
「何のことやら」
白々しいと言えば白々しい態度に、小十郎はにやりと笑う。
「分かったよ」
「何のことやら」
「俺は何も知らねえ振りをしてりゃいいんだろう?」
意地の悪い笑みを浮かべる夫を見つめ、やがて吉は唇を尖らせる。小十郎は言った。
「ああ、訂正だ。──お前は何も考えてねえ、そういうことにしておけばいいんだな?」
「おまえさま、お酒を召しすぎられたのではないの」
「そうだな。お前が可愛く見える」
「アレ、いやな。お酒を召した時だけ!」
「物のたとえだ、そう怒るな。来いよ」
「ほんに、まァ。困ったお方」
言いながらも吉は笑い、優しく触れてくる小十郎に逆らわない。
「なァんも」
夫に甘やかされながら、吉は笑う。
「考えてなぞ、おらぬわえ。おまえさまがおられればよいの」

おまえさまがご立派であられればよいの。
おまえさまが。
おまえさまの片倉が。