奥様の名前は吉。
そして、旦那様の名前は小十郎。
あまり普通ではない二人は、
普通ではない恋をし、
本人たちは普通と思っている結婚をしました。
でも、多くの違いの中で際立って違っていたのは、
奥様は元魔王だったのです。
片倉小十郎が電撃的な経緯で妻を娶って暫く経った。
暫くとはいえ、それほど大きな話題に恵まれない領民の間ではいまだに噂で持ちきりだった。
「普通さ、片倉家ほどなら城に上がって政宗様に正室を紹介するだろう。それがまだ、してないんだってさ」
「奥様が城に行きたがらないんだって?」
「小十郎様のお留守中に、政宗様がわざわざ足を運ばれたって言うじゃないか」
「織田の姫さんだからって、今はもう、なあ。何で政宗様がそんなことするんだ」
「でも全国の諸将から結婚祝いが凄かったじゃないか。織田の直系ってまだそんなに凄いのか」
「政宗様に正式に御挨拶してないってことだろ。いつでも織田に戻るつもりなんじゃないか?」
誰が言い触らさなくても話は漏れる。それは出入りの業者が使用人の話を小耳に挟んだり、興味本位で誘導尋問をしたりというところから始まるものだ。
無論、逆もまたしかり。
領民の噂は本人の耳にも入る。むしろ小十郎は、ある程度は入るように努めていた。大抵が根も葉もない興味本位の話ばかりだが、稀に領内に入り込んだ不審者の情報やよからぬ企みが届くこともあるからだ。
となれば、吉の耳にも入る。小十郎がそうしろと家人に言ったわけではない。だが体力と気力を取り戻した吉が一番最初にしたことは、家中の情報を自分に集める仕組みを作ることだった。
まずは使用人全ての顔と名前を覚え、仕事の内容を把握し、そのいちいちに触れるたびに声をかけ、褒め、労う。分からないことは素直に訊く。始めは侍女のおこう以外、「小十郎様が突然連れて来た織田の女」を警戒していた使用人たちだが、おこうと同じくすぐに「奥様」の虜になった。自分の仕事に興味を持たれ、評価されれば嬉しいものだ。与えられた嬉しさは信頼に変化する。しかも彼女が家に来てから、小十郎がよく笑うようになった。それも使用人たちには嬉しいことだったのだ。
小十郎と暮らした山小屋の番をしていた源爺が庭師になっていると知ってからは、吉は源爺を利用した。源爺は邸内の信頼が厚く、様々な情報が集まる。吉は源爺を呼び、隠すことなく正面から「片倉のために」自分に協力するよう要請した。源爺もまた元武士であるからか、吉の目的を把握し、忠実に役目をこなしていた。女主人が情報を握っている家ほど磐石な場所はない、と長年の経験で知っていたからだ。
ほどなくしてこれらを理解した小十郎は、吉の手腕に嘆息するはめになる。天下を取るよりはよほど容易いことだったろう、と思いながら。先代である母も優秀な武家の妻ではあったが、ここまでではなかった。
少なくとも吉は、家の中では確固たる地位を築いた。朝は小十郎を送り出し、昼は手紙に返事を書いたり、家の中のことを源爺から聞いたり、おこうと話をしたり。夜は小十郎を迎えて世話をする。
吉の過去を知る者であれば唖然とする一日だ。吉自身、まさか自分がこんな生活をするとは思ってもいなかった。
それにしても、と考えることもある。
「暇な輩の多きこと、多きこと」
手紙を書く手を止め、吉は呟いた。結婚祝いの礼状がまだ全て書き終わらない。
いざ動き出してみればやることは山ほどあった。片倉の財務に無駄な出費を発見して眉をひそめ、とりあえず小十郎に苦言を呈したところ、その的確さと細かさに音を上げた小十郎が「台所(家計)は完全にお前に任せる」と言った。家の修繕のあれこれもと言えば、それも全部お前の好きにしていい、建物のことでお前が間違えるはずがない、という答えだ。季節の行事は、祭りの時期は、菩提寺へのお参りは、と立て続けに質問すれば、おこうに訊けということだった。覚えることもすることも山ほどある。そこへこの噂話だ。礼状を後回しにしたいほどだった。実際、後は冷たくすればするほど喜ぶ性質の男たちへの礼状しか残っていない。いっそ後回しにしようと決め、筆を置いた。
「噂なぞ、お気になさらずに」
吉の呟きにおこうが気づき、優しい言葉をかける。気遣われていることが分かったので、吉は頷いておいた。
おこうから見れば、女主人は噂を気に病んでいるように見える。もっと楽しいことでお気が紛れればいいのに、と思った。
だがおこうの考えは外れていた。吉は悩んでいるわけではない。元々の過去からして噂話のくだらなさなど慣れている。時が過ぎれば忘れられるということも。嫁いだ直後は思うように動けず、気に病みもしたが、あれは我ながら精神的に参っていたからだ、と結論付けている。
「……とはいえ、機、と申すこともあって、ナ」
「え?」
「ん」
不意に吉が顔を上げる。その顔を見たおこうは、わけも分からず背筋が寒くなった。何かを探るものであることは分かったが、おこうの知る世界の顔ではなかった。
しかし、すぐにそれは気のせいだったのではないかと思う。一瞬でいつもの「気位の高い奥様」の顔に戻ったからだ。
「今、何ぞ鳴いたかえ」
「さあ? わたくしには聞こえませんで」
「鳴いた」
おもむろに吉が立ち上がり、そのまま縁側へ出て行く。そこから見える手入れされた庭は見事なもので、小十郎も吉も一日中眺めていても飽きないほどだ。
「お、奥様!」
おこうが仰天するのも無理はなかった。あの深窓の姫様であるはずの「奥様」が、ひょい、と身軽に縁側から庭へ降りたのだから。
「奥様、お履物を!」
「げげなら履いておる」
いつの間にか草履を突っかけていた女主人に、おこうはまた驚く。こんなに素早い女性を見たことがない。小十郎の母や嫁いで行った姉もてきぱきとしたものだったが、新しい女主人はまた違うような気がした。
吉はこれまた深窓の出身という触れ込みに相応しくない、素早く潔い動作で縁側の下を覗き込む。
「あれ、おまえ、何をしておるのだえ」
「奥様?」
「そこでは届かぬわえ。──おこう、源爺を呼んでたも」
分からぬまま、おこうは庭師の老爺を呼びに急ぐ。
夜に家に帰った小十郎は、吉の膝に堂々と丸まってその場を自らのものと主張する仔猫と鉢合わせすることになった。
「……客か」
まだ生まれて間もなく、目が開いたばかりだろう。吉が撫でると喉を鳴らして喜んでいる。
「出入り口を間違うて、縁側の下にお入りであったのだえ」
「そうか。そいつはうっかりした客でいらっしゃる」
吉の隣に座り、小十郎が手を伸ばすと、それまでおとなしかった仔猫は途端に毛を逆立てて威嚇してみせた。小十郎は苦笑し、吉は「これ」と慌てて仔猫を諫めようとする。
「おまえ、旦那様にはも少し愛想よくおし」
「にゃ」
嫌だ、と言うように仔猫は尻尾を膨らませる。吉は溜息をついた。小十郎は笑った。膝に乗せているということは吉も猫を気に入ったということだろう。
「親とはぐれたのか」
「おそらく。生きておって幸運だえ」
もう一度小十郎が手を出す。結果は同じだ。
まあいいさ、と小十郎は言った。
「飼うか」
「よろしの」
「台所に余裕があれば、構わねえさ」
「ん、ねこまの一匹ほどなれば、どうにか」
二人は同時に吹き出す。
「うちはそこまで逼迫してたのか。働かねえとなあ」
「ようお励みなされましや」
吉が嬉しそうだった。だから小十郎も微笑んでみせる。仲のよろしいこと、とおこうは照れる。
「これは何だ?」
「朴葉味噌。おばんに載せて召し上がりましな」
夕餉の膳に出て来た知らない品に、小十郎は興味本位で手を付ける。吉に言われた通りに白米に載せて口に入れると、刻んだ椎茸や薬味と共に香ばしく焼いた味噌の風味が口の中に広がった。
「米にも美味いが、これは酒も進むな」
夫の素直な感想に、吉はやや苦笑を見せる。酒が飲めない女は、夫の言うことに頷けないこともあった。さりとて悪良いしない小十郎が酒を飲んでも嫌がることもなく、隣に座って酌をすることを楽しんでいる風情すらあった。
「ああ、そういえば」
ふと思い出し、小十郎は吉を見る。
「野元を知っているか」
「野元」
はて、と吉は首を傾げるが、すぐに「ああ」と言った。
「片倉の家の、旧い──まつりのかたきの」
「そこまで言ったことがあったか」
確かに野元家は片倉家の長年の政敵だが、小十郎は説明した覚えがなかった。まだ片倉家を取り巻くそれぞれの家の関係を吉に詳しく教えていない。毎日が忙しく、暇がないということもあるが、吉自身が関わりたくないのではないかという危惧もあった。奥州に来てから、吉は昔の話を殊更に避けるふしがある。戦もまつりごとももうたくさん、と呟いたこともあった。
「源爺が、ナ。手すきの折に、よう、わらわの相手をしてくれて」
「なるほど」
それならば納得だ。旧い時代から片倉家傘下の奥州武士として生きていた源爺は、ともすれば小十郎よりも政治について詳しく説明することができるだろう。
「嫌じゃねえなら、ちょっと話を聞け」
「いや?」
「まあ、何だ。──政治の話なんか面倒なら、って意味だ」
「それは、おっしゃる通りなれど」
吉がややむっとした顔で言う。
「片倉の正室が存じておかねばならぬこともありましょ」
「──頼もしいな」
一言で言い表すには難しい感情に襲われながらも、小十郎は微笑んでみせる。結局この女を煩わしい世界に再び関わらせることへの謂われない罪悪感の反面、「小十郎の妻として」当然のことを、当然のように受け入れている姿を嬉しいとも思う。
「まあ、政敵って言ってもな。普段は上手くやっている。大まかに言えば勢力を二分しているようなもんだ。──俺の代になって、政宗様が奥州を継がれてから、少しばかり揉めることが多くなってきた」
「そ。まず片倉に与する家は、嘉納と──」
片倉家と親交があり、政治的な揉め事が起きた時には確実に味方するであろう家の名前を、吉は指を折りながらすらすらとそらんじる。こういう部分は本当に変わってねえな、と小十郎は舌を巻いた。
「揉めるとは、何」
「政宗様のやり方が性に合わねえらしくてな。何かと噛み付いて来る。ここのとこ、堤防と街道の整備を急いでいるんだが、野元やその一派の反対で一年ばかり遅れている」
「一年」
「そうだ」
「間に合うておれば、先年の水害も防げたであろうに、ナ」
吉は当然の顔で言った。小十郎は「そこまで知っているのか」と今度は苦笑する。元魔王は夫が知らぬ間に、何でもお見通しのようだ。
「俺が強硬に具申すればよかったかもしれねえが、俺の意見より、政宗様の御命令で動くようにしたかった。結果があれじゃ、上手くやったとは言えねえが」
「智有る者なれば野元の責と分かるわえ。おまえさまのお気に病まれることでなし」
「ああ、うん、そうだな」
的確に言われた事実に慰められ、小十郎は妙な気分になる。慰めようと思って言ったわけではないとは吉の表情や口調で分かるのだが、確かに今、気に病んでいたことを慰められたと知った。
「で、その野元の家がな。奥州じゃ、茶でちょっとばかり名の知れた家で」
「そ」
「たまに、小洒落た茶会を開いているんだ。政宗様や俺も招かれる。迷惑極まりねえんだがな」
「そ」
「今度の茶会に、お前もどうだって話があってな。──いわばお前のお披露目か」
吉は唇を尖らせた。面倒くさい、と顔に書いてある。小十郎はその唇を軽く指で弾き、何をなさるの、と笑わせてから話を続けた。
「お前がまだ城に上がってねえってのが、其処此処で噂になっている」
「そ」
「ここで一発お披露目場所を提供すりゃ、片倉家に貸しを作れるし、粋な家だと名前が上がるって考えてるんだろうな」
「城に上がりとうないと申しておるのは確かにわらわなれど、仔竜とて嫌がっておるではないの」
「嫌がっておられると言うか、……まあ、なあ……」
政宗は吉が城に上がらないということが噂になる前から、「改まって上がられても俺が困る、っていうか怖い」と小十郎だけには打ち明けていた。吉が奥州に来て間もない頃、小十郎が役目で家を空けた時にふらりと顔を出したのだが、そこで吉にこてんぱんに叩きのめされたのだ。気分的には家から蹴り出されたも同然だったと言う。話を聞いた小十郎は政宗に謝り倒し、吉を叱ったが、反論した吉と大喧嘩になり、結局吉は新婚早々家を出てしまったのだった。
──しかも行き先がよりによって甲斐って、なあ……
連れ帰るまでの騒動を思い出すと、小十郎は少々胃が痛くなる。
「だがこの先、形式だけでも政宗様に御挨拶しないわけにいかねえだろう。お前なら分かるんじゃねえか?」
「んん」
吉は眉をひそめたが、仕方なくと言った風情で息を吐いた。確かに分かるけど、という態度だ。小十郎は続ける。
「お前が城に上がるのが嫌で、政宗様もお困りなら、この際、茶会を使うのはどうかと思ってな」
「片倉に貸しを作ろうとしておるのがお分かりであらしゃるのに?」
「考え方を変えりゃ、面倒な場を好き好んで整えてくれるんだ。利用しねえ手もねえだろう」
小十郎は素直に言った。実際、そう考えていた。確かに借りを作ることにはなるが、この先、吉が政宗への挨拶を拒み続ければ、批難の的になりかねない。無理に城へ上がれと言って上がらせたとしても吉の精神的な負担になることは明らかだし、更に政宗がどんな気苦労をするか計り知れない。それならばこの機会に済ませてしまった方が後々を考えても楽だ。
貸し借りが出来たとしても、いざとなれば踏み倒すことも考えていた。義理は貫くべきだが、相手によっては貫かぬ時もある、と小十郎は考えている。
その全てを吉に説明すると、暫し考えた後、「はい」と返事をした。
「おまえさまが斯様にお考えであらしゃるなら、異を申す由もなし」
「そうか」
不意に吉が口元を綻ばせた。夫によく見せる可愛らしい笑顔ではなく、どことなく怜悧で、見ている者の背筋を伸ばすような笑い方だった。
「野元に」
「ああ」
「片倉へ尽くす誉れをくれてやろ。額を沈めて報謝に咽ぶがよし」
「──言ってやりてえもんだな!」
高飛車で昔を思い出させる物言いに小十郎はつい笑い出し、聞いていたおこうは呆然と女主人を見る。ふふ、と、吉は今度は可愛らしい笑い方を見せ、夫を更に喜ばせたのだった。