小十郎がひとつきの休暇を取る。片倉殿が、と人々は囁き合った。何しろ小十郎は長年政宗の傍に侍り、休暇らしい休暇を取ったことがない。
それとなく「筆頭と何かあったのではないか、よもや喧嘩など」という空気も流れたが、それは政宗があっさりと否定した。
「春になりゃあ忙しくなるんだからさ、鋭気養ってこいってやつだ。バカンスだよ、バカンス」
ばかんす、という言葉はいつもの彼独特の外来語で、意味をすぐに理解できる者はなかったが、まあ筆頭がそう言うのなら大丈夫なのだろう、という空気に落ち着いた。
しかし「忙しくなる」──この意味に、領内が静かに盛り上がり始めるのも確かだった。筆頭が遂に天下を取りに行く。誰もがそう思い、そしてそれは間違いではなかった。
休暇と言えば旅行もいいだろうに、と自嘲しながら、小十郎は山道を歩く。
奥州の冬は早く、長い。十月だと言うのに、既に朝晩の空気は冷え込み、初霜もあと数日で降りることだろう。陰鬱な季節が始まるが、小十郎は冬が嫌い ではなかった。稽古の後、女中が作ってくれる湯気の立つ団子汁をふうふうとやりながら食べるのも冬の醍醐味。障子の外に降りしきる雪の音を感じながら、火鉢に当たって政宗と語り合うのも好きだ。活発な性格の筆頭が「冬はつまんねえなあ」と言い、小十郎が「まあまあ」と宥める。そんな日々も楽しい。
春になれば──また変わるのだろう。そんな日々が。
政宗が決めたことに異存はない。取りに行くなら取りに行こう。
それが戦国の世。取ると決めた者が奪うか、奪われるか。奪われるくらいなら奪えばいい。
湿気を含んだ土を踏み、山道を歩く。背負った薪は常人には多すぎるが、小十郎にはどうということはなかった。
休暇中、小十郎は所有する山小屋で過ごすつもりだった。誰も呼ばず、一人で過ごそう。
一人で──自己を見つめる時間があっても良いのではないか。人生の岐路が先に待っているのならば。そう思ったからこその選択だった。
とはいえあまり禁欲的に過ごすつもりもない。酒も酒肴も既に運び込んでいた。要は普段の喧騒から逃れることが目的だった。そして政宗も、おそらく自分という片目を暫し封じ、自らの内面と向き合う機会を得ているかもしれない。
足を止める。薄暗くなりかけた山の中、かつて知ったる道といえど、さすがに目をすがめなければならなかった。
──何だ、こりゃあ。
女が倒れている。なぜこのような場所に女が、農婦とて滅多に入らない。旅装の着物の裾がはだけ、白い太ももまでが露になっていた。状況も忘れ、その余りの白さに小十郎は息を呑む。だが持ち前の精神力で、すぐに気を取り直すことができた。
「おい、何があった」
一瞬周囲の気配を測り、他には誰もいないことを肌で確認する。盗賊の一味が潜んでいる可能性もあるからだった。女を囮に膝をついたところを囲むという手口も考えられる。
女は完全に一人だった。返事はない。死んでいるのかと思い、小十郎は彼女の傍に膝をつく。
「許せ」
一言断り、首筋に手を当てる。思ったよりもしっかりとした脈を感じた。生きている。
女の着物も顔も髪も、泥で汚れてしまっていた。履物がないことに気づき、上を見上げる。──小高い丘とも言える斜面に、何かが滑った後がある。女は上から落ちたのだろう。履物はその時に脱げたのか。
「起きられるか」
やはり返事はない。完全に意識を失っている。
小十郎は溜息をつき、背負っていた薪を降ろした。
後で取りに来ればいいさ、どうせこんな場所まで誰も来ない──そう思いながら。
小屋に連れ帰り、一人分しかない寝具に横たえる。どれほどあの場で気を失っていたのか、女の身体は冷え切っていた。目立った外傷がなくても良いことではな い。一室しかない小屋の真ん中にある囲炉裏に燻らせておいた種火を起こし、部屋を暖め始めた。火鉢も女の傍に置く。暖炉に放り込んである石が温まったら、 厚い布に包んで首の後ろに当ててやれば大丈夫だろうか。
そして考える。
──やましい気持ちじゃ、ねえ。
誰もいないのに心の中で言い訳してしまう。
女の着物は湿気を含んですっかり濡れていた。これではどれほど部屋を暖めても、じわりじわりと体力を奪われていくのは目に見えている。
「許せ」
山道でも言った言葉を繰り返し、やましい気持ちじゃねえんだ、と再び誰にともなく言い訳をし、女の衣服に手をかけた。
帯を解き、迷ったが、胸元からはだけていく。着物の下はそれほど泥に塗れてはいなかった。だが小十郎は──その見事な身体に息を呑むことも忘れる。見惚れると言ってもいい。
白く艶のある肌に、男なら誰でも喉を鳴らしてしまいそうな乳房に目を奪われた。
──いや、やましいことなんざ。ねえぞ。早いとこ乾いた着物に……
その瞬間、凄まじい衝撃が左の頬を打った。
「たぞ」
竜の右目、奥州では知らぬ者なき武人たる片倉小十郎であるが、泥まみれの顔の女が自分の頬を張ったのだと、気づくまでに数秒を要してしまったのだった。
「──おう、気がついたか」
「たぞ、と申しておる。答えい」
女の声が妙に静かだった。とても小十郎の頬を勢いよく張ったとは思えないほどだ。
そして小十郎はこの女を強く警戒する。
この言葉遣い、肌の美しさ。
どう考えても只者ではない。
「俺は──」
本名は名乗るまい。これでも奥州では名が知れている。この女がどこかの姫なり奥なりで、なぜここにいるのかは分からないが、伊達家の軍師と関わったとあっては後々政治問題にならぬと言い切れなかった。
「小十郎、さ」
「あざなは何え」
「浅井」
咄嗟に出た名はそれだった。他家の武将の名だが、遠く離れたこの地で名乗ったところで問題はないだろう。
「浅井小十郎。何者ぞ」
身を起こした女は胸元を直そうともしなかった。お見事、と小十郎は内心で感服する。
泥まみれでろくに顔も分からない、胸をはだけた、普通の女なら羞恥で死んでしまいそうな姿、そしてどこにいるかも分からないはず。目の前には得体の知れぬ男がいると言うのに──
女には怯えがなかった。品と怒りをないまぜにし、それでも感情を乱してはいなかった。威圧感があると言っても大袈裟ではない。
──大した姫さんだ。
「何者、ってな。武士崩れだ。いくさがある時に伊達に馳せ参じるのさ」
領内の武士たちがよく言うことを告げた。女は小十郎を観察している。小十郎は更に続けた。
「お前こそ誰だ。言っとくがな、俺はお前を拾ってやったんだ。あのままじゃ凍死してもおかしくなかったぜ」
「凍死? わらわが?」
「そうとも。覚えてねえのか、丘から転げ落ちて引っ繰り返ってたんだ」
「丘?」
「そうとも」
「分からぬ」
「何だって?」
「参ったの」
女は溜息をつき、諦めたように胸元をようやく直した。気づいてはいたのか、と小十郎は驚きを新たにする。
「斯様なこと、草子の中のことと思っておったえ」
「何だって?」
「小十郎」
「……何だ」
呼び捨てにすることに慣れている女だ。ますます小十郎は彼女に疑念を抱く。
「わらわに訊いてたも」
「何をだ」
「名を申せ、とな」
「──名を申せ」
「ふむ」
彼女は再び溜息をついた。小十郎は嫌な予感と確信を同時に得る。
「分からぬえ」
本気かよ。思わず小十郎は呻いていた。
大きな怪我はなかった。軽い擦り傷だけだった。運がよかったな、と小十郎は言う。
「あの辺りは緩やかに見えて、側面が急勾配だ。下手をすれば頭を打って死んでいた」
「あァ、怖い」
口ではそう言いながら、さして驚いてもいない態度の女に、小十郎はまた「何者なのか」と思ってしまう。
これは休暇を忘れ、政宗に報告した方がいいだろう。それにこの物言いや立ち居振る舞い、こんな山小屋では過ごしきれないはずだ。何にせよ城に連れて行った方がいい。
とはいえ、もう日が暮れている。さすがに山の夜道を歩くのは憚られる。
「明日の朝、麓に降りる。連れてってやる。そこで筆頭──お前の力になってくれそうなお方に会わせてやるよ」
「小十郎は親切じゃ。わらわが敵の間者ならどうするのだえ」
「思い出せもしねえのに、妙なことを言うんじゃねえ」
女がくすくすと品良く笑った。小十郎は苦笑する。肝の据わった女だ。自分の名も思い出せず、こんな山奥で見知らぬ男と二人きりなのに怯えた様子が何もない。さりとて小十郎に媚びる様子もない。
そう思うと、不意に泥だらけの彼女が可哀想になった。
「風呂を沸かしてやる。洗え」
だが数十分後、小十郎は頭を抱えることになる。
「小十郎」
風呂場へ行った女が小十郎を呼んだ。夕餉の準備をしていた小十郎は何だ、と舌打ちをして風呂場へ向かう。まだ着物を脱いではいない女が待っていた。
「わらわ、ひとつ思い出したのじゃ」
「本当か?」
「ん。一人で風呂に入る方法が分からぬ、ということ、ナ」
やましい気持ちじゃねえぞ。小十郎は心の中でいよいよ日の本全てに言い訳をしたい気分で、彼女の入浴を手伝ってやるはめになったのだった。
さすがに女は悪いと思ったのか、「かたじけないの」とやや真面目な声で言う。
「いや、俺の方こそ。女を風呂に入れるなんざ慣れてねえんでな」
さ すがに背中だけで勘弁してくれ、と言い、女の髪を肩越しに前に送ってから──その髪の手触りも色も艶も、やはり極上のものだった──手拭で背を拭ってやる。何度も使い古した小十郎の手拭で拭う肌は、染みひとつなく真っ白だ。ふと、こんな手拭では傷めてしまうのだろうな、と思った。
出来る限り優しく拭い、後は自分でやれと言って手拭を渡す。女が何かを言う前に風呂場を出た。
囲炉裏に吊るした鍋の前に戻り、食材を放り込みながら溜息をつく。
何たる拷問、と思ったのだった。沈着冷静で知られる小十郎とて立派な男、目の前にあんな白い肌があれば──
「小十郎、風呂の始末が分からぬ」
「──ああ、俺がやる」
風呂から出た女が背後から声をかけたので振り返る。
そして言葉を失った。
泥を落とした女の顔は──息を呑むほどに、美しかった。
「どうしたえ」
「……いや、何でもねえよ」
出来る限り平静を装って答え、立ち上がる。
「囲炉裏で火に当たってな。鍋ももうすぐ煮えるから」
男に慣れているわけでは、ない。それは分かる。それならば既に小十郎に媚を売っているはずだ。そんな女は何人も見て来た。
この女は違う。
全てが「使用人」。だから男に、「下の者」に肌を見られたところで気にもならない。
この女はそういう身分なのか。
──とんでもねえ拾い物、だな。恐ろしくて手なんざ出せねえよ。
早く朝になれ。小十郎は心底思った。
そして朝になる。
寝具を女に譲った小十郎は囲炉裏の脇で眠ったのだが、朝の冷え込みに目覚める前から本能的に嫌な予感を抱いていた。
流石に寒い、と目覚め、身体を起こす。なぜ俺は囲炉裏の傍なんぞで──すぐに女を思い出し、寝具を見る。寒いのか、身体を丸めて眠っているようだ。
──この辺の出じゃ、ねえんだろうな。
考え得る勢力の姫、あるいは奥についての知識を総動員する。しかしこのような女の噂は聞いたことがないのだ。どこの姫も奥も麗しいという噂は流れるものだ が、その実、真の美姫は滅多にいない。これほどまでに美しい女がいれば、たとえ日の本広けれど、人々が口の端に乗せないはずもない。
公家の姫か。そうとも疑ったが、女の物言いはともかく、気性や肝の据わり方は確実に武家の血だ。
それにしても寒い。初霜でも降りたか、と溜息をついて外に様子を見に行く。
扉を開け、思わず呻いた。
「そりゃ、食料はあるけどよ。あの姫さんはどうすりゃいいんだ、山の神さん」
山の神は知らぬ存ぜぬ、天から降りる今年一番、少し早い白粉の雪を、一身にその身に飾り付けていたのだった。
雪が熄むまでは降りられないと女に告げると、女は意外にも、あるいは小十郎の予想通り、取り乱すことはなかった。
「どれほどで熄むのだえ」
「さてな。毎年降り始めは三日という程度だが」
「わらわが邪魔なら放り出したも」
「お前はそうするのか」
「何がだえ」
「俺の立場なら、お前はそうするのか」
「ん、ん」
女は朝餉の汁を啜り、熱さに少し顔をしかめてから言った。
「小十郎は小難しい問答が好きかえ」
「お前が言ったんだろうが。──出かけて来る、ここから出るなよ」
「先、雪が熄むまで降りられぬと申したであろうに」
「俺は大丈夫だ、慣れている。お前を連れて降りるのが危ねえだけだ」
女は黙って汁を啜る。
小十郎は少し考える。
「でも、まあ」
女がちらりと見てきたのを確認してから、小十郎は言った。
「俺もこの降りじゃ、麓まで行くのは億劫だ。すぐ帰ってくるさ」
「小十郎」
「何だ」
「代わりをおくれたも」
椀を突き出す女に苦笑し、小十郎は言われるままに代わりを注いでやるはめになる。
名前を知らなくても不便はなかった。ここには小十郎と女しかいない。
女は小十郎を警戒する素振りを一度も見せず、しかし図々しくふてぶてしく、貴人のそれで小十郎を翻弄した。
雪は熄まず、降り続いている。翌朝には雪下ろしが必要になった。珍しいのか「見たい」と言う女に、危ないから絶対に出るなと言い含め、手早く屋根の雪下ろしをする。
女はきつく言われたことが面白くなかったのか、小十郎が囲炉裏の傍に戻った時、僅かに機嫌が悪そうだった。
小十郎は苦笑する。こんなに可愛い仕草を見せる美女に手を出せない、男ならではの葛藤への苦笑だった。
機嫌を取る必要などどこにもない。女は勘違いをしているが、この小屋の主は小十郎だ。小十郎が女を外に叩き出したとて、誰も咎める者はない。本気で怒った小十郎であればそれくらいのことはするが、この女には怒る気になれなかったのだ。
「まあ、機嫌を直せ」
「まるでわらわの機嫌が悪いような物言いはやめてたも」
「悪くねえのか」
「悪いはず、なかろ」
「悪いじゃねえか。直しな」
女は拗ね続けていたが、小十郎は途中から彼女の機嫌を取ることが楽しくなってきた。城でもこのようにふざけ合う女はいるが、それは皆どこかしら、あわよくばと打算あってのことだ。この女は違った。打算も何もなく、酷く素直に拗ねている。城の中では経験できない感覚を、小十郎は素直に楽しむことにした。
「仕方ねえなあ、これだから女ってやつは。面白い話をしてやるよ、それで機嫌を直しな」
奥州に伝わる民話の中から、楽しい話を選んで語る。自分のことなど何ひとつ覚えていない女は、しかし教養は忘れておらず、静かに話を聞いてはたまに知識を覗わせる質問をし、やがて笑い出す。
小十郎も楽しくなり、いくつせがまれるままに話す。そのうち女は民話だけではなく、伊達の領内のことも知りたがった。小十郎 はよもや情報収集かと警戒したが、女が知りたがるのはいくさとは何の関係もないことばかりだった。
雪は熄まない。
その日も夜まで降りしきり、まだ熄まぬよと天の声が聞こえそうなほど強い降りになる。
「この時期じゃ、珍しいんだがな」
「そうなのかえ」
「お前の従者なんぞが探しているかもしれねえな」
「おったところで、わらわが転がり落ちてもう二日だえ。無能な従者であろ」
小十郎は苦笑する。確かに自分が従者の立場なら、二日も主を見つけられなければ、真っ青になった後に切腹を考える事態だ。
困っ たのは薪だった。ここまで早く雪が降るとは思ってもみなかったと言うことと、雪が降ったところで小十郎ならば麓まで降りられるという自信から、それほ ど準備をしていなかったのだ。切った枝があったとて、雪で濡れたそれはすぐに使えない。余分な薪があるうちに、火で乾かさなければならない。
朝になったらやはり麓まで行ってくる、と告げると、女は「好きにし」と言って寝具に横たわってしまった。寝具を使って良いか、と形だけでも訊かない態度を、小十郎はいっそ潔いと思う。
小十郎自身は昨夜と同じく囲炉裏の傍に横たわり、可能であれば寝具をもうひとつ仕入れた方が良いなと考えた。
翌朝はそれほど強い雪ではなかった。これなら日が暮れる前に帰ってこられそうだ。
遅くなった時を考え、女のために少し多めに朝餉を作る。腹が減ったら食えと言い置き、小十郎は雪道を歩く支度を始めた。
囲炉裏の傍で二日も寝たからか、身体が軋んでいる。いくさの敗走時に比べればどうということのない環境のはずなのに、人とは平和に慣れるものだ。
「小十郎様」
出掛けようと扉を開けた時、訪問者があった。普段この小屋の管理を頼んでいる源次郎だった。老いた身体に早い雪は辛かろうに、そんな素振りは微塵も見せず、出迎えた小十郎にぶっきらぼうながらも親しみをこめて挨拶をする。その後ろには源次郎の孫の太助がいた。いかにも山の男という体躯だ。
「源爺、太助、こんな雪の日にどうした」
「そのお姿、薪を買いに麓に降りなさるんだろ」
「ご名答だ」
「源爺の目は何でもお見通しさァ。持ってきましたともさ。太助、中に運んで差し上げろ」
「──ありがとう、助かった」
孫の太助は無口ながらも少し小十郎に微笑んでみせる。彼なりに雇用主への愛想を見せた。小十郎も僅かに笑い返す。
太助が大八車に積んだ薪が雪に濡れないよう、気をつけながらも素早く小屋の中へ運び込み、そして──
「えっ」
太助の声に、大八車から薪を降ろしていた小十郎は自らの迂闊さを呪った。女のことをすっかり忘れていた。
小屋へ駆け戻れば、太助がぽかんとした顔で、囲炉裏の傍にいる女を見ている。女は太助に気づいていないはずもなかろうに、退屈そうに火箸で火鉢の炭を掻き回しているだけだ。
「太助、気にするな、その──」
「え、あ、はい、はい、なァんにも!」
太助は飛び上がるように返事をし、首を幾度も横に振る。「使用人」としての立場を思い出したのだ。主人が休暇中、ちょっとしたお楽しみをするのもまた嗜み ──とはいえ、小十郎様がこんなことするのは初めてだ、と赤くなってしまう。それにあの女の美しさは何だ。村娘にあんな美女はいない。太助からすればまるで天女のように見えた。
太助が勘違いをしたことは小十郎にも察せられたが、敢えて訂正しないことにした。面倒な事情があると教えたところでどうしようもない。
太助が耳まで赤くなりつつ、しかし源次郎は動揺の片鱗すら見せず、薪を運び込み終える。
「源爺、寝具があれば持って来てくれねえか」
「おひとつで足らぬとは驚きですな」
思わず小十郎は言葉に詰まる。意味が分かった太助も、祖父の後ろでまた真っ赤になった。
「と──とにかく、あれば、でいい。頼んだ。雪が酷くなる前に」
「ようござんす、ようござんす。ではこれにて」
「ああ」
「そこな」
辞そうとした小屋の管理人たちを、女が高飛車に呼び止めた。高飛車ではあったが、彼らに素直に聞かせる、真の意味での上流然とした声だった。
「御苦労であった。わらわから礼を何も渡せぬが、許してたも」
ゆっくりと告げられたその言葉に、源次郎は深々と頭を下げ、太助も慌ててそれに倣い、小十郎は「どれほどの上流なんだ」とまたぞろこの女の得体の知れなさに溜息をつきたくなってきた。
昼前に太助が寝具を届けた。使い古したものではなく、主が要望した時のために大事に保管されているものだった。小十郎は新しい寝具を女に使わせることにする。
源次郎の妻が気を利かせて太助に持たせた昼餉を前に、女は機嫌が良さそうだった。何か面白い話はないかと小十郎にせがむ。
昨日のように小十郎は話した。あまり小難しい話は女には分かるまいと思っていたが、雪はどうだろうな、とふと呟いた小十郎に、女が「上げる御簾もなし」と笑った時、それなり、あるいはそれ以上の教養があることは分かった。上流の姫でもさらりと香炉峰を口に出せる者は稀だ。
それが分かってからは話の幅も広がった。
女は漢詩にも秀で、小十郎がやや捻った問いをかけても、当意即妙に漢詩をそらんじて返してみせる。
自分を見つめ直すための休暇がとんだことになったものだ。小十郎は内心で苦笑する。
だが、悪い気分ではなかった。