武家の倣い、世の倣い。そう言ってしまえばそれまでで、下々の関知するところではない。
だが噂にはなる。この時代、噂こそが最新の情報。どんな堅物でも噂には心を傾けるのが当然だ。
雪がちらつき始めた奥州も例に漏れず、顔を合わせればあの噂、誰かの噂となるのは避け難い話だった。
さあ、ところで聞いたかい。誰かのそんな言葉で始まるのが常で、大抵は害のない、ちょっとした笑いで済むような話ばかり。
それでも稀に、誰もが「それは本当かい」と身を乗り出すような噂が持ち上がることもある。
ところで聞いたかい。
小十郎様が。
贔屓の城の女が、いるんだってさ。
前にもいたよねぇ、おきよだっけ?
あれはどこかの密偵だったって言うじゃないか。
密偵? ああ、毛利だっけね?
あれは小十郎様も御存知で、奥様も御承知で、わざとだったのさ。
でも今回は違うねえ。
行儀見習いでお城に上がってる、旧いお家のお姫さんって言う話だよ。
火鉢で暖を取りながら、小十郎は山のように積まれた文書に溜息をつく。思ったよりも治水工事が遅れていることが気がかりだった。治水工事と街道の整備は政宗が力を入れている分野だが、雪に閉ざされる時期はどうしても作業ができない日も多い。これから雪が深くなることを考えると、溜息をつきたくなるのも仕方ないことだった。
「どうにもならねえな」
「そうすね。何とかしてえんですが」
騎馬隊の主力であり、何かと政宗や小十郎を手伝う辰蔵も溜息をつく。現場を見ることが多い辰蔵としては、小十郎以上に心配事が多い部分もあった。
「小十郎様、辰蔵様」
奥州独特の肌の白さを持った娘が襖を開ける。文書から目を上げた小十郎ににこりと笑いかけた。
「お茶をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう」
「どもっす。三春さん、後は俺がやるんで」
三春は小十郎と辰蔵に再び笑いかけると、言われた通りに茶を置いてまた部屋を出て行った。
「だいぶ、城に慣れたようだな」
「ああ、三春さんっすか。そうすね、もう三ヶ月くらいになりますし」
行儀見習いという名目で数ヶ月、城に働きに出る旧家の娘は少ないわけではない。大抵は嫁入り先の物色を兼ねている。三春もそのくちだと誰もが知っていたが、そういった種類の女の中では熱心に働き、政宗や小十郎によく声を掛けられていた。これも嫁入りに箔が付くことになる。
政宗は基本的に長年知り抜いている側近や侍女しか傍に置きたがらない。実母や実弟との諍いを考えれば当然の用心であり、また、気紛れな面が強い政宗の相手をそつなく出来るということに関しては正しい選択だった。
対して小十郎はあまり気にしない。とにかく仕事をしてくれればいい、という態度だった。それ故にそこそこの家の娘が行儀見習いに入れば、大抵は小十郎の世話をすることになる。
それにしても、と、今回は誰もが思うことがある。
小十郎が三春に用事を言い付ける時が多い。毛利からの密偵の時ほど露骨ではないが、気にしているのは明白だった。三春もそれに嫌な顔ひとつせずに応じ、女が働くにしては遅い時間まで城に残ることもしばしばだ。
何度か小十郎が三春を家まで送ったという話が広がった時、誰もが無言で視線を交わし合い、「あの」奥様のことを思い出したものだった。
奥様、御存知なのかな。
さあ、でも、お気の強い方だし。
御存知なら喧嘩のひとつもありそうだけど。
今回はあの家の、いわば姫さんだろ。
いやいや、織田の直系の奥様に比べれば。
だからだよ。
だからいいのさ。
側室にするにはちょうどいい身分差じゃないか。
噂の独り歩きはいつものことだ。だが世情を知る人々の噂は奇妙な真実味を帯びる。片倉家ほどの家であれば、正室以外の妻を家に入れることも珍しくはないし、非難される謂れもなく、ましてや正室とはいえ異を唱えるべきでもない。
いくら小十郎が度を超した愛妻家とはいえ、時代を考えれば有り得ないことではなかった。
しかも当の小十郎は三春を気に入っている。三春はそれに驕ることもなく、笑顔を絶やさずに働き、仕事の合間に手を休める小十郎の話相手までもするようになった。これは滅多にないことだ。人々はまた面白おかしく話し合っていた。
城の中の女たちも無論、囁き合う。だが三春は生まれが生まれであり、以前に噂になった忍の女のように陰口を叩かれることもなければ、冷たくされることもなかった。むしろあの小十郎の側室なら、と好意的な目で見られている。その裏には、将来的に「片倉三春」となった時、上手く取り入ることができるだろうという下心もあった。女には女の出世がある。有力な家の正室や力のある側室に気に入られれば、その世界の中では美味しい思いができるものだ。片倉家の正室の吉は分かっているのかいないのか、女同士の集まりに顔を出すこともほとんどなく、各家の夫人たちと積極的に付き合おうという気配もない。片倉に取り入りたい女たちとしては、三春に側室として嫁入りしてもらった方が都合がいいのだ。
「三春さん、小十郎様のお茶はよろしいの?」
「あら、ええ、そういえば。もうそんなお時間ね。辰蔵さんと朝から詰めてらっしゃるから、お持ちしましょう」
本来ならば「誰が行きましょうか」という話の流れになるものだ。だが彼女たちの中では既に三春の仕事になっているし、三春も嫌がる様子はなく、むしろいつも嬉しそうだった。最近は茶を出して戻って来ると頬を染めていることもある。侍女たちとしては彼女を応援することに熱心になって行くばかりだった。
その噂が政宗の耳に入らぬはずがない。
ためしに小十郎にそれとなく三春の話を振ると、適当にはぐらかされる。よく一緒にいる辰蔵に振っても、「小十郎様の側室なら幸せになれますよねえ」と素っ気なく返される。
そして政宗が探りを入れたことで、城の中の噂は更に勢いづいた。小十郎に確かめる強者は流石にいないが、もう決定と言わんばかりの空気が流れ始めていた。
政宗は考える。大いに考える。
いや、俺、片倉に側室が入ることには何も異論はねえんだよ。ねえんだってば。
姐さんがどう出るか、とか、そういうのは片倉さんちのことであって、俺が口を出すことじゃなくって、いや、出さなきゃいけねえこともあるんだけど、今回は三春っていったら結構いい家のお嬢さんだし。でも片倉の正室になるってほどの家じゃないし。だったら側室ってのも分かるし。そもそも正室の姐さんの実家が片倉と釣り合わないからどこの家も側室レベルになっちまうってのもあるけど。
前の毛利のとこの間者と違って身元は万全だし。むしろオヤジの代から知ってる家だし。
うん、反対するこっちゃねえの。反対する理由もねえの。
「……なのに何で俺は姐さんのとこに来ちまったんだろう……!」
「参れと申した覚えもないわえ、このたわけめが。用がないならささと失せ」
小十郎がまだ城にいるというのに突然片倉家に現れた政宗に、吉は仔猫を撫でながら眉をひそめる。前触れもなく現れるとは無礼な、とその顔に書いてあった。相手が政宗でもこの調子でいられるのは、この奥州では吉だけだ。これも領民たちには「気の強い織田の女」という印象を与えるには充分だった。
「用事なあ。あるような、ないような、でさ」
「どちらだえ。わらわとていもじいゆえ、お草の潰しならよそにし」
「お草の潰し?」
「暇潰し」
「そういうわけじゃねえし。一応、言いたいことっつうか、聞きたいっつうか」
「何え」
「うーん」
言いたいこと、聞きたいことはある。正確にはあるような気がする。だがまだ感性で生きることが多い政宗は、すぐに言葉にすることができなかったのだ。吉は政宗がその状態であることに気づき、気づかれぬように溜息をつく。まったくこの子供は仕方のない、という気分だった。
「おこうさん、外してくれる?」
いつも控えている侍女に退出を求める。おこうは政宗が真面目な話をするのだと知り、国主と女主人に頭を下げ、仔猫を引き取ってその場を辞した。吉は人払いをするような話なのかと首を傾げたくなる。そんな重要な話であれば旦那様が家に戻ってからの方が良いのではないか、と言おうとした時、政宗が口を開いた。
「姐さんってさあ」
「ん」
「やっぱ、いろんな家見てるわけだよね。昔から。政略結婚とかそういうのも」
「見ているどころか、させておったわ」
「ですよねー」
「うまくいかなんだは尼子と毛利だけよ。あそこで固めておけば──やめ、詮なし」
「え、何それ。聞きたい。尼子晴久と毛利元就を結婚させようとしたってこと?」
「あほう」
吉は本気で呆れ顔になった。そりゃそうだ、と政宗は自分がとてつもなく馬鹿なことを言ったのだと理解する。
「聞きたい。ちょっとでいいから」
吉に過去の話をねだることができるのは政宗だけだった。周囲は吉が過去を思い出したがらないことに配慮して、当時の話を避ける。だが政宗は自分の興味が向けば平気で質問をし、吉は答えることもあれば、答えないこともあった。それでも怒っている様子を政宗は見たことがなかった。
「晴久に、毛利の二の姫との縁談を勧めておったの」
「織田が口出せば決まったようなもんだったろ。あれ、でも、尼子って毛利と婚姻ないよな?」
「なし。市……あァ」
どこかで聞いているかもしれない誰かのために、吉は言い方を変える。
「織田上総介信長公の妹御が、妙に引っ掻き回しおって。毛利から断りが入りおった」
「当時の織田の口利きを断るなんざ、お市ちゃんの引っ掻き回しってどんだけだよ」
「かなりの。わらわも頭が痛うて痛うて、晴久にどれほど謝ったことか」
ふうん、と政宗はそれ以上聞くことはやめた。吉は確かに過去を話をしても怒りはしないが、疲れの色を見せることも知っていた。詳しく知りたくなったら晴久に聞けばいい。
「thanks。まあ、その流れっていうか、言いたいことがまとまったから言うんだけど」
「ん」
「正室がいれば、側室もいるだろ。割とどの家にも。俺の親父にもいたし、姐さんのお父さんにもいたっけ」
「ん」
「そういうのって、否定しねえ?」
「この時代にては、致し方なかろ」
「仕方ないってことは、本当は嫌ってこと?」
吉はまた、眉をひそめる。政宗は気づかなかったが、吉は最近、政宗の前ではあまり感情を隠さないようになっていた。
「否を申せた時代は過ぎた」
「どういうこと」
「わらわが織田のままであれば申した。それだけのこと」
「……ああ、そういうこと。そっか」
「ん」
「そっかあ」
政宗は言葉が続かなかった。
嫌に決まっているでしょう。でもそんなことは言えない。力の強い織田の人間なら言えたかもしれない。でも織田の人間ではないのだから。
片倉の人間なのだから。
言えるはずがないでしょう。
吉の答えはそういう意味だ。政宗にはよく分かった。分かったからこそ、言わなければならないのだ、と思った。ここに来る前から本当は分かっていたのだろう。ようやく感性と理性が一致した。
──俺は、姐さんが小十郎に言われる前に教えておいてやりたかったんだ。
「あのさ」
「ん」
──それなら小十郎に言われた時に、多分、姐さんの辛さがちょっと減ると思うから。
「結構、本決まりみてえなカンジなんだけど」
「ん」
──惚れ抜いてる男にいきなり言われるより、俺が言っておいた方がいい。
「……あの、俺に怒っても仕方ねえけど、何か今日は怒っていいわ」
「何え」
「あのさ」
「ん」
さっさと言え、と言われてもおかしくはない。だが実は吉は、政宗が迷っている時、昔からいつも急かすことだけはしなかった。政宗はまだそれに気づけていなかった。
「小十郎にさ。側室、来ると思うんだ。三春って子なんだけど」
「ふうん」
吉はそれだけを言った。それしか言わなかった。
長い、長い沈黙が下りる。吉は身動きひとつしない。政宗も動かない。
やがて陽が傾きかける時間になる。
政宗はゆっくりと口を開いた。
「遠駆け、行こうかなって。これから」
「寒いのに」
「姐さんも行こう」
昔は言えなかったことだ、と政宗は思う。昔の自分なら謝っていたはずだった。自分のせいではないとしても、自分が伝えた言葉で嫌な思いをさせたという事実に後ろめたさを覚え、相手のためではなく、自分のために謝っていただろう。それが誤りであること、自分のための謝罪にすぎないことを知ったのはいつだったろうか。小十郎が記憶の一部だけをなくした頃だったろうか。あるいはもっと別の──
思い出せなかった。いつの間にか、本当にいつの間にか分かっていたことだった。
「寒いし、遅くなるけど、たまにはいいだろ」
しばらく黙った後、吉が微笑んだ。まるで子の成長を褒める親の笑い方だったと、政宗は気づかぬ振りをした。
家に帰ると妻がいなかった。体調が悪い以外では必ず夫を出迎える女だが、夫に無断で外出しているのは初めてだ。最初は首を傾げた小十郎だったが、おこうに事情を聞いて驚いた。
「遠駆け? 政宗様ときつが?」
「その、急なことでございまして──小十郎様にお知らせする暇もなく」
「……ああ、いや、政宗様の急なお誘いなら仕方ねえだろう」
これが政宗以外だったら気分が悪くなっただろう、と小十郎は思った。自覚のあることだが、自分は古風なのだ。夫に無断で外出する妻の態度はあまり望ましいものではない。
「しかし、珍しいこともあるもんだな。あいつが応じるなんて」
相手が誰であろうと、気が乗らなければ平気で断る女だ。ことに政宗に対しては敢えて厳しい態度を取ることも多い。
「その、わたくし、人払いをされまして」
「ふうん?」
「でも、遠駆けに出られる前のお支度の時、奥様が──その、少し、お辛そうなお顔をしてらしたものですから。政宗様は一体、奥様に何をお話になられたのかと思って」
小十郎はおこうをしばらく見つけた後、小さく「ありがとう」と言った。おそらく自分では気づかなかっただろう。吉は夫の前では辛い顔を隠してしまうことが多い。
吉が帰って来たのは日付が変わる頃だった。随分と長い遠駆けだ。小十郎が驚いたのは、政宗と吉が同じ馬にひとつの鞍で乗っていたことだった。政宗だからこそ小十郎も腹が立たないが、吉がよく承知したものだ。
「よう、小十郎。嫁さん借りた。遅くなって悪かったな」
先に馬から降り、小十郎が手を出す暇もなく、政宗は吉を馬から降ろす。乗馬用の着物ではなく外出用の被衣姿の吉は、おとなしく政宗に抱かれて降りた。
「悪いことは何もしてねえからな?」
にやりと笑う政宗に、小十郎は苦笑する。冗談でも女に不埒な真似ができるような政宗ではない、と分かっていた。
「いえ、妻がお世話をおかけいたしまして」
「たまには綺麗な女と馬に乗るのもいいな。お前が羨ましいよ」
「……ああ、まあ、ええ」
確かに吉と馬に乗る時は気分がいい。しかし政宗の考えが分からなかった。
「姐さん、また行こう。面白かった。寒いのにThanks」
「草潰しの折にでもまた参りや」
「草潰し、ね。小十郎が忙しい時だな。see you」
軽快な挨拶を投げ、政宗は見事としか言えない身のこなしと馬術で馬を操り、片倉家を後にする。小十郎は首を傾げながらも、吉に家の中に入るよう促した。
「どこまで行ったんだ。随分長かったな」
「川沿いの、北の」
「──遠いな。疲れただろう」
「なんも、なんも。久方に馬に乗れて、楽しゅうあったわえ」
吉は屈託なく笑う。それなら良かったな、と小十郎も笑い返した。そして、最近は役目が立て込み過ぎて妻をどこにも連れて行ってやっていないことを思い出した。
「落ち着いたら、どこかに行くか。雪が降る前に」
「アレ、ま、嬉し」
喜ぶ吉に憂いはない。何があったかは分からないが、おこうが言った辛そうな顔は政宗との遠駆けの間に忘れることにしたのだろう。小十郎はそう思った。だが、そもそも政宗と吉が何を話していたのかは分からない。
夫婦の部屋で寝支度をする吉を眺める。小さな鏡の前で髪を梳く姿は毎夜見るが、何度見ても綺麗なものだ、と小十郎は何度見惚れたか分からない姿に今夜も見惚れる。火鉢の炭がぱちりと爆ぜる音が心地よかった。
「きつ」
「はい」
「政宗様と、何を話したんだ」
「いろいろ、たくさん」
「例えば?」
「たとえば──ふふ」
思い出し、吉は口元を綻ばせる。
「たとえば、川沿いの北の、急な叢。三本松の」
「ああ、あそこも行ったのか。政宗様か俺じゃねえと馬じゃ走れねえようなところだ」
悪路な上に急勾配で、いつも湿っている深い草に馬の足が取られやすい場所だ。騎馬隊の青年たちも訓練以外で走ることは許されていない。小十郎も走る時にはかなり注意が必要だった。しかしその場所を、政宗は同じ鞍に吉を乗せたまま走ったと言うのか。流石の馬術としか言いようがなく、小十郎は舌を巻き、同時に流石政宗様だと誇らしくもなった。
「あそこから、徳川なり武田なりが攻め入って参ったら」
「……色気がねえ話だな」
「ふふ。仔竜のいらえが、ナ。よう秀でておって」
「何ておっしゃったんだ?」
「斯様なことにならねばよい、と」
奥州に攻め込ませねえようにすりゃいいだけじゃねえ?
そのために政治の取引ってのをするんだし。
流石に、こんなとこから入って来られるのは困るよ。
だったら開戦前に手打ちにしてえよなあ。
小十郎は思わず笑った。嬉しかったのだ。昔の政宗なら、そう、奥州に吉が来る前の政宗なら、血気盛んな答えを返したはずだった。あの小田原の頃の政宗のままであったのなら。
確かに成長なさっておられる──ただただ、小十郎はそれが嬉しい。そして妻が今、笑いながらその話をしたことも。妻が確実に、政宗の成長を喜んでいることが分かったからだ。
「それから」
「うん」
「……少うし、おまえさまと仔竜──梵天殿の話も、ナ」
「そりゃ珍しいな」
「ずいぶんずいぶん、おまえさまにしごかれたとか」
当時のことを思い出し、小十郎は懐かしくなる。ひとつ思い出せばあれもこれもと思い出してしまう。今日は感傷に浸りたくなかった。吉に話しておきたいことがあった。
「きつ」
「はい」
吉が首を傾げながら櫛を置き、夫を振り返る。ああ、可愛いな、と思った。
──俺の嫁は。俺の正室は、可愛いもんだ。しっかりしているし、頭もいい。
これなら大丈夫だろう──そう思って、小十郎は言った。
「城に、三春って娘が上がってるんだが。まだ内々なんだがな、その娘の結婚のことで──お前にも話しておかなきゃいけねえ」
「小十郎様、おはようございます」
「ああ、おはよう」
今日も辰蔵が朝早くから白い息を吐き、ようやく温まり始めた小十郎の執務室へやって来る。小十郎の補佐役としてすっかり頼もしくなった辰蔵は、騎馬隊だけではなく、政務に直接関わる家臣たちからも一目置かれ始めていた。
「ああ、そう言えば──ゆうべ、嫁に話した」
「え」
かじかんだ手を揉みながら辰蔵は小十郎を見た。
「三春殿のことをな」
「え、あ、そうですか」
小十郎は話した時の吉の様子を思い出し、つい苦笑いを漏らす。
「正室ってのは大変なもんだな。男には分からねえよ」
「そうっすか。……やっぱり、その、奥様も色々お手間が──」
「まあ、任せておけばいい。俺が口を出すよりはよほど上手くやるさ」
「……はあ……」
辰蔵はそれきり黙る。何を言えばいいのか、という顔だった。
聞いたかい。
小十郎様が奥様に、ご正室に。
三春嬢さんのことをお話ししたんだってさ。
それって、もう。
ねえ。
決まりってことだろう。
三春嬢さんが、片倉に。
側室に。
小十郎様のご側室に!
噂が城下に広がる時間は半日もかからない。そんなものだ。辰蔵が言い触らしたわけではなかったが、どこからともなく流れていく。
無論、政宗の耳にも入る。政宗は迷った。だが、小十郎に改めることはやめておこうと決めた。片倉家と三春の家で話がまとまれば、正式に報告に来るはずだ。それを待つことにした。
その代わりと言うように、小十郎が城で役目に励んでいても、ふらりと城を抜け出して片倉家へ向かう日が多くなった。ほぼ毎日と言ってもいい。
吉が家にいる時は何くれとなく話をし、遠駆けに誘うこともある。遠駆けをすると吉はよく喋った。吉がいない日は黙って帰った。どこに行っているのか、とまでは訊かなかった。それは流石に踏み込みすぎだと思ったのだ。
城下では政宗と吉が頻繁に遠駆けに行く光景がまた噂になった。ひとつの鞍に乗っている姿も格好の噂の的だ。だが下卑た噂になることはなかった。
政宗様が。
気晴らしだよ。
奥様の気晴らしをして差し上げてるんだ。
お優しいねえ。
でもあれじゃ、三春嬢さんがご側室に入った時に。
三春嬢さんが嫉妬するんじゃないのかい。
奥様ばっかり。
ご正室ばっかりって。
三春嬢さんはとっても素直で穏やかだって聞くけれど。
女なんてそんなもんだろう。
政宗はその噂に耳を塞いだ。そこまではまだ考えることも、捌き切れるとも思っていなかったからだ。今は吉の気晴らしをさせてやりたいとしか思えなかったし、それしかできないと分かっていた。
小十郎は相変わらず忙しく、噂が耳に入る暇もないらしい。政宗もそれなりに忙しかったが、小十郎が家にいない時間を狙うように片倉の家へ通った。吉は毎回「草潰しも良い加減にしや」と憎まれ口を叩いたが、政宗を追い返すような真似はしなかった。
遠駆けに行けば家の中よりも話をする。政宗は吉がいつも、家では気を使っていることを知った。家では決して話さない、織田の時代の話もぽつぽつとするからだ。政宗がつい「あの戦はどうだった、あの政のことは」と訊いてしまっても、嫌がることなく大体のことを話してくれた。政宗は夢中になって聞く自分に気づいていた。自分がそんな局面だったら──そう考え、頭の中で仮想しながら聞いていても、吉──織田上総介信長の答えは違い、そしてそれが当時は最善だったと納得しては舌を巻く。遠駆けの間に通る地形を見て、ここならあの陣、あそこに何人と、まるで「今日の夕餉の献立は何にしよ」と言いたげな口調の吉の言葉を聞き逃すまいと必死になった。吉はそれに気づいているのかいないのか、政宗には分からなかった。
半月ほど経って、遠駆けにはそろそろ寒さが厳しすぎる時期になった頃、ふと思い出す。晴久のことだ。晴久は積極的に行動に移すことはないものの、吉が小十郎の妻であることに大きな不満を持っている。何かあれば奥州を連れ出して離縁させたいと思っていることは、政宗も、実は小十郎自身もよく知っている。「姉を差し置いて側室とは何事か」とこれ幸いに乗り込んで来てもおかしくはない、と政宗は思った。
「……姐さん、尼子から連絡来てる?」
「晴久から?」
遠駆けの最中、政宗の突然の質問に吉は首を傾げた。政宗から晴久の近況を訊かれることは珍しいのだ。
「別に、ふつうに。いつも通りに文が──着物をくれたけれど」
「気前がいいな」
「三春殿の祝言の折に、ナ。よう着ればよいと。まァ、わらわの晴れ舞台というわけでもないのに豪勢な着物を」
吉はくすくすと笑う。あの子は本当にどうしようもないの、と言うように。だがその裏には晴久の気遣いを喜ぶ色もある。政宗は、吉が今回の側室の話をすることが初めてだと気づいた。敢えて細かくは問わず、知っていることだけを話そうと決めた。
「……ああ、尼子に知らせたわけ? 三春ちゃんの結婚のこと」
「ま、先の文で。世間話の程に」
「ふうん」
──じゃあ、あいつ、今回は割り切ってんのかな。……そうだよな。尼子もこの時代の人間なんだし、しかも国主だし。側室ってものに抵抗があるわけじゃねえだろうし。
「仔竜も祝言の折には参ればよい。その折に、見せてやろ」
政宗は吉を支えるために身体に回した腕に少し力を込める。吉でなければ何かを勘違いしたかもしれない力だ。
「OK、見てやるよ。尼子のセンスがどんなもんか、楽しみだ」
無論、吉は勘違いなどしなかった。背中を預ける政宗には見えないと分かっていながら微笑し、身体を支えてくれるその腕を軽く叩くことで、政宗が向けた感情を受け止めたという意思を伝えた。
政宗はそれで、自分でも理由が分からないながらも、僅かに安心した。
冬の風の中、自分にもたれかかる女の体温が温かく、優しい。
こんな温もりをなぜ、と思った。
──こんなにあったかい女を、どうして小十郎は──ないがしろにできるんだろう。それが武士ってものなんだろうか。
小十郎が何も言ってくれないということに不満を感じていたのは確かだった。幼い頃は政宗が何でも知りたがり、小十郎も教えてくれたものだが、いつの頃からか小十郎は政宗に対して全てを報告しなくなっていた。自分の家に関する内容であれば、完全に話が整ってから、あるいは問題が解決してから報告する場合も多かったのだ。だが今回のような話はもっと早く教えてくれたっていいじゃねえか──拗ねているのだと自分でも分かる。
どうなってんだよ、日取りはいつなんだ、もう両家で話はついてんのか──本当はそう問いたかった。だが吉の心を考えると、小十郎を問い詰めるような形になることも避けたかった。
三春は相変わらず城の中でよく働き、侍女たちに持ち上げられても高慢な態度を決して取らず、小十郎の世話をしては気晴らしの時間に付き合っていた。小十郎はかなり忙しく、辰蔵と共に城に泊まり込むことも多くなっていた。三春はそれにもよく付き合った。
その頃、流石に政宗が眉を顰める噂が流れ始めた。
小十郎様がお忙しいから、らしいんだけど。
奥様が。
いや、これはあんまりだねえ。
奥様がさ。
三春嬢さんの家にさ。
色々、話をしに行ってるらしいよ。
祝言の日取りとか、そういうことじゃないかって。
いや、聞いたんだけどさ、あそこのお女中からさ。
三春嬢さんを嫁にくれないかって。
話をしてるんだってさ。
奥様が?
奥様が、だよ。
小十郎様の代わりにだって。
それにしてもね。
それにしてもねえ。
小十郎様、酷いんじゃないか。
いくら、身分のお高い方は側室を入れるのが当たり前でも。
よりによって、あんなに大事にしていた奥様に。
側室の実家に、嫁にくれなんて話をさせに行かせるなんてさ!
小十郎を自分の部屋に呼ぼう、と思った。だがすぐに考え直した。俺が言ってどうなる。俺が──腹を立ててどうする。でも言いたい、言いたくてたまらない。
姐さんが可哀想だと思わねえのか。忙しいってんなら俺に言え。そんな時間くらい作らせてやる。酷いことすんな。──お前が酷いって、思われるようなことをするんじゃねえ。
言いたくてたまらなかった。腹が立って仕方ない。小十郎の無神経さに腹が立つ。そんなことを誰かに、よりによって、あれだけ大事にしている吉にそんなことをさせる無神経さが許せなかった。
だがそれに怒っていいのかも分からない。だから小十郎を呼べなかった。もしかすると、と思ったのだ。
もしかすると小十郎の中ではどうってことがねえ、姐さんも割り切ってるのかもしれねえ。それが武家の正室に求められる強さなんだ、って、小十郎が思ってて、姐さんがそれに従うって言うなら。
「……意味、わかんねえや」
嫌になる。上手く立ち回れない自分が嫌になった。
それから数日、小十郎と会うたびに言いたかった。だがやはり言えなかった。言えないまま、片倉の家へ行く。吉はいる時もあるし、いない時もあった。いない時は三春の実家なのだと、やっとおこうが教えてくれた。
「姐さんさあ」
この話は遠駆けの時にだけするようになっていた。互いの顔が見えないからだ。吉の顔を見たくないような気がしていた。吉がどう感じているかは分からないが、吉からは決して三春の話を口にすることはなく、それを考えればやはり政宗は吉の顔を見て話したいとは思えなかった。
寒がりのはずの吉は冬の遠駆けも嫌がらなかった。一度、寒いのが嫌ならやめておこうか、と政宗が問うた時がある。吉は珍しく声を上げて笑い、雪が降らなければ構わない、ただしもっと寒くなったらお断りだ、と言った。
雪──この言葉に政宗は黙って頷くしかなかった。雪が降ると小十郎は必ず家に帰る。政務で泊まり込みになる時も、とにかく日に一度は家に戻り、雪が降りしきる中、また城に戻って来る。周囲は首を傾げているが、政宗には分かっていた。雪が降ると吉はいつも以上に無口になる。政宗が家に来ることを、はっきりと言ったことはないが嫌がっている。だから政宗は雪の日、片倉の家に行かないようになっていた。
吉は思い出したくないのだろう。本当は雪の日、いつも思い出しているのかもしれない。
あの雪の日、政宗が家に現れ、光秀に連れ帰られた──小十郎が妻を手放し、奥州から帰したことを思い出している。
だから雪が、雪の日に政宗が訪ねることが嫌なのだ。
──……だから小十郎は、どんな時でも雪の日は帰るんだ。
「ん」
「すっげえ、怒られるかもしれねえんだけど」
「ん」
「一応、俺、奥州で一番偉いから偉そうに言っちゃうけど」
「ん」
吉の返事に僅かに笑いの成分が混ざったが、政宗は腹が立たなかった。確かに変な言い方だな、と思ったからだ。
「本当に嫌なことは、無理してすんなよ。三春ちゃんのこととかさ、小十郎が忙しいなら、しばらく仕事すんなって俺が言うから」
吉は答えなかった。だが、政宗の腕を軽く叩く。繰り返される遠駆けの間に出来た決まり事のようなものだ。
ありがとう、と、政宗に伝える時の仕草だった。
「いや、なのは」
「うん?」
「わらわではなく、仔竜ではないの」
「え?」
「旦那様が仔竜に──どうせ、何もおっしゃっておらなんだ?」
政宗は溜息をつく。
「oops。その通り」
「おいもじだと、ほんに。そういったことを後回しになさってしまわれるのはあられる御ン方ゆえ、なァ」
吉は笑っている。夫を惚気る女の声だ。だがこんな時にそんな声を出せる吉を、政宗は理解できなかった。それとも強がっているのだろうか。弱みを見せることがない女だ、それもあるのかもしれない。
──……俺に弱いところなんて、見せたくねえだろうしな。
そして吉が言ったことが的を射ている。認めざるを得なかった。
「そうだなあ。……言って欲しいってのはあるよ。そりゃ、片倉さんちのことだからさ。俺には全部決まってから言うのも分かってんだけど。でもさ、もっとさ、何て言うかさ」
相談とかじゃなくてもいいからさ。
世間話みてえに。
俺にもっと話してくれよ、って。
寂しいんだよな。
俺、小十郎に世間話もしてもらえねえのかなって。
「……思うわけよ」
顔を見ていたら話せなかったと思う。この姿勢だから言えた。子供じみた言い分だと自分でも分かっているし、傍から見れば更にそう思われるはずだ。だが顔を見ず、それでも体温が伝わる位置にいるからこそ言えた。
「ふうん」
「ふうん、って、まあ、そんなもんだけど」
「申してみやれ」
「何を」
「旦那様に、そのまま」
吉の声は穏やかだった。
政宗は黙る。吉も黙る。
馬の蹄の音が規則的に響く。
やがて政宗は言った。
「もし今日、小十郎が帰って来るなら、晩飯一緒にしていい?」
吉は何も言わなかった。
何も言わず、政宗の腕を少し強く掴んだ。
それが答えだ、と政宗は知った。