奥州小話 弐 02



その日、小十郎は数日振りに自宅へ帰った。やっと今手がけている案件の目途がつき、しばらくは泊まり込みを回避できそうだと安堵する。
「お帰りなさいまし」
「ああ」
家に帰ればいつも通りの顔で吉が出迎え、小十郎もいつも通りに返事をした。
「仔竜がおまえさまと夕餉をと。だいぶん辛抱しておるわえ」
「政宗様が? 今日もいらしていたのか」
「おまえさまがおられねば、ほぼ毎日に。三春殿のことを聞いてから、で」
吉がくすくすと笑う。小十郎は苦笑し、そしてどこか嬉しいと思った。吉が政宗のことで優しい笑い方をする姿を見るのは好きだった。
「それで遠駆けか。城の中で聞いた」
「そ」
「寒いだろうに」
「まァ、仔竜はからだがぬくいゆえ」
「ったく、いけしゃあしゃあと。政宗様以外じゃ離縁ものだぞ」
笑って吉の頬を撫でる。吉も笑う。見ていたおこうはすっかり慣れている夫婦の愛情のやり取りだが、外の人が見ればそりゃあ伊達に見えるでしょうし赤面もするでしょうね、と冷静に思っていた。
「そろそろ、お話ししねえとまずいとは思っていたんだが」
「ん。わらわも、おまえさまに今夜あたりにと思うておったけれど、仔竜がどうしてもおまえさまと夕餉をと」
「そうか」
「そ」
「夕方からなら大分お待たせしたな。腹もおすきだろうし、急いでくれ」
「是」
吉に夕飯の準備を任せ、手早く着替えて政宗が待つ応接間へ向かう。小十郎の帰宅を長い時間待っていた政宗の前には茶菓子が供された跡があった。あまり甘いものを食べない政宗だが、流石に空腹で手を付けたのだろう。もう少し早く帰って来れば良かった、と小十郎は悔やんだ。
「お帰り、ご苦労さん」
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、気にすんなよ。勝手に待ってた俺が悪いし、治水と街道の整備はお前以外じゃ分からねえから、任せっきりでごめん」
「もったいないお言葉で」
「でも腹減った」
「今、準備しておりますので。先に召し上がればよろしかったのに」
「姐さんが食わねえって言うから、俺も食うわけにいかねえだろ」
「……遅くなる時は先に食べていろと、いつも言っているのですが。お付き合いさせて申し訳ありません」
またあいつは食べていないのか、と小十郎は溜息をつきたくなった。吉は小十郎が外泊にならない限りはどんな時間でも帰りを待っている。それだけでも心配になるのに、今回は政宗まで付き合わせている。改めて言い含めておかなければ、と思った時、察したかのように政宗が言った。
「あ、いや、姐さんは俺に先に食えって言ってたんだけどさ」
「ああ、そうでしたか」
「俺が小十郎と食いたかったから待ってた。話もあるし」
「話、と言いますと?」
「まあ、食ってから」
話の内容は予想できる。小十郎は敢えて自分からは話を振らないことにした。
吉が使用人に三人分の膳を用意させる。普段なら給仕でおこうが控えるが、政宗が何かを言う前に吉がおこうを下がらせた。小十郎は何も言わない。
食事中は静かなものだった。政宗はどうにも話題を探すことができず、小十郎は政宗の話を待っている。吉は元々、男同士が集まれば自分から口を開くことが滅多にない。結果として政宗には気づまりな時間になった。美味いと有名な片倉家の膳の味もよく分からない。
──……昔の俺なら、この辺で我慢できなくなって話してただろうなあ。
食後の茶を飲みながら、政宗はしみじみと自分の変化を感じていた。驚いていたと言ってもいい。昔なら感情と勢いに任せ、とうに小十郎を問い詰めていただろう。
それを今しないのは、思考するという行為がいかに大切であるかを知ったからだ。
「あのさ」
湯呑を置き、政宗は口火を切ることにした。以前のことを思い出す。小十郎が城の女と(毛利の間者だと知ったのは後のことだった)浮気をしていると勘違いした時、小十郎のことを感情のままに罵ってしまった。あれは申し開きができないほどの失策だ。久々に小十郎に説教をされたが、最後には笑って許してもらえて安心したものだった。あの時と同じことにはなりたくない。
「あのさ、うん。……uh」
「はい」
小十郎は促すことなく政宗の言葉を待つ。何を言われるのかは大体の予想がついている。最近、吉にひどく心を砕いていたこともよく知っている。だからずっと思っていた。
──俺の主君は最高だ。最高の主君だ。誰がどんなことを言おうとも、俺はよく知っている。
「姐さん」
「何え」
「内緒話で気分悪いかもしれねえんだけど、外してもらっていい? 小十郎と二人で話したい」
「そ」
気分が良いとも悪いとも言わず、吉は小十郎と政宗に茶を淹れ直してから部屋を出た。
部屋を出る直前、夫婦が視線を交わしたことに政宗は気づかなかった。
吉の気配が遠ざかり、夜の静かな空気の中に灯りの油がじりじりと燃える音が響く。
小十郎は何も言わない。政宗の言葉を待っている。
やがて意を決し、政宗は言った。
「三春ちゃん、な」
「ああ、三春殿のことですか」
「いやその」
「はい」
「……何て言うか、俺に教えてくれることってないのかなーと」
小十郎は「ああ」といかにも無礼に今気づいたかのように頭を下げてみせる。
「全て決まってからお知らせする予定でしたが、噂になっておりましたか。失礼しました」
「あー、うん、そう」
「小十郎の手がどうしても回りませんので、妻がほとんど請け負ってくれています。それもあって、あまりお話できず」
「姐さんが、うん。──いや、それなんだけどさ」
政宗は言葉を切る。小十郎はまた、政宗の言葉を待つ。
「……俺としては、なんだけど」
「はい」
「姐さんにやらせるのって、ちょっと」
小十郎の目を見る。
「酷ェんじゃねえかな、って思った」
長い間ずっと傍にいる男の目に動揺が走るのではないかと予想したが、そうではなかった。
口元こそ笑ってはいなかったが、小十郎の目は穏やかな笑みを浮かべていた。何かを喜ぶような笑みだということに、政宗はまだ気づけなかった。
小十郎は嬉しかったのだ。昔の政宗様なら、と思った。
──昔の政宗様ならいくらお優しくても、俺の妻に、誰かに、ここまでお心をお砕きにはならなかっただろう。いつの間にかこの方は、人の心を慰撫できるように──慰撫できる人間になろうと思うようになられたのだ。
嬉しくないはずがない。美貌、求心性、戦の能力、確かに政宗はずば抜けている。だがその政宗に「人の心を慰撫する」という一面が芽生えたのだ。これから先、どれほど優れた国主になるのだろう。嬉しく、楽しみでならなかった。
「そうでしょうか」
「そうでしょうか、って──そうだろ、そりゃ」
荒くなりかけた自らの語調に気づき、慌てて息を吐く。声を荒くして良い話題ではない。昔は気づかなかったことに今は気づいていた。小十郎の目が優しく、何かをまた喜ぶようなものになっていたことには気づけないままだ。
「何で正室に、結婚のことなんか任せんだよ。俺そういうの理解できねえ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「小十郎はそれが当然かと思いまして。夫の手が回らなければ、こういった話は妻の領分かと」
「それが片倉さんちの伝統なら、そりゃ俺が何を言うわけにもいかねえんだけど、でも」
「はい」
「……やっぱりちょっと、嫌だ」
「嫌、とは?」
「何かさ」
政宗は息を吐く。そして言った。小十郎が口を挟まないことを知っていた。
「姐さんがさ、そういうの、我慢してやってたら嫌だなとか。ちょっと訊いたら、嫌って言っていい立場じゃないって言うし──そういうのがまず、嫌だ」
「妻が、ですか。それは確かに嫌と言える立場でないのは事実ですね」
「……あ、そう」
「はい」
「そっか」
政宗はぬるくなった茶を飲む。吉が淹れた茶はいつでも美味いはずなのに、今はその味が分からなかった。押し黙る政宗に、小十郎は少しばかりの説明をする。
「どうしても嫌と言えば、小十郎もできる限り無理強いをするつもりはありません。昔は分からなかったものですが、今はどうしても嫌な時は分かるようになりましたよ。……あまり自分からは言わないものですから、昔は分かりませんでしたがね」
「昔?」
「妻がまだ、安土にいた頃。分かるようで、分かりませんでした」
「……ふうん」
じゃあ今は? ──そう問おうとして、政宗は言えなかった。小十郎の目が酷く優しく、だがその優しさは自分へ向けられたものではないと分かったからだ。
昔は分からなかった。今は分かる。分かるからこそいとしい。分からなかったからこそいとしい。そんな目だった。
だから政宗は問いたくなるのだ。
そんな目をするくらいに大事な女に、どうして。
どうして。
「……何で、姐さんにあんなことさせるんだ」
「あんなこと?」
「お前、本当に分かんねえの?」
「おそらく──三春殿の家に、妻に代理で話をさせに行かせていること、でしょうか」
政宗は黙った。心の中で数を数える。冷静になれ、怒るな、動揺するな──自分にそう言い聞かせていた。言い聞かせなければならないほどに、小十郎の声は冷静で、何ひとつ悪びれていなかった。
「……うん、それ」
「しかし──小十郎はご存知の通り、手一杯で。しかし三春殿に関しては急いだ方が良い理由もありまして」
「どんな理由だよ。片倉さんちがそんだけ急ぐ理由って?」
「いえ、それこそ決まってからお知らせしようかと思いまして。本人の意思もありまして──」
「俺は蚊帳の外ですか、そうですか」
「政宗様?」
突然拗ね切った声を出した政宗に小十郎は驚く。稀に自分の前でだけこんな声を出すことは確かだが、まさか今聞こうとは思いもよらなかった。
「蚊帳の外、とは?」
「別に俺、誰かに言い触らすつもりもねえし、そういうのしたことねえし」
「ええ、それはよく存じております。政宗様はそういった噂話がお好きではありません」
「だったら、教えてくれてもいいじゃねえか。俺、前から思ってたんだけど」
ぽつりぽつりと政宗は話す。昼の遠駆けで吉に言ったことだ。
夕方からずっと迷っていた。あまりにも子供じみている自分に嫌気がさしたことも確かだった。いくら幼い頃から傍らにいてくれて、兄のような、家族よりも強い何かを与えてくれる男が相手だからと言って、いつまでも自分が子供じみていて良いはずがないと考えていた。
それでも止められはしない。結局俺は子供だ。そう思った。
「小十郎が決める前で、迷ってたりすることでも」
「はい」
「俺に、ちょっと話してくれてもいいじゃねえか、とかさ」
「……それは」
「何か、世間話みたいに。そういうの、俺じゃ」
そこで政宗は言葉を切る。
俺じゃ物足りねえかもしれねえけど、と言う言葉を飲み込んだのだ。言えば小十郎は「いいえ、そんなことはありません」と否定してくれると分かっている。望んでいるのはそんな言葉ではなかった。
望んでいる──そうだ、俺はそうなんだ。政宗は気づく。
──俺は小十郎に望んでばっかりなんだ。情けねえ。
「……世間話、と申しましても」
小十郎はやや驚いていた。政宗がこんなことを言い出すとは思っていなかったのだ。自分としては昔から何でも話していたと思っている。政治のこと、政宗と自分が好む武道や文学のこと、騎馬隊のちょっとした楽しい話や、それこそ家の中のことも。
「ああ、いや、そのね。俺、ちょっと変なこと言ってる。酔ってんのかも」
政宗のそれが照れ隠しであることは明白だ。夕餉に酒はありませんでしたが、と言うほど小十郎は愚かでも、人の心を理解できないわけでもなかった。
だから分かった。ああそうか、と思った。
「政宗様」
「うん」
「小十郎、謝りません」
「何が」
「政宗様がいつの間にかご立派になられていらしたから失念していたこと、しかし謝りません」
庭先で剣を無心に打ち込み合ったあの日々が、自分の中ではとても遠くなっていた。ずっと昔のことだと思っていた。いつの間にか政宗が成長し、騎馬隊への求心性や領民の熱狂的な支持に忘れていたことがあった。いや、本当はいつも知っていた。
当たり前のことだったから分からなかった──それだけだ。
そして嬉しいとも思った。そもそもこの騒動が始まる前、小十郎は吉に「政宗に言わなくていいのか」と進言されていた。決まってからでいいだろう、と答えた覚えがある。あの時、吉は肩を竦めただけだったが、既に妻は理解していたのだろう。
幼い頃は当たり前のように、意識もせず、いつも本当は分かっていた。
今は成長を喜ぶあまり失念していた。
吉はこう言いたかったのだろう。

政宗はあなたにとって家族みたいなものじゃないの。言ってもいいでしょう。後から知ったら寂しがるでしょうに。

それをはっきりと伝えないのが妻なのだ。小十郎は知っていた。夫の邪魔をしない、という考えからではなく──主従の関係性の話には口を出さない、黙って見守る、どうしようもなければ手を貸す、そんな女なのだ。
今回も政宗が気を砕いているように見えて、本当は吉が砕いていた。今は小十郎と吉にしか分からないことだが、政宗もすぐに、あるいはいつか気づくだろうと思う。
それでも嬉しかった。小十郎の妻が面倒の中にあると考え、城下で噂になっても及び腰になる姿を見せず、ただ妻を慰めようとしてくれたことが、小十郎にとっては何よりも嬉しかった。
「しかし、これからは申し上げましょう。いや、本当に失念しておりました」
「何がだよ」
小十郎は政宗ににこりと笑う。その笑い方が幼い頃、初めて自分を褒めてくれた時の小十郎の笑顔だと政宗は思い出した。
「政宗様が、そうですね、妻の言葉で言うなら──おさびしさん、というのを忘れておりましたよ」
政宗は考える。やがて言葉の意味を思い出し、耳まで真っ赤になった。
「だ、誰が寂しがり屋だって……! 俺はそんなんじゃねえし!」
「ああ、いえ、そうですね、はい、失礼しました」
小十郎はくすくすと笑う。政宗は自分に冷静になるよう言い聞かせることも忘れ、真っ赤になったまま意地を張り、小十郎に怒る。
真っ赤になって意地を張るその顔が昔のままで、小十郎は嬉しくてまた笑った。勝手なものだと自分で思った。
──どんなにご成長なされても、子供の顔を見せても、俺はどちらも嬉しいんだ。勝手なものだ。
「いや、そんな話はいい、もういいや! もう!」
冷静になることを放棄し、政宗は話を変える。変えると言うより戻した。
「三春ちゃんの! あれ、どうすんだよ。いつになるんだよ。もう決まりなんだろ」
「そうですね、祝言は雪が降る前にと。あまり待つと三春殿のご両親の気が変わるかもしれませんのでね」
「別に、そんなに急がなくてもいいじゃねえか。お前が相手なら不満もねえだろうし」
「不満?」
「だって、三春ちゃんちって、まあ確かに旧いし名家だけど、片倉さんちに比べれば全然だろ。その片倉さんちの世話になるんだから、すぐじゃなくても待つのが当たり前じゃねえか」
「ああ、そうですね。確かに片倉に比べれば、ですが」
「そうだな」
「ですが、嘉納の家は三春殿の家よりも大分小さいですし、元は農民ですからね。いくら二人が想い合っていても、親としては気が変わらないとも言い切れませんから」
だから急いでいるんです。
そう言った小十郎の顔を、政宗はまじまじと見る。
小十郎はその政宗の様子が不思議で首を傾げる。
「……小十郎」
「はい」
「確認するけど」
「はい」
「嘉納って、辰蔵だよな」
「そうですよ。騎馬隊の名前くらいお覚えになられて下さい」
「覚えてるよ。確認だよ。──何で辰蔵が三春ちゃんの家に関係あるんだよ」
「それは」
小十郎は驚愕した。大いに驚愕した。そして一瞬で全てを察した。政宗があれほど吉を訪ね、遠駆けに誘い、気晴らしをさせていた理由。今この時、自分に沈痛な面持ちで話をして来た理由。

「辰蔵と三春殿が想い合っていて、是非とも夫婦になりたいが親に反対されるに違いないと小十郎に相談してきまして、しかし俺は忙しくて三春殿の実家に足を運ぶ暇がなかったものですから、妻に頼んでいただけ、ですが……!」

次の瞬間。
「Sorry! ごめん! ごめんなさい!」
政宗が凄まじい勢いで頭を下げた。
「俺、盛大に勘違いしてました! ごめんなさい!」
一も二もなくとはまさにこのことだ。政宗は土下座に等しい勢いで小十郎に謝り、小十郎はあまりの勘違いに久々に前髪が垂れそうになる激情を必死に抑える。
「小十郎が妻に、側室に迎えたい女がいるから実家に口説きに行けと言いつけたとお思いだったのですか!」
「思ってました! ごめんなさい!」
「そんな男の風上にも置けぬような真似を小十郎がするとお思いでしたか!」
「思ってません! でも疑いました! ごめんなさい!」
「小十郎にそれでは、他の騎馬隊や重臣にもあらぬ疑いをかけかねません! それでも奥州騎馬隊が筆頭であられますか!」
「だから! ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい!」
「なりません、まずは正座なされませ!」
「ごめんなさいって言ってんじゃねえかよー!」
既に涙目と言ってもいい状況の中、政宗はそれでも条件反射のごとく正座をしてしまう。小十郎は怒り心頭、その説教は一刻ほど続いたのだった。
説教がようやく終わり、とにかくごめんなさいもうしませんという約定の後、小十郎は政宗に茶を飲ませようと思った。自分も説教のし通しで喉が渇いていたし、政宗も熱い茶で気分を切り替えるきっかけが欲しいだろう。
「きつ」
席を外しているとはいえ、声が聞こえる場所にいることは分かっている。そういう女だ。案の定、隣の部屋からすぐに「はい」と言って出てきた。
「話は終わった。茶をくれ」
「まァ、おみおおきゅうお声であられたこと」
「うるせえ、さっさと頼む」
「はい、ええ」
吉はくすくすと笑いながら茶の準備をしに姿を消す。小十郎が政宗にすぐに茶が来ることを告げようと振り返ると、いやに蒼褪めた姿がそこにあった。
「どうなさいました、政宗様」
「……やべえ」
「どうなさいました」
「……俺、姐さんと初めて遠駆けした日に」
「妻に?」
「初っ端、小十郎が側室もらうらしいよってデマ吹き込んじゃった……」
その沈黙はそれほど長くなかったが、政宗には耐え難く、小十郎の前髪がぱらりと落ちるには充分な時間だった。
「政宗様」
「はい」
何で小十郎は笑顔なんだろう、笑顔なのに目が笑ってないのは何でなんだろう、と政宗は内心で怯えながら国主とは思えぬ返事をする。
「あの日、政宗様がお帰りになられた後」
「はい」
「妻がいわば落ち込んでいたと、おこうに聞いたのです」
「……ですよねー」
「妻に辰蔵と三春殿の話をしたら泣いて喜んだものですから、小十郎は酷く驚きましたが、そのせいでしたか、そうですか」
「……泣いて喜びましたか……ですよねー……」
「政宗様が妻を頻繁に連れ出して下さったのも、手が空かない小十郎の代わりにお気遣いお慰め頂いているとばかり思っておりました」
「……慰めたかったっていうか……はい……それは本当です……」
「しかしそんな理由だとは思いもよらず」
「……ですよねー……」
「政宗様」
「はい」
「少々、遅い時間にはございますが」
「はい」
「小十郎と剣の稽古をいたしましょうか」
「……はい……」
茶の準備をして戻って来た吉が見たのは、木刀を二本手にして前髪が乱した小十郎が、敬愛する主君であるはずの政宗を笑顔で引きずって庭に出て行く光景だった。縁側は寒いので吉は部屋に入り、障子を閉める。ほどなくして木刀が風を切る音と政宗の悲鳴が夜の空気に響いた。
「ほんに、もう」
茶を淹れて冷ましておいてやることにする。稽古が終われば喉が渇くだろう。稽古と言うよりは虐待に近いかもしれないが、それはそれ、旦那様の温情と言うもの、と吉は涼しい顔だった。
淹れ終えた茶を置き、障子を少しだけ開ける。
満月の下、開き直ったのか、それとも武芸者としての心が騒いだのか、まるで剣に未熟な子供のように小十郎に打ち込む政宗と、受けて流しては政宗を叱責する夫の姿が見える。
「……ほんに、もう。いたしかたのない」
政宗が勘違いをしているままであったことは途中で気づいていた。だが訂正する気にはならなかった。いつの間にか、と小十郎と同じことを思ったからだ。
いつの間にか仔竜は竜になりかけている。
それは吉にとって興味のあることではなかった。だが夫はそれを喜ぶだろうし、そして──どこかで寂しいと思うであろうことも、よく分かっていた。
──……晴久の時も、糸竹の時も、わらわがそうであったから。
些細な出来事だった。今でもそう思う。夫の部下の結婚話など、どれほど浪漫的であったとしても興味はない。だが夫が力になると決め、夫が動けない時期であれば正室の自分が動くのが当たり前だ。
だが些細なことであっても機だと思った。夫が満足する結果になるだろう。そして──ただただ、無条件に優しくしようとしてくれた政宗に、少しばかり褒美をくれてやろう。そう思ったのだ。
「地形も、陣も。まァ、織田の頃の話しかできぬですまなんだ」
政宗が歯を食いしばり、小十郎に打ち込む。小十郎は今までよりも少し本気でその剣を受けていた。咄嗟に褒めたくなったかのように口元が緩みそうになったが、すぐに顔を引き締め、まだまだ、その程度ですか、梵天の頃と何ひとつ変わりません、と叱責する声を響かせる。舐めんじゃねえ、と政宗は叫び、また飽くことなく打ち込んで行く。
「……明日から、また。旦那様と話すがよいわえ」
ふふ、と声なく笑い、吉はそっと障子を閉めた。




雪が降る少し前、騎馬隊の辰蔵と三春が正式に祝言を挙げた。
騎馬隊でも出世頭の辰蔵の祝言となれば、政宗も小十郎も出席する。
家の格に似合わぬほど華やかな祝言は城下で長く噂になった。
辰蔵は男泣きにむせび、三春は結婚を許してくれた両親に深く礼を言う。
両親は難しい顔をしていたが、辰蔵の人柄を知ると反対の理由がなくなった。
何より、片倉家の正室の度重なる説得が功を奏したと言われている。
あらぬ噂をしていた人々は落胆し、自らを恥じたものの、そのうちに「さすがは奥様だねえ」と囁き出す。

朝、いつも通り妻は夫を笑顔で送り出し、夫も笑顔を返して役目に向かう。
今日も奥州片倉家は平和だった。




その奥様が遠い出雲の守護代に手紙をもらった時、「もし本当に側室が来ることになったらどうするの」と問われたことを知る者はない。
そしてその答えが「女が事故に遭う」という至極短いものであったこと、出雲守護代が溜息をついて手紙を燃やしたことを知る者は、やはり誰もいない。