桔梗歌 弐 02



一気に話し、肩で息をする政宗に何を言えばいいのか分からなかった。話が本当に無茶苦茶で、政宗の散らかった思考を理解することに慣れている小十郎でも理解に苦しむ。
だが一部を理解することはできた。
政宗が吉に、小十郎と別れるように要請した。
言われた吉はおそらく、泣いた。
政宗が吉にそんな話をしたこと自体がまず驚きだった。
反応しない小十郎に業を煮やしたのか、それとももう感情の制御が完全に効かなくなったのか、政宗が唐突に小十郎の頬を殴りつけた。条件反射で両足で強く身体を支え、倒れることはなかったが、小十郎の精神に新たな衝撃を与えるには充分すぎた。
「──政宗様」
「無視すんな!」
「しておりません、驚いていただけです。申し訳ありません」
「違う! お前、俺のプライドとかそういうの、全然無視してやがる!」
酷い癇癪だ、と、どこか冷静に小十郎は思う。
まるで子供だ。言いたいことを理解してもらえない子供が起こす、あの癇癪だ。
政宗は叫んだ。絶叫した。

俺のプライドとか。
俺がどんだけお前が好きか。
無視してやがる。

小十郎は何も言えない。
一瞬で理解した。
心のどこかで、政宗のことをまだ子供だと思い込んでいた。

「俺は天下を獲るんだ」
「──分かっております」
子供だと思いこんでいた。癇癪を起こす今の姿はまさに子供だ。
だが本当はそうではなかった。子供ではなかった。
「お前は俺のもんだ」
「分かっております」
「だから勝手なことすんな! 姐さんと別れるなんて俺が許さねえ! お前が別れていいのは俺が姐さんに言って、姐さんが承諾した時だけだ! まだしてねえ!」
本当はそうではなくとも、たとえ子供ではないとしても──小十郎は言わなければならなかった。小十郎とて限界はあった。
自らの激情を止められなかった。
「──別れなければ、誰もが傷つき続けるのです! 政宗様も、俺も──妻も!」
政宗に負けぬ大声を出してしまっていた。止められない。政宗が言い返そうとする。だが今は許容できなかった。分かってもらいたい、ただそれだけだった。
「これからどうなるとお思いですか! 小十郎と妻が夫婦である限り、奥州は火薬庫を抱えているも同然です! 軍師たる自分が奥州の危機になることなぞまかりなりません!」
「関係ねえ! 全然関係ねえ!」
「関係ないはずがないでしょう! 御理解下さい!」
「分かんねえよ! 分かってるお前がどうかしてるよ!」
「天下を獲るのでしょう!」
「獲るよ!」
「──それは、小十郎の妻を殺すという意味です!」
びくり、と政宗の身体が揺れた。子供が親に酷い悪戯を見咎められた時のようだった。その姿に、小十郎はまた罪悪感を抱く。政宗にこんなことを言いたくなかった。こんな思いをさせたくなかった。
「殺せますか」
「できる」
「本当ですか」
「……できる」
できる、と政宗は繰り返す。それでも──殺す、という言葉を口にしない。小十郎は歯を食い縛り、激情を抑え、それから言った。
「では、おっしゃって下さい」
「何をだ」
手紙を握り締めた政宗の右手が震えている。残酷だ、と自分でも思いながら、小十郎は厳然と言い放った。
「片倉小十郎の妻を殺して天下を獲ると、おっしゃって下さい」
その瞬間、政宗がまた怒りを爆発させた。ふざけんな。そう叫んだ。叫び、小十郎に殴りかかる。怒りに任せた武術など小十郎の前では児戯に等しい。心の中で詫びながら、小十郎は主君の腕を掴んだ。
「政む──」
「ざけんな! ふざけんな、お前!」
暴れようとする政宗を宥めようとして失敗し、諸共に畳の上に倒れ込む。尚も暴れる政宗を抑え付けた。その時初めて、自分がまだ枯れた桔梗を持っていたことに気づく。──政宗が安土からこの花を持って帰って来たことそのものが不思議だと、ようやく気づく。
「離せよ!」
「離せません。おっしゃるまでは」
「何でだよ。何でそんなこと言えるんだよ! 馬鹿にすんじゃねえ!」
「しておりません」
「無視しやがって! 俺のこと──姐さんは俺を無視しねえのに、お前はするんだ!」
「……政宗様?」
政宗は左目できつく小十郎を睨めつける。その激情の奥に、酷い哀しみがあることを小十郎は知った。
「姐さんは俺の話を聞いてくれた。お前は聞かない」
「……いつも、聞いております」
「姐さんは俺のプライドを考えてくれた。お前は考えない」
「そんなことは」
そんなことはない、と小十郎は思う。だが愕然とする。
確かに、そうなのかもしれない。
まだ子供の部分を案じるあまり、窘めてばかり、叱ってばかり。
まだ──子供だと思っていたから──そうではなかったのに。
「別れろって言ったら、姐さんは俺に返事をくれた」
「返事?」
「いちしろく」
「……え?」
「最初は分からなかった。でも、帰って来る間に思い出した。こいまろび──」

 こいまろび
 恋ひは死ぬとも いちしろく
 色にはいでじ 朝顔の花

聞いてすぐには思い出せなかった。どういう意味だ──考えている間に政宗が動き、小十郎の隙を突いて組み敷かれた態勢から逃れる。ほぼ同時に低い姿勢のまま小十郎の頬を殴りつける。今度は小十郎も反応できず、畳に転がるはめになった。
起き上がりながらようやく思い出す。そして、ああ、やはり、と思う。
「お前なら知ってんだろ」
「……ええ」
これだけの動きの中でも持ったままだった桔梗を見る。
道中に枯れてしまった花を持ち帰って来て、今の今まで渡せなかった政宗の胸中を思うだけで自分を殺したくなる。
──俺は何てことをした。政宗様のことを考えているつもりで、俺は何てことを。
別れろと言って泣かせた女の傷ついた心を、主君は自己嫌悪に支配されながら奥州まで運んで来たに違いなかった。女が夫をいまだ慕う、慕うという言葉では足らぬほど強い心を伝える為に。それが傷つけた女へのせめてもの贖罪だと思ったからだろう。小十郎の主君はそういう人間だった。
誰よりも分かっているはずの自分が今、誰よりも政宗を傷つけたことをようやく理解した。
政宗が畳の上に座り込む。小十郎と向かい合う形になった。
「姐さんは俺のプライドを考えて、あの場で、魔王でいる場所で、俺に怒らなかったんだと思う」
なのに、お前は。政宗は言った。
「俺の話なんか聞きやしねえで、俺を無視して、姐さんの話も逸らせて、今だってこんなもん書いて」
「政宗様」
「……馬鹿に、すんな」
「申し訳ありません」
「無視すんなよ」
「申し訳ありません。決してそのようなつもりはありませんでしたが」
でも、と小十郎は続ける。
「……自分のことだから、自分と妻のことだから、と。意固地になっておりました」
やっと分かった。本当は分かっていなくてはならないことだったはずなのに、妻への思慕が、いとしさが目を塞いでいた。
そこにはいつも、政宗がいたのだと言うことを忘れていた。
背中を預ける男に辛い判断をさせた。その妻を傷つけた。未熟だった自分を思い出しては傷ついていただろう。屈辱を感じていただろう。
なぜ忘れていたのか。愚かだったとしか思えなかった。
子供だと思っていた政宗は、もうあの頃から国主だった。尾張に帰されることを取り乱して嫌がる女と、引き裂かれる痛みを呑み込んで帰した男の姿を脳裏に焼き付け、自らの力不足を痛感したあの頃、既に国主だったのだ。
「姐さんに」
政宗が小さく言った。
「別れろなんて言ったのは、間違いだった」
小十郎は答えない。言葉が見つからなかった。
目の前に子供はもういなかった。本当は最初からいなかった。
ここにいるのは国主だ。
「俺が、逃げたかっただけだ」
男だ。
「あの時の屈辱から挽回できねえって事実を、認めたくなかったんだ」
過去に傷になるほどの屈辱を感じた経験を持つ、男だった。
「小十郎」
「はい」
「姐さんが好きなのか。離縁するとか、そういうことはどうでもいい」
好きなのか。
政宗はもう一度訊いた。
小十郎は答えようとした。
驚いた。
──ああ、俺は──
「小十郎」
「政宗様」
「うん」
驚いた。まさかここまで、と自分で驚いていた。
「──他に」
「うん」
小十郎は言った。驚きに支配されたまま、それでもはっきりと、政宗の目を見て言った。

他に誰も。
どの女も。
いりません。
あれだけです。
きつ、だけです。
片倉吉──あれだけが、

「小十郎の、生涯の女です」

政宗はじっと小十郎を見る。
こんな小十郎は初めてだった。
欲しい何かを強く欲する小十郎を見たことがなかったのだと、政宗は思い知る。
それはいつでも自分に与えようとしてくれていたからなのだと、そして自分がそれを当然だと思っていたからなのだということを思い知る。
「……俺が別れろって言ったら、別れるか」
「別れます」
即答した小十郎に、また与えられるのだと思った政宗は歯軋りをして食い縛る。
だから小十郎は言った。
「ですが」
思うままに言った。
「想うことは、お許し下さい」
「そんなん」
政宗の声が揺れた。
「当たり前だろ……!」
小十郎は何も言えなかった。
政宗の左目と右目の眼帯の下から、大粒の涙が溢れ出たからだ。
子供の時にはよく見た泣き顔のはずだった。
だが今の泣き顔は全く違う。
悔しい。ただ悔しい──悔やむ男の泣き顔だった。
「小十郎」
「はい」
「俺、謝らねえから。お前には」
「謝られることなど、何も」
「お前の嫁さん泣かせたのは、悪いことだと思うし、謝るべきだと思う」
そんなことは──言いかけた小十郎を阻み、政宗は言った。
泣きながら言った。
「俺、絶対天下獲るから」
声は涙に濡れていた。子供のように涙を流しながら、それでも──男の顔で泣いていた。
「天下は俺のもんだ」
「はい」
小十郎は頷く。
「天下獲ったら、お前に」

姐さん、やる。

政宗は泣いていた。そしてまた言った。

姐さん、やるから。
お前にやるから。
姐さんを殺さないで、天下獲ってやるから。
だからお前に、謝らねえ。

政宗は泣き続けた。
何よりもいとしいものすら与えようとしてくれた、忠実という言葉では足らぬほどの忠義を持つ男が書いた手紙を、強く握り締めたまま、泣き続けた。
小十郎は何も言えなかった。
そんなこと、できるはずがありません。そう言いたかった。
言えなかった。
枯れた桔梗を、無意識に握り締めていた。

いつか。
政宗がまた、泣きながら言った。
いつか、天下獲ったら。

「お前と、姐さんと、一緒に。この家で、飯食うから」

政宗が、小十郎の手に自分の手を重ねる。
枯れた桔梗を共に握るように。
小十郎は頷いた。
何度も頷いた。
妻に聞かせたかった。
なぜここに妻がいないのかと、悔しくてならなかった。
そう、初めて悔しいと思った。

悔しかった。
あの日、あの時、尾張に帰さなければならないと決めたことが、とてつもなく悔しかった。
帰したくなどなかった。
共にいたかった。
帰す以外に何の選択肢も考え付かなかった自分を憎んだ。
ようやく認める。
悔しかった。
奥州のためには仕方ないと割り切っていた振りをしていたのに。
それはもう、無理だ。
悔しい。
悔しくてたまらない。
割り切ることなどできるものか。
ここに妻がいない。
それが事実だ。


離れるものか。
これからどうなろうとも、心だけは離れるものか。


強く想う。
そして政宗が口にした約束が果たされる日を夢見る。
夢だと分かっているからこそ、夢を見る。


離れるものか。
約束してくれたのだから。
果たせぬと、本当は知っていても。
俺たちの約束は何ひとつ果たせぬと知っていても。
いつか本当の終焉が訪れる日までは、果たせると信じたいのだ。
せめてそれまでは、心だけは。
離れるものか。




 我が目妻
 人は放くれど 朝顔の
 としさへこごと 我は離るがへ

   俺といとしい妻とを 引き裂くようなことがあっても
   美しい桔梗の花をいとしむように
   深く想って 離れはしない