藤波の夜の花房に 07



予定の時刻より相当遅れて始まった朝茶だったが、誰もが満足できる内容のものだった。用意された朝食は、質素でありながらも最高の味を胃に提供してくれる。久秀が立てた茶も美味く、食後の干菓子が更に味を引き立て、吉が終始無言であることもあまり気にされることがなかった。
解散の段になり、それぞれが亭主の久秀と、主賓の吉に挨拶をする。まずは文化人が挨拶をし、光秀の導きで亭を後にして行く。挨拶を終えた者から出立するのが礼儀のひとつだった。
「意外にも楽しませてもろうた」
信玄が相変わらず豪快に笑い、吉に声をかける。すると吉は、亭の床の間から持ち出していた藤の花房を弄びながら、ふん、と鼻を鳴らした。親しいひとへのきつ様だ──幸村はどことなくほっとする。昨夜から吉の心情を考えることすらできなかった。考えれば自分が悲しくなると分かっていたからだ。今、吉がいつもの調子で信玄に対応することがとても嬉しいと思った。
「信玄坊主がおとなしゅうあられて物足りなかったわ。何ぞしなさるかと思うておったのに」
「ワシとて斯様な席の礼儀は心得ておる。期待に添えず嬉しゅうてならぬぞ」
「ほんに厭わし、早う隠れたもう」
「おお、天女のごとき見た目で恐ろしきことじゃ。ぬしにそのまま返そうぞ」
「アレ、いやな。ゆき、斯様なおとなになってはならぬえ。わらわと約束しておくれたも」
「え、えっと」
幸村は大慌てで、主君と魔王を交互に見る。
「そ、それがしはお館様のようになりたいのです、でもきつ様がそう仰るのなら……ああ、でも!」
「おい、真田。ジョークってもんを覚えろ」
「じょーくとは何のことでござるか!」
たまりかねて口を出す政宗に、幸村は更に慌てる。すっかり蚊帳の外の久秀が、興味深そうに二人を眺めているとも知らずに。
小十郎は敢えて吉を見ない。傍からすれば身分の高い女を不躾に見ないようにしている、礼儀正しい他国の男だ。吉も小十郎を見ようとはしなかった。政宗は二人の様子に気づかない振りをした。それは幸村も同様だった。必要以上に政宗に食ってかかり、場を賑やかせる。それに家康も混ざり、茶会の後とは思えぬほどの若い賑やかさが場を支配した。久秀はもう苦笑するしかない。信玄が小声で「すまぬ」と久秀に謝るほどだった。いいや、楽しいよ、と久秀が答える。それは本心だった。──この若い彼らが何を持っているのか、何を求めているのか。考えるだけで楽しくてたまらなかった。
「オッサン、アンタもそう思うだろ!」
「私には分かりかねるね」
「いいや松永殿、分かって頂かねばワシの立場が!」
「家康殿の立場とはいかなるものでござるか!」
いっそ松永に同情したくなるような光景だが、小十郎は政宗を止めようとは思わなかった。歓迎するわけではないが──様々な考えがあれど、今、幸村と戦を忘れて話せるのであれば、話させてやりたかった。ある意味、自分よりもかなわぬ恋を秘めている主君に束の間の幸福を。
「あれ」
政宗たちの騒ぎをよそに、藤の花房を弄んでいた吉がふと顔を上げる。
「もう、咲いておるの」
釣られ、信玄と小十郎は女の視線の先を見上げる。
背の高い木に生い茂った葉の中に、鐘の形の白い花が見えた。
「これは何と言うたか。ワシはあまり、花に詳しくなくてな」
「百合の木。蓮華木、とも申すわえ」
「高い木に咲くものなのじゃな。髪にでも飾れば美しかろうの。多少は難も隠れようぞ、信長の」
「難なる言に異あれど、美しきは是。わらわでは届かねど」
「ふむ」
信玄が考える振りをし、次にちらりと小十郎を見た。
「右目、おぬしなら届くじゃろ。取ってやれ」
思わず小十郎は信玄を見た。目が合った信玄は涼しい顔だった。知っているのか知らぬのか、小十郎には分からない。
妻を見る。
朝方からずっと動かなかった感情が動く。
藤の花房を持つ妻は何も言わない。
手を伸ばした先は百合の木だった。
花を摘み、その柔らかさと甘い香りに慌てて力を抜く。潰してしまうのではないかと思った。
妻を見る。
妻が見ている。
「……よろしければ」
妻に話しかける時、こんなに緊張したことはなかった。
こんなに哀しいと思ったこともなかった。
こんなに──
「髪に」

俺を忘れるな、と思ったこともなかった。

「……是」
妻が頷く。人前で妻と呼ばれぬ女が頷く。
人前で夫と名乗れぬ男が、妻の髪に花を挿した。
指先に触れる髪の感触に、月下の中、その髪を撫でたことを思い出す。
次は。また会える日は。またこの髪に触れられる日は。
分かるはずもない。
だから願うしかないのだ。

俺を忘れるな。

不意に吉が動く。
弄んでいた藤の花房を小十郎の胸に押し付けた。
反射的にそれを抑えた小十郎の手が、吉の白い手に重なった。
思わず──思わず、だ。
強く握った。
華奢な手を折ってしまうのではないかと思うほどに、強く握った。
吉の顔が歪む。だがそれも一瞬のことだった。
次の瞬間、吉は全ての力を込めてその手を振り払っていた。
小十郎が声を出す前に、信玄が溜息をつく前に、吉はわざとらしいほどに浮かれた声を出す。
「ゆき、竹千代、ほうら、ご覧! 独眼竜よりも右目の方がよほど伊達だと思わぬかえ! 殿方だてらに藤の花が似合うて似合うて!」
「さすがきつ様、男振りを上げる秘訣をご存知であられますな!」
「ちょっと姐さん、俺より伊達ってどういう評価!」
「悔しいが、ワシには藤の花は似合わんなあ。それよりもきつ殿、その髪の花は。よくお似合いだが」
家康の問いに、吉は微笑んでみせた。
「背の高き殿方は、おなごに花を挿す姿もさぞかし伊達ぞ」
家康に微笑んでいるように見えながら、その実は違うのだと、分かる者だけが分かればよかった。
「俺が本家だってば、姐さん!」
「それがしも目指しとうございます! かなった暁には伊達ではなく真田、否、武田といたましょう!」
「奥州に喧嘩売ってんのか!」
政宗は痛みを自分のものと錯覚しないよう、敢えて喚いてみせる。幸村も同じことをする。
久秀は吉を見、それから小十郎を見、最後に信玄を見──信玄に向かって唇を笑いの形に歪めるにとどめる。私が見ていない間に何があったのだね、と言うように。信玄は無論、素知らぬ振りをした。
小十郎は遅れて微笑んだ。
ようやく微笑むことができた。
妻へ向かって藤の花を差し出す。
「自分が持つよりは、あなたが持たれる方が」

俺を忘れるな。
お前がお前である間は。

「花も喜ぶ」

俺も、

「……是」

お前を忘れない。

次は。また会える日は。
分からない。
分かるものか。

だが忘れることはない。
月と藤の花に抱かれ、共にあった夜を忘れることはない。

いつか迎えに来る約束を忘れることはない。
たとえそれが夢物語だと分かっていても、確かにした約束を忘れることはない。

藤の花の季節になるたびに、眩しい月を見るたびに思い出すのだろう。
奏でた笛の音と美しい舞、離れるものかと誓った夜を思い出すのだろう。

それが幸せなことなのか、それとも哀しいことなのか、今はまだ分からない。
分からない振りをする。

分からない振りをしたまま、男は女の手に藤の花房を握らせた。

本当はかなわぬと互いに知っている、夢物語の中の約束の証に。