新人さん、こんにちは 02



新入りがこれでもかとしごかれ、疲れ果てて地面に転がり、それを許さない鬼教官に怒鳴りつけられる姿は数年前の自分と一緒だ。新兵の訓練所の前を通る海兵たちは懐かしさ半分、新入りたちへの激励半分で野次を飛ばす。地面に転がっていた当時の自分たちは、先輩たちのこんな野次に腹を立てたものだった。
しかし今年は少々毛色の違う新入りがいる。そんなしごきを一日中受けても、さすがに涼しい顔とまではいかないが、他の同期と違って弱音を吐くこともなければ、さりとて過度に強がるわけでもない。
「誰か分かる?」
「ドレーク」
「あ、珍しい。すぐ分かった? ヒナびっくり」
「お前、俺を何だと思ってんだ?」
味はともかく量だけは最高級、食堂でランチプレートを胃に詰め込みながらスモーカーは眉をひそめる。同じだけの量を先に平らげたヒナは涼しい顔だ。
「だって、いつも噂話とか全然気にしないじゃない」
「あれだけ派手にぶつかったんだ、そりゃ覚えてる」
「ぶつかったのはスモーカーくんじゃないし」
「で、あいつがどうしたんだ」
「目立ってる」
「ふうん」
油でべたついたピラフを口に押し込み、味わう前に飲み込む。いつも不味い食事だが今日は殊更に不味い。
「まだ赤犬のオッサンとは懇意じゃねえのか」
「まだっぽい。うちのおいさまの方が気にしてるかも」
「黄猿のオッサンが?」
「何かねえ、よく話振って来るの。あの坊やどう、って」
「どうもこうも、俺もお前も同期じゃねえし」
「だよね。──ああ、面倒くさいったら!」
最後のそれはやや大きな声で、しかも溜息半分だ。ヒナにとってそんなに面倒なことなのかと驚き、スモーカーは話を促すように「何」と口にする。
「何、何でキレてんだよ」
「キレてないし。ドレくんに彼女がいるのは知ってるんだけど、それ以上はちょっと分かんないし」
「彼女がいるって知ってる方がすげえと思うし、ドレくんって何」
「ドレークって海賊いるから。何かヤじゃない? ──じゃ、講習だから。またね」
スモーカーが返事をする前に、ヒナはさっさと食堂を出ていく。セルフサービスの食器が置かれたままだと気づき、彼女らしからぬ失態にスモーカーは溜息をついた。いつもは決してこんな不作法なことをする少女ではない。
「あれ、ヒナは?」
通りがかった同期のアルビオンが、ランチプレートを手に立ち止まる。
「講習だから、またね。だってよ。食器置いて行きやがった」
「ああ、女子だけの講習があるんだっけ?」
スモーカーの向かいの席が空いていると知り、アルビオンは置かれた食器を器用にどかしてから、ヒナがいなくなった椅子に座る。
「そんなのあるのか」
「捕虜になった時の対処法とか、らしい。カレンに聞いた」
ランチプレートにスプーンを突っ込みながら、アルビオンは同期であり恋人であるカレンから聞いた話をする。
「女性は色々大変だからな。海賊なんて女に飢えた奴ばっかりだ、分かるだろ?」
「そこは自己責任だろ。誰も女に海兵になれなんて命令してねえ」
「冷たいこと言うなよ。ヒナが捕まったらどうするんだ?」
「捕まったら?」
「そう」
「ふうん」
食べ飽きたスモーカーはポケットから棒付きキャンディを出し、デザート代わりに口に入れた。
「あいつのボスを殴りに行くよ」
「ボルサリーノさんを? 何で?」
「お気に入りの部下が捕まるのはボスが無能、罪悪」
アルビオンは肩を竦め、スモーカー独特の言い分に感銘半分、呆れ半分の気持ちになる。スモーカーは時として、物事を他の同期たちとは全く違う方向に見ることがあった。
「女って言っても色々だしな。おつるさんみたいな──」
「あそこまで行けりゃ女も男も関係ねえよ。大抵は腰掛で海兵と結婚してやめちまう女が多いから困る、ってクザンが言ってた」
「ああ、──そっか、そうだなあ」
苦笑したアルビオンをちらりと見てから、スモーカーは言おうとした言葉を飲み込み、代わりにキャンディを棒ごと揺らす。カレンとは思った以上に話が進んでいるらしいな、と思った。
「ところでさ」
不意にアルビオンは声を落とし、僅かに身体を前に傾ける。あまり他人に聞かれたくない話だと予想したスモーカーも似たような姿勢になった。
「ヒナのことなんだけどさ」
「うん」
「アリッサの一派に嫌われてるんだって?」
「アリッサ」
「うん」
「誰」
「──だよな、お前はそうだよな」
他人の噂話や人間関係に興味を示さないスモーカーを、アルビオンはいっそ潔いと感じていた。
「カレンに聞いたんだ。アリッサと取り巻きが、ヒナに随分陰険なことしてるらしい。何でも──」
「──わざと業務連絡をしない、私物を隠す、時には捨てる、陰口を言う」
「……知ってるわけ?」
「アリッサって女は知らねえ。でもヒナがされてる嫌がらせは知ってた」
「ヒナに聞いたのか」
言いながら、それはないだろうな、とアルビオンは心の中で自分の問いを打ち消していた。ヒナはそういう性質ではない。案の定、スモーカーは「別に」と否定を意味する言葉を口にした。
「おかしいと思ったから、ここしばらく注意して見てた」
「そんなもんか。俺は分からなかった」
「そうか? 分かりやすいぞ。たとえば」
これ、とヒナが残していった食器を指す。
「こんな不作法な真似、お育ちのいいあいつがするもんか。ストレス溜まってんだろ」
「確かに」
得心したアルビオンは頷き、スモーカーの洞察力は才能なのか、それとも相手がヒナだからなのかと疑問に思った。理由は分からなかったが、それを口に出して確認することは何となく憚られた。それは自分だけではなく、親しい同期の誰もが思っていることだった。
「で、スモーカー。お前はそれを知っててどうするんだ」
「どうするって? 何?」
「何って、助けてやるとか──」
「何も。女が群れりゃ何かあるのは当然だし、これからこういうことは絶対あるし、ヒナが助けを求めてきたり、余程じゃなけりゃ手を出すもんじゃねえ。それがオトナってもんだ」
「へえ」
つい感嘆しかけたアルビオンに、スモーカーは肩を竦めて見せる。
「って、クザンが言ってた」
「相談したのか」
「してねえ。クザンもヒナを見てただけだ。いきなり言われた」
「ふうん」
スモーカーやヒナは他の同期と比べ、大将クラスの覚えが良い。一兵卒でありながら、クザンやボルサリーノに可愛がられている。ヒナが嫌がらせをされるのはそのあたりも理由だろう、とアルビオンは思っていた。
不意にスモーカーが何かに気づいたように視線を動かした。アルビオンも釣られて同じ方向を見て、そして眉をひそめて言った。
「付き合ってるらしい。噂だけどな」
「あれがアリッサ?」
「そう」
視線の先にはアリッサと、そして何かと話題のドレークがいた。ヒナが言っていたことは本当らしい、とスモーカーはようやく納得した。
「アリッサが惚れ込んだとか何とか──まあ、新入りの中じゃ大人っぽいし、見た目もいいし、アリッサみたいな華やかな女にはちょうどいいんだろ」
「ふうん」
棒付きキャンディを口の中で転がし、スモーカーはアリッサを軽く観察する。アルビオンの言う通り華やかで、大抵の男なら彼女を恋人として連れ歩くことは一種のステータスだろう。しかしスモーカーが口にしたのは全く正反対のことだった。
「ドレークの野郎、趣味が悪ィな」
「何だって?」
「ヒナよりブスだなんて、救いがねえ」
「えっ」
余りの言い草に驚愕したアルビオンは、ついスモーカーをまじまじと見つめてしまう。
「お前な、ヒナは標準よりかなり美人だぞ!」
「そうらしいな。地元出て驚いたよ、世の中はブスばっかりだ。ヒナが何とかましなラインだよ」
「信じられない。アリッサだって美人なのに」
アルビオンは天を仰ぐ。スモーカーが北の出身だということや、北には美形が多いことは知っていたが、まさかここまで美的感覚が突き抜けているとは思いもしなかった。
視線に気づいたのか、不意にドレークがランチプレートから顔を上げ、スモーカーとアルビオンを見る。だがそれは一瞬で、またすぐに食事に戻った。アリッサは何かとドレークに話しかけている。アリッサの方が先輩になるのだが、傍から見ればドレークにおもねる女にしか見えなかった。
「ほんっとに」
スモーカーは低く呟いた。
「趣味悪ィな」


「アルビオンからもらったの?」
隣に座って講義の開始を待つカレンの右手の薬指に指輪を発見し、ヒナは分かり切っていながらも訊く。無論カレンは嬉しそうに頷き、指輪をくれた時の話をし始めた。ヒナは喜んでその話を聞く。仲の良い同期の幸せな話を聞くことは楽しかった。
「ヒナは? 彼氏からもらわないの?」
「今、フリーだし」
「そうだったっけ」
「先月に振られたばっかり。あーあ、どうすれば長続きするんだろ」
「そうねえ、次はうまくいくといいわね」
スモーカーくんはどうなの、と、訊くのも馬鹿馬鹿しいので訊かないことにする。ヒナが振られたと聞くたび、カレンはいつもアルビオンと苦笑いしていた。
講義が始まる直前に、アリッサやその取り巻きたちがにぎやかに講義室に入って来る。スモーカーの美的感覚はともかくとして、アリッサは正真正銘、結構な美少女だった。そして人との間に上下関係を自然に作ることが上手く、入軍早々に取り巻きを容易く作ったものだ。対してヒナは階級以外の上下関係に興味を示さず、人気の割には取り巻きというものを持たなかった。
「ここにしましょう」
明らかにヒナの存在を確かめてから、アリッサは取り巻きに宣言する。
広い講義室だというのにわざわざヒナの近くに席を取るのは、嫌がらせの一環に思われても仕方のない行為だった。その行為に周囲が眉をひそめる程度には、アリッサたちのヒナへの所業は知れ渡っている。ヒナが黙って耐えているから誰も口を出せないだけだった。
カレンが目でヒナに「席を移る?」と訊いたが、ヒナが答える前に女性講師が入室し、それもかなわなかった。
講義と言えば大抵はつまらないものだが、今日はテーマがテーマだけに、誰もが真剣に聞き入った。海賊に捕まった女性海兵の末路など、通常であれば耳を塞ぎたい話だ。しかし海軍で生きて行く以上、避けて通れない危険であることは確かだった。
女性講師は元々海兵として軍艦に乗っていたが、自分も海賊に捕まったのだ、という話をした。女性としての尊厳を踏みにじられる行為を受けた記憶を事もなげに話し、少女たちの言葉を奪う。
彼女は必ず海軍が助けに来てくれると信じ、海賊たちに屈服することはなかった、と話す。だが、命の危険を感じたのであれば屈服することも責められはしない、と続けた。
「屈服したことを責める人は誰もいません。軍だって責めないわ。海賊に捕虜を取られるような作戦を立てた上層部が悪いんだから」
講師の言に、際どい冗談だと思った少女たちは笑う。ヒナだけが笑わなかった。講師はそんなヒナを見てふっと笑う。
「ヒナは笑わないのね」
ヒナは僅かに唇を噛み、それから講師をじっと見て言った。
「先生が言いたいことかどうかは分からないけど、でも、上層部が悪いのは確かだと思う」
「どうして?」
「上層部は、下の生命を守りながら正義を敷くのが仕事だと思うから。捕虜を取られるようなケースはミスだと思う」
「その通りよ」
講師は微笑む。
「みんなも覚えておいてね。ヒナの言うことが正解よ。捕虜を取られることは上層部のミスであり、恥です。だから捕虜になった人は責められないし、堂々としていていいの。それでね、ヒナ」
「はい」
「あなたが上層部なら、捕虜になった部下をどうする?」
「何が何でも助ける」
「どうして?」
「私の恥だから」
「その通りよ!」
講師は満面の笑みを浮かべた後、盛大に拍手をした。静まり返った空間の中、講師だけの拍手がやけに響き渡る。だがすぐにカレンが同調すると、アリッサと取り巻き以外の少女たちが一斉に拍手をし、割れんばかりの音が鳴り響いた。ヒナは驚きながらも照れくさそうに肩を竦めて僅かに笑う。
「でも」
アリッサが呟いた。拍手の中、それが聞こえたのはヒナとカレンだけだった。
そしていとも簡単に、アリッサはヒナを傷つけた。


いくら噂話に興味がないスモーカーでも、それはあっさりと耳に入った。この話をスモーカーの耳に入れない方が良いのではないかとアルビオンは思ったほどだったが、ヒナに関わりのある話だから、と他の誰かがスモーカーに耳打ちしてしまったのだ。
──アリッサがヒナに酷いこと言ったらしい
──何を言ったかは知らないんだが
──今までの嫌がらせより遥かに度を超したことだったらしいよ
話を聞くなり、スモーカーは歩き出した。アルビオンが追って来ることが分かり、足を止め、静かに振り返る。
「ヒナと話す」
「彼女が言ってくるまで待て。クザンさんだって言ってただろう」
「そうだっけ」
「そうだ」
「そうだっけな」
スモーカーは表情を特に変えることもなく、ポケットからキャンディを出して咥える。その横でアルビオンは溜息をついた。どうにでもなれ、と思ったのだ。探しに行くまでもなく、ヒナが前方から歩いて来ればそう思うしかなかった。
「おい」
カレンと並んで歩いて来たヒナに、スモーカーが声をかける。ヒナはいつも通りの声で「何」と言い、スモーカーの前で立ち止まった。カレンとアルビオンは目で「まずい」と会話する。
「何言われた」
「何が」
「ドレークの彼女」
「アリッサ?」
「そんな名前だっけ」
「別に。特に何も言われてないけど?」
「言われてねえなら」
スモーカーはさらりと言った。あまりにも通常の口調で言うものだから、ヒナが構える余裕もなかった。
「目が赤い理由が分からねえ」
沈黙が下りる。だが、すぐにヒナがぐいと顎を上げ、まるで命令するかのようにスモーカーに言い渡した。
「スモーカーくんには関係ないから、詮索しないで」
そしてスモーカーが何かを言う前に、ヒナは目の前のスモーカーの身体をどんと押し、その横をすり抜け、足早に立ち去ってしまった。スモーカーに何か知っているだろうという目で見られる前に──どうせ見られると分かっていたから──カレンが言った。
「私も聞こえたけど、知りたい?」
「ああ、──ああ、いや」
スモーカーは暫し考え、がり、とキャンディを噛み砕いた。
「詮索するなって言われたから、いいや」


迷惑とまでは思わないが、そろそろ面倒になってきたな、とドレークは考えていた。アリッサのことだ。妙に馴れ馴れしくしてくると思っていたら、勝手に恋人顔をするようになった。彼女が周囲に何と言っているかは知らないが、ドレークはアリッサと付き合っているつもりはない。優しくしたこともないし、ろくに会話をしたこともなかった。いつもアリッサが隣に座り、一方的に喋り、帰りは正面玄関で待っていて、ドレークが何も言わないのに付いて来る。
手をつないだこともキスをしたこともないし、ましてや恋人同士なら大抵の者が望むセックスもしていない。アリッサはたまに誘うような風情を見せるが、ドレークは彼女に欲を抱かなかったので手を出さなかった。
彼女を受け入れているわけではない。特に害がないから好きにさせているだけだ。それほどにドレークはアリッサに興味がなかった。
周囲には付き合っていると思われている。それは分かる。だがドレークに確かめる者はいないし、そういえば、違うと言い訳をする相手もいない。寂しいと感じることは全くなかったが、自分が同期の中で完全に孤立していることを思い知った瞬間だった。
しかしアリッサのためにも(そして何より自分の平穏のためにも)、そろそろはっきり言った方がいいかもしれない、とドレークは思う。今日最後の訓練に向かいながら、いつ言おうか、面倒だから今日の帰りにでも言えばいいか、と、まるで夕飯のメニューを考えるかのように決める。
訓練内容は個人格闘だった。これはお手の物だ。ドレークの格闘能力は抜きんでていて、同期の誰も相手にならなかった。
海軍に入ってひやりとしたのは一度だけだ。──スモーカーが拳を鼻の直前で止めた時だけだった。不意打ちだったとはいえ、全く反応できなかったことを思い出すと悔しくてならない。それから何度か訓練中の彼を見かけた時、彼が一年上の海兵たちの中ではトップの戦闘技術を持っていることを知った。
あれから特にスモーカーと接触したことはない。今日、久しぶりに食堂で目が合った。自分のことを見ていたが何か用だったのだろうか。
そんなことを考えながら格闘訓練を続けていたら、いつの間にか周囲には息を切らせてへたり込む同期しかいなくなっていた。気づかないうちに随分と相手をしたらしい。
これでは訓練にならない。息が上がってすらいない。教官も苦笑し、俺が相手をしよう、と言った。だがその時、不意に訓練場がざわついた。教官が眉をひそめ、言った。
「スモーカー、何の用だ」
スモーカーが勝手に訓練場に入り、真っ直ぐに歩いて来る。教官がもう一度、何の用だ、と言った。スモーカーは答えず、ただ歩く。ドレークの方へ。
何だ、何なんだ、とドレークは咄嗟に判断できない。
「スモーカー、待て、──待て!」
異変を感じた教官が動いた。そこはドレークとの経験差だった。ドレークの目の前に近づいたスモーカーを止めようと手を伸ばす。何が起きているのかドレークにはまだ分からない。教官が身体を使ってスモーカーの上半身を抑えて止めた。その時ようやくドレークはスモーカーが自分を殴ろうとしたことに気づいて目を見張り、そして次の瞬間──教官が上半身を抑えて止めることを想定していたからこその動きだった。抑えて来た教官を軸にし、歩いて来た勢いはそのままで、振り子の要領で下半身をしならせ、見事な蹴りをドレークに繰り出していた。振り上げた脚は恐ろしく高く上がり、ドレークのこめかみ付近を無情に蹴り飛ばしていた。
鈍い音と同時に襲い来た衝撃に耐え切れず、ドレークは地に倒れ込む。あの状態で、と痛みの中で感心すらした。あの状態でかなり正確に急所にヒットさせるとは、誰にでもできることではなかった。
「お前は悪くねえんだが」
スモーカーの声が聞こえた。
「女は殴れねえから代わりにお前を殴った。文句はアリッサに言え」
お前は悪くない。アリッサ。女は殴れない。全く意味が分からない。分からないまま、ドレークは自分が脳震盪を起こしていることを自覚した。
「これは」
目が回る。身体が動かない。だがどうしても言いたかった。
「蹴ったって言うんだ」
呻くような声になったことがみっともなくて、そう言えばこの男に不覚を取ったのは二度目だと不意に理解し、ひどく悔しいと思った。


「お馬鹿ちゃん」
「……さすがに酷ェだろ」
不愉快そうに眉をひそめるスモーカーに、クザンは負けないほどに眉をひそめる。
「まさかこんなとこ、大将になってまで来るとは思わなかった」
「来てくれなんて言ってねえ」
「ほんっとに生意気だね、お馬鹿ちゃん。引き取りに来てやったのに」
それでスモーカーは減らず口を封印し、そりゃどうも、と礼を言った。クザンは溜息をついた。海軍大将の自分が、下営倉──問題を起こした兵士の懲罰房に来ることになるとはあまりにも予想外だった。スモーカーが奔放なタイプであることは知っていたし、それもあって可愛がっているが、基本中の基本──暴力行為は決してしない──ということだけは絶対に守っていたのに。
「お嬢から聞いたけどさ」
「ヒナが? 喋ったのか? あんたに?」
「お前が営倉入りって言ったら泣いて怒って話した」
「何でそこで怒るんだよ」
「お嬢はそういう子。──で、お前、何したか分かってんの?」
「まずいこと」
「だね。お嬢がアリッサとかいう女の子に侮辱されて泣いちゃって、お前が怒って訓練真っ最中の訓練場に乗り込んで、問答無用でドレーク坊主のこめかみを蹴り飛ばした。理由はアリッサの彼氏がドレークで、お前は女を殴れないから」
スモーカーは面倒そうに数度頷き、クザンの言うことに間違いがないことを認める。クザンは珍しく厳しい声だった。
「別に痴情のもつれとか、どうでもいいんだけどさ」
「痴情じゃねえ」
「黙らっしゃい。──お前を止めようとした教官のメンツを潰した。これは許さないことのひとつ」
はっとしてスモーカーは顔を上げる。クザンの厳しい声と表情に、ああそうか、と思った。上官の命令は絶対だ。だがスモーカーはそれを無視した。結果として教官は侵入者の暴力行為を止められなかった。他の新入りたちに、あの教官には威厳がないと勘違いされかねない行為だった。
「ごめん」
「俺に謝る筋じゃない。でも、今のまんまじゃ俺は許さないよ」
「営倉出たら教官に謝る」
「そうだね。それから」
「うん」
クザンは一度言葉を切り、どう言うべきかな、という顔をする。だが言葉を探すことを諦め、溜息まじりに事実を告げた。
「ドレーク坊主なんだけど」
「うん」
「アリッサと付き合ってないんだってさ」
「──は?」
ぽかんとしてクザンを見上げる。クザンは「こういう顔の時は可愛いんだけど」と内心でしみじみする。しかし今回はあまりにも馬鹿げた話で、可愛いと思って終わりにすることは到底できなかった。
「アリッサが一方的にそう思い込んでただけで、ドレーク坊主は面倒だからほっといたんだって」
「何だそれ、うっそ」
「ほんと」
「まじで?」
「まじで。女に対して無意識に不誠実ってわけだね。お前は勝手に踊っただけ」
「まじかよ、え、まじで?」
事実を理解したスモーカーは、クザンが過去に見たことがないほどに青ざめた。これは評価してやろう、とクザンは思う。理解した途端、自分の行為がただの暴力行為だったということに思い至ったからこそ青ざめたのだ。それは戦闘を日常とする海兵には必要な感覚だった。
「女を殴れないなんて格好つけるから、こんなことになるんだ」
「殴れねえよ」
「女海賊が相手だったらどうすんのさ」
「捕まっとくから助けに来て。俺が捕まるのはあんたの責任」
「お前ねえ、正しいけどねえ……」
「ってかそれより、今は」
滅多にないほど慌てた様子でスモーカーは立ち上がる。
「ここから出して。今すぐ。早く」
「それが上官にものを頼む態度なの」
「ここから出して頂けますようご助力願います、サー!」
「やっぱいいや、お前が丁寧だと気持ち悪い」
「どっちだよ!」
本気で焦っているスモーカーは珍しい。もう少し観察したい気分になったが、臍を曲げられては面倒くさいので、クザンはこの程度で切り上げることにした。警備の兵士を呼び、スモーカーを営倉から出す手続きをするように命じる。
ものの数分で手続きは終わり、スモーカーはクザンに連れられて営倉を出た。
「じゃ、ありがと」
「はいはい。教官にも謝れよ」
「分かってる!」
クザンへの礼もそこそこに駈け出そうとしたスモーカーは、前方の二人に気づいて立ち止まる。クザンも「おや」と呟いた。ヒナとドレークがそこにいたのだ。
スモーカーはドレークを見る。ドレークが怒って抗議に来たのかと思った。ドレークはスモーカーを見ていた。ヒナは二人を交互に見比べた後、クザンに向かって肩を竦めてみせる。
クザンは──にやつきそうになる口元を抑える努力をするしかなかった。
「あのさ」
スモーカーが言った。
「あの」
ドレークが言った。
そして声を揃えて、言った。
「ごめん」
笑いを堪え切れなかったクザンの口から、ぶふう、と下品極まりない笑いが漏れ、ヒナがそれに呆れて溜息をついた。


それからスモーカーはドレークに話を聞き、改めて謝り、ドレークも誤解をさせるような態度を取り続けた自分が悪いと謝った。そしてアリッサに正面から迷惑であることを告げ、ヒナに謝罪をするようにと言い添えたが、アリッサは怒りの形相でそれを拒否した。それきりドレークはアリッサの存在を無視することにした。
スモーカーは教官に頭を下げ、教官は難しい顔を数秒保った後、いやあ実はな、あのやり方を俺に教えて欲しかったんだ、と大笑いをしながら言い、スモーカーを安堵させてくれた。
そして結局、スモーカーはヒナが何を言われたかを訊くことはなかったし、ヒナも言わなかった。
「正確には」
オフィスでヒナにお茶の相手をさせながら、クザンは呑気に言う。
「言えなかった、じゃないの?」
「そうかも」
ヒナは素直に認め、それから苦笑した。クザンは何かを言おうとしたが、今は言わなくてもいいか、と思った。──あの子は彼氏に向かないよ、とは、まだ言わなくて良い時期だろう。
「スモーカーくんには内緒ね」
アリッサに言われたことは単純な中傷で、だが、だからこそショックを受け、傷ついたのだ。

振られてばっかりで、やり捨てられてるくせに。
スモーカーくんだって、そんな汚い女の子は嫌に決まってるわ。
(だから付き合ってくれないんでしょう?)

「何で内緒なの」
「……嫌だし? 誤解だし」
「何が誤解?」
クザンの問いに、途端にヒナは耳まで真っ赤になる。その変化にクザンは驚いたが、やがて理由に思い至り、あ、と声を上げてしまった。
「お嬢、もしかして──処女? まじで!? まじで処女!? あれだけモテてるのに!」
「大きい声で言わないでよー!」
「え、だって……えー!? 黄猿の言うこと正しかったってわけ!?」
「う、うちのおいさまと何話してんの!? 絶対スモーカーくんに言わないでよ、馬鹿にされるから!」
「言わないけど、え、まじで……お嬢が処女とか俺の中の全世界がチャンス到来の感涙にむせんでる……!」
「意味分かんないけどセクハラ! 最低! 訴えてやる!」
「大将訴えたって握り潰されるに決まってんだろ」
ノックもなしにクザンのオフィスに入って来たスモーカーが、いつもの通りマイペースに突っ込みを入れる。スモーカーが現れると思っていなかったヒナは驚き、話を聞かれたことに気づいてまた真っ赤になった。
「聞いてたの?」
「あ?」
「今の話、聞いてた?」
「セクハラ? んなもんクザンの挨拶じゃねえか。──クザン、サインくれ。今日の警備担当の警備計画書」
「はいよ。あれ、ドレーク坊主が担当?」
「そう。そこで会ったから預かって来た」
「ふうん」
「……それならいいけど」
二人の事務手続きを見ながらヒナは口の中でもごもごと呟く。
「それならいいけど、って、いいってわけじゃないけど──」
「いいならいいだろ」
オフィスのソファに勝手に座り、スモーカーはいつものキャンデイを咥え、ヒナをちらりと見てから含み笑う。
「知ってたし。やらずのお嬢」
数秒の沈黙の後、ヒナがスモーカーの言葉を理解する。クザンはそっと耳を塞ぐ。そして次の瞬間──
「──何で知ってんの! スモーカーくんの変態!」
割れんばかりの大音声、半分は悲鳴のような叫びが、クザンのオフィスどころか外にまで響き渡り、その日の警備担当だったドレークが駆け付ける騒ぎになったのだった。
真相を知ったドレークが呆れ顔を隠せず、その顔にヒナはまた怒り、スモーカーが珍しく大笑いをし、クザンは若い彼らに溜息をつきながら、笑った。