この10年、ひとときも忘れなかった──とまでは言わない。どれほど強烈な記憶であろうと、忘れる瞬間を多くしていかなければならない職業だ。実際に滅多に思い出すことはなかった。昨日、ローがあの史書を発見しなければ、やはり思い出しもしなかったはずだ。そういやって生きている。そうでなければ軍人などやっていられない。
「やあ、久し振り」
そう言ってスモーカーに微笑みかけるアダムは、素性を知らない人間から見れば、品の良い美しい男だろう。スモーカーとて10年前、この男を初めて見た時にはそうとしか思えなかった。だが今は思い知っている。
「相変わらず、と言いたいところだが──随分とこう、しっかりした、と言えばいいのかな? 海賊も恐れるような顔つきになったようだね」
思い知っている。
この男は邪悪だ。
だから言った。
「見た目で判断するもんじゃねえよ。後で落胆することもある」
「きみの見た目でどう落胆できるんだろう。むしろ楽しみだよ」
「お前に関しちゃ、鏡を見ろって話だな」
「どういう意味かね」
「腹の底の底まで真っ黒な悪党が、お綺麗なツラして写ってるだろうよ」
アダムは答えず、薄く笑っただけだった。簡単な挑発に乗るはずがない、と知らしめる笑い方だ。予想していたスモーカーは特に失望せず、相変わらずだ、という思いだけを強くした。
「白猟屋」
ローが低い声で言った。アダムに聞かせないためではなく、自分の感情を制するためだった。先ほどまで意識を握られていたことに対して、多少ならず動揺した自分を認めざるを得ない。敗北感にも近い感情を引きずらないため、より強い意志でのセルフコントロールが必要だった。
「同盟を申し込まれた」
「──あァ?」
その返答のあまりの柄の悪さに、ローはパンクハザードのあの日を思い出し、自分の記憶の唐突な動き方に、ついコントロールを解除しそうになった。むしろ心に余裕ができたかもしれない。軍務以外では見た目ほど柄の悪さを出さない男なのだと改めて知った。
「申し込まれたんだよ」
「この野郎が、七武海のトラファルガー・ローに同盟を申し込んだ、って認識でいいのか?」
「そうだ」
「ってことは」
スモーカーはアダムを見据える。アダムの表情は相変わらず薄い笑みを湛え、憎悪を剥き出しにした瞳を向けるスモーカーを愛しんですら見えた。
「お前は海賊なのか」
これは重要な確認だ、とスモーカーの真剣な声音が言っていた。なぜそんなことを確認するのかとローは不思議に思う。ローの疑問を見抜いたわけではないだろうが、アダムが穏やかな口調で言った。
「さあ、それは私たちが決めることではないよ」
「ローに同盟を申し込んだって言うなら同業だろう」
「海軍と七武海の関係は? 互いに利があるからこその関係だろう?」
「お前は海軍じゃねえし、七武海でもねえな」
「物の例えだ。柔軟にいこう」
明らかな敵意を向けるスモーカーと、まるでスモーカーに対してまで友好関係を結びたいと言わんばかりの柔らかい声を出すアダムを交互に見ながら、ローはアダムが過去にそれなりの結果を──海軍からすれば結果などとは言いたくもないだろうが──残したのは、自分たちの世界、すなわち海賊たちの世界とは違う力を持っていたからではないかと思った。
こいつは海賊じゃねえ──ローは断じた。だが、だから何だと断言することはできない。スモーカーには分かっているのかもしれない。それでもローにはまだ分からなかった。ただ邪悪であり、まともな人間でないことだけは本能が嗅ぎ付けている。
「きみに」
アダムの声が低くなる。何かを思い出すような、愛しむような、心からの愛情を感じる声だ。だがローはセルフコントロールを強くする。本能がまたぞろ騒いだ。この声を聴くな。危険だ。この男はまともじゃない。
「会いたかった。10年、ずっとだ。きみに生かされたあの日からずっと」
自らの愛情に陶酔しているのではないかと錯覚するほど、アダムは優しく、幸福そうだった。ローは「生かされた」という言葉を拾う。
──生かされた。ということは、白猟屋はこの男をギリギリまで追い込んだってことか? それを見逃したのか?
だが、とローは思う。だがそれでは、この敵意の説明がつかないのではないか。これほどまでに敵意を持って対峙する男を見逃すということが有り得るのだろうか。確かに命を奪わない男だが、だからと言って、正義を背負っていながら明らかな悪を見逃すとは思えない。
思考の淵に立ちかけるローを引き戻すかのようにアダムの声が響いた。
「後悔していないか?」
「お前の質問に答える義務はねえ」
スモーカーは一切の譲歩を見せないことをその声音で伝えていた。ローが聞いたことのない、ただただ、憎悪だけを込めた声だった。スモーカーが沈着冷静な男であるとまでは思ったことはなかったが、それでも軍人として、まさかこんな声を出すとは思ってもいなかった。この声は嫌いだ──不意に思った。なぜスモーカーの声に対してそんなことを思ったかは分からなかったが、とにかく嫌いだ、と思った。
「冷たいな。ここで再会したのも何かの運命だと思わないか?」
「答える義務はねえ」
取り付く島もないとはこのことだ。スモーカーは完全にアダムを敵と認識し、一切の情報を与えることをやめている。そして言った。
「アダム」
「何かね?」
「お前は海賊なのか?」
アダムは答えなかった。薄い笑いが深くなり、この上なく優しく笑う。誰もが魅了されるだろう。彼の言を聞き入れようと思うだろう。そんな笑い方をする者が確かにいるのだ──ローは知った。だが自分が魅了されることはなかった。理由は分からない。だが確かに、この男は異常だ。それだけを確信した。
潮風が吹き抜け、花の香りが強くなる。やがてアダムは優しく言った。
「答えてあげたいが、私にもきみの質問に答える義務はないんだ」
「無害な市民なら公僕に協力する義務がある」
「たとえ私が無害な市民であったとしても、黙秘権の行使を」
またアダムは微笑む。
「またいずれ。10年前の話の続きもあることだしね」
「お断りだ」
「そう言わないでくれ。そちらの彼──ロー、きみもいずれ。次は友達になろう」
「お断りだ」
二人に揃って同じ台詞を投げられ、何が面白かったのか、アダムは声を上げて笑った。笑いながら、それではまた、と言って身を翻す。急ぐわけでもなくゆっくりとした足取りで、まるで舞台から消える人気役者のように花の中へと消えて行った。
ローは軽き息を吐き、セルフコントロールを解除する。嫌な存在を目の当たりにした。本気でそう思っていた。「悪人」など腐るほど見ている。だがアダムという男は、そんなものではないような気がした。
「ロー」
スモーカーが静かな声で言った。明らかに感情を抑えている声だった。
「すまなかった。こんなはずじゃなかった」
感情を抑えていても、心から申し訳ないと思っていることが分かった。なぜかローは「ああ、いや」と慌てて答えてしまう。もう少しセルフコントロールを続けているべきだった。
「何て言うか、その、──ああ、その」
ハートのクルーやルフィたちが見たら驚くかもしれない。どもって言葉を探す姿など、彼らに決して見せられないとローは思った。否、できることなら、今だって見せたくはなかった。
「不思議な」
何とか見つけたのはそんな言葉だ。もっと気の利いたことを言いたかったが、どうしても見つけられなかった。情けないと思いながらも、口から出て来た言葉を何とか続けた。
「不思議な偶然だな。俺があの史書を見た次の日に、これだ」
「そうだな」
ふっとスモーカーが葉巻の煙を吐き出す。その目はアダムが消えた花の向こうだけを見ていて、隣に立つローを見ることはなかった。
それがひどくつまらない──そう、つまらないと思うべきだ、とローは心の中で呟いた。まるで自分に言い聞かせているようだということは認めなかった。
つまらねえ。つまらねえだけだ。こんな目に遭って、訳の分からねえことに巻き込まれて、白猟屋がこんな顔をして──つまらねえだけなんだ。
こんな顔をして。
憎悪と怒りと、そして、後悔に満ちた顔。
ああ、どうして──ローは思う。どうして。どうしてだろう。
どうして俺は、哀しいなんて思ったんだろう。
こいつのこんな顔を見て、哀しいだなんて。
それからのスモーカーは海軍基地へ移動したが、状況を聞きたいと言われて仕方なくついて来たローから見ても、明らかに忙しかった。手元の情報を精査しなければならなくなった上に、上級将校が来たと知ったの陳情が殺到したのだ。明らかにアダムと思しき海賊の件だと取次の兵士に教えられ、スモーカーは溜息をついた。
「ロー、悪いんだが」
スモーカーが言いたいことは充分に分かり、ローは「気にするな」と言った。そもそも、自分がここにいること自体が本来なら何かの間違いなのだ。
「俺への聞き取りはいつでもいいし、そもそもろくなことが言えねえ」
「そうか」
知らないうちに催眠にかけられていた──自発的に言おうかとも思ったが、口にしようとした途端、急激に屈辱に近い悔しさが込み上げ、飲み込むしかなかった。海軍で、海兵の前で、──スモーカーの前で、こんな話を自分からするなどと、情けなくてならないと強く思った。
「海軍もご苦労さんだな」
「お前に言われると複雑だよ」
「俺は勝手にするし、飽きたら帰る」
できるだけ素っ気なく、何も気にしていない声を装う。スモーカーはしばらくローを見ていたが、やがて「分かった」と小さく頷いた。
「帰るにしても、来た艦は俺が帰るまで動かせねえ」
「俺の船の座標が分かってる。シャンブルズで移動できる距離だ」
「──便利なもんだな。すまなかった」
別に、と答える前にスモーカーに軽く頬を叩かれ、答えるきっかけを失った。暴力として叩くのではなく、明らかに、親愛の情を示す叩き方だったからだ。
否、叩くと言うよりは、撫でると言った方が正しい触れ方だった。
「俺は執務室にいる。何かあったら声をかけてくれ」
「……ああ、うん」
グローブ越しの指の感触が、妙に頬に残るような気がした。スモーカーはそれきりローを視界に入れず、執務室の方へ歩いて行く。将校の顔だ、とローは思った。頂上のあの時、戦線の只中で見た戦士の顔とはまた違う、確実に自分の中の何かを制しなければならない立場の人間の顔だった。
息を吐き、触れられた頬を指でなぞる。そこに残った感触が不思議だった。頬に触れられることなど、もう何年も──それこそあの無二の男が死んだ時から──なかったということを思い出した。
グローブ越しのその感触が、しばらく頬から消えないような気がした。
感触を振り払うように歩き出す。スモーカーの執務室ではなく、特に目的はない。G-5の基地のように勝手知ったる場所ではないし、特に調べようとも思わなかった。ローの顔を知る海兵たちは、すれ違う前に大きく道を開ける。喧嘩を売らないだけ大したもんだ、とローは妙な方向へ称賛した。海兵は元々、気性が荒い男が多いものだ。七武海など見たら虚勢を張って粋がる者がいてもおかしくない。
「おい」
自分ではうまく気配をカモフラージュできていたと思っていたに違いない、背後にいたたしぎに振り返らずに声をかける。たしぎは「ああ」と絶望の声を漏らしてから、思いきり不機嫌な声を出した。
「私の独断で、あなたを監視しています」
「どうでもいい。それより」
「どうでもいいって、何て侮辱!」
「本当にどうでもいい。それより、お前は何してるんだ」
「あなたの監視です」
「そうじゃねえよ」
ローは眉を跳ね上げ、振り返った。整った、まだどこか海兵としては純粋な色を浮かべる顔いっぱいに、あからさまな警戒を浮かべるたしぎを見る。ああ、と思った。
──ああ、こいつは──
「白猟屋はあのアダムだか何だかのことで忙しいんだろう。お前はあいつの部下なんじゃねえのか」
「部下ですけど」
「手伝うことはねえのか」
「……なくはない、と、思いますけど、でも」
たしぎは僅かに声のトーンを落とした。だからまたローは、ああ、と思う。
ああ、こいつは。
「私、10年前の戦争のこと、スモーカーさんから直接聞いたことがなくて」
──ああ、こいつは、自分がまだ未熟だってことを思い知っているんだろう。
「特に指示もされなくて、だから──私ができる他のことをしているだけです! トラファルガー、勝手に歩き回らないで下さい!」
途中から張り上げた声は、明らかに虚勢の大声だった。周囲で遠巻きに様子を窺っていた海兵が数人、たしぎの虚勢に気付いたのか、応援するように口笛を吹いて茶化す。
「お断りだ」
「何ですって!」
海賊のにべもない拒絶に、たしぎは更に大声を上げる。未熟だということを思い知ったたしぎは、まるでローの反抗的な態度に救われているような気分になりかけていた。私にもできる。私にできることだってある。自分にそう言い聞かせているも同然だった。
ローはまた眉を跳ね上げる。気分が悪くなった。目の前の若い女海兵が自信をなくしかけている理由がよく分かった。自分には全く関係ないことなのに、黙ってシャンブルズで移動しても良いはずなのに、それでも付き合ってやってしまっている。理由は簡単だ。
たしぎはスモーカーに、アダムの件で一切の仕事を与えられていない。スモーカーの副官を自負し、そして短期間で一気に昇進を重ねて来た彼女としては、それなりに衝撃的な、あるいは屈辱的なことだろう。
彼女を慰めるためなどではない。決してない。そんな優しい感情を持つ相手ではないし、優しくする自分を想像するだけで滑稽で、想像の中の自分の偽善に吐き気がする。だがそれでも付き合ってやっている理由は恐ろしく簡単だ。
──俺もまた、屈辱を感じた。あの男のせいで。
もはや正面から認めるしかなかった。本気で屈辱を感じた。思い出すだけで歯軋りを、いいや、叫び出したいほどの屈辱だ。
──俺が。この俺が。一方的に催眠にかけられて。一方的にいいように喋らされて。あの野郎に。あんな野郎に。あんな──邪悪の塊のような男に、いいようにされた。
「トラファルガー」
呼びかけるたしぎの声が、僅かに息を呑んだものだったことには気付かなかった。それほどまでに今、感情が屈辱に支配されていた。
たしぎはこの顔を忘れないだろうと思った。信じられなかった。この男がこんな顔をするなんて。いつも薄い笑いを浮かべているような、酷薄で嫌味な男がこんな顔を──屈辱にまみれ、何かを憎悪していると、一目で分かる顔をするなんて。
「とにかく、基地を歩き回るなら私が──」
「おい」
「……何ですか」
「俺に話しかけるんじゃねえ」
「──何ですって!?」
途端に激昂するたしぎに一瞬の隙も与えなかった。
「邪魔をするな」
見守っていた周囲の海兵が瞬時にして一斉に構え、それでも遅かったと絶望するには充分すぎるほど、ローの動きは速かった。
「殺すぞ」
たしぎは鞘に手をかけていた。それでも絶望していた。本当なら殺されていた。それが分かったからだ。
鞘に手をかけるよりも速く、ローはたしぎの襟を乱暴に掴み、締め上げていたのだった。
数秒、誰も動かない。動けるはずがなかった。死の外科医と呼ばれる男が、憎悪をありありと浮かべた顔で女性海兵の襟を締め上げているのだ。どうやっても動けるはずがなかった。
「あなたになんか」
襟と共に喉元が締め上げられている。息が苦しい。それでもたしぎは呻くように言った。
「あなたになんか、殺されてたまるもんですか」
「いつだったかも教えてやっただろう」
目を逸らすものか。たしぎは必死で自分に言い聞かせる。目を逸らすな。せめてそれだけは。せめてそれだけが、今の私がこの男にできることだ。この──私が海兵じゃなかったら、いいえ、大佐じゃなかったら、他の海兵の目の前じゃなかったら、きっと竦んで怯えてしまいそうな、この海賊の目を見続けるんだ。
「弱い奴は死に方も選べねえんだよ」
一瞬で思い出し、屈辱に歪んだたしぎの顔を数秒堪能したローは、掴んだ時と同じ程度に乱暴に手を離す。たしぎはそれで転ばなかった自分を褒めた。咳き込むことも我慢した。下の階級の海兵たちが見ている。これ以上、無様な姿など見せて良いはずがなかった。
──スモーカーさんなら、絶対そうだ。だから私もそうするんだ。海賊の前で倒れない。怯えない。絶対に。スモーカーさんみたいに。
「ご教授、お礼を言うわ。──勝手に基地をうろつかないで、トラファルガー」
ローがまたたしぎを見る。たしぎもローを見返す。誰もがまた息を呑んだ。
だが、その時間は長く続かなかった。
「うるせえよ」
死の外科医が、口元を笑いの形に歪めたからだ。
「殺すぞ」
二度めのそれは既に憎悪を消した声で、事の終わりを宣言するものだった。たしぎは黙って、だが、あなたを許すわけではないという態度を崩さず、姿勢よくその場に立ち尽くす。
「本当に」
ローは立ち尽くすたしぎの横をゆっくりと通り過ぎる。
「殺してやりてえよ」
──俺を。
「情けねえ」
──あんな野郎にいいようにされた俺を、殺してやりてえよ。
数歩歩き、ふと足を止めた。再び空気が緊迫するが、ローは意に介さない。
「軍だと何て言ったっけな。──そうだ、ASAP?」
返事はない。だが聞いていることはよく分かったし、なぜ返事ができないのかもよく分かった。さすがにそれを茶化そうとは思わなかった。
「俺が受けた屈辱の話をしてやるから、お前の上司にさっさと繋げ」
不意に、頬の感触が蘇る。無意識に自分の指でなぞった。グローブ越しの感触を鮮明に思い出した。
「ASAP。スモーカー中将に、七武海トラファルガー・ローから面会の申し込みだ」
As soon as possible、可能な限り急げ。
海賊が海兵に投げる言葉ではない。だがたしぎは一言も何も発することなく、執務室へ向かって足音高く、殊更にゆっくりと歩き出した。一言でも発すれば泣いてしまうことを、誰もが知っていた。
ローはもう一度、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「殺すぞ」
殺すぞ。
あの野郎。
アダム。