行くとも行かないとも言わなかったが、18時ちょうどにペンを置いたスモーカーは、コートを着込みながらローに「行くぞ」と言った。行くなんて言ってねえ――そう言いかけたが、いつもならローの反応を待つスモーカーがさっさと執務室を出る素振りを見せたので言うタイミングを逃した。
別に言いたかったわけでもない。反射的にノーを言おうとする自分に呆れる。
まさかスモーカーが教会に行くと言い出すとは思わなかった。今まで一緒に過ごした時間の中、宗教じみた姿を欠片も見たことがない。
それに、行くなら神の子の生誕の日であった昨日ではないか、と思った。
教会は小高い丘の上にある、とスモーカーが言った。街中の人が集まる教会ではなく、普段は忘れられているような小さな場所だと言う。すっかり陽が暮れた道を歩いた。
ぽつりぽつりとした街灯しかない中、海から吹き付ける風の冷たさを感じながら歩く。今にも雪が降るのではないかと思うほどに寒く、一足ごとにじゃり、じゃり、と、凍りかけた足下の土が崩れる音がした。
「教会なんざ、ガキの頃に行ったきりだ」
「足繁く教会に通う海賊の方が少ないだろうよ」
先を歩くスモーカーの声が笑っていた。凍るように寒い中でも葉巻の煙が漂う。一歩後ろを歩くローに煙がかかるが、嫌だとは感じなかった。これが他の人間なら御免だったろうな、と思った。
不思議なものだ。スモーカーだから、この男だから。いつの間にかそうやって、この男だけに許す範囲が増えていた。葉巻の煙も頬を撫でられることも、そうだ、キスをすることも。
初めてスモーカーという男を認識した時、まさかこんな関係になるとは思ってもみなかった。この男がこんなにも自分を甘やかし、優しく微笑みかけてくることなど想像もしなかったし、それを嬉しいと思う自分を考えもしなかった。
「どうして今日なんだ」
ふと思い出し、ローは先を行くスモーカーに問うた。
「ん?」
「どうして今日なんだ。教会で祈るってんなら、普通は昨日じゃねえのか」
「ああ、――ジーザス?」
「そんな名前だったな。軍人なら身近だろ」
スモーカーはすぐには答えなかった。口数が多い方ではないものの、当意即妙ないらえが多い男にしては珍しいことだ。ローが首を傾げかけた時、意外なことが起きた。スモーカーの唇から漏れたのは問いに対する答えではなく、穏やかな旋律だった。
「”ひでぇ戦争が終わりゃ 軍隊から抜け出せる”」
穏やかな旋律でも言葉は酷いものだ。それは鼻歌と呼ぶに相応しい歌い方だったが、確かな音程と発音だった。何よりローが驚いたのは――
「”軍服を脱いだらそりゃ幸せさ 日曜のミサも 休暇の申請ももういらねえ”」
「替え歌かよ。俺でも知ってる。”慈しみ深き”」
「正解。慈しみの御深き、上官がたへの親愛の歌だな」
有名すぎる賛美歌の不遜な替え歌を口ずさみ、何かを思い出したのか、スモーカーの声と背中が笑いに少し震えた。
「自己満足だよ」
「何の」
その問いにもスモーカーは答えなかった。僅かな沈黙の後に話を変える。これも滅多にないことだった。
「もうすぐ着く。中に入るのが嫌なら待合所にでもいろ」
「連れて来ておいて何て言い草だ」
「そりゃそうだが、お前を教会に連れて来たことに違和感を感じた」
「今更か」
「今更ながら」
冷たい空気に漂うのは煙か、それとも吐息か。相変わらず先を歩き、ローに顔を見せないまま、スモーカーは言った。
「連れて来たくなったから連れて来たんだが、祈る習慣がない奴には楽しい場所でもねえだろう」
「……まあ、そうだな」
道の先に古びた教会が見える。海風に長年晒されていることが一目で分かるほどの傷みだった。何でこんな教会に来たんだ――ローはそう問いたかった。それでも問わなかった。今日はおそらく、スモーカーはあまり答えてくれないと分かっていた。こんなことは滅多にないが、答えてくれないということが分かる程度には、スモーカーという男を知っているのだと実感した。
神父すらいない教会の中、祭壇までの身廊を歩く。街中に教会ができるまでは信者で賑わっていただろうこの場所は、今や朽ち果てる寸前で、あちこちからの隙間風に晒されていた。昔は美しく整えられていたであろうステンドグラスにはひびが入り、多くの人々が腰掛けて祈った長椅子は忍び込む海風に傷み切っている。
どうして今日なんだ。
あの日の幼かった自分と全く同じことを言ったローを思い出し、スモーカーはつい口元を苦笑の形にしてしまう。
そうだな、確かにそう思うだろうな。心の中で独りごちる。
――意味があるんだよ。俺には。俺たちのような人間には。
あの日には分からなかった。いつの頃からか分かるようになった。
あの彼が、逞しい身体を丸めるように跪き、神の子の像に何かを祈っていた。
心から何かを祈っている彼を見たのは初めてだった。
「……昨日は一番クソッタレな日だからさ」
あの日のクザンと同じ言葉を呟き、祭壇の前に立ち、白い息を吐きながら頭上を見上げる。
神の子の受難の姿がある。
受難の中にありながら、神の子は穏やかな顔でスモーカーを見下ろしていた。
教会が傷んでいれば待合所などもっと痛んでいる。この寒さでは浮浪者も人目を忍ぶ恋人同士もこんな場所へは来ないだろう。隙間風が酷く、ローはスモーカーの用事が早く終われば良いのに、とひたすら考える時間を過ごす。だがやがて、珍しい場所へ来たことに感情が刺激されたのか、勝手に思考が別の方向を向き始めた。
幼い頃、本当に幼い頃には教会に足を運んでいた。頭の良い子供は聖なる歌も言葉もすぐに覚えた。
嫌いな場所ではなかった。賛美歌も覚えている。スモーカーが替え歌にして歌ったあの歌は何よりも有名だ。
だがその日々の記憶をたぐり寄せ、慈しみ、懐かしもうとは思わない。
思えない、の間違いなのかもしれない。あの日々、あの時間の中の人々を懐かしみたい自分を認識をしたくないのだ――ローは自分でそう思っていた。
最初はスモーカーと共に祭壇のある堂の中に入ろうとした。だが入り口で身廊の先にある神の子の像を目にした時、ああ、俺、やっぱり待合所にいる、と無意識の内に唇を動かし、スモーカーに告げていた。スモーカーは理由を訊かず、そうか、と答えただけだった。
記憶をたぐり寄せ、慈しみ、懐かしもうとは思えない。
あの日々、あの時間の中にいた人々は、今どこにいるのだろう。それを考えるだけで目眩を覚えそうで、思い出しかける自分を戒めるように唇を強く噛む。
思い出さなくていい。今はまだその時ではないはずだ。隙間風に晒されながら必死でそう考えた。
お門違いだと分かっていても、こんな時間を過ごさせるスモーカーに不意に怒りを感じた。思い出したくないことに思いを馳せさせた男が憎いと思った。数時間前にはあれほどまでにいとしい、キスをしたいと願った男をそう思うとは、やはり人間とは不自由なものだ、俺も人間なのだと実感する。
とにかく寒くてたまらない。指先までかじかんでいる。海上の冷たさとはまた違う地上の寒さには慣れていなかった。いつの間にか足の指が凍るような傷みを感じ始め、罵りの言葉を小さな声で吐き出して待合所を出る。
寒くてやっていられない、先に戻る――そう決めて歩く。夜が更け始めたこの時間、ますます寒くなっていた。とりあえずスモーカーに一言言っておくべきかと思い至り、不本意ではあったが、堂の方へ歩いた。中へ入らなくても入り口から声をかければ良いだろう。
堂までの道も充分すぎるほど寒い。堂も隙間風だらけであることは分かっていた。あれではスモーカーも寒いはずだ。俺よりも寒がりなのに、と我知らず眉をひそめる。滅多に顔に出すことはないが、スモーカーは結構な寒がりだった。それでもあの格好で走り回るのだから、軍人というものはつくづく頭がおかしいものなのだとローはいつも思う。
堂の入り口に立ち、先に行くぞ、と声をかけようとし、――できなかった。
神の子の前に跪き、何かを一心に祈る彼を見たら、声をかけることができなくなった。
信仰心など持っていないし、これからも持つことはない。ともすれば熱心な信仰心を持つ誰かを否定することもある。自分は海賊だ。神の救いなど求めてもいない。そんな生き方をしている。
だが今はできなかった。スモーカーの祈る背中に声をかけることが、祈りを邪魔することが、できなかった。
どんな顔をして祈っているのか、何を考えているのか。
知りたかった。
だが知りたくなかった。
スモーカーが祈る姿を見て、おそらく俺はあれを美しい姿だと思っているのだろう、とわざと剥離させた意識で考えた。意識を剥離させ、究極まで客観視をしなければ、あの日々に胸の奥底に刻まれた聖なる言葉や旋律を全て思い出してしまいそうだった。
やがてスモーカーは祈りを終え、ゆっくりと立ち上がる。ローが来たことには気付いていたのか、振り返ってローを見ても驚くことはなかった。
「寒いか」
そう言ってローに微笑む。その笑い方が自分にしか――スモーカーがいとしいと思う者にしか向けられないものだと、ローはまだ知らなかった。
海の上に比べりゃどうってことはねえよ。そう言い掛けた。だがやめた。
「……寒い」
クソッタレ、と心の中で自分を罵った。なぜ言い掛けたことをやめたのか。その理由に思い至り、嫌になったのだ。
神の子が見ているからだ。
滅多にない素直な返事に、スモーカーは一瞬「おや」と言うような顔をした。だがすぐにまた微笑みかける。
「そっちよりは暖かいから、来い」
祭壇の前、神の子が見下ろすその場に来いと誘う。断れば不審がられて色々訊かれるような気がして、ローは無言で言われた通りにした。神の子の視線を感じるような気がしたが、それはあくまで気のせいだと分かっていたし、神の子の像を見上げることだけはするまいと決めた。
「……何を」
「うん」
「何を祈ってたんだ?」
祈るあの姿を美しいと思った自分を納得させるため、理由を知らなくてはならないとまた客観的な部分にいる自分がそう言った。スモーカーは「色々だ」と言った。
「一年に一回くらいはな。色々まとめて」
「それが今日? 毎年?」
「まあな。昨日は教会が混んでるし、それより前だと俺もまだ忙しい」
嘘だ。直感的にローはそう思った。スモーカーはわざとこの日、神の子の生誕の次の日に教会を訪れている。
「嘘だ」
自分でも驚いた。思ったことがそのまま口から出ることなど滅多にない。スモーカーも驚いたようにローを見る。その驚いた顔を見て、なぜか悔しくなった。だから言った。開き直ったのかもしれない。俺だって――言いたいんだ。本当はいつも。
「今日じゃなきゃ、駄目なんだろう。嘘つくな」
本当はいつも、思ったことを、素直に、お前に。
「……何だ、お前。今日の噛み付き方はそっちか。痛くなくて結構なことだが」
「茶化すな。教えろよ」
セックスの時の噛み癖を揶揄され、思わず赤くなりそうになる。だがスモーカーが話を逸らせようとしたのだと気づき、それは嫌だと辛うじて伝えた。いつもなら逸らせようとしたままにしたかもしれない。今はそれができなかった。神の子の視線が――ああ鬱陶しい、と思う。戸惑う。どんな顔をすればいいのか分からない。難しい顔をしてしまっていたかもしれない。
スモーカーはそんなローをしばらく見つめた後、ふっと息を吐き、また微笑んだ。
「自己満足だ」
「どんな?」
「一年に一回だけ、俺が俺の手で殺した人のために、祈る」
スモーカーは神の子の像を見上げる。ローは神の子ではなく、見上げるスモーカーの手を見た。いつもグローブに覆われているその手は、今日も同じようにグローブの中だ。手袋を外した手を見たことがある人間は少ないかもしれない。
だがローは知っている。その手は傷だらけで、ほとんど爪がない指もある。美しいとはとても言えない手をしている。能力者になる前は殴るのが得意だったんだ、と一度だけ聞いた。その時、スモーカーは笑っていた。
「直接ってだけじゃなくてな」
ローの視線に気付いたのか、それとも思い出したのか、神の子を見上げたままスモーカーは言った。
「叩き上げの海兵が中将になったんだ。それなりに、な」
それなりの数を殺してるってのは分かるだろう――言外にスモーカーはそう告げた。
あの戦いで、この作戦で――ああそうだろうな、とローは思う。スモーカーが参加した戦闘や戦線の全てを知っているわけではないが、一部だけでも相当な犠牲者が出ている。その中でそれなりの地位にいた男の手が、いくら海軍、正義という大義名分を掲げているとはいえ、綺麗と言わない人間もいるだろう。
「後悔はしてねえし、悪いことをしたとも思ってねえよ。軍人だからな」
「……ふうん」
本当は、「そうだな」と言いたかった。だが言ってはならないと知っていた。海賊である自分が、いくらいとしい男相手でも、言って良いことと悪いことがあるくらいは分かっている。
「でもまあ、殺した奴にも家族や恋人がいるだろうし、友人もいただろう。死んだかどうかもはっきりしないままの奴だっている。本人だってそれじゃ心残りだったろうから、せめて魂が救われるように祈ってやっても良いと思ってな」
意外と言えば意外な、だがスモーカーの人と為りを考えればそこまで意外でもなかったかもしれない。ローは何と言えばいいのか分からず、言葉を探した。
「……だったら昨日でもいいじゃねえか。神の子の誕生日の方が祈りも通じるだろう」
あまり深く考えずに言った。大抵の人間はそう思うはずだ。
「昨日は一年でクソッタレな日なんだ」
「よく分からねえな。普通は喜ぶ日なんだろ」
ああ、とスモーカーは思った。俺もそう訊いた。
子供だった俺はあの人に、同じように。
あの人は答えてくれた。
だってさ、考えてみなさいなって。
あのお方の誕生日って、考えるだけで福音あらたかでさ、だからみんなもこぞって祈るわけで。
救われるように祈るのはいいよ? だから俺もここに来てるんだから。
でもさ、実際まずいと思うんだよね。
「福音あらたかな日に、俺が殺した魂に救いがあるように祈って」
まずいでしょうが。
分かりやすく救われちゃったら。
だって、それって――
「俺に分かるように救われたら」
俺たちが間違ってるってことになりそうで、まずいでしょうが。
「俺が背負う正義が、神に否定されたような気分になる。俺が生きる場所はただの暴力組織に成り下がる」
それが嫌でさ、今日こっそり来るわけ。
今日なら神の子にもバレないかもしれないし、昨日のフィーバーで疲れてやる気ないかもしれないし。
それでも、祈ったっていう自己満足はできるから悪くないかなってね。
彼はいつものように飄々と説明してくれた。
だがいつものように、少年だったスモーカーの目を一度も見ず、神の子の像を見上げたままだった。
そして今、自分も同じようにローではなく神の子を見ている。
あの時はクザンが言う意味が分からなかった。詭弁だとすら思った。
今はそんなことはとても思えず――彼が言った自己満足を引き継いだ自分がいる。
「かと言って、そういうことに気付いたら祈らねえのも気分が悪い。だから一番盛り上がる日は外して、今日ってわけだ」
自己満足さ。最後にそう言って笑った。ローは笑わなかった。
「ああ、いや」
返事をしないローが呆れたのか、それとも退屈したのだと思い、スモーカーは苦笑してローを振り返る。
「つまらねえ話だ。付き合わせて悪かった」
「いや、別に」
いつものように返事をする。そしていつもなら、そんなにお前の話なんか気にしてねえよ、自意識過剰な奴、と憎まれ口のひとつも叩いたはずだ。
だが今日は言わなかった。
他のことを言いたくなった。言っていいのだろうか――いつものようにスモーカーが先回りしてくれないだろうか。そう思った。
「そうか」
「ああ」
「それなら良かった。――寒いのに悪かった、戻ろう」
「自己満足じゃねえだろう」
ほとばしるように唇から言葉が飛び出した。戻ろうと言われた瞬間、スモーカーが遠くなるような気がしたからだ。焦ったと言ってもいい。いや、遠くなったわけではなかったはずだ。
いつもと同じように、いつもの距離に戻るだけの話だったはずだ。だがそれが嫌だった、だから言いたいことを必死の思いで口にした。スモーカーはローの言葉の勢いに驚いた顔をする。その顔にローは自分が失言したかと思ったが、もう言葉を止めることができなくなった。神の子の視線を感じた。何て皮肉だ、とどこかで後悔しながらも言葉は止まらない。
「それは、だから――自己満足じゃねえし――いや、正しいとか、間違ってるとか、そういうことじゃ――そういうことじゃねえと、思うし」
上手く言葉が見つからない。みっともないと自分で思う。顔が赤くなっているような気がする。そうだ、耳が熱いのはきっと顔が赤いからだろう。
それでもスモーカーが自分を見ている。自分の言葉を待っている。そんな気がして黙ることができなかった。
「俺は軍人じゃねえし、お前だって俺に理解して欲しいわけでもねえだろうが、でも、――だから」
待ってくれ、と言いたかった。待ってくれ。どう言ったらいいか分からない。そうだ、俺はいつも本当はお前に言いたいことがたくさんあって、でも言えなくて――でもたくさんある言いたいことはひとつだけなんだ。
「嬉しいんだ」
そうだ。
嬉しい。
お前がいつも俺にくれる言葉だ。
俺だって、いつも。お前に会えた時、お前に――特別なことをしてもらった時、特別じゃなくたって、いつだって、どんな時だって。
「嬉しいんだよ」
今日、ここで祈るお前の本当の気持ちは分からないかもしれない。それでも俺をここに連れて来てくれたことが、その話をしてくれたことが、どれだけ特別なことかが分かる。
それがとても、
「……嬉しいんだ」
ああ、どうして――顔が赤くなる。恥ずかしかった。どうして上手く言えないんだ、どうして――言いたいことはまとまっているはずなのに、上手く言葉が出ない。思った以上にスモーカーに素直な感情を伝え慣れていないという証拠だった。
スモーカーに聞こえる言葉はただ、嬉しいというものだけだった。ローが心の中で様々な言葉を紡いでいるのは分かるが、唇から出るのはただ、嬉しいという言葉だけだ。
それでもスモーカーには分かる。よく分かる。いつもこいつはそうだ、とまた改めてローをいとしく感じる。口が立つように見えて、そして実際に立つはずなのに、自分の感情を伝えようとすると酷く不器用になる。素直に自分をさらけ出すこともできない。
子供が自分の感情を説明できないように戸惑う時のような素振りを見せ、大人が困り果てるような行動をすることもある。
ローは――七武海とまで呼ばれる男は、成長しきれていない子供の一面を抱えている。
それを知った時からずっと待っていた。ローが何かを言いたいような素振りを見せた時、それでも言えないのだと分かれば、言えるように、満足できるように誘導することもあった。言葉を探す顔をすれば話す時を待ち、決して遮ることだけはしないようにした。
そしてようやく自分の感情を伝えられた時、ローに対するいとしさはいつも驚くほどに強くなる。
「そうか」
それが嬉しいからだ。ローが素直に言えない理由である己の中の何かと戦い、ようやく見つけた言葉を言ってくれる瞬間がとても嬉しい。
俺に伝えたいから戦ったのだろう。探したのだろう。俺に伝えるために。俺のために――そう考えるだけで、どれほどいとしいとまた思うことだろう。
「俺も嬉しいよ」
上手く伝えられないことを不甲斐なく感じて真っ赤になっているローの頬を、グローブ越しに撫でる。
「お前がそう言ってくれて、嬉しいよ」
「……そうか」
頬を撫でる指を握り、ローは真っ赤なまま返事をする。言ったはいいもののどうしたらいいのか分からない、そんな顔だ。
「たまには良い。――ああ、いや」
真っ赤なローへのいとしさが止まらない自分をおかしく思い、笑いながら額に口付ける。
「いつもこうで良いんだがな」
「抜かせ、馬鹿」
「そう言うなよ」
額に、それから頬に唇を落とす。ローはくすぐったそうに身じろぎをしたが、離れようという素振りはなかった。
「神の子の前だ。たまにはいいだろう」
「……神の子の前でこういうことをするのはどうなんだ」
「したいからするんだ。素直に。何が駄目なんだ」
神の子の前じゃ嘘をつけねえ決まりなんだ、と言ってスモーカーは涼しい顔でまた口付ける。ローは真っ赤になりながらも――嬉しい、と思う。
神の子の前では。スモーカーはそう言った。だから甘えても良いだろうと決めた。
「……た」
「うん?」
「……キスしたかったから、したんだ」
神の子に甘えたのではない。神の子の前なら素直になっても良いと決めた、決めてくれたスモーカーに甘えて、言えた。
「執務室で?」
「そう」
「嬉しいよ」
唇に触れるだけのキスをされる。嬉しいと思う。
「それから」
「ああ」
「お前がもう休暇でいないと思ってたから」
「ああ」
「いるって聞いて、会いたくなった」
「嬉しいよ」
「そうか」
今度はローがスモーカーの唇を掠め取る。スモーカーが微笑んでそれに応じ、それも嬉しいとローは思う。
「……会えて嬉しかったし、今、キスできて嬉しい」
一度素直になってしまえば、後はこんなにも簡単に言葉を紡げるとは予想外だった。いささか言い過ぎていることも分かる。それでも止められない。言いたかったからだ。
スモーカーに、いとしい相手に感情を素直に伝えることが、こんなにも嬉しいことだとは思ってもみなかった。
「それから」
「ああ」
「それから――ああ、その」
どうしよう、と焦る。不意に唇から零れそうになった言葉に驚愕した。言ってもいないのにまた顔が真っ赤になったことが分かった。どうしよう、俺は何でこんなことを――
「だから……ああ、その、だから、いや、あの」
「ああ」
「だから」
「うん」
スモーカーがゆっくりとこめかみに口付けてくる。いつもなら離れる唇がそこに留まり、ローの言葉を待っているということを伝える。
言いたければ言えばいい。だから言おうと思う。それなのに、執務室でスモーカーにキスをした時よりも鼓動が激しい。こめかみに感じる唇の感触に甘えるしかなかった。この距離なら、とスモーカーの唇が教えてくれていた。
この距離なら、神の子にだって聞こえない。
俺たちにしか聞こえない。
だから言えた。
自分でも滑稽に思うほど、掠れるような声だった。
それでも言えた。
こめかみの唇が笑いの形になった感触を知る。
そして、俺もだ、と囁かれた。
嬉しいと思った。キスをしたくなった。抱き締めたくなった。
顔を上げ、それを全て言った。スモーカーを見ることが難しかった。急に恥ずかしさが増したのだ。だがスモーカーは真っ赤なままのローをからかうこともなく、俺もだよ、とまた言った。
「戻るか。寒いだろう」
「……そうだな」
「俺も寒い。戻ったらあっためてくれ」
咄嗟に言葉を返せないローの頬を軽く叩いて笑い、スモーカーが先に歩き出す。
ローは数度深呼吸をし、ようやく鼓動を収めることができた。へたり込んでしまいそうなほどに精神力をつかったような気がする。能力をフルで使った時よりも疲れた。だが嫌な疲労ではなかった。
見上げるまいと思っていた神の子の像を見上げる。
何も言うことはない。何も思うまい。今はまだ思い出すべき時ではない存在だ。
だがいつか、今日のこの日の感謝を伝えられる日が来るのなら、その時には素直に礼を伝えたかった。
あの日々の記憶を思い出すことは寂しいことではない、哀しいことではない、辛いことではない。
それを乗り越えられる存在を知っている。
今、心の全てを伝えた存在が傍にいる。
だからあの日々の記憶も乗り越えられる。いつかいとしめるようになる。
胸を張ってそう言えるようになった時、神の子に礼を伝えよう。
教会を出、先を歩くスモーカーに追い付いて並んで歩く。来た時と同様に風は冷たく、雪が降ってもおかしくないほどに寒い。
「そう言えば」
何となしにローは思い出す。教会での時間を続けるには既に照れくさくなる程度の時間は過ぎていたし、やはりローにとっては簡単なことではなかったからだ。
少しずつ、と自分に言い聞かせる。きっとスモーカーもそれでいいと思ってくれていると分かっていた。
「お前の替え歌は意外だった。”ひでぇ戦争が終わりゃ”」
「”軍隊から抜け出せる” ――海兵はみんな歌うぞ」
「へえ?」
「”軍服を脱いだらそりゃ幸せさ” ――ここ以外じゃ、神なんざクソッタレだ。もちろん神の子も」
先ほどまでの敬虔な祈りの姿を思い出し、ローはつい噴き出した。言うこととやることが違いすぎる。スモーカーにしては珍しかった。
「散々祈っておいて都合が良すぎるだろ。それじゃ祈りなんか蹴飛ばされるんじゃねえの」
「いや、俺はそれでも祈る。来年もな」
「都合のいいこった」
「言ってろ。案外、神の子もケチじゃねえってことが分かったからな」
「何だそりゃ」
スモーカーが足を止め、取り出した葉巻を咥えながら言った。
「この歳でもプレゼントをくれた。大盤振る舞いだろう」
「プレゼント?」
寒い中、グローブをつけたまま器用に葉巻に火を点ける。煙を軽く燻らせてからローをちらりと見、ふっと笑ってまた歩き出した。
「その歳でプレゼントって?」
「ついさっき、教会でな」
「え」
「こめかみにキスしたら、聞こえた」
ローはつい、足を止める。何だか背筋の辺りがむず痒くなるような予感に襲われた。スモーカーは構わず歩き続ける。煙か白い吐息か、判別しにくい息を吐きながら、それでも少し笑いを含んだ声がその唇から零れた。
「”あいしてる”」
一体何を言えるものか。ローは自分でもはっきり分かるほど瞬時に耳まで赤くなり、溜まりかねてその場にしゃがみ込む。
先を行く男が足を止め、振り返って意地悪く、だが明らかに、お前を愛していると分からせてくれる微笑を口元にたたえて言った。
「嬉しいよ」
もう何も言えない。しゃがみ込んだまま真っ赤になった顔を両手で覆い、ああもう、ああ、と意味のない呻きを漏らしながら、お前だって、と思った。
お前だって。
お前だって言ったじゃねえか。俺が言ったらお前は――
「俺もだ」
見透かしているかのように言われ、ローはもうどうすれば良いのかすら分からなくなり、結局スモーカーに立たせてもらうまで、真っ赤になってしゃがみ込んでいたのだった。
それでも、幸せだと思った。幸せだと思える自分がいることに驚いた。
教会で聞いた話。
伝えられたこと。
すべてがいとしい。嬉しい。
あいしてる。
またこの日に祈りに来るのなら、また共に来たいと思った。
そしていつか共に祈りたいと思った。
いつの日か、いつか、未来。
その日を、未来を夢見るほど、
愛している。