The Everlasting 01



軍のお仕着せの式典や、前線でのミサでは見たことがある。
だがその時はまるで初めて見たように思えた。
あの彼が、逞しい身体を丸めるように跪き、神の子の像に何かを祈っていた。
心から何かを祈っている彼を見たのは初めてだった。
どうして今日なんだ。
幼かった自分はそう訊いた。
彼は少し言葉を探してから、そして分かりやすく答えてくれた。
昨日は一番クソッタレな日だからさ、毎年ね。




神の子の生誕と言われた日の翌日の午後、港は閑散としていた。軍艦が少ないことに気付き、ああ、やっぱり休暇に入っているのか、と甲板から見たローは改めて思いつつ、冬の海風についコートの襟を抑え、首を竦める。雪が降っていないだけましだと思った。
補給のついで、一ヶ月振りにG-5の基地に足を運んだのは気まぐれに過ぎない。スモーカーに会うためではなかった。どうせもうあの男はとうに休暇に入り、故郷に帰っているだろうと思っていたのだ。図書館で勝手に本を失敬して帰るつもりだった。
「お、外科医。どうした」
「……いたのか」
「随分な言い草だな」
施設管理人のレイ少尉はローの意外そうな顔に笑う。
「もう休暇に入ったと思ってた。軍人なら月半ばには休暇になるもんじゃねえのか」
「海賊がよく知ってるな」
「セオリーだろ」
ヴェルゴがそうだったからとは言わなかった。ヴェルゴのことは伏せておけ、とスモーカーにきつく言われていたからだ。滅多にローに厳しい口調を向けないスモーカーにしては珍しく、ローは否とは言えなかった。
「この時期だからって、基地を空っぽにするわけにはいかねえからな。毎年ローテーションで休暇が遅い組が出るんだ」
そしてレイはにやりと笑った。かといって嘲笑ではなく、遊びに来た子供をあしらう笑い方だ。以前はローを苛立たせた笑い方だったが、今では諦めることができていた。海軍はそういう場所だ、と理解していた。
「スモやんは今日まで出勤だ」
不意打ちだ、とローは悔しくなる。この少尉はローが平常時、色恋事に咄嗟に対処できないことを見抜いていて、七武海であることをものともせずに不意にからかうことがある。
やや赤くなってしまったローを見て、レイはにやりと笑った。子供をからかうことに成功した、悪気のない、だが子供からすれば悪人そのものの笑い方だった。その笑い方にローはまた悔しさを覚える。
「知らなかった」
「そうかい。年内にもう一回会えてハッピーだろ?」
「ああ、お前に会えたことはとてもハッピーだ」
「嬉しいことを言ってくれるもんだ。新年にはお前さんが好きそうな本が入る、楽しみにしてるんだな」
「また来るかなんざ分かんねえよ」
「スモやんの休暇明けは10日辺りだったかな」
「Fuckin' you!」
ルフィたちの前では決して使わない汚い言葉で短く罵り、ローは図書館の奥へ向かう。場数を踏んだ軍人は本当に厄介だ、と、ここに来るたびに思うのだ。自分の顔が火照っていることも腹立たしかった。
特に目当ての本があるわけではない。軍事書のいくつかを選び、ぱらぱらとめくって中を確認する。
図書館の中には数名の利用者がいた。まだ勤務時間であり、大抵は訓練をしている時間のはずだが、時期も時期なのでだらけているのだろう。
それでも、スモーカーはあの執務室で書類を前に眉間に皺を寄せているのだろう――ローは思う。あの男はローが知るどの軍人よりも生真面目で、そして自然体で、好ましいことも好ましくないこともこなしていく人間だ。10代の頃から海軍に入り、現場から叩き上げで出世を続け、戦闘中や余程の時でなければ感情を大きく動かすこともなく、およその人間が想像するであろう、典型的な「軍人」だった。
それなりに上層部と衝突したり独善的な行動も目立つ男だということは過去にヴェルゴから聞いていた。だが結果的にはどんなにまずいことになっても、必ずクザンを始め、将官クラスの誰かがスモーカーをかばったり、取りなしたりするのだと言う。
――……まあ、今思えば確かにそんな風情だったな。
スモーカーがまだG-5に赴任する前、七武海として何度か顔を合わせている。スモーカーは特にローに興味を示すことはなかったし、ロー自身もスモーカーに対してはヴェルゴの過去の愛人という認識以上はなかった。だがそれでも将官クラスの男たちに気軽に声をかけられたり、それに応じたりする姿を見て、軍人独特の「可愛がり」の対象なのだろう、と感じたことがある。性的な意味ではなく、後輩を仕事抜きで必要以上に可愛がる文化は確かに軍隊に存在する。それでも佐官、そして将官クラスになってもその可愛がりが続くのは珍しい。軍の風習などろくに知らないローでもそれは分かった。
海軍でも上から数えた方が早い地位にいる男なのに、この時期にまだ休暇に入っていないと言う。普通なら上の者から早々に、神の子の生誕にかこつけて長期の休暇を取る時期だ。
その生誕の祭りも昨日終わった。ローには全く関係のない一日だったが、海軍のように生と死、正義と偽善が紙一重の場所に生きる者には大いに意味があるだろう。休暇を取り、家族と共に神の子の生誕を祝い、新年を迎え、平和で穏やかな日々を過ごすことは、彼らにとって年に一度の楽しみのはずだった。
興味を引かれた本を一冊持って、レイが常駐するカウンターへ戻る。レイは慣れた手つきで貸し出し作業を始めた。無論、ローが借りたという記録は残さないようにする。海賊が税金で買った本を持ち出しているという事実が好ましくない、とスモーカーが難色を示したからだ。日頃際限なくローを甘やかしているように見えるスモーカーだが、公が関わる場合だけはそうではなかった。かと言って本の管理を考えれば無断で持って行かせるわけにもいかない。そこでたしぎが機転を利かせ、スモーカーが借りたという記録にしておけば良いのではないか、と提案した。それについてはスモーカーは何も言わず、肩を竦めただけだ。だがそれが承諾の意思であることは誰の目にも明白だった。
私にひとつ借りですね、とたしぎがローに胸を張った日だ。無論ローは鼻で笑い、白猟屋に又貸ししておくさ、と答えた。
「ああ、そう言えば」
レイがふと思い出し、手続きをする手を止める。
「スモやん、夕方からちょっと外出になるはずだ。毎年この日はそうなってる」
「別に会いに来たわけじゃねえ」」
反射的に口から出たそれは丸きりの照れ隠しと強がりだったが、嘘でもなかった。むしろ今日、まだ休暇に入っていないことの方が意外だったのだ。
レイは「ふうん」と肩を竦め、手続きを終えて本をローに差し出した。
「まあ、大佐ちゃんは先週から休暇に入ったし、お前さんの相手をしてやれる奴がいねえ。スモやんが出かけても拗ねないでおとなしく待ってろってことだ」
「次に舐めた口きいたら、その口、縫ってやるからな」
「そいつは光栄だ、死の外科医御自らの手術を味わえるのか」
ああいえばこう言う軍人にほとほと嫌気がさし、ローは相手にしないことにしてその場を去る。要は勝てる気がしなかったのだ。無名の軍人も年輪を重ねれば厄介な存在になるのだ、とG-5と関わってから何度思ったか、数えるのも実に馬鹿馬鹿しい。


珍しい光景だった。スモーカーが執務室の来客用のソファで眠り込んでいる。普段はデスクで書類と睨めっこをしている男が、無防備に寝ている姿は意外もいいところだ。そう言えばスモーカーの寝顔をあまり見たことがない。朝まで時間を過ごしても、大抵はスモーカーが先に起きる。
眠っているスモーカーに近づき、じっとその顔を見た。色白であることは知っていたし、白く見える髪も実は白髪ではなく、北の産まれ特有の、色素の薄い金髪だということも知っていた。執務室の一面から降り注ぐ冬の陽光が乱反射し、普段は白く見える髪が青みががってすら見える。北の人間の中でも極端に色素が薄いのだ、とローは初めて見た時に看破していた。
睫毛が意外に長く、細い。そして白かった。身体中のどこもかしこも白い男だ。
顔の傷の由来を聞いたことはない。ただ、最初に俺が診ていれば、と何度思ったか分からない。――最初に俺が診ていれば、ここまでの傷にはならなかっただろう。診た医師の腕が悪かったのか、それともどこかの戦場で、きめ細かな治療などできない状況だったのか。
よく見れば細かい傷が身体中のあちこちにある。まだ彼をいとしいと思う前、今では決して口にしないような言葉でからかった。弱いからだろう、と。
血の気の多い軍人なら最大の侮辱に等しい言葉だ。挑発して怒らせたかった。七武海の招集で顔を合わせるたび、いつも涼しい顔をして自分をあしらう海軍の「軍人様」がどうにも気に入らなかったのだ。
だがスモーカーは怒ることもなく、おっしゃる通り、と答えただけだった。拍子抜けした次の瞬間、スモーカーの隣にいたヒナから感じた殺気で反射的に思い切り距離を取り、股間への蹴りを間一髪で避けたのは苦い思い出だ。
そしてそんな言葉で彼を侮辱しようとしたあの日の自分を、今では思い出すたびに軽蔑している。
過去の自分を軽蔑することは、スモーカーに出会ってからの経験だった。それまではどれほど後悔しようとも、軽蔑だけはしていなかったように思う。自分が絶対に正しい、間違ってなどいないと断言できることはない。反省をしないわけでもない。だが軽蔑や自己嫌悪という感情が産まれたのはスモーカーに出会ってからだった。
眠るスモーカーの呼吸は穏やかだ。少しだけ休もうと思ったのか、それとも他の用事でこのソファに座ったのか、ローには分からなかったが、冬の暖かい陽光に眠気を誘われ、抗い切れなかったというのは事実だろう。勤務中に居眠りなど普段のスモーカーからは考えられなかった。
ふと、規則正しく、穏やかな呼吸をする唇が目に入る。キスしたいな、と思った。そして我知らず赤くなる。赤くなったことそのものが恥ずかしくなる。いつまでも慣れない、どうして俺は――いつもそう思う。
キスをしたい。触れたい。会いたい。いとしい、愛してると言いたいのだ。いつでも。
それでも一体何が邪魔をするのか、素直に口にすることも、行動することもできはしない。どうしたらいいのか分からない。だから憎まれ口を叩き、後悔するはめになる。後悔するたびにスモーカーは怒りもせず、呆れることもなく、代わりにそれをローに与えてくれる。ローが会いたかった時には自分が会いたいと言い、ローがキスをしたかった時には自分がキスをしたいと言う。だからローはやっとスモーカーに会うことができるし、キスをすることができる。いつもそうだ。呆れられてもおかしくはないほど、そして自分で自分に呆れるほど、ローは恋愛に対して素直になることができなかった。スモーカーが呆れた素振りを見せないことが不思議なほどだった。
でも、今なら――不意に思う。今ならスモーカーは眠っているし、キスをした程度では起きない。そうだ、他に誰もいない。だから今くらいなら認めてもいい。――俺はスモーカーにキスをしたい。だから、してもいいだろう。
そう思った途端、心臓が勢いよくどくんと波打った。嘘だろう、と自分で驚くほどに鼓動が激しくなる。顔が熱い。耳まで熱い。嘘だろう。たかがキスひとつで、しかも実際にしたわけでもないのに。
唇を近づける。ガキじゃあるまいし。そう思った。思春期のガキじゃあるまいし、俺は何だってこんなに心臓が爆発しそうに――それでも唇が触れれば、それこそ嘘のように心臓が静かになる。
正確に言えば自分の行動に対しての驚きの鼓動はまだ残っていた。だがそれでも、見た目から想像するよりも柔らかい唇の感触を思い出し、スモーカーがまとういつもの葉巻の香りがローを宥めた。ああそうだ、俺はこの香りがとても――そう思った時だった。
触れただけのキスを、ぐいと頭を引き寄せられて深いものにされる。余りの不意打ちによろけ、スモーカーの真上に転んでしまいそうになるのを何とか堪える。だが他ならぬスモーカー自身にしっかり抑えられた頭と重ねられた唇は逃げられず、深く合わせた唇の奥でスモーカーの笑うくぐもった声が、振動になってローの喉に伝わる。繋がったような目眩すら覚えるその唇と振動の感覚に背筋がぞくりとした。
忍び込むスモーカーの舌は柔らかく、優しくローの唇と舌を虜にする。予想外の反応に反射的に身体を離そうとしたローを離さず、寝起きのキスにしては随分念入りなものになった。
ああ、やばい――ローが欲情を自覚しかける寸前、見計らったように唇が離れる。
濡れた唇に今度は触れるだけの軽いキスをした後、スモーカーが笑った。
「いつ来たんだ」
「……寝た振りかよ」
「お前がキスするまでは寝てた」
「馬鹿にしやがって」
「会えて嬉しいんだ、水を差すな」
その言葉と共に少し頬を撫でてやるだけで、臍を曲げかけたローの機嫌は良くなる。機嫌を取るというほどの苦労もなくローの機嫌を良くできる男など、おそらく世界でスモーカーだけだろう。
「結構寝てたな。こんな時間か」
予想以上に時計の針が進んでいたことを知ったスモーカーは、苦い顔をしてデスクに戻る。容赦のない量の書類がそこに鎮座していた。それに手を付ける前にまず葉巻を咥える。少し減らすなりやめるなりさせねえと、と窓際の指定席に座ったローはつい思った。医者の目からすれば明らかに度を超している。
「夕方から外出だって?」
「何で知ってる」
「管理人に聞いた」
「図書館に寄ったのか」
「ああ」
「夕方って言っても18時だけどな。外出からの直帰の予定だった」
葉巻を燻らせてから一枚目の書類にサインをする。ペンが紙を滑る音がいやに鋭く聞こえた。
数枚ほどそれを繰り返してから手を止め、ローにぽつりと声をかける。
「お前も来るか」
「仕事だろ。俺がいていいのかよ」
「私用だ」
「――へえ?」
意外に思い、本を開きかけた手を止めてスモーカーを見る。生真面目を絵に描いたような男が私用で外出など珍しいことこの上ない。しかもレイの話が正しければ毎年決まった行動ということになる。
「どこに?」
「教会」
ローが返事をする前に、また紙の上をペンが滑り始めた。
その音に遮られたような気がしたローは、行くとも行かないとも、返事をすることができなかった。