すぐに音を上げるだろうと思っていた。腕に多少以上覚えのある国主が、素振りを百回などという初心者同然のことをやれと言われれば、それは面白くないはずだ。実際、晴久の剣の腕は国主の立場としては相当立つという話が流れているし、小十郎自身、実際に見たことがある。
有名な流派ではなく、晴久が自分の性に合う流派の剣を使っているようだ。身軽な晴久には適した、力よりも「流す」剣筋だった。あの砂の陣地で戦うには良いのかもしれないと、剣士として、そ して軍師として小十郎は思う。
晴久は無言で素振りを始めた。姿勢は悪くない。さすが腕が立つだけあって、振り抜く時のぶれがない。生半可な腕の者ではぶれてしまうものだ。
だが小十郎は、晴久が少しでも倦んだり、疲労した様子を見せればすぐに素振りをやめさせるつもりだった。甘やかすつもりはないが人目がある。重要な素振りだが、素人には分かりにくい。疲労から身体がふらつきでもしたら、暇な領民たちのいい笑いものになってしまう。たとえ他国とはいえ、国主をそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
──そんなことになったら、きつがどれだけ怒るか分かんねえしな。
夫としては複雑ながら、この青年に恥をかかせれば妻は怒り狂うことだろう。一度怒ると小十郎でも手が付けられない。それだけは御免被りたかった。
素振りは時間がかかる。木刀は見た目より重く、一振りごとに相当な体力を使うからだ。
小十郎が驚いたのは、晴久が思った以上に一振り一振りを丁寧に振っていることだった。
二十回ほど振ったところで、晴久が軽く息を吐く。額に僅かに汗も浮き始めた。
そろそろやめさせよう、と小十郎は決めた。どのような癖があるのかは分かったことだし、後はそこを丁寧な言葉で指摘すればいい。
「守護代」
人目がなければ「晴久殿」だが、道場の周囲に人が集まって覗いている以上はそうもいかない。城下街にあるこの道場ではなく、片倉の邸の道場にすればよかったな、と、今更ながら後悔した。
晴久が動きを止め、ちょうど青眼の位置で構えたまま小十郎を見た。
その目に、小十郎は自分の考えが浅はかなものだったのだと知る。
疲れた、飽きたという感情はどこにもない。一人の剣士として、自分よりも格上の剣士から与えられる助言を待っている目だ。
「……その振りは、嗜まれる流派のものか」
晴久が木刀を片手に持ち替え、息を吐く。
「いや。元は尼子に代々指南していた流派の」
「守護代の代で変わったのか? 指南役が?」
「変わってはいねえけど、俺は離れた。一族はまだそっちだ」
「なるほど」
晴久を知れば知るほど、吉が可愛がる理由が分かるような気がする。気負うことなく自然に自分に必要なものを選び、だが歴史を軽んじることはない。出雲が晴久の代で大きな発展を遂げているのはこの柔軟性にある、という評価が日の本に浸透しているのも理解できた。
「なるほど」
「で、何か気になったこととかあれば言ってくれねえか」
「──振り抜きの直前に、たまに軸がぶれる。もしかすると、今の流派では基本をあまりやらなかったのか」
ふむ、と晴久は考えるような顔をした。しばらく考えてから口を開く。小十郎は晴久とこの数日一緒にいて、これは晴久の癖のようなものだと理解していた。
「そう言われればそうだな」
「なるほど」
「直前ってことは、この時──」
晴久が再び構え、一振りしてみせる。小十郎は気になった点を指摘し、晴久は素直にそれを聞いた。
剣士二人は衆目を気にすることを忘れる。完全に小十郎が師となり、晴久が弟子となる。
覗き見している領民たちは、やがて小十郎の方が偉いのだと錯覚し始めた。小十郎様は他国の国主に指南するほど偉いのだ、それに比べて出雲の国主は──
「あれ、ま。晴久もよう分かっていること」
吉が領民たちの後ろから現れたのはその時だった。驚いた領民たちは慌てて畏まるが、吉は唇の前に人差し指を立て、「しィ」とやってみせる。
「旦那様と晴久の邪魔をしてはならぬ」
その声も小さなものだったので、領民たちはまた静かになった。
「きつ様、出雲の国主さんとお知り合いなんですよね」
吉に目をかけられている小女がこそりと言う。小さな声だったが、周囲は聞き耳を立てた。
「ん。織田の家と、ナ。尼子は縁があるゆえ」
その縁を結んだのは自分だが、それは言っても詮なきことだ。
「晴久はわらわの弟のようなもので、ナ。昔から剣の腕が立つのだえ」
「確かに凄い剣士様みたいですけど、でも、これじゃまるで」
小十郎様がお師匠様のよう、と小女が囁く。周囲も同意の顔をした。
吉はくすくすと笑う。
「旦那様が晴久より優れた剣士であらっしゃるのと、晴久がそれを素直に認めて、より強くなりたいと思うておるからであろ。国主の立場で、中々できる心構えではないのだえ」
吉の言葉の意味を理解した彼らは、道場の中の晴久を見る。それがたちまち好意的なものに変わることを確認し、吉は「晴久でなければ貸しにするところ」と心の中で呟いたのだった。
二人の剣士はもはやそんな視線に気づかず、同じ道を歩む者にしか分からない時間を過ごし始めている。
吉はやや面白くない気分にもなったが、大人げないと分かっているので顔にも出さず、領民たちに微笑みかけると静かにその場を離れたのだった。
「ほんに」
目当ての紙屋へ向かって歩きながら、吉は溜息をついた。
「旦那様も晴久も、あれでは夕餉を忘れて剣を振るわ」
「──きつ様!」
背後から騒々しく、しかし華やかな賑やかさで幸村が駆けて来た。吉は立ち止まって振り返り、微笑してみせる。
「気づいたらお邸におられませぬで、幸村、大層驚きました!」
今は独り歩きはおやめ下さい、と幸村にしては小さな声で付け加える。吉は肩を竦めた。
「退屈でたまらぬのだもの」
「ああ、晴久殿が右目殿を独占してらっしゃるからですね」
悪気も厭味もからかいもなく言うものだから、吉は「下の弟」に苦笑するしかない。よく言えば飾り気のない、悪く言えば単純馬鹿。だが吉はこの幸村が可愛くてならない。
幸村と晴久が、だ。
晴久はまだ少年の頃から知っている。出雲の国主として、自らの能力をどう示せば良いのかと悩んでいた時からだ。自由を望む少年の夢と政を司らねばならぬ立場の間で煩悶していた姿をずっと見ていた。だが稀に会うたびに驚くほど成長していて、やがて出雲に過去にない発展を齎すまでになった。
「……あれはいつ、だったかえ。安土の頃であったろうか」
「何か仰いましたか、きつ様」
「ん、──そろそろ、ナ。太助の団子屋が開く刻限ぞ。参ろ」
「喜んでお供いたします!」
俺は天下は無理だよ。晴久はそう言った。
今でも覚えている。
二人きりで茶を立てていた時のことだ。
団子屋で道場の話を聞き、幸村は少しばかり拗ねてみせた。それがしもご一緒しとうござりました、と。だが吉の供もまた幸村にとっては嬉しいことなので、本格的に気分を害したわけではなかった。
「それにしても晴久殿は、素晴らしい方であられますな」
市で評判の団子を頬張り、幸村がしみじみと言う。吉は首を傾げた。
「それがしと大きく歳が違うわけでもなし、それなのに。出雲を磐石にされ、良い政を敷いてらっしゃる」
「あれ、ま。ゆきも政に興味が出たかえ」
「──と、お館様が仰っておらたのです。受け売りでお恥ずかしく」
照れたように鼻をかく幸村に、吉はつい笑ってしまう。
なあ、きつ。
俺さ。
結局、砂と風の中から、出られなかった。
「……ゆきは」
「はい」
「良い主君を持った、ナ」
「──はい!」
満面の笑みを見せる幸村に、吉は心から深い微笑を返す。
この子はこれでいいのだ。そう思いながら。
出られる奴は、一握りだ。
きつみたいな器がある主君か、
自由にさせてくれる主君を持つ、幸運な部下か。
そんな奴らだけさ。
俺は出られなかった。
せめて、
幸運な部下を増やしてやりたいんだ。
だから天下は諦める。
出雲を安定させるよ。
何が起きても大丈夫な国にする。
それこそ、織田が倒れてもな。
だから俺は、
天下を降りる。
「ゆき」
「はい」
「旦那様と晴久より早く、帰ろ」
「道場に寄って、ご一緒に帰られればよろしいのに」
吉は静かに首を横に振る。
「少うし、昔の話をしてもよいかえ。誰ぞに話しとうなった」
「──ええ、お聞かせ下さい」
幸村は躊躇ったが、そう返事をした。そういう話は右目殿となさるのではないですか、と訊きたい気持ちを堪えた。何となく理解した。昔の話──吉がいまだ、尾張か安土で魔王と呼ばれていた頃の話だろう。そう直感したのだ。それならば夫に話したくないことかもしれない。
「ただ、きつ様」
「ん」
「それがし、物覚えが悪く。お話頂いても、すぐに忘れてしまうやもしれませぬ。その際はお許し下さりますか」
吉は答えなかった。
答える代わりに眉をひそめ、笑ってみせただけだった。
その笑い方で、ああ、すぐに俺は忘れてしまうだろう、と幸村は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
夕餉の時間をだいぶ過ぎ、二人の剣士が帰って来た。
吉は呆れ返った顔で幸村を従えて出迎え、刻限を守らねばだめではないの、と晴久に小言を言う。晴久は分かったよ、ごめんね、とまるで実の姉のように吉をあしらい、小十郎を感心させる。
「おまえさまも」
「──晴久殿はかなり腕が立つな。つい時間を忘れちまった」
「おまえさま、今はそういうお話にあらず──」
「さすがお前の弟だ。出雲が磐石なのも納得した」
「晴久だもの」
我がことのように誇らしげな顔をする妻に「飯だ」と言い、小十郎は廊下を歩く。今の遣り取りだけでだいぶ機嫌をよくした吉はその後を歩き、何くれとなく夫に話しかけ、うまく妻をあしらった小十郎は頷きながらそれに付き合う。
晴久もそれに続こうとし、ふと、立ち尽くしている幸村を見た。
「きつの護衛、してくれてたのか。一日任せて悪かったな」
「──いえ、楽しき一日で」
そうかい、と晴久は言いかけ、口を閉ざす。
それからじっと幸村を見た。幸村は思わず息を呑む。
初めて、出雲守護代の顔をした晴久を見たと思ったからだ。
「何かあったな」
「いえ、何も」
幸村は背中に冷たい汗を感じる。態度に出ていただろうか。確かに取り繕ったり、嘘をついたりすることは苦手だ。
だが、まさか一瞬で見抜かれるとは思わなかった。
晴久は黙る。幸村も何も言えない。
沈黙に幸村が耐えかねた頃、晴久はようやく口を開いた。
「言わねえなら興味ねえ」
「さようでござるか」
「これだけ訊かせろ。きつに関係あるのか」
幸村は言葉を探す。こういう時、自分が多くの言葉を知らないと思い知るのだ。
素直に、少しだけ言うことにした。
この「出雲守護代」なら分かってくれると思ったからだ。
今日、吉がぽつりぽつりと話した、この出雲守護代なら。
「晴久殿が、安土で織田上総介信長公に──天下を降りると仰った時のお話を覗いました」
晴久はじっと幸村を見た。その視線が為政者としてのものなのか、それとも違うものなのか、幸村には分からない。
分からないまま、晴久を見返した。
やがて晴久がふっと笑う。
その笑い方は眉をひそめて笑った時の吉と全く同じもので、だから幸村はまた何も言えなくなる。
──忘れるだろう。
また、心の中で呟いた。
晴久が囁くように、唇から声を零した。
「やましいことなんか、何もなかった」
──忘れるだろう。俺は忘れるだろう。
「でも──旦那さんには内緒にしといてくれ。斬られちゃたまんねえ」
敢えておどけた口調で付け加え、晴久は歩き出した。
幸村は追うことができず、ただ立ち尽くす。
「もう」
遠ざかる背に届いたかは分からない。
それでも呟かずにはいられなかった。
「忘れた」
恋慕など知らぬ。
知らぬ振りをして生きている。
だが確かに、そんな恋慕もあるのだと、あったのだと、知った。