砂と風の無何有に



城下に騒動なし、今日も平和。
騎馬隊からの定時報告を受け、小十郎は頷いておく。
そろそろこういった連絡関連は、自分の下の若者たちに全て任せてしまって良いかもしれない。連絡形態を確たるものにし、各部署に割り振って行くことは、これからの伊達軍が成長して行くには重要だ。
「ああ、そういえば」
報告に来た騎馬隊の青年が言った。重要な話ではなく、どこかしら小十郎を揶揄するような顔だ。
「奥様が市にいらしてましたよ」
「そうか」
わざわざの報告に小十郎は苦笑する。自分では意識してのことではないが、愛妻家と言われる自分への気遣いに戸惑うこともあった。
「一昨日もいらしてましたよね」
「茶会が近いからな。晴久殿と真田を連れて出かけてばかりだ」
「ああ、今日は出雲の守護代さんとお二人でしたけど──」
言ってから、青年は「しまった」と言う顔になった。どんな男でも自分の妻が男と二人きりで出歩いている、という話は面白くないはずだ。だが小十郎の顔に一切の悪感情が浮かばなかったので、ほっと胸を撫で下ろし、やっぱり小十郎様は器が違う、と感動さえ覚えたのだった。
「真田も国元と色々あるだろうしな。そう頻繁には出られねえだろう」
「出雲の守護代さんって、奥様の古いお知り合いでしたっけ」
「──信長公と懇意で、その関係だな。姉弟みたいなもんだ」
小十郎は改めて二人のことを思い出し、確かにそうだな、と自分の言葉に納得した。吉は心底、晴久を弟として扱っている。晴久も男としてではなく、完全に弟の顔をして吉の傍にいた。二人のやり取りもまさに姉弟だ。
城下の人々もそれが分かるから不埒な噂を立てないのだろう。本来であれば不名誉な噂が立ってもおかしくない、人々の好奇心を集めるには格好の身分だと言うのに。
──そこは晴久殿が巧い、というのもあるだろうな。人の印象を操作して足元を固める術に長けている。
為政者の補佐として、小十郎は晴久を観察しては感心することが多い。決して政宗を貶めるつもりもなく、劣っているとも思わないが、確かに現時点では一枚も二枚も上手の国主だと感じていた。
片倉家に滞在している姿を見ても、幸村を弟分としたのは自然のことではなく──幸村が気づいているかまでは小十郎には分からなかったが──意図的なことだった。そうすれば吉の前での関係が分かりやすくなり、晴久自身も幸村も、何よりも吉が過ごしやすくなる。
家の中の関係など小さなことだ、と言う者もいるかもしれないが、小十郎はこういった小さなことを何よりも素早く片づけた晴久を高く評価していた。長く過ごす場所で足元を固める。確かに家の中のことと考えれば小さく思えるかもしれないが、例えばこれが戦場だと考えれば? 国内の政治の安定基盤に関わる部分だと考えれば? まず始めに何をするか? ──まさに「足元を固める」ことこそが重要だ。
小十郎は政宗にこの話をしたことはない。政宗から求められない限り、晴久についての話を特にすることもない。政宗は概ね、幸村の動向を気にする。幸村に並々ならぬ心を抱いている政宗としては仕方のないことだろう。
そして政宗は晴久を気にしていないわけではない。むしろある意味では幸村よりも気にしている。
俺、思うんだけど。──不意に小十郎に言ったのは、晴久が城に突然訪れた後のことだった。

──尼子のやり方、魔王だった頃の姐さんにすげえ似てる。

それは小十郎も思ったことだった。魔王時代の吉──織田上総介信長の政を間近で見た経験はほとんどないが、諜報活動や稀に見る姿で感じていた。

──あれだけで何が分かるかって言われたら、俺、分かんねえけど。でも似てる。聞き慣れない言葉で相手を翻弄するとか、そういうレベルじゃなくて。でもとにかく似てるんだ。姐さんを相手にした時みてえな恐怖感はなかったけど──

気を抜いたら食われるって、俺は思った。

政宗はそう言った。小十郎は敢えて肯定も否定もしなかったが、政宗が稀有な君主であることを実感したのは確かだった。
魔王を真似て、と晴久を謗る者もいまだにいる。だが政宗はそうではなかった。
似ている。だがそれは模倣に非ず、出雲守護代の能力だと肌で感じ、素直に認めた。

気を抜いたら食われる。それは確かだろう。小十郎も家の中で稀にそう思うことがあった。
小十郎の前でも吉の前でも、晴久は特に態度を変えることはない。小十郎に苦言を呈した時ですら、吉に文句や小言を言う時と変わらなかった、と小十郎は感じている。
それでも──稀に、ごく稀に感じる瞬間がある。

気を抜いたら食われる。
気を抜いたら。
気を──

いいや。
小十郎は思った。

いいや。
気を抜いたら食われる、なんてもんじゃねえ。
俺の場合は──


潰されるだろう。


家に帰った時間は遅かった。吉たちは既に夕飯を終えている。
「お帰りなさいまし」
「ああ」
出迎えた妻に笑顔で応じ、一日の話を聞きながら廊下を歩く。
「今日は、ゆきが信玄坊主に手紙を書くからと。ゆえに、晴久と二人で市に」
「ああ、騎馬隊の奴がお前たちを見たって言ってたぞ」
「そ。それで、茶のお道具の──」
話をしながら小十郎は夕飯を食べ、吉の表情が明るいことに気づく。晴久と幸村が来てからはこんな顔になった。使用人たちがいるとはいえ、やはり昼は一人を感じることが多いのだろう。寂しくねえならいいさ、と小十郎は思っていた。
──弟二人が家にいりゃ、そりゃあ寂しくねえだろう。
それなら構わない。そう思っていた。
そう思うことにしていた。
「お、旦那さん、お帰り。気づかねえで失礼」
「お帰りであられたか。御無礼仕った」
吉に用事があったのか、晴久と幸村が連れ立って現れた。身分の割に気さくな口をきく二人に、小十郎も挨拶を返す。国主と城主に帰宅を気にされるのも不思議な気分だな、と毎回思う。
「きつ、紐貸して。着物の古い紐」
「古い紐?」
「真田が素襖直垂で歩くのがほんっと駄目で。借りた源爺さんのも駄目にしちまうから、紐でこいつの普通の着物縛って練習させる」
「そ、そこまでおっしゃらなくても良いではござらぬか……!」
「あれ、──あァ、あれ。旦那様が召し上がられたら出してやろ」
これもとんでもないことなんだがな──いい加減慣れたと言えば慣れたのだが、小十郎は内心で深く溜息をつく。
「俺はいい」
「そうも参らず」
吉からすれば晴久も幸村もあくまで弟。夫よりも優先するなど思いつきもしないだけだ。だが小十郎としては胃が痛くなる。いいから早くしろ、と急かすと、吉は渋々立ち上がった。
「上にしまったの。わらわでもおこうでも届かぬわえ。男衆はもう休んでおるし、晴久──」
「あ、それがしがお手伝い申し上げます」
「そ。ありがとう、ナ」
城主を手伝いに使うな、俺が行く、と小十郎は言いかけたが、言ったところで吉には理解できないし、説明するのも時間の無駄だ。幸村も「自分が手伝うのは当然」という顔をしていたので放っておくことにした。
はからずも晴久と二人になったことに気づく。互いにあまり話すこともなかった。晴久は吉の前ではそれなりに喋るが、その他では割合寡黙なのだ。小十郎は最近知った。
昼に妻の護衛をしてくれている男に無言を貫くのも失礼だ。世間話を振ることにした。
晴久はそれに応じ、当たり障りのない会話をする。
しばらく話し、小十郎は不意に気づいた。
──……沈黙しないように話を操ってるな。
つまりは話術だ。一度話を始めた以上、吉が戻って来るまでは沈黙が産まれることは有難くない。気詰まりな空気を感じれば、戻って来た吉は気にしてしまうだろう。
小十郎は苦笑にも近い笑いを漏らしてしまった。すると晴久が低く笑う。
「旦那さん」
「ああ」
「伊達が羨ましいよ」
「政宗様が?」
「旦那さんみたいな人が片腕にいる国主って、そうそういねえよ」
「評価が高くて光栄だが、少し買い被りが過ぎてるぜ」
笑うことで話を流そうとしたが、晴久は笑わなかった。
「俺もさ」
「うん」
「旦那さんじゃなきゃ、片倉小十郎、出雲に欲しかったなあ」
「──意味が分からねえな」
俺は片倉小十郎だが、と首を傾げる。晴久は扇子を出し。僅かに開いて口元を覆った。女の仕草とされるものだが、小十郎は知っている。歴史のある国の上流階級では、男でもする仕草なのだ。──扇子が女物である、ということを除けば。だが晴久が持てば軟弱には見えなかった。
──生まれの違いだな。きつに近いわけだしな。
俺や政宗様では流石に無理だ、と想像して難しい顔になりかける。
晴久が言った。
「いや、ほら。片倉小十郎って、すげえから」
「……褒め殺しならやめてくれ」
「心底。真面目に出雲に欲しかった」
「……そうか」
曖昧に頷いておくに留める。急にこんなことを言い出した晴久に僅かな不審感を抱いた。自由奔放なように見えて、常に言葉を選んでいる晴久にしては珍しいことだ。
「でも、諦めるしかねえよな」
「──そうしてくれれば有難い」
片倉小十郎は伊達政宗のものだ。晴久が分かっていないはずがなかった。
だが晴久は全く違うことを言った。
国主としてではなく、普通の青年の顔で。
小十郎が驚くほど、それは普通の青年の顔と声だった。

「俺、旦那さんのこと嫌いだしな」

ああ、これだ。小十郎は思った。
稀に感じること。

潰される、と思う瞬間だ。

重圧ではない。憎悪でもない。
今、分かった。
これは単純な嫌悪だったのだ。

「そうか」
「うん。別に旦那さんが劣ってるとかそういうことじゃねえけど。好きじゃねえ」
「なぜだ?」
扇子の影で晴久が笑ったことが分かる。だが目は笑っていない。本音だと知らしめる目だった。

「きつが惚れ過ぎてて、むかつく」

単純な嫌悪だった。
いや、それは嫉妬じゃないのか、と誰かが言うかもしれない。それは嫉妬じゃないのか。嫉妬だろう。出雲の守護代は過去、魔王が好きで──
違う。
小十郎は理屈ではなく、本能の部分で理解していた。
これは単純な嫌悪だ。晴久は受け容れられないのだ。
姉の夫という存在を。
その夫が、晴久が姉の夫に求めるほどの身分ではなかったという事実を。
それでも、その夫の傍で姉が幸せそうに笑っている姿を。

「何とも」

小十郎は苦笑混じりに呟いた。

「俺には、どうにもできねえ」
「そうだな。俺にもどうにもできねえ」

潰される、と思う理由が分かった。
晴久は吉が小十郎と拗れるようなことがあれば、再三口にしている通り、すぐさま出雲に連れ帰るだろう。冗談のように言うこともあるが、それは常に本気なのだ。

きつを。
姉貴を。
不幸にするなら許さない。
不幸にするなら潰してやる。
きつが泣いても怒っても、俺は──

「……潰す、か」

小十郎の呟きに、晴久は僅かに声を立てて笑う。
「御察し?」
「隠し切れてねえ瞬間も、まあ、たまにな」
「そうか。俺もまだまだだなあ」
「普通なら分からねえさ」
「お流石で」
晴久が扇子を閉じ、流れるような所作で胸元に仕舞った。
「本当に、片倉小十郎──欲しかったよ」
小十郎は答えず、閉じてある障子の向こうへ目をやった。吉と幸村が楽しそうに話ながら帰って来る気配を感じる。あれも弟だ。そう思う。あれも妻の弟だ。
晴久と幸村が、吉と昼間過ごすことには本当に何も思っていない。吉の無聊が慰められるのならば歓迎すべきことだ。
だが──今日、晴久と二人でいたという話を聞いた時、思ったのだ。

厄介だ、と。

姉を想い過ぎる弟は本当に厄介だ、と。

「肝に銘じるさ」
小十郎は言った。
「迂闊は出来ねえ、ってな」

姉の夫が失態を起こせば、いつでも。
姉の夫に相応しくないと思えば、いつでも。
この「弟」は、夫に対して牙を剥くだろう。
それほどまでに晴久にとって、吉という存在は大切なのだろう。
だが分からないこともあった。
なぜそこまで、吉を想うのか。恋焦がれての想いでないことは小十郎にもはっきりと分かる。男が女に抱く恋慕ではない。
では、なぜ──

「……晴久殿」
「ん」
「なぜ──」

なぜ、そこまで。
そう言おうとして、やめた。踏み込んではならぬのではないかと、冷静な自分が言った。
晴久はしばらく小十郎を見ていたが、やがてふっと笑った。
ああ、と小十郎は思う。
──ああ、俺は知ることはないのだろう。晴久殿の口から聴くことも、きつの口から聴くこともないのだろう。
晴久の笑い方を見て、そう思った。
眉を顰めた笑い方は、全ての感情を押し殺し、問いを拒否する時の吉と同じものだった。
「旦那さん」
「……ああ」
すまなかった、と小十郎が告げようとした時、制するように晴久が言った。

「旦那さんの主君には、天下を降りるなんて言わせるなよ」

初めて、晴久の言葉の意味が分からないと思った。
どういう意味だ。そう問いたかった。だがこれも冷静な自分が止めた。
小十郎の沈黙に感謝するように、晴久が呟いた。
「それだけは、頼む。──姉貴の旦那の主君に、味わわせるわけにはいかねえから」

──主君が天下を降りる、その惨めさを。

何も言えなかった。
何を言えるだろうか。

天下を降りる。
思い出した。
出雲の国主が安土に出向き、出雲は天下獲りを降りる、と宣言したという話を。

不意に理解した。
晴久が持つもの、政宗が持たぬものを。

二度と挽回出来ぬと知った時の、
自らの能力の限界を知った時の、
絶望というもの。

「晴久、これでよいかえ」
「おそらく、これで揃いと思いますが──晴久殿、検分を」
障子が開き、吉と幸村が顔を出す。幸村は両腕で幾つかの小箱を抱えていた。
「ああ、ありがと」
「足らぬなら、またお言い」
「うん」
「あれ、おまえさま、お食事が進んでおられぬではないの。──晴久、旦那様のお邪魔をしてはならぬと──」
「旦那さん、話が面白ぇんだもん」
「それにしても」
「ああ、分かった、退散するよ。ごめんごめん。真田、行こうぜ」
「あ、はい。きつ様、お休みなさいませ。右目殿も良い夜を」
箱を持ってさっさと部屋を出た晴久に慌て、幸村は普段よりもやや早口で二人に挨拶をすると、ばたばたといつも通り騒々しく晴久を追う。お前うるせえよ、と晴久が言ういつもの声が聞こえた。
「おまえさま」
吉が小十郎の杯に酒を注ぎ、静かに言った。
「何ぞをお話に」
「世間話さ」
「……ほんに、御迷惑を。お許したもれ」
「何がだ」
「──あの子は、少うし。捻くれてしもうていて」
小十郎は暫し沈黙し、それから僅かに苦笑した。
吉も分かっているのだ、と小十郎は知った。
分かっていながら口にはしない。弟を諫めることもない。
それは姉と弟の間にだけ存在する、小十郎は知ることのない理由なのだろう。
「……構わねえさ」
「でも」
「いいんだ」
いいんだ。小十郎は言った。

俺を嫌いだと言うことも。
何かあれば俺を潰すと決めていることも。
それは全て──

「……お前を守りたいんだろう」

絶望を知った後も、傍に居続けてくれた女を。

政宗に天下を降りさせるなと言った意味も、分かる。
主君が天下を降りること。この時代、家臣にとってもどれほどの屈辱なのか。どれほどの絶望なのか。
夫が絶望に打ちのめされれば、吉は哀しむだろう。
晴久はただそれだけの為に、政宗に天下を降りさせるなと小十郎に言った。

「いい弟だな」

吉は微笑んだ。
眉を顰めて微笑んだ。
小十郎も微笑み返す。

その笑い方が妻と同じものだと、自分では気付けなかった。