01. 突然、視界に飛び込んで来た君
いつも持ち歩いているが、特段大切にしているわけではない。使う時は使う。
今日は少し暑い。
だから普通に使う。
今日こそ縁談を、と勢い込んでやって来た老臣は、晴久の手にあるものを見て溜息をつく。
「また明日にしましょうか。明日は涼しくなるとよろしいですな」
そうかい、と晴久は呟き、薄桃色の小花柄が舞う紅い扇子でぱたぱたと老臣を仰いでやる。
老臣は本気で嫌そうな顔をした。
気が乗らない縁談避けには充分すぎる。
あの日、砂丘に舞い降りた天女の扇子。
その天女は今、安土の魔王。
02. ドアを蹴破って
今でも家臣たちは稀に思い出し、囁きあう。
あの変化は本当に突然だった。家臣たちは老いも若きも日頃の対立を忘れ、主君の変わりように首を傾げ合ったものだ。
ろくに意思表示ができなかった晴久が、突然喋るようになった。
思考をまとめる必要がある時は「少し時間をくれ」と言ってから考え込み、それから理路整然とした回答を導き出す。
封じ込んでいた扉を勢いよく開いたかのように、出雲の過去、今、明日を見据えて言葉を発する。急激に家臣の信頼を得るようになる。
その手にあるのは紅い扇子。
閉ざしていた扉を開いた女がくれたもの。
03. 砂糖菓子のような笑顔
短い手紙が届いた。
今まで送られた手紙の中で、一番短いものだったかもしれない。
傍で見ていた世話役の侍女が、思わず顔を赤らめる。
晴久が恋文を読んでいるのではないかと思ったのだ。
「よかった」
晴久は我知らず微笑んでいた。
よかった。
本当に生きていた。
驚いた。
それから。
驚くほど素直に、嬉しい。
「奥州に結婚祝いを贈る。銀山の責任者を呼んでくれ」
初恋の君の幸福が、これほどいとしく感じられるものだったとは。
04. いつのまにか
縁談はないのかえ、と天女が言う。
あるよ、と答える。
「あるけど、今んとこ吟味中なんだ」
「ほうかえ。好きなのはおらぬの」
「ああ、いるけど、無理な相手だし」
男だもん、とさらりと言うと、人妻の天女は肩を竦めた。
「あの陸蓮根(オクラ)かえ」
「陸蓮根って──何で分かるんだよ」
晴久は苦笑する。陸蓮根という言い草も酷いが、すぐに言い当てられたことにはお手上げだ。
「昔、安芸に共に参ったではないの」
「俺は行きたくなかったけど、きつが行きたいから連れて行けって言ったんじゃねえか」
「忘れた」
「ああそう?」
「陸蓮根に会った時、晴久はまァ、嬉しそうに嬉しそうに」
「──嘘だ、忘れてるって言っただろ」
いつの間にか、こんな話をするようになった。
いつの間にか、天女以外の誰かを欲しいと思うようになっていた。
05. いてくれてありがとう
出立の時間だ。家康が会談場所に指定した地まで数日かかる。
天女が輝夜の月の影に隠れてほどなくして、太陽が出雲を見た。
話をしようと言う東の太陽が、出雲を照らすか、焼き尽くすか。
どうなるかはまだ、分からない。
それでも思う。
あなたがいたから。
あなたのお陰で。
俺はここまでになれました。
ありがとう。
「晴久様、お忘れ物が」
家臣が紅い扇子を差し出す。
「ああ」
晴久は笑った。
「置いて行く」
ありがとう。
子供だった俺のそばに、ずっといてくれて。