01. 静かに首を振って
「竹千代」
「はい、きつ殿」
何を言ったのかもよく分からなかった。
何てことを言ってしまったのだろうという、自分の焦った感情だけは分かった。
家康は吉が溜息をつき、脇息にもたれる姿を見る。
「面白うない冗談はおよしたも。面白い話がないならささと失せ」
「──きつ殿には、かなわないな」
苦笑いをする振りをして安堵する。
言ってしまったことをようやく思い出し、珍しく自分の言を後悔した。
もしもあなたと夫婦になれば、などと。
02. てのひらで押さえた唇
邪魔だ、話すな、と言わんばかりに押しのけられる。
身体を押しのけるどころではない。てのひらで顔を押された。
昔であればともかく、今では珍しい吉の無作法に、周囲がさすがに驚いた顔をする。
だが家康は分かっていた。
吉は自分に言葉を発することを禁じたのだ。
最近、こんなことが多くなった。
馬鹿正直に溢れそうになる思慕を口にしてはならぬと、唇に触れたあの白いてのひらが告げていた。
03. 頼むから黙って
珍しく吉がほんのひとくち酒を飲み、普段よりも陽気になっている。
周囲を取り巻く家臣たちは彼女の酒の弱さに驚きつつも、次々と投げられる軽口や、普段にはない女ならではの優しさに歓喜する。
口が軽くなった吉が言った。
「竹千代にもいずれ嫁御を、ナ。わらわが良い相手を見つけてやろ」
僅かな逡巡の後、家臣たちはどっと笑った。家康のために笑う努力をしていることは明白だった。
家康は彼らの努力に感謝した。だから「また冗談を」と笑うことができた。
04. 一瞥もくれず
二人になることを避けられている。
目を合わせることすら、二人の時では有り得ないことになっている。
たまらなくなって、呼んだ。
きつ殿、と。
吉は返事すらせずにその場を去る。
分かっている。
彼女は自分のためにそうしてくれているのだと。
05. 瞳を閉じたまま
戦の疲れで眠り込んでいた。
眠り込んでいたはずだった。
いつの間にか優しい指が髪と頬を撫でてくれている。
目を開ければ消える感触だと知っている。
寝た振りを続けていたら、また深く眠ってしまった。
06. 片手で軽く制して
「此度の働き、見事であった」
二人だけになった時に言葉を交わしたのは久々だった。
だが家康は絶望感すら感じていた。
閉じたままの扇子を斜めに唇の前に当てて話す目の前の女は、吉ではなかった。
「三河との同盟、余が致した数多の選択の中、最もよきもののひとつ」
「お言葉」
自分でも驚くほど無機的な呻きになった。
「光栄にございます」
目の前の女は続けた。殊更に低く、ゆっくりとした声で。
「後も励め。織田は徳川を裏切らぬ。徳川が今のままである限り」
家康は深く深く、頭を下げた。
織田上総介信長へ向かって。
今のままである限り。
その言葉の意味を噛み締めながら。
07. 別れ際だけは優しい
次に会えるのはいつのことか。
忠勝のように空が飛べればな、と思い、一人笑う。
三河に戻る道すがら、溜息をつくしかなかった。
忠勝が不意に、家康に何かを差し出した。小さな包みと紙の切れ端だった。吉に渡されたものだと聞き、家康は首を傾げる。
切れ端に書き付けられた文に署名はなかったが、字を見れば分かる。
【道中恙無き様、御祈り申上げ候】
切れ端を丁寧に畳み、胸元へ仕舞い、包みに素っ気なく入れられていた団子を口に押し込んだ。
08. 聞こえない振りして
おしたわしゅうございます
すきです
めおとに
しょうがい あなたをたいせつに
無視し続ける彼女に感謝すべきか、恨むべきか。
送るあてどもない文を書き付けようと筆を取り、最近では溜息すらつかずにその筆を置けるようになってきた。
09. 話は終わりと言いたげに
真偽を問う手紙を送った。奥州と三河の距離を考えれば、比較的早く返事が来た。
【真也哉。過去夫婦の契りを交わせし夫、片倉小十郎と奥州にて安住の旨御知らせ申上げ候】
相変わらず美しい字で、昔より短い文だった。
お前にこれ以上、他に言うことはない。それだけを告げるために書かれた返事なのだと、分かった。
10. 一人その場に残されて
忠勝すら心配そうだということに気づき、苦笑する。
頼もしい腕を叩き、微笑んでみせた。大丈夫だよと伝えられただろうか。
「言っておくが、ワシは諦めたわけじゃないぞ。考えてもみろ、第六天魔王を降り、普通のおなごになられたのではないか」
待つのは得意だった。耐えることも得意だ。
そして今は奪いに行く度胸もついた。
「結婚祝い、しっかり届けてくれ。他の武将も送るだろうが、三河のものが一番だとお分かり頂けるものを選んだのだからな」
天下獲りの真っ只中に自分を残していった女。
文を書こう。
天下の向こうにあの女がいる。
文を書こう。
とびきり熱い文言を撒き散らして、あの女が苦笑いしながら、それでも自分を思い出してくれるような文を。