睦言を語りあはせむ人もがな



知ったのはいつだったろうか。
もうきっかけも覚えていないが、家康あたりが憧れの君について熱を込めて話していた時に耳にしたのかもしれないし、行商人の噂話だったのかもしれない。
特別なことではない。
それでもまあ、なあ──小十郎は政務の手を止め、ふと考える。
「どうした、小十郎」
「ああ、いえ」
何とか政務から逃げ出したいと思っている政宗が、目ざとく小十郎の様子の変化に顔を上げる。無論それを許す小十郎ではない。敬愛と甘やかしは違うのだ。
「お気になさらず」
「気になるだろ、普通。お前が仕事中に手を止めるって──」
「政宗様が今お気になさるのは、そちらの数のことではないかと」
「──Shit! 勘定方に全権持たせりゃいいじゃねえかよ!」
「他の勘定はともかく、これはどんな国主でもやることです」
軍費の最終確認だけですから、と小十郎はにべもない。政宗の数字嫌いは何とかして欲しいと常々思う。
とはいえ、自分の様子が政宗の気を散らせたことは確かだろう。自省し、小十郎は再び目の前の書付の数々の点検と政宗のお目付けに戻った。
それでもふと、また他のことを考えてしまう。
知ったのはいつだったろうか。
毎年この日はこんな調子だ、と気づいた。
特別なことではないのだ。誰にとっても。だから小十郎にとっても特別なことではない。
我知らず溜息をつく。
その姿を見た政宗は、逃げ出す好機と一瞬思う。だが機嫌がいいというわけでもない風情の小十郎の様子から、やめておいた方がいいと判断した。政宗の数少ない怖いもののひとつ、それは「機嫌の良くない小十郎」だった。
小十郎は二度目の溜息をついたことに気づき、自分の心が完全に此処にあらずとなったことを認めざるを得なかった。幸い、自分の担当の政務はほとんど終わっている。あとは政宗の補佐だけだ。何かあれば仰るだろう、と考え、心の揺れを収める努力を放棄した。

──いつ知ったんだろうな。覚えてねえ。

だが、と思う。

──毎年、面白くねえんだ。離れていた間、面白くなかった。

知らなければよかったと毎年思っていた。
本来なら元旦に誰もが等しく迎えることだ。
それは分かっていたし、実際、元旦を迎えれば小十郎自身もそうだった。
離れていた間も元旦にこんな思いを抱いたことはない。
だから余計にこの日に思い出していたのだろう。
離れているという現実を。

なぜ俺の傍にいないのか。
なぜ俺は傍にいないのか。
なぜ何もしてくれないのか。
なぜ何もしてやれないのか。

考えても仕方のないことだった。互いに役目があった。
二人で役目について話したことはない。
だが分かっていた。
互いに人生全てを注いでも悔いのない役目を背負って生まれ、重荷と思ったことはないのだと。
役目を果たすために生きるのなら、生涯離れていても仕方のないことだったのだと。

毎年この日は現実を思い知らされていた。
力全てを注ぐべき役目を望んで生きていると分かっていても、女々しいことだと分かっていても、離れていることが──寂しい、哀しいことなのだと思い知る日だった。

「なー、小十郎」
「あ、はい」
政宗の声に弾かれたように顔を上げる。敬愛する主君はうんざりした顔を隠そうとして失敗していた。これは本気で逃げ出したいんだな、と小十郎はある意味、目の前の現実を認識する。
「姐さんに手紙、書く時間じゃねえの」
小十郎が仕事の合間に妻へ簡単な手紙を書くことは、奥州で既に有名な話だった。夜になれば帰る家にいる妻に、忙しくない限り、ほぼ毎日わざわざ手紙を出す。面と向かってからかう者はいないが、あの小十郎様がねえ、と噂されているのは確かだ。小十郎は特に気にしないようにしていた。
「手が空いておりませんので、今日は書きません」
「ノープロブレム、お前の仕事はもう終わってるじゃねえか。手紙書いてやれよ。ここは俺一人でできるし──」
「今の俺の仕事は、政宗様がその勘定書きを御理解なさるまでここにいることですので、すなわち手が空いておりません」
とにかく苦手な数字から逃げ出したくて仕方ない風情の主君に淡々と告げる。
政宗は深く溜息をつき、内心で白旗を掲げた。いつもよりも小十郎の声に抑揚がないことに気づいたのだ。これはもう、どんな甘えも許されない。幼い頃からの経験でよく分かっている。
「サボりの口実にしたのは謝るけどよ、書いてやれよ」
「いえ、結構です」
「書けって。姐さんに恨まれたらたまんねえし」
「恨む?」
極端な侮辱でもしない限り、誰かを恨むような女ではない。政宗の言葉の意味が分からず、思わず小十郎は訊き返していた。政宗は肩を竦める。
「俺のせいで、毎日の楽しみを奪われたなんて思われたらよ。俺、焼き討ちされるわ」
「楽しみと焼き討ち、どちらに反応すればよろしいですか」
「楽しみってことにしとけ」
本気で恨んだらやりそうだが、と二人同時に思ったことは無論互いに分からない。
「楽しみ、ですか」
「ま、俺にだけ正直に言えってば」
「何をですか」
「だからさー」
政宗の顔がまるで噂話を楽しむ少年のものに変わる。小十郎は苦笑した。普段は年齢よりも大人びている政宗が唐突に見せる子供らしさは、政宗もまた大きな役目を背負って生きているのだと小十郎に知らしめるのだ。

「姐さんが喜ぶから、手紙書いてんだろ?」

思わず言葉に詰まった。
喜ぶから、という言葉に、自分は今までそんなことを考えてもいなかったのだと知った。
ただ、初めて書いた日を思い出した。──ああ、手紙を書こうか、書けるのだから。そう思ったから書いた。
「喜ぶ、ですか」
「そりゃそうだろ。そうじゃねえなら、何でお前、家に帰ればいる姐さんにわざわざ手紙書くんだよ。離れてるわけでもねえのに」

離れているわけでも。

その言葉に、小十郎は気づいた。
政宗は深い意味を含めて言ったわけではないだろう。それは分かる。役目で何日も地方に赴いているわけでもないんだし、程度のことを言っているだけだ。
それでも気づいた。
なぜ毎年、この日に限って心が揺れていたのか。

「政宗様」
「んー?」
「申し訳ございません、本日はこれにて退出いたします」
「どした」
頭を下げながらの小十郎の申し出に、政宗は流石に驚いた。役目熱心な男がこんなことを言い出したのは初めてだったのだ。
「具合でも悪いのか」
「いえ」
小十郎は主君の返事を待たず、立ち上がる。
今の時代、男がこんなことを言えば笑われるだろうか。
女々しいと思われるだろうか。
それでもいいと思った。

「妻の誕生日ですので」

政宗はまじまじと小十郎を見る。誕生日がどうしたって、と言いそうになった。
誕生日がどうしたって? 正月に全員、数え歳を取るじゃねえか。生まれた日だからって何か特別なのか。そんなこと言う奴、日の本のどこにもいねえだろう。
そう、言いそうになった。
だが言わなかった。
機嫌の悪い小十郎は政宗の怖いもののひとつだ。
そして、誰かをいとしく想って微笑を浮かべる小十郎は、最近好きになったもののひとつだった。




馬は置き、歩いて帰ることにした。元々大した距離ではないし、何とはなしにひとりでゆっくり歩きたかった。
市で蒔絵の櫛を買った。周囲の目が好奇と冷やかしのものばかりであることはよく分かったが、気にならなかった。
店主は物言いたいような、しかし言ってもいいものやらという顔をしたものの、値の張る商品を迷うことなく買ってくれた軍師に丁重に頭を下げる。野次馬の娘たちは購入理由を容易に想像して羨ましそうに溜息をつき、同じく若い男たちは俺もああなりてえなあとやはり溜息をつく。
袂に櫛をしまい、また歩き出す。途中で市の見回りをしている騎馬隊の青年に声をかけられた。聞きましたよ、蒔絵の櫛を買ったんですって、と冷やかされ、俺が歩くより噂が速いんだな、と驚愕半分、呆れ半分に呟く。
妻の誕生日だからな、と言うと、青年は意味が分からないというような顔をした。その顔が面白くて、小十郎はつい笑った。

──俺も分からなかったんだ。さっきまでな。なぜ、今日なんだろうってな。

市を抜け、家へ向かう。
いつもよりも帰る時間が相当早い。妻は驚くだろう。
だが、帰ればいつも嬉しそうに出迎える女だ。今日もきっとそうだろう。

なぜ俺の傍にいなかったのか。
なぜ俺は傍にいなかったのか。
なぜ何もしてくれなかったのか。
なぜ何もしてやれなかったのか。

今は傍にいる。
ようやく気づいた。

共に暮らしているのに手紙を書く。
元旦でもないのに、生まれた日に土産を持って早く家に帰る。

傍にいるからこそ、できることばかり。

離れていた日々にできなかったこと。
必ず妻を思い出す日なのに、できないと思い知るからこそ、憂鬱な日だったのだろう。

ただ、
喜ばせてやりたかった。
笑う顔を見たかった。

それだけだったのに、なぜ気づかなかったのだろう。

今は傍にいる。
できなかったことをしてやれる。
何でもしてやれる。

「帰ったぞ」

妻は笑うだろうか。

「土産があるんだ。早く来い」

きっと笑うだろう。
はじめは驚いて、それからあの美しい顔で、嬉しそうに笑うだろう。

いつもよりもずっと早い夫の帰宅に、慌てたように小走りで駆けて来る音が聴こえる。
その音を聴きながら、小十郎は我知らず微笑んでいた。