旦那様がおられませぬで



出迎えがあったことにまず驚いた。
驚いたというより、いっそ恐怖感を覚えた。
「政宗さまにはご機嫌ようならっしゃいまして。なんのお障りもあらっしゃりませんで」
目と耳とどちらを疑えばいいのか分からない。両方疑っておくことにした。
疑わずにいられるだろうか。
あの吉が。
あの織田信長が。
あの元魔王が。
ふらりと立ち寄った政宗よりも下座に侍り、三つ指ついて挨拶し、あまつさえこの奥州では無縁な言葉で口上を述べようとは。
本来ならここで鷹揚に頷き、楽にしてよい、と声をかけるのが主君の役目だ。こと、夫が不在中に主君に突然立ち寄られた妻の立場としては緊張極まりないはず。それを解してやるのも主君の役目。
だが、なぜだろう、と政宗は思う。
なぜなのだろう。
──なんで俺の方が緊張してんだろう。何だろう、この居心地の悪さ。
「えーと、あの──のぶ……」
その瞬間だった。
伏せがちだった吉の目が、ぎろり、と政宗を見る。
有り体に言えば睨めつける。魔王の目で。紅くならないことが不思議なほどの目で。
無論、頭を下げている使用人たちには見えない。
「……御正室」
「はい」
いやその返事も、あっという間にまた伏しがちになった目も怖いから、と政宗は真剣に怯える。
軽い気持ちで片倉家に寄った自分を激しく呪う。小十郎が役目で地方へ四日ほど赴き、その間、奥州に来てまだひとつきにもならない吉の様子が心配になったのだ。これは本心だった。
外での小十郎はのろけはしないものの、政宗や親しい出仕者に訊かれれば素直に答える。からかうように「奥さんの様子はどうなんだ」と訊かれた時、さすがにまだ外に出る気にはならないようで、と苦笑していた。それもあり、元々親織田家の立場と言ってもいい伊達家当主としては、吉が新しい環境に不自由がないか見に行ってもいいのではないかと思ってのことだった。
「その、突然寄って、すまねえ」
「恐れ多くも。光栄にござりまする」
「……あ、そう?」
「主人不在にござりますれば、不手際ございましょう、ようよう御許し願い賜りまし」
「──あのさ、ちょっと、あの、あれだ。人払い!」
もう堪えられなかった。政宗はあっさりと自分が限界を超えたことを認めた。
この焦燥感、戦場の比ではない。
人払いと言われた使用人たちは動揺する。夫不在の家で妻たる女が他の男と二人きりになるということは、あまり歓迎されるべきことではない。不義の噂を立てられやすいからだ。片倉家の政敵がどこに間者を放っているか分かりはしないではないか。
その空気に気づき、政宗ははっとした。自分の発言が軽率だったことを知る。
「あー、違う、そういうのは絶対ねえから! プロミス! 小十郎の奥さんに手ェ出すなんざ、何もかも怖くてできねっつーの!」
吉が溜息をついた。
「下がり」
やはり奥州とは違う言葉で命じると、渋々と言った風情で使用人たちは下がって行く。
政宗もよく顔を合わせる、昔から片倉家に仕えている侍女のおこうが最後に出、障子を閉めようとしたが、ふと気づいたように手を止め、深く頭を下げてからいなくなった。
障子を開けておけば、「万が一」があった時に吉が上げる悲鳴が聞こえやすいからだろう。
古い付き合いのおこうにまでもそんなことをされ、政宗はさすがにやや落ち込む。とはいえ、吉が「奥方」として使用人たちに認められ、守られていることが分かったのも確かだった。政宗はよく知っているが、片倉家の旧い使用人たちは保守的だ。その彼らが新しい存在を容易に受け入れたことを知り、やや意外に思った。
吉は相変わらず伏し目がちで、政宗を正面から見ようとはしない。これは武家の妻の作法のようなものだった。
沈黙が降りる。吉は声を出さない。これもまた作法としては正しい。ここは主君の言葉を待つのが礼儀だ。
政宗は咳払いをした。
「あのですね」
いや違う、何で俺敬語なの、と心の中で激しく自分に突っ込む。
「あのな、奥さん」
「はい」
その返事も正しい。大いに正しいのだ。
だが政宗は再び限界を迎えた。
「席替えしよう。誰が見るか分かんねえから、俺がそこに行くとは言えねえんだけど」
「席替えとはいかなるものにあらっしゃりましょ」
「──Sorry。姐さん、ごめん、勘弁して」
遂に政宗は音を上げた。
吉が深く深く溜息をつき、ようやく正面から政宗を見据えた。
「あほうな仔竜め」
「姐さん」
「何え」
それそれ、その返事だよ、と政宗はしみじみ頷いた。
「安心しました。ありがとうございます」
「うつけ」
言い捨て、とりあえず吉は本来ならば小十郎が座る場所へ移動した。政宗が訪ねて来ない限り、この家では一番の上座になる。
「ほんと思いつきで寄ったからさ、手ぶらで悪ィね」
「そ」
短い返事も、彼女を見かけた過去の時々を思い出せば何ら違和感がない。小十郎の妻となった今でも変わっていないようだ、と政宗は思った。それが大いなる間違いだとは考えもしない。
「祝言、いつやんの」
「旦那様に訊きゃれ」
徹底的に冷たいものだ。この時点で、政宗は「何で俺、ここに来たんだろう」と疑問を持ち始めてしまった。
「あー、小十郎と言えば。どう。寂しくない?」
「寂しい、とは」
「ほら、小十郎、役目でいねえし? 新婚なのに」
「新婚で役目で何が寂しいと申すのだえ」
「だから……」
──ああそうか、姐さん、元は国主どころかほぼ天下取ってんだもんなあ。
「やっぱ、役目に理解はあるってことね」
「うつけ」
「……Sorry」
冷たい。余りにも冷たい。しかしこうなると政宗は俄然、この女に興味がわく。今までも充分興味はあったが、あの「魔王」を「妻」という立場、言うなれば平凡な場所に小十郎が収めた理由を知りたくなる。
「立ち入ったこと訊いていっかな」
「いや」
「……OK。立ち入ったこと訊く」
「何え」
これは難物だ。ひとりの女としても充分に難物に違いない。政宗は強く思う。
「小十郎のどこに惚れたの」
「応ずる理なし」
「……失礼しました」
難しい。難しすぎる。
それからも政宗は質問を繰り返した。吉はさらりさらりとかわしてしまう。
そんなことが一刻も続けば、政宗も疲労を感じた。
──小十郎、よくこんな姐さんと新婚生活なんかできるもんだ。
「姐さん」
「何え」
「俺、そろそろ帰るわ。最後に言うんだけど、聞いて」
「何え」
「城に上がる時、俺に遠慮しなくていいから」
片倉家ほどの家になれば、正室を迎えた時、良い日を選んで城に上がり、主君たる政宗に夫婦揃って挨拶をするのが長い慣習だ。同時に家臣たちにも引き合わせ、そこから端々まで話は広がり、領民たちにも周知される。吉が片倉家に来てからおよそひとつき、そろそろ城に上がる必要があると思われていた。むしろ片倉家の格を考えれば遅いほどだった。
「遠慮、とは、わらわが何を遠慮していると申すのだえ」
「や、だからさ。奥州じゃ俺が身分上になっちまうけど、そういうのって元織田のぶ──」
吉に睨まれる前に咳払いをし、言葉を変える。
「織田の、本家筋のご出身としちゃ、さ。プライドとして面白くねえだろうから、今日みたいに別に俺に無理に頭下げる必要もねえよ、ってこと」
吉がゆっくりと、胸元から紅い扇子を出した。それが妙に鮮やかに見え、綺麗だな、と政宗は思う。同時に吉がこの対面中、ほとんど身動きしていなかったことに気づいた。これは驚くべきことだったかもしれない。
出した扇子を開き、口元を覆う。
そして、盛大に、もはや政宗にわざと聞かせたいとしか思えないほどに大きな大きな溜息をついた。
「ね、姐さん?」
「仔竜」
「何だよ」
吉がすう、と息を吸う。
扇子の向こうで唇が動いた。

「何がぷらいどだえこの蛇蝎ごときがようも申すわ旦那様がお怒りになられるゆえわらわが譲りて譲りて譲りて譲りて辛うじて仔竜と申してやっておるのではないの何が竜だえわらわの魔王より余程痛々しいわ先に三つ指ついてやったのはここが旦那様の家であるからにすぎぬ城に上がろうと旦那様のお決めになられるお力が及ばぬ範囲なればわらわがうぬ如きに頭を垂れるはずもなかろ斯様なことすらも分からぬかこのうつけ」

普段の吉からは考えられないほど早口、かつ淡々たる言葉が迸る。
呆然とする政宗の前で、また吉は扇子越しに息を吸う。
そこは奥州筆頭、本能が「身構えろ」と叫び、次の攻撃が発される前に辛うじて心構えができた。
だが第二波はとどめに等しかったのだ。

「先からひとりでぺらぺらぺらぺらと次から次へと喋るとは何たる心構えだえわらわが何を答えようとも正面からしか聞けず解釈もできぬのかえ奥州の外交下手の理由がようよう分かったわ常に旦那様がお助けあそばさねばこの戦乱の世に生き残ることかなわぬであろそもそも何だえ問いかけは要領を得ず己のみが分かる問い方をしおってはじめの問いを例にいたすならば【新婚早々役目で小十郎がいないけどいない間寂しいと思わない?】と申さぬか取り散らかった申し様しか出来ぬのであらば旦那様がお側におられなんだ時はわらわに向けて言を発するでないわ詰まるところわらわは今うぬに早う去ねと申しておるのだえしかも手ぶらて参りおってほんに無礼もよいところぞ」

「ごめんね、手土産何もなくてごめんね! あと、詰まってるようで全然詰まってねえし! 言いたいこと全部言ったじゃねえか!」
いっそ泣きたくなりながら、そこはしっかり突っ込む政宗だった。

「姐さん」
「何え、ひつこい」
「俺、もうちょい分かりやすく話せるようになるから。見てろよ」
「どうでもよいわ」
「あと、次来る時は団子持って来るから」
「も少し気の利いたものはないのかえ、仔竜めが」
呆れたように吉が扇子をぱたぱたと揺らす。
その口元が僅かに綻んでいたことに、政宗は気づかなかった。


それから政宗が政務において「できるだけ」分かりやすく意思を伝えようとし、それを不審に思った小十郎が首を傾げ、政宗から理由を聞き、妻の仕出かしたことを知り、切腹の勢いで謝り倒したのは後日の話である。