それは見事な美しい文字だった。署名のない文であっただけに、それなりに適当な開き方をした元親が、思わず背筋を伸ばすほどだ。
選ぶ言葉も柔らかく、女性ならではの表現が随所に散りばめられている。高貴な教育を覗わせる文面だった。元親の周囲にはこんな文を書く女は誰一人いない。──否、いるにはいるが、流石に魔王を「女」と同列にしたくはなかったので除外した。
「サヤカだってこんな書き方しねえやなあ」
とはいえ、それは昔馴染みの女の教育が低いというわけではない。性格的なものだ。書こうと思えば書けるのではないか、と元親は思っていた。
読み進めるうち、つい「うう」と妙にくぐもった声を出してしまう。柄にもなく照れたのだ。
美しい文字で書かれた美しい文章は、控え目ながらも強い情熱を感じさせるものだった。
要は「初めてお手紙を差し上げる御無礼をお許し下さい、ですがいてもたってもいられず、書いてしまいました。あの行事で一目お見かけした貴方様を云々」と書かれているのだ。
「……らぶれたぁ、ってやつだ」
「アニキー、どうしたんすか」
一人の野郎がにやけた主に疑問を感じ、声をかける。喜怒哀楽がしっかりした主だが、にやけることは滅多になかった。
「らぶれたぁだよ、らぶれたぁ」
「南蛮語っすか。独眼竜みてえなこと、言わねえで下さいよ」
「ばぁか、あいつはもらったことねえぞ、絶対」
遠い奥州で政宗がくしゃみをしたとは知る由もない。
「──あの海辺の祭の時か。あの時は尼子のニイチャンと毛利が丁々発止になって、楽しむどころじゃなかったなあ」
どこの姫さんだろうな、文脈からすると武家じゃねえかもしれねえなあ──思いを馳せ、気分良くもう一度読み返し、ひとときの男の満足感を味わってから、元親はその文を彼にしては丁寧に折り畳み、しばらく保管しておく物を入れる箱に閉まった。
流石に文ひとつで浮かれるほど現実を知らない男ではなかった。
それきり文のことは忘れていた。もとより返事を書くつもりはなかったし、書いた処で相手に儚い期待を持たせかねなかったからだ。
それよりもやる事が多すぎる。新しいからくりの制作に着手したい、だが金が足りない、少し前に資金が潤沢な出雲に借金を申し込めばすげなくされ、おまけに外交のあれやこれやも山積みだ。
そんな中、再び文が届いた。差出人は「詮子(あきこ)」となっているが、美しい文字ですぐに以前の彼女だと分かった。
なぜ返事をくれないのか、と詰るものではなかった。お返事はいりません、手紙を書くことだけはお許し下さい、読まずにお捨て下さっても結構でございます──美しい文字で切々と綴られる文に、元親はいっそ感心した。これにも返事は書かなかった。
それからは間を置かず、詮子から文が届くようになった。次第に情熱的になっていくことは事実だったが、押し付けがましくなく、さりとて男心に訴える、それでいて品の良さを決して失わない、いわば「夢のような姫君」の文そのものだった。返事をひとつも書かない元親を恨む節すら感じられない。
詮子のことを考える時間が妙に増え始めた。あいつと違うかな、と思ってからだった。あいつ──三成だ。
苛烈に見えて繊細な彼から、文らしいものをもらったことがないと気付いた。稀に連絡事項を記した端書のようなものが届くだけだ。届くたびに嬉しくて、読むたびに、俺のこと好きじゃねえのかな、と、子供のような感傷に浸ってばかりだった。
──俺は、すげえ好きなんだがなあ。あいつが傷つくのが怖くて、言えやしねえ。
「……っつっても、あいつがこんな文を書いてもな。柄じゃねえな」
苦笑し、何通目かももう分からない詮子からの文をしまう。多少の息抜きになっていることは事実だったし、どんな女かと想像することも増え始めていた。それほどまでに詮子の文は素晴らしく、そして、純粋に、だが的確すぎるほど、男心をくすぐるものばかりだったのだ。
やがて詮子の文からは抑え切れぬ慕情が溢れ始める。返事をもらえないことには相変わらず一切の恨み言は綴らない。それでも遂に、一目お会いしたい、お声を聞きたい、と、切羽詰った感情を伝えるようになった。
これはもう、流石に放っておくわけにはいかないような気がした。断りの文を返しても、もう詮子は受け容れないのではないか、と予想した。
一度会えば満足するかもしれない。会った処で完全な拒絶しかできないが──詮子だけではなく、どんな女でも、今は三成以外を真の意味で両腕に抱こうとは思えなかった──このまま、こんな文を届けられることは両者にとって良くないと思えた。
文面からすると詮子は未婚の女性だ。教養もある。それなりに名家であることは間違いない。
何かの折に噂にでもなれば、彼女にとっては不名誉な結果になりかねない。元親は痛くも痒くもなく、無視をし続けてそのような結果になっても本来構いはしないのだが、それが出来れば長曾我部元親ではないのだ。
迷いに迷った末、元親は筆を取った。
詮子殿
向かう事能はず
御身が御越なれば
只一度御目にかかりたし
翌月初の大安 九ツ半
祭の海辺にて御待ち申上げる由
末筆にて 乱筆御詫び申上候
署名もしない、素っ気ない連絡事項だけの文だったが、出すまでには相当の勇気が必要だった。最後の一文は詮子の麗筆に謂れのない引け目を感じたからに過ぎず、それほどの悪筆ではないと自分でも分かっていた。
流石に元親自身が詮子に会いに行く気にはなれなかった。面倒だったのではなく、詮子を慮ってのことだった。署名をしなかったのもそのためだ。万が一、詮子に近しい者が見れば大変な騒ぎになる。
文を出して数日後、詮子から喜びに満ち溢れた返事が届いた。やっとお会いできる、一目でも構わない、感謝します──流麗な文章で女心が切々と綴られている。拒絶せざるを得ない男が読めば、思わず罪悪感を抱いてしまうほどの名文だ。元親も例外ではなく、己に対して舌打ちをしし、同時に、自分が案外不器用なのだと思い知った。なぜ最初に断りの文を届けなかったのかと、それだけを後悔した。
指定した日の九ツ半(午前0時)、元親は時間にぴたりと海辺へ向かう。穏やかな海は月の光を反射し、珍しく夜半に歩く元親を見守っているようだった。
詮子が自分を見たと言う祭を催した場所は周囲に岩場があり、眺めも良くない。だが、地の利に明るくないはずの詮子に他の場所を指定するわけにもいかなかった。
元親がその場に到着した時、女性の姿がそこにあった。市女笠を被り、顔は見えないが、元親は酷く驚いた。
市女傘の下から覗く服装は、あろうことか赤袴の巫女装束だったのだ。
──……そりゃ教養があるはずだ。神社の巫女さんかよ……!
そして納得した。これならば返事はいらない、書くだけでも、と、他に一切の要求をしなかった事情も理解できる。神に仕える女が一目見ただけの男に恋をするなど、とても許されることではなかっただろう。
思い至った瞬間、元親は酷い罪悪感に襲われた。最初の文で拒絶しておくべきだった。名家の娘ならば新しい恋に恵まれることもあるかもしれない。だが、神に仕える身としては考えにくいことだ。
──鶴のお嬢よりは歳が上だな。
詮子は女性にしてはかなり背が高く、すらりとした身体つきだった。少女の代表格のような鶴とは全く違う趣を感じさせる。
「……詮子さん、かい」
覚悟を決めた元親の問いに、詮子は声もなく頷いた。元親は溜息をつき、詮子に近付く。目の前に立ち、背が高い女だ、と意外に思った。あの文の数々から、小柄で儚い風情を勝手に考えていた自分に呆れた。
市女笠の垂布の合間から、僅かに顔が見えた。月明りの下、はっきりと見えるわけではないが、思わず元親は息を呑む。切れ長の目に整った鼻筋、薄い唇──品よく施された化粧が映える。素晴らしい美女であることは容易に想像できた。
だが、と自分を律する。ここへ来た目的を思い出した。
「いきなり、悪いんだが」
詮子は返事をしないが、ちらりと元親を見上げる。やめろよ、と思わず元親は言いそうになってしまった。
「会うのはこれきりだ。──文も金輪際、送らないでくれ。あんたのためだと思う」
途端に詮子は激しく首を横に振った。元親は呻きたくなる。女の激情にはほとほと困る、しかし詮子はどこまでも「男心をくすぐる」と思ったのだ。今のこの動作はその類のものだった。
商売女だってここまで上手くやれやしねえ──元親は溜息を押し殺す。
「最初に断るべきだった。俺の怠慢だ。申し訳ねえ」
元親は続ける。
「もし変な噂が立ったら、あんたは大変なことになる。まさか巫女さんだったなんて思ってなかったが、分かった今は──もっとやばいと思ってるよ」
これきりだ、と元親は宣言した。
詮子はじっと考えているようだった。
頭の悪い女ではないことは文の数々から分かっている。理解してくれるだろう、と元親が期待したその時だった。
「──ちょ……っ!」
思わず元親は上ずった悲鳴を上げる。体当たりのような勢いで胸に飛び込んで来た詮子に驚くどころではなかった。ぶつかった途端に市女笠が宙を舞い、詮子の束ねられた黒髪が潮風に揺れた。
元親はよろけそうになったが足を踏ん張り、何とか堪えた。そして反射的に詮子を抱いて支えそうになった腕を──必死でとどめた。
詮子はそもそもの身体能力が高いのか、よろけることなく、だが、元親の胸の合わせを強く掴んでいる。そして、幼子や女が我儘を言う時のように、いやいや、と頭を何度も横に振っていた。
「分かってくれよ」
元親は困り果てる。
可愛いと思ってしまったからだ。
詮子は何もかもが上手すぎた。商売女であれば滲み出るであろう計算高さもなく、純粋に、男心を的確にくすぐることばかりする。
「俺はあんたを不幸にしたくない」
詮子は聞かない。やはり頭を横に振る。どれほど元親が説得しても、同じことを繰り返すばかりだ。
やがて元親は詮子を抱き締めたい衝動に駆られた自分に気付き、必死で律した。
どんな男でもこうなるはずだ、と言い訳をする。これだけの思慕を見せる女を抱き締めないでいられる男が、一体どれほどいると言うのだろう。
仕方なかった。言うべきではないかもしれない。それでも、言わなければならないと決意した。
詮子の心を最後まで完膚なきまでに砕きたくないからこそ、言わないでおこうと決めたことを言うしかなかった。
「俺には、好きな奴がいるんだ。そいつしか考えられねえ」
詮子の動きがぴたりと止まる。だがすぐにまた、激しく頭を横に振る。誰なの、と、まるで訊いているような様子だった。
元親は観念した。
「大坂にいる。冴えた夜の月のような奴だ。すまねえ、俺は──そいつしか考えられねえし、抱き締められねえよ」
許してくれ。
苦悩に満ちた声で元親は呟く。
その瞬間だった。
「──わらわの勝利ぞ!」
岩陰から浮かれ切った声が響く。
現れたのは女だった。──元親がある意味、絶対に忘れられないあの女だ。
安土の魔王、織田上総介信長。一部では吉と呼ばれる、あの女だった。珍しく心底はしゃいでいる。その横から苦い顔で出て来た美しい男は思い出すまでもない、光秀だった。
「……おひいに明智の? 何してんだ?」
呆然と呟く元親の前で詮子が溜息をつき、すっと身体を離す。あまつさえ、触れていた部分を念入りに手で払うという動作つきだった。
おい、と元親が声を掛ける前に詮子が口を開いた。それはもう、憎々しい口調で。
ただし──男の声。
間違うことなく、男の声だ。
「ったく、俺がこんだけやってやったっつうのに、何でてめえはそこまでお堅いんだよ! 付け毛に化粧までしてんだぞ、甲斐性なし!」
「──あ、あま、尼子のニイチャン!?」
どもってしまった元親を責めることは出来ないだろう。「詮子」が女装した晴久とあっては誰でもこうなるはずだ。
いまだ事態が飲み込めない元親の前で、吉が相変わらずはしゃいでいる。
「ほうら、晴久、姫若子は大坂のお好きさんにひとすじで、揺るがぬと申したではないの! わらわの勝ちであろ!」
「うっそだあ、あとちょっと押してりゃ絶対いけたって! 抱き締めようとしてたし! 俺、ほんっと気色悪かったんだけど!」
言い合う二人の横で光秀が市女笠を拾い、元親に「こんばんは」と挨拶をする。あ、こんばんは、と元親は反射的に返してしまったが、唐突に現実を理解した。
「──ってめえら、どういうこった! 詮子って誰だ! あと姫若子って呼ぶな!」
「俺だ」
化粧をし、元親が夜目にも「美しい」と不本意にも言いたくなってしまいそうな見た目の晴久があっさりと言った。
「手紙は誰が書いた! あの女文字! めっちゃ綺麗な! 流石に尼子のニイチャンじゃねえだろう、おひいか!」
「俺だ」
「晴久だえ」
「晴久殿ですね」
「何であんなの書けるんだよ! 完璧すぎだったぞ!」
「お前に送るためだけに、きつに手本もらって練習した」
「手間隙かけた遊びをするんじゃねえ! お前ら、暇でもねえだろうに! 俺の純情踏み躙りやがって! 何のつもりだ!」
「簡単に説明してやる。あとお前、声でけえ。うるせえ」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「やかまし」
「いてぇ!」
「お見事です」
吉の扇子が炸裂し、額を思い切り張られた元親は悲鳴を上げ、光秀が感嘆する。晴久がそれこそ簡単に説明を始めた。
「お前んとこがうちに借金の申し込みして、俺は断った」
「おうよ。このドケチが」
「お前の成功した試しがねえからくりにくれてやる金なんかねえよ」
「成功はしてるって! 何度か!」
「やかまし」
「いてぇ!」
「お見事です」
再び額を張り飛ばされる。晴久は一度笑い、説明を再開した。
「でも、きつが面白そうだから金貸してやれってうるせえんだよ。だったら自分とこから貸してやりゃいいと思うんだけど」
「損じをしたら無駄金ではないの」
「出雲のお金は無駄金になってもよろしいのですか。まあそうですね、構いませんね」
光秀の穏やかな物言いに、晴久は回し蹴りを入れることによって「ふざけんな」という意思を示す。覚えておいでなさい、と蹴られた光秀は呻いた。吉は晴久の巫女姿から繰り出された見事な蹴りに姉馬鹿のごとく拍手を送る。
「で、お前がこれに乗らなかったら貸してやることにした。有難がれ」
「はい、有難うございます──なんて言えるか! アホか! お前ら揃ってアホ姉弟だ! 女装なんざしてアホじゃねえの!? アホだろう!」
「そのアホによろめいたのは誰だ」
「あんなんされて迷わねえ男がいるか! 俺の自制心は日の本一だった! 間違いねえ!」
これなら理解できる、と元親は思った。「詮子」の文が男心をくすぐり続けたこと、厄介だと思わせる一歩手前で上手く留まるような慕い方をしていたこと。
──男なら……男のツボ分かって当たり前だよな……!
「まァ、よいではないの」
吉が上機嫌な声で宣言する。
「尼子が長曾我部に金子を都合する。もう、きまり」
そしてにこりと笑った。嬉しくて仕方ない。そんな笑顔で。
暫しの沈黙の後、元親と晴久は顔を見合わせ──同時に苦笑した。
この笑顔で言われてしまっては、もう誰も逆らうことができない。「ずるいものですね」と光秀は呟き、市女笠を本来の持ち主である吉に被せた。
「姫若子、なァ」
市女笠の下、吉が呟く。
「会いに参れるのなら、参ればよいわえ」
会えるのなら、会える時に。
吉はそう言った。
元親に垂布に隠れた吉の顔は見えなかったが、何となく見たくないような気がした。
だから元親は敢えて声を張り上げたのだ。
「姫若子って言うなよ、いい加減にしろ!」
そうだな、会いに行こう──吉の言葉でそう思ったことに、なぜか罪悪感を感じた自分の戸惑いを振り払うために。