今日から城に上がったという新米の女中が、先輩の女中に連れられて挨拶に回っていた。政宗や小十郎が関わる身分ではないが、たまたま通りかかった小十郎は足を止める。見慣れない者に注意を払うのは既に癖のようなものだった。
おきよ、と女中は名乗った。女にしては背が高く、大きな目が印象的だ。顔立ちも整っている。
小十郎は彼女をやや観察した。その様子に周囲の女中たちが視線を交し合う。
「政宗様の御為に、良い働きを期待している」
形式通りの言葉をかけ、小十郎はその場を後にする。背後で女中たちが小さく嬌声を上げていた。小十郎が新米女中に言葉をかけるなど前代未聞なのだ。しかも明らかに彼女を観察していた。
小十郎様も男だもの、と女中たちは密やかに笑った。とはいえ、彼女たちはおきよが小十郎と深い関係になるなどと考えてもいない。政宗でさえ苦笑するほどの軍師の愛妻家振りは奥州では有名な話だった。
おきよは先輩女中たちに、よかったわね、羨ましい、と好意的な声をかけられ、照れたように笑い、無邪気に質問した。
「小十郎様の奥様は、どのようなお方なのですか。織田の直系の姫様だとお聞きしたことがあるのですけれど」
すると女中たちは、今度は苦笑いを漏らす。
「一度も、城にいらしたことがないのよ。わたしたちも先日のお茶会で拝見しただけ」
「普通、小十郎様のお家ほどなら城に上がって政宗様に御挨拶するものだけど、ねえ」
「南の市にはよく行かれるみたい。運が良ければお見かけできるわよ」
「でも天女様みたいにお綺麗で、小十郎様がべた惚れなのも仕方ないわ」
「政宗様も姐さん姐さんってお呼びになられて」
口々に言う先輩女中たちの中、おきよは目を輝かせて天女の噂をせがむのだった。
おきよはよく働く、とすぐに評判になった。笑顔で朝から晩まで下働きに走り回り、嫌な顔ひとつしない。騎馬隊の世話も積極的に行い、隊の若い男たちにも人気があった。
だが、半月ほどで妙な噂が立ち始める。
──小十郎様が、おきよに声をかけることが多いんだ。
──妙におきよを気遣うんだよな。
おきよを見かけるたび、小十郎は声をかけるようになっていた。
そこから先はやらなくていい、他の者にやらせろ。騎馬隊の雑務なんざやらなくていい、休め。どこの出身だ。ご両親はご健在か。字は読めるのか。好きな食べ物は。酒は飲めるのか。
そのいちいちにおきよは答え、嬉しそうに笑う。小十郎は露骨に女を誘うような態度ではなかったが、他の女中とは一線を画した扱いであることは確かだった。小十郎の性格からすれば、それは特別という範疇であることは城の中の誰もが分かる。
先輩女中たちはおきよを諫め、おきよも頷いたが、二人の距離が近づくことは止められなかった。
何しろ小十郎がかなり積極的に近づいている。
女中たちが井戸端会議をする場所に顔を出し、「おきよはいないのか」と言った時、咄嗟に誰も返事ができなかった。美しい妻が待つ家に帰る時にもおきよの場所を訊く。近くにいれば呼び、早く帰るように、と言うこともあった。
その噂が妻の耳に入らぬはずがない。片倉家の使用人がいくら躾けられていて女主人に嫌な噂を隠していても、気軽に市に遊びに行く吉に、わざわざ教える市の者もいるものだ。とはいえ、彼らのほとんどは心配してのことだったのだが。
話を聞いた吉は、とりあえずと言った風情でおきよの人と成りを質問した。
大体の答えを得、「ふうん」とだけ言い、気分を害した様子もなく、贔屓の団子屋で一般的な女が食べるよりも倍ほどの団子をぺろりと食べて家に帰った。
普通は心配で喉を通らないものじゃないのかい、織田の姫さんは肝が据わってんだねえ、と誰もが呆れていた。
ひとつきもする頃には、小十郎が家を出る時間が早くなり、帰る時間が遅くなっていた。
仕事が繁忙だという理由も無論あるが、その合間にもおきよを呼び、何くれとなく雑用をさせる。長い間話し相手をさせることもあった。
おきよは他の仕事が出来ない有様だった。彼女としてはあまり嬉しい立場ではない。小十郎の世話を任されていた身分の高い侍女には睨まれ、先輩女中たちにもそっぽを向かれ始めている。
その立場が辛い、元の仕事に戻して欲しい、と小十郎に頼んだこともあった。だが小十郎は「気にするな」としか言わなかった。
そんなにおきよが気に入ったのね、と城の中の女たちは諦め顔で溜息をつく。
おきよが手紙を出す素振りを見せたら知らせるようにとまで言われた女中たちは、もう呆れるしかなかった。他の男に手紙を出すような真似をさせるな、と軍師が言っていると思ったのだ。
男女の関係になったのかと下世話な質問をされた時、おきよは顔を真っ赤にして否定した。
「小十郎様には奥様がいらっしゃいます。わたしなんて田舎の小娘だから、雑用をさせるのにちょうどいいんだわ」
口ではそんなことを言いながらも、と、女たちの視線は冷たい。
騎馬隊の男たちも彼女を遠巻きにするようになっていた。あの愛妻家の小十郎が、下働きの女中にここまで入れ込むという事態が不気味だったのだ。もし本当に小十郎がこの娘に惚れていたのなら、自分たちが下手に仲良くしていては、不興を蒙る可能性も否定できない。軍師が感情に振り回され、そんな愚行を犯すとは考えられないが、それでも構えてしまうのが人間というものだった。
政宗はと言えば、無論その噂は知っている。
最初は「小十郎も男だったんだなー」と笑っていたが、仕事上の都合で城に泊り込んだ日にもおきよに世話をさせたと聞き、さすがに頭痛を感じた。
小十郎を呼び、人払いをする。
「小十郎」
「はい」
「あの、おきよって子。何でそこまで気に入ってんの」
小十郎は答えない。黙って政宗を見ている。あ、やだ、その顔怖い、と政宗はつい怯んだ。答えを拒む小十郎はとにかく怖い。
「人払いしてんだからさ、言っちまえって」
「俺があの娘を呼ぶことに、何か問題でも」
「問題っつーか、うーん……」
これ言いたくねえなあ、でも言わねえとなあ──政宗は腹を決める。できれば言いたくなかったが、言わなければならないことだった。
「えっと、騎馬隊の連中から聞いたんだけどよ」
「はい」
「……姐さん、知ってるって話だけど?」
「何をですか」
「だから……!」
どうしよう、何て言おう、俺白旗ギブアップ──政宗は心の中で号泣する。これ以上言いたくないのだ。ここにいなくても恐ろしい、それが魔王というものだ。
それでも言わなければ話が進まない。進めていいものかも分からないが、「姐さん」という単語を口に乗せた以上、進めざるを得なかった。
「お前とおきよが、その、えーっとつまり、だから……!」
「ああ」
ろくな言葉が見つからない政宗だが、察した小十郎はあっさりと答えた。今日のネギの収穫は中々のものです、程度の口調で。
「妻には話してあります。そのせいであまり家にはいられないと」
「え」
「俺からそう話してありますが、問題ございますか」
何を答えることができるだろう。唖然とするしかない。
そして不意に、滅多にないことだが──小十郎に対して猛烈に腹が立った。
「お前、何考えてんだ」
「何、とおっしゃいますと」
「姐さんにする話かよ。そりゃ耳に入るこたああるだろうが、お前から姐さんに言っていいことと悪いことがあるだろうが」
「良いことと悪いこと、ですか?」
小十郎は本当に分かっていない顔をしていた。むしろ政宗が突然怒ったように見え、戸惑っている。その態度が更に政宗の怒りに油を注いだ。
「ざっけんなよ!」
つい声を荒げ、更に小十郎を驚かせる。
「政宗様?」
「お前、最低じゃねえ? 俺でもそんなことしねえよ。お前がどの女に何しようが勝手だけどよ、流石に酷くねえ?」
「──政宗様」
小十郎は蒼褪めた。敬愛し、忠誠を捧げる主君に最低と言われたのは初めてだ。その衝撃は生半なものではなかった。鼓動が速まり、全身から血の気が引く錯覚にすら襲われる。
「お前、姐さんのこと大事にしてんじゃなかったのかよ。お前だけはそういうことしねえと思ってたのに!」
「政宗様、それ以上おっしゃいますな。どうぞお静まりを」
絶望と混乱の中でも必死で主君を宥めようとするその態度に、政宗は本気で歯軋りをした。小十郎も男だ。それは分かっている。政宗自身とて好みの女を見れば同じような思いを抱くこともある。名家によっては確かに、正妻に妾の存在を告げることも珍しくはなかった。だから小十郎が一概に責められる謂れも無いのだ。だが政宗は許し難いと思った。若さゆえの怒りだったのか、それとも──自分でも気づかぬうち、小十郎にある種の幻想と理想を抱いていたからかもしれない。
感情に任せて小十郎を散々に罵った。自分でも止められなかった。小十郎は反論ひとつせず、歯を食い縛り、主君の過度な叱責を不条理にその身に受けるばかりだった。
その従順な態度が忠誠から来るものだと分かっていたが、政宗の怒りはどうしても収まらない。
「こんな噂、尼子が知ったら姐さんを連れに来るぞ! 俺は止めねえぞ!」
尼子という名に、はっとして小十郎が顔を上げる。政宗はそれで、ようやく心を少しばかり静めることができた。
「姐さんが尼子に愚痴の手紙出したらどうすんだよ。出雲の国主に軍師の妻が連れて行かれました、なんて、奥州の恥だろうが! 交易だってあいつは平気で止めやがるぞ!」
自分で言いながら、政宗はあらゆる可能性に思い至った。小十郎が普通の女だと思い込んでいるあの女は、夫以外には決して普通の女では有り得ない。奥州はとんでもない爆弾を抱えているも同然だった。
「下手すりゃ武田も徳川も前田も、他の奴だって出て来るじゃねえか! お前の嫁はそういう女だって、何で分かってねえんだよ! お前にとっちゃ普通の女でも、日の本からすりゃそうじゃねえんだよ!」
「まことに申し訳もございません。そこまで気が回らず、目の前のことに気を取られすぎておりました」
「──Shit!」
舌打ちをし、政宗は小十郎を見る。反省しきりの小十郎の姿に、自分の怒り様がやや行き過ぎていたことを認めざるを得なかった。こんな小十郎は初めてだ。
だから悔しくてならない。あの小十郎が。──俺の右眼が。たかが一人の小娘に入れ揚げて、無様な姿を俺の前に晒してやがる。
「小十郎」
「はい」
「さっさとケリつけろ。半端な真似はすんな」
言葉には出さなかった。出したくなかった。
──姐さんを取るか、小娘を取るか。正しいと思う判断をしろ。
「俺はお前を疑わねえ。お前が決めたことなら、認める。姐さんがキレんなら俺が何とかしてやる」
だから、と政宗は言った。
「だから。──俺の前で、イケてねえツラすんな。二度と」
小十郎はただ、頭を下げるだけだった。
それがまた、政宗を苛立たせた。
そしてその夜、城中が震撼した。
慌てて飛んで来た騎馬隊の青年の報告を聞き、政宗でさえ言葉を失った。
小十郎がおきよを家に連れて帰ったのだ。
「ね……」
政宗は呻く。
「姐さんに……俺が焼き討ちされる……」
俺が何とかしてやる──そう言った、少し前の自分を心底恨んだ。
小十郎としては「政宗様がさっさとケリをつけろとおっしゃったから」という気分に過ぎなかった。
「へ」
翌日の午後、小十郎から報告を受けた政宗は、我ながら間抜けな声を出した。
「え、何?」
「何、とおっしゃいますと」
「だから何? え? どういうこと? ぱーどぅん?」
「ぱーどぅん、とはいかなる意味で」
「もう一回聞き直していいですか、とかそういう……何? え?」
「ですから」
小十郎は「なぜ政宗様はこんなことをお聞き直しなさるのか」と思いながらも説明する。
「睨んでいた通り、間者でした。いわば忍です。手元に置いておけば満足に情報収集ができず、国元と連絡を取ると思っていたのですが、中々に頑張っていたようでして」
説明を何度も頭の中で反芻し、理解に必死になっている政宗の様子を、更に詳細な説明を待っているのだと解釈した小十郎は続ける。
「確証が得られるまで泳がせたかったのですが、政宗様が早くケリをつけるようにとおっしゃったので──」
「……ああ、うん、言ったけど……何で家に連れてった次の朝に今まさにこれ?」
「申し訳ございません。妻に仕事の話をしては政宗様に更なるご叱責を受けるかと思いはしましたが、昨夜の段階では妻の協力を得るしか手段がなかったものですから」
「……仕事の話?」
「これからは、妻にもこういった話はしないように相努めます。小十郎の不徳、お許しを」
「……待て、wait、ちょっと待て。マジで」
呻くような主君の声に、小十郎は内心で首を傾げる。
政宗は考える。今までのことすべてを思い出しながら考える。
人払いをしても話さなかったのは? ──どこかにおきよが潜んでいないとは言い切れなかったからだろうか。
妻には話してあります、と言ったのは? ──城内に間者がいるかもしれない、だからしばらく城に長くいる、ということだろうか。
「……小十郎」
「はい」
「……浮気じゃなかった、ってわけ?」
「──はあ!?」
途端に大声で驚愕の意を示した小十郎に、政宗は昨日のことを真剣に後悔した。小十郎の驚愕は演技でも何でもなく、心からのものだった。同時に思い知る。
──役目熱心もそこまで行ったら病気だ、病気!
「浮気──浮気ですか!? 俺が!? 妻以外の女に気を移すということですか!?」
「確認すんな! Sorry! 悪かった! 俺がすげー何もかも悪かった!」
「いくら政宗様でも、この小十郎、それだけは聞き逃せません!」
「悪かったってば! 怒るな! ごめん、ごめんなさい!」
「なぜそのような発想をなさったのか、小十郎にご説明願いましょうか!」
「だーからー! ごめんなさいって言ってんじゃねえかよー!」
「おっしゃって良いということと悪いことがあります! まずは正座なされませ!」
「俺が悪かったから説教は勘弁してってば!」
言いつつも正座をしてしまうのは、幼い頃からの刷り込みである。怒り心頭の小十郎の説教を受けるなど何年振りだろうか。
「で」
たっぷり説教を受け、足も痺れ切った後、政宗は恨みがましい目で小十郎を見る。
「いつ間者って気づいたんだ」
「むしろ政宗様が本気でお気づきになられていなかったことに、俺は大変驚いています」
「ごめんね、馬鹿でごめんね……!」
泣きたくなる心を誤魔化すため身動いた瞬間に痺れた足に触れてしまい、悶絶する政宗を前に、小十郎は溜息をついた。
「言葉に訛りがあったのです」
「あったか?」
「西の訛りですね。……お気づきにならなかったのですか?」
「いや、俺、おきよとほとんど話してねえし。お前と一緒にいた時に挨拶されただけで」
確かにそんなこともあったな、と小十郎は思い出す。だがそれで更に眉をひそめることになった。
「あの時も訛っておりましたが」
「……気がつかねえ程度だって。ほんと俺、分かんなかった」
「いや、分かるはずですが」
「あー分かった」
政宗はぽんと手を叩いた。
「お前、姐さんと話すことが多いからだろ。姐さん、もろに西のイントネーションだしな」
「いんとねーしょん?」
「訛りとかそういう?」
「ああ、確かに……休みの日は一日中喋っていますし」
「さりげなくのろけんな。で、それで気づいたってわけか」
「そうです。しかし、どこの国かは判断しがたく。場合によっては中国までも考慮に入れねばならないと思っておりました」
「だから、わざと国元と繋ぎをつけさせようとしたってわけ?」
「おっしゃる通り。手紙を出す素振りを見せたら抑えるつもりでした」
「……ああ、そう……」
政宗はもう、何を言えばいいのか分からない。これらの騒ぎの元凶が、「政宗様も分かっているはず」という小十郎の過大な評価から来るものだと理解してしまったからだ。己を未熟と思うべきか、でもでもだってそんなの西の姫さんを奥さんにした小十郎じゃねーと分かんねーよと開き直るべきか、どうにも判断が難しい。
「で、家に連れてったのは何で」
「妻に協力させるため、ですね」
「姐さんが何すんの」
「俺としては、どこの国の訛りかを大方で良いから判断させるつもりでした」
「ああ、姐さんならあっちの言葉詳しいだろうしな」
「ところが驚きました」
「何に」
俺はもう驚かねえぞ、今日だけで相当驚いてるから多少のことじゃ──政宗の決意をいとも簡単に、小十郎が打ち砕いた。
「おきよが挨拶をした途端、妻が申しました」
──まァ、懐かしき訛り。オカレンコン(オクラ)は息災かえ。
「……オクラ?」
「俺の口から申し難いながら、オクラだと」
「……毛利、かな……」
「ご明察に感服いたしました」
「分かんねえ奴、あんまいねえと思う。あのファッションセンスは一部だけ惜しいよな」
「ふぁっしょんせんすの意味がよく分かりませんが、政宗様がそうおっしゃるのならそうなのでしょう」
主君への盲目的な忠誠振りを示した後、小十郎は続ける。
「おきよは毛利の透波──忍だったようです」
「まーじファッキン。あの野菜、出雲に押さえられてるくせに奥州に喧嘩売ろうってか。どんだけ距離あると思ってんだよ」
「俺の予想に過ぎませんが」
小十郎は語る。
「毛利は今すぐ、奥州に手を出そうなどと考えているはずがありません。中国からここまでいかほどの障害があるか。全くもって現実的には考えられないでしょう」
「ま、そうだけど」
「毛利の恐ろしさは、耐える力、待つ力だと俺は思っています」
先を見ている。それが何年先か、何十年先かは分からない。だが小十郎は思う。──あれは未来を見る者だ。自分の代だけではなく、先を、先を考えている。だからこそ待つことができる。
「毛利にとって、数十年先の毛利も、数百年先の毛利も同じ存在なのでしょう」
「……って言うと?」
「継がれる想いが絶えなければ、毛利元就という存在も絶えるわけではないと」
政宗はやや沈黙し、やがて「ふうん」と言った。
「言いてえことは、何となく分かった」
「恐れ入ります」
「そういう考え方もあるんだなあ」
姐さんは──魔王はどう思うんだろう、あいつのこと。政宗は不意にそんなことを思う。だが口には出さなかった。言ったところで小十郎が答えてくれるはずもない。片倉の邸で小さな幸せに囲まれて生きるあの女も、きっと答えてはくれないだろう。
「じゃあ、毛利は何のためにわざわざ奥州におきよを送り込んだんだ? 訛りも完璧に隠せねえ未熟な忍じゃねえか。何の役に立つんだ。真田んとこの猿の方がよっぽど使えるだろ」
「男の矜持もありますので、あまり申し上げたくはないのですが、敢えてよろしいですか」
「はいどうぞ」
「妻が」
「……姐さんが?」
「政宗様にお考え頂くこと、と申しておりました」
「──ああもう! 何で宿題にすんの、姐さんは!」
何だよ、どういうことだよ、と喚きながらもしっかり考え始める政宗を眺め、小十郎はふと微笑む。
妻が主君に考えさせろと言ったことが妙に嬉しかった。
妻は普通の女だ。小十郎はそう思っている。だが確かに、他の者からすれば普通の存在であるはずがない。
戦乱の親、魔王、史上に類を見ない天才的な政治家だった。小十郎以外の者にはまだそう思われている。小十郎も本当は分かっている。──妻が望むから、そして己が望むから、普通の女として愛しんでいるだけの話だ。
その魔王が片倉の主君に「考えろ」と敢えて言う。これがどれほど稀有なことなのか、政宗様に分かるだろうか、と小十郎は思う。
小十郎は己の分を知っている。ゆえに考えることはなかった。政宗とは違うものを見る。無論、魔王とも。だからこそ魔王に気軽に訊くことができた。毛利はどういうつもりだったんだ、と。
魔王はくすりと笑って言った。
──この程度も気づかぬ国主なれば、気づく部下も持たぬ国主なれば、当分放っておいても脅威にはならぬ、まァだまだ天下に届かぬ器、ということであろ。
「つまり」
政宗が呻く。
「試されたのか、俺」
おや、と小十郎はつい驚く。随分短時間で気づいたものだ。
「お前が気がつかなかったら、俺、気づいてくれる部下もいねえ間抜けな国主って思われるとこだったのか」
「──おおむね、その通りでもよろしいかと」
さすがに間抜けと口に出すことはできない小十郎の前で、政宗は悔しそうに爪を噛んだ。
「でも、お前が気がついたから俺の勝ちだ」
「そうですか?」
「だって俺、そういうの得意じゃねえから。得意な奴に任せんのが一番いいんだ。得意な奴がそばにいる俺の勝ちだろ」
ああ、と小十郎は不意に思った。ああ、今のお言葉を、家に帰ったら妻に聞かせよう。ほんの僅かに微笑むだろう。あの笑い方が好きだった。いとしい妻が僅かに主君を褒める、あの笑い方が。
「毛利に手紙書いとけ」
「政宗様がお書きになられた方が」
「お前なんか相手にしねーよってやってやりてえんだもん。だからお前が書いて」
小十郎は苦笑する。口調はすっかり拗ねた子供のものだが──言っていることは頼もしい国主だ。
俺は得難い主君を得た、と、胸を張って言える。
「あ、あとさあ」
「はい」
「俺からってことで、姐さんに菓子でも持ってってくれ。俺、ほんと失礼な勘違いしてたし」
お前にも、と口の中で呟く政宗に、小十郎はつい笑ってしまった。毛利への怒りがひと段落し、片腕への無礼を思い出して恥ずかしくなっている姿は──昔から変わらぬ子供のままだった。
「笑うなよ。何だよ!」
「いえ、失礼いたしました。よろしければ我が家へいかがですか」
「姐さんが嫌がるだろ」
「あれもここ最近、暇をしておりましたから、喜びますよ」
嫌な顔をしながらも政宗の好物を必ず一品用意する。政宗がいる限りは滅多に席を外さない。それが小十郎の妻だ。
じゃあ行こうかなあ、仕方ねえなあ、と政宗は渋い顔を装い、隠れた尻尾を振っている。小十郎は微笑む。
得難い君主だ。
たとえ成長途中でもいい。
──そのうち、手放しで褒めるようになるさ。お前の夫の主君をな。
家で待つ妻を想う。
魔王であっても、普通の女であっても、その全てが自分の妻でしかない女。
その妻を傍らに、この主君と共に駆け抜けるこの時代の、何と快いことだろう。
この時代に生まれた幸運を噛み締め、幸せな男は主君と共に家路に着いた。