そもそも、先代からの付き合いがある国だ。不定期にやり取りをすることもある。
血気盛んであり、自らの才能に気付き始めている現当主としては、いずれ魔王をその地位から引き摺り下ろすという意思はあるだろうが、さて、いまだ──吉は魔王の目で目の前にいる隻眼の青年を検分する。
政宗は苦笑する振りをし、認めたくない畏怖心を隠した。やはりこの女にはかなわない、と改めて思う。
否、女ではなく、魔王だ。
天女のように美しい魔王の目は冷たいわけではない。だが何かの感情が窺えるわけでもない。ただただ、目の前にある事実を見ているだけのようだった。
「安土が魔王、織田上総介信長に御挨拶仕る」
向かい合って座った下座から、政宗は礼儀正しく頭を下げる。暫しの間の後、魔王がゆっくりと応じた。
「奥州筆頭にご機嫌よう」
「恐れ入る」
政宗が頭を上げ、控えていた一同は胸を撫で下ろした。伊達との関係を現状維持のまま保って行くことを認める、という魔王の意思表示だったからだ。
安堵したのは当の政宗もまた同様だった。いまだ奥州が魔王軍に対抗しきれないことは分かっている。それは常々、小十郎に言い含められてもいた。織田軍に対しては慎重に慎重を重ねてもまだ足りません、時期を待つのです、と、小十郎は何度言ったことだろうか。
時期っていつだ、と政宗は苛立ちを小十郎にぶつけたこともある。小十郎は正直に「分かりません」と答え、政宗をまた苛立たせた。だがその後の説明に納得せざるを得なかった。
──魔王を倒すことができないのなら、誰かが倒す時を待つしかないのです。伊達軍の現状をお考え下さい。
誰かが倒す時を待つ。そうだ、今はそれしかない。よほど強固な同盟国を複数持たぬ限り、奥州が魔王を倒すことは夢に等しかった。
それにしても、と政宗は改めて魔王を見る。
見ながら小十郎を思い出していた。
今回、小十郎にも同行するように言ったが、最上の動きが不安定であるという理由で断られた。政宗が国許を離れている間に最上が何かをするかもしれない。政治としては正しい判断だ。
政宗は始め、お前も来いと何度も言ったのだが、何かあった時に動ける者が俺しかいません、と小十郎は頑なだった。
その態度で改めて思った。
──自分の妻に逢えるかも知れないのに来ることもなく、そして誰かが倒す時を待つって言えるあいつは、一体どんな気持ちなんだろう。
「……俺なら、自分の嫁のことは言えねえなあ」
思わず零した呟きに、一同はひやりとした。無作法な言葉だったからだ。公式の場での無作法を、魔王はとにかく嫌う。政宗も周囲の反応に気付き、はっとしてつい口元を片手で押さえた。
魔王は無表情のままだ。美しい打掛を纏い、美しく化粧をし、無機質な目で政宗を見ているだけだった。
「筆頭殿」
どこか笑いを含んだ声が上がる。魔王の傍らにいた光秀だった。
「ご結婚の話でもあるのですか。それはめでたい」
「ああ、いや、俺じゃなくて。うん」
「筆頭殿ではないと? ああ、では──」
次の瞬間、政宗は自分が政治的な失態を犯したではなく、私人として魔王を──ひとりの女を傷つけたことを自覚した。
「あの、右目殿ですか。それならお祝いを申し上げなければ」
「違う、違う。魔王さんがあんまり綺麗だから変な妄想したんだ。明智の、馬鹿なこと言うんじゃねえよ」
どうにか軽妙な口調で返せた、と自分では思う。光秀は「それはまた不思議な話だ」と言い、それきり黙った。小十郎に関しては故意の発言だったと認める態度だった。政宗は自らの言が発端とはいえ、主君が傷つくような話に展開させた光秀に嫌悪感を抱く。
魔王は身動きひとつしなかった。
「奥州筆頭」
「失言をお許し願いたい」
「御目文字にありがとう。ご機嫌よう」
話は終わった、出て行け、ということだ。政宗はひたすら自己嫌悪だった。目の前の女に確かに酷いことをしてしまったと思う。
「では、魔王においとまを」
「是」
「──このまま、織田吉殿に御目文字願いたい」
座が一斉にどよめいた。光秀でさえ憎悪をもって政宗を見る。政宗は光秀に一切視線を向けず、ただ、目の前の女を見つめた。まるで睨んでいるような目付きであることに自分では気付けなかった。
「筆頭殿、無礼が過ぎますよ。お引きなさい」
さすがに光秀が声を上げる。だが、魔王がゆっくりと動いた。
足を崩し、脇息にもたれ、胸元から紅い扇子を取り出したのだ。光秀が内心で舌打ちしたことを知る者は誰もいなかった。
「金柑」
「信長公、お待ちを」
「ささと失せ。皆も」
短い言葉ながらも威力は絶大で、さしもの光秀もそれ以上反対することは出来ず、歯軋りしたい気分を抑えながら、吉に──何よりも軽蔑する女に──頭を下げたのだった。
「話」
吉は扇子を弄び、同じように足を崩した政宗に声をかける。
「するなら、し」
「いや、話っつうか」
息を吐き、政宗は苦い顔で髪をかいた。
「悪かったなーって」
「何え」
「俺が変なこと言ったから、明智のが面白がってあんなこと言って」
「そ」
吉の反応は薄い。日頃からこんなものだ、とは、政宗には信じられなかった。
雪の日に片倉家で初めて会った時、溢れんばかりの感情を爆発させたことを覚えている。
藤の花と月の夜、思慕を抑えられずに夫の下へ現れた姿も思い出す。
一面の牡丹の中で交わした言葉の数々は全て覚えている。
その時々の小十郎の姿も、全て覚えている。
政宗にはまだ計り知れない、想像することもできない、ある意味では夢物語のような恋と、政宗が欲する天下統一という夢物語を実現させようとする現実、ふたつを同時に抱いて生きている姿をずっと見ている。覚えている。
──俺は。
「……姐さん」
「ん」
──酷いことを、している。姐さんにも。小十郎にも。
「……小十郎は、独り身ってことになってるから。変な話になって悪かったよ」
──俺が小十郎を手放せるわけがない。あいつは俺のものだ。でも本当は知ってる。俺が小十郎を自由にしてやれば、少なくとも、あいつの恋はかなうかもしれない。
「どうでもよいわえ」
「そう言うなよ」
──けど、俺は。あいつの恋を今、かなえてやることはできねえんだ。かなえてやりたくもねえ。
「つまらぬ話」
「姐さん」
──俺はいつか、日の本を獲る。それはつまり──
「ん」
「これ、私人として言うって前提で言っていいかな」
「申し」
それはつまり、
姐さん、
あんたを殺すってことだ。
小十郎の奥さんを殺すってことだ。
そして俺は知ってる。
小十郎は、それを厭わないってことを。
「あのさ」
「ん」
俺はいつか、日の本を獲る。
だから、姐さん、あんたを殺す。
「小十郎と、別れてくれ」
別れて下さい。
あんたを殺した時に、俺の何より大事な存在が嘆き哀しまないために。
ただそれだけのために。
俺の勝手のために。
俺は小十郎が哀しむ姿を見たくない。
いいや、俺の前では哀しまない。
平然とした顔で言うだろう。
政宗様、おめでとうございます、天下は政宗様のものでございます。
あいつは平気で言うだろう。
そんなあいつを見たくない。
吉は答えなかった。感情を乱された様子もなかった。普通の女なら取り乱すところだが、あくまで吉は無表情だった。
沈黙が場を支配する。生み出した主は自分とはいえ、政宗は居心地が悪くなった。いっそ癇癪を起こして罵られた方がましだとまで思う。
不意に吉が立ち上がる。
「仔竜」
「何」
「ありきに参ろ。供をし」
散歩に付き合えと言われた。想像していなかった言葉に面食らいつつ、沈黙が続くよりはましだ、と政宗は立ち上がった。
「花が好きなのか」
歩きながらも沈黙が続いたため、政宗は目についた花を口実に、隣を歩く女に話しかけた。てっきり吉が先に歩くものだと思っていたが、魔王ではない時の吉は「とりあえず」男を立てる行動をするようだ。流石に政宗に対して半歩後ろを歩く気にはならなかったようだが、前を行かないだけでも政宗にとっては驚きだった。
「花」
「藤もそうだったけど、ほら、これ。何て言ったっけ」
安土の庭園を覆い尽くすかのように咲き誇る、紫や白の花々を示す。
「桔梗」
「ああ、そうだ。朝顔ね」
「昔は、ナ。朝顔と申したわえ」
「今は桔梗か。うちの方にもあるけど、ここまで綺麗にできねえな」
「良い庭師がおればよいではないの」
「中々いなくてねー。小十郎の家の庭師は腕がいいんだけど」
「そ」
「源爺っての。片倉の家に代々仕えてる、元は武士でさ。源爺の代で武士やめたみたいだけど」
「そ」
それきりまた、吉は黙る。政宗も黙り、再び並んで歩いた。
ちらりと吉の横顔を見る。相変わらず表情がなかった。
それでも綺麗だな、と思った。天女のようなと称されることにも納得できる。戦場で彼女を見た敵兵は畏怖し、配下の兵は大いに鼓舞されるだろう。
──……俺にもそういうの、あるって思ってるけどさ。姐さんにはまだかなわねえんだろうな。
吉が時々足を止め、桔梗を眺める。政宗は吉を眺める。花を見る女は本当に美しく、だが、およその人が想像する深窓の姫のようで、まさか彼女がかの魔王だと誰が信じるのだろう、と政宗は強く思う。
だからだろうか。笑いもしない、表情も見せない吉を見て、罪悪感で胸が痛むのは。
故あって堂々と夫と共にいられない女に、自分の都合で別れろと言ったことに対して、今になって胸が痛む。全くもって勝手な話だ。別れろと言ったことも、胸が痛むことも。
吉が不愉快でないはずがなかった。それでもなぜ怒らなかったのか。感情を見せなかったのか。共に散歩などしているのか。政宗は不思議でならなかった。
「姐さん」
「さっきの、小十郎の話なんだけど」
「仔竜」
「え」
話を遮るように呼びかけた吉が、手元の桔梗を指差した。
「手折り」
「……欲しいのかよ」
「よいから」
花を折ったことなど子供の時以来だ。他の花を傷つけないように、精一杯の気を使いながら──吉がそれを見て、眉をひそめて微笑んだことも知らずに──見事に咲いた一本を手折る。
「ほら」
政宗が花を差し出すが、吉はゆっくりと首を横に振った。政宗は意味が分からない。欲しいから手折れと言ったのではないのか。
吉が言った。
政宗以外には誰もいないと分かっていても、他の誰かに聞かれることを恐れるかのように、小さな声で。
「……いちしろく いろにはいでじ」
それだけを言った。政宗はまた意味が分からなかった。古語であることは分かるが、それだけでは何を言いたいのか理解できない。
何なんだよ、どういう意味なんだ──言いかけた時、吉は元来た道を歩き出した。
政宗は躊躇い、それでも付いて行こうと歩き出す。だが不意に吉が言った。
「ありがとう、御機嫌よう」
深く息を吐き、政宗は足を止める。帰れ、と、今度こそ強く言われたのだと分かった。
ここに連れて来たのは、この桔梗の花を見せたかっただけなのだろうということも。
「……男に花を渡すなんざ、女なのに伊達だねえ、って」
──言えれば、いいんだけどな。
きっと意味のあることだ。いちしろく。その言葉も、桔梗に関係のあることなのだろう。
分からない自分を歯痒く思う。未熟だと思い知り、悔しくなる。
──本当に、何もかも。俺は未熟なんだ。
「姐さん」
歩いて行く吉に呼びかける。
「これ、奥州に持って帰る。それでいいのか」
吉が足を止め、振り返った。
政宗は唇を噛み締める。また自己嫌悪に襲われる。
あんなことを言わなければ良かった。
自分がもっと成熟した男でいられれば良かった。
誰とてそう思うだろう。自己嫌悪に襲われるはずだろう。
振り返った女がそんな顔をしていれば。
微笑もうとしてかなわず、泣きそうな顔をしていれば。
こいまろび
恋ひは死ぬとも いちしろく
色にはいでじ 朝顔の花
転がりまわるほど
あの人に恋焦がれて死んでしまったとしても
誰が桔梗の花の色のように
顔に出してやるものか