奥州の冬は長く、寒い。
それはずっと昔から知っていることだ。
吉は寒がりだ。
他の季節ならば規則正しい時間に起き、夜も小十郎が遅くならない限りは一定の時間に眠るが、冬だけは違った。いつまでも臥所から出たがらず、小十郎を見送りもしない。使用人たちが心配するほど起き上がろうとせず、時には布団を頭から被り、昼過ぎまで起きない始末だった。夜も不規則な時間に眠る。小十郎が帰って来るまで決して眠らない。小十郎もどれほど役目が立て込もうとも、冬はできるだけ早く帰宅するようにしていることは、誰から見ても明白だった。
奥様は全く──いくら尾張より寒いと言っても──使用人たちは心配の後、どこかしら呆れ始める。
だが、怠惰なわけではない、ご事情があられるのだ、と庭師の源爺が言ってからは、その口さがない囁きもぴたりとやんだ。細かい事情を知っている者は源爺しかいない。源爺は細かいことを他の誰にも語らない。だが、先代から片倉家の絶大な信頼を受ける元奥州武士が言うことは絶対だ。
そして誰もが気づく。──そうだ、あの小十郎様が。いくら奥様にお甘いといっても、事情もなしにこんな生活をお許しになられるはずがないじゃないか。
事情があるのだ。使用人の誰もが納得し、誰かが言い出したわけではないが、この話を家の外の誰にも漏らしてはならないと心に決めた。そう決める程度には主夫婦は慕われていた。
政宗がいかにもふと思い出して寄ったという風情で顔を出しても、吉は会うことを拒んだ。断るのは源爺の役目だった。政宗は怒りもせず、そっか、ごめんって言っておいて、この季節は俺の顔なんか見たくないよな、と茶も飲まずに片倉家を後にする。話を知った小十郎は深く謝罪したが、謝られるのも嫌だ、と政宗は突っぱねた。
俺の顔なんか見たいもんか、姐さんが。
俺が尾張に帰したんだ。
雪の降る日に。
小十郎は返す。
それは違います。
帰すようにはからったのは小十郎です。
政宗様には何ら非はおありではなく、全てはこの俺が。
政宗は僅かに微笑んだ。
哀しそうな笑い方だった。
姐さんってさ、どんな女よりも自由で強くて、誰の言うことも聞かないでさ。
政治に利用されるなんてこともなかったはずなのにさ。
俺、奥州の都合で、姐さんに酷ぇことしたんだよな。
そこらへんの女みたいにさ。
政略の道具みたいにさ。
それは違います、と小十郎は言った。何度も言った。
だが政宗はお前こそ違うと言って譲らなかった。
あの時は守れなかった。
俺に力が足りなかった。
織田の包囲を恐れて、政治的に乗り切る自信もなくってさ。
なあ、小十郎、本当は分かってたんだろ?
「俺じゃ、あの時の奥州を守れなかったって」
本当は、分かってるんだろ。
いいえ、と小十郎は言った。確かに言った。
だが政宗には分かっていた。小十郎も、政宗が分かっているのだと分かっていた。
政宗では乗り切れない、守り切れないと思ったからこそ、小十郎は妻を尾張に帰したのだと。
あの雪の日、小十郎と吉は深い傷を負った。
だが政宗もまた同様だった。
雪が降るたびにそれぞれが思い出すのだ。
妻を突き放した瞬間を。
夫に突き放された瞬間を。
背中を預ける男に未熟だと突き付けられた瞬間を。
臥所から出ないのだから着替えもしない。化粧もしない。
風呂には入るがそれだけだ。
仔猫が寄ってもろくに相手をする気になれず、諸将からの手紙にも返事を書いていない。
せめて信玄には、晴久には、幸村にはと思いながらも、襖の向こうに聞こえる雪の音に耳を塞ぎたくなる。
「奥様」
火鉢に炭を足しに来たおこうが、努めて明るく声をかける。
「梅が少し、咲きました。もうすぐ春が参りますよ」
吉は答えなかったが、僅かに身動くことで聞いている意志を示した。反応が全くない時もあるおこうとしてはこれだけでもほっとする。この気鬱だけはおこうにはどうにもできない。できるだけ部屋を暖かくし、吉が何かを望んだ時にすぐに返事をし、誰よりも早く小十郎の帰宅を教えることに専念していた。小十郎が帰れば吉は起きるし、声を出し、微笑む。
その日、小十郎の帰りはいつもより早かった。おこうに教えられた吉は起き上がり、身支度を整える。だがそれが終わる前に小十郎が部屋に入って来た。
雪も満足に払わず、とにかく急いでやって来たという風体だ。これも冬の毎日のことだった。
「帰ったぞ」
「お帰りなさいまし。まァ、お急ぎで、支度も満足に終わっておらぬのに。恥ずかし」
吉が微笑む。小十郎も微笑み返す。それを見たおこうは安堵の溜息を隠さねばならなかった。
──奥様が今日、初めてお笑いになった。よかった。
「支度なんざ関係ねえ。おこう、ご苦労だった」
おこうは主夫婦に頭を下げ、部屋を出る。
小十郎は息を吐き、火鉢の前に座る。吉は黙って手拭を出し、夫についた雪を払った。
「きつ」
「はい」
「少し、梅が咲いた。さっき庭を見たんだ」
「先に、おこうに」
「そうか」
「ん」
「城にも咲いた。政宗様が喜ばれてな」
「そ」
吉は小十郎の雪を拭い去ろうとする。
だが、その白い指を夫が強く掴んだ。今まで外にいた夫の指は冷たく、吉にあの日々を思い出させる。あの粗末な小屋に住んでいた日々、外に出で戻った夫の指を取ってあたためた。あの時と同じ冷たさだった。
表情を消した妻の心情を察し、だが、そのまま小十郎は言う。
「見るか」
「見る?」
「梅を。見るか」
吉は答えない。小十郎は更に言う。
「梅を見るんだ。雪を見るんじゃねえ」
お前が嫌いな雪を見るんじゃねえ。
春が来るんだ。
梅を見よう。
春を見よう。
「一緒に見るか」
吉は答えない。
唇が僅かに震える。
何かを言いたいのだ、と、小十郎には分かった。
何を言いたいのかは分からなかった。
見たいと言うのか、見たくないと言うのか、それとも別の言葉なのか。
本当は分かっている。小十郎は思う。
本当は分かっている。
俺たちはいつか、あの日を乗り越えなければならない。
雪を見なければならない。
今はまだ辛すぎて見られない。
俺も、お前もだ。
それでも、雪は降っている。
それでも、雪はいつか熄む。
雪が熄んでも俺たちは共にあるのだと、共に分かるために。
せめて今は、雪の向こうにある梅を見よう。
雪が熄んだ場所に咲き誇る梅が開き始めているのだから。
指を掴んだ手に力を込める。
僅かな躊躇いの後、強く握り返された。
小十郎は息を吐く。
他の誰にも分からない、強い決意の溜息だった。
見よう。
そう言いかけた時だった。
「いや」
小さな、消えそうな声だった。
俯いた女の唇から漏れた、あまりに悲痛な声だった。
握った指が震えている。
すまなかった。小十郎は小さく言った。
ごめんあそばし。吉は震える声で言った。
一体誰に謝っているのか、互いに分かってはいなかった。
「小十郎様、奥様」
襖の向こうから源爺の声が聞こえる。
「政宗様から、奥様に御文が」
「──政宗様?」
吉の指を離そうとしたが、咄嗟に何かを恐れたように吉の指に渾身の力が込められる。切り裂かれるような痛みが走った。
指に触れた手ではなく、胸に。
「大丈夫だ」
源爺に聞こえないように囁くと、ようやく吉は指を離す。
僅かに開けた襖から手紙を受け取り、小十郎は吉に手渡しながら肩を引き寄せた。
吉は緩慢な仕草で手紙を開く。
常の政宗よりも丁寧に、時間をかけて書いたのであろう文字がしたためられていた。
梅の花 降り覆ふ雪を包み持ち
君に見せむと 取れば消につつ
梅の花に降り落ちる雪を手に取り
あなたに見せようと思っても 消えてしまうのだ
(だから見に来ませんか)
吉が息を吐いた。長く、震える吐息だった。
小十郎は肩を抱く手に力を込める。
政宗の精一杯の謝罪なのだと、小十郎は知っていた。
吉も知っていた。
誰よりも、吉は知っていた。
政宗が謝罪することなど何ひとつないのだと。
政宗が。
夫が。
自らが。
誰の謝罪も後悔も本当は必要はないのだと、吉だけは分かっていた。
「わらわとて、仔竜なれば」
小十郎は妻の顔を見る。
「帰したから」
日の本の誰よりも政を知り抜いた女は、呻くようにそう言い、それきり黙った。
小十郎は妻の肩を抱いたまま、雪の音に耳を傾ける。
あの雪の中に咲いた梅の枝を一本、明日になったら源爺に折ってもらおう。
妻に見せれば少しだけ笑うかもしれない。
春が来るんだ。
そう言ってやりたかった。
今はただ、それしかできることがなかった。