浅き夢見じ 酔ひもせず



色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず




妹の尊子に手習いを見てくれと言われ、晴久は苦笑いを繰り返すことになる。溺愛する妹でなければ付き合いたくもないほど、その字は乱れていた。
嫁に出すのが躊躇われるな。お前、しっかりしろよ。
兄の本心の呟きに、尊子は頬を膨らませる。お嫁になんて行かなくていい、と強がる姿は兄にとって可愛いものだった。
妹の拗ねた具合に笑いながらふと思い出し、昔に吉にもらった手習いの本を貸してやることにする。吉がいまだ、安土で魔王として生きていた頃のものだった。
尊子はその達筆に驚き、感動し、汚さないように丁寧に使う、と兄に何度も約束した。俺もそうだったな、と晴久は思い出す。
まずは晴久の目の前で仮名を書き始める。いろはにほへと、ちりぬるを──尊子の字は相変わらず稚拙だったが、繰り返せばいつか多少は見られるようになるだろう。この時代、美しい文字を書く力も立派な嫁入り道具だ。晴久は尊子に武将や政治家としての能力は求めていなかったし、無いということも分かっていた。出雲の権勢があるうちに、大いにもったいぶって恩を着せ、良い国に嫁がせてしまいたかった。
そんなことを考えていたら、ふと尊子が最もなことに気付いた。
お兄様、素敵なお手本だけれど、でも、どうして、女文字のお手本をお兄様がお持ちなの?
晴久は妹から筆を取り、さらさらと紙の上に走らせる。尊子が目を見開き、まあ、と驚嘆の声を上げた。
兄が書き上げた文字は達筆だった。だが、見事なまでに女文字だったのだ。妹の反応に晴久は笑う。
書けたら面白いかと思って、きつに手本をもらったんだ。
面白いより、凄いわ、と尊子は興奮しきりだった。兄の多才さはよく知っていたが、こんなことまで出来るとは思ってもみなかった。
俺よりは上手くなってくれ、と笑い混じりに言われ、焦った尊子は再び筆を持ち、手本と睨めっこを開始した。
その間、晴久は庭を見て過ごす。庭を見ながらも、あの案件はどうだった、あっちの案件はどうなった、と無意識に考え出していた。一時はそんな自分に嫌気が差したものだが、今はもう、それが当然だと思っていた。目まぐるしい情勢の中、日の本の守護を名乗るからには考え続けなければならないことが山のようにある。
い、ろ、は、に、ほ、へ、と。
無意識か、尊子が書きながら文字を声に出している。
ち、り、ぬ、る、を。
無意識だった。晴久は唇を動かしていた。
わ、か。
そこで晴久は言葉を切る。首を傾げ、尊子は筆を止めて兄を見た。そこで止めるとは思わなかったのだ。わかよたれそ、つねならむ。我が世誰そ、常ならむ──普通はそう続けるものなのに。
だが兄が無意識で声を出したことを知り、どうしてそこで止めたの、と訊かないことにした。
兄は庭を見ていた。
否、庭を見ているようで、その実、尊子には分からない何かを見ていた。
晴久がまた、小さく声を出した。
よ、た、れ、そ、つ、ね、な。
また妙な場所で言葉を切った兄を、尊子はじっと見る。兄は反応しなかった。たまにある顔だった。ここにいるようで、ここにはいない。
砂と風の無何有の中に意識を佇ませている。
誰かのそばにいるようで、いない。
こんな時の兄は好きではない。理由も分からず哀しくなりながら、尊子は唇を噛み、再び筆を走らせることに専念した。兄が自分を思い出してくれた時、少しでも褒めてもらいたかった。
妹のそんな心も知らず、晴久は思い出す。
いびつな太陽に、心底、憎まれた瞬間を。
そしてそのいびつな太陽に、心底、笑いかけてやった瞬間を。




三河と同盟を組んで暫くした頃だった。家康は相変わらず、晴久の冷たさを砕こうと立ち向かっては返り討ちに遭う日々だった。
お前と友達になりたいわけじゃねえ、と晴久は何度言ったか知れないし、晴久殿と友達にはなれなくても少しでも分かりたいのだ、と家康は何度言ったか知れない。
押しが強い家康に閉口し、一度くらいはそこそこ長めに三河に逗留してやればいいだろう、と晴久は諦めた。三河なら他に足も伸ばしやすいことだし、帰りに広綱の所に寄り、白い虎と遊ぶのもいいと思った。
家康は素直に喜び、出来うる限りのもてなしをしようと奮闘した。晴久としては礼儀に悖らない程度で充分だったのだが、家康はとにかく晴久を喜ばせたがった。
うんざりする晴久に、家康の側近が困ったように笑いながら教えたものだ。
あの方は人を喜ばせるのがお好きなのです。少しでもお気に召したら、喜んで差し上げて下さい。
いびつなもんだな、と晴久は思った。あの太陽は自分が歪んでいることに気付いていない。
だからずっと。晴久は声に出さずに呟いた。滞在中、何度も。
だからずっと、きつは、お前を──心配していたんだ。だから冷たかったんだ。馬鹿野郎が。
とりあえずは客人として、最低限の礼儀は貫く。好意に与れば礼を言い、おそらく力を入れて準備した宴は楽しんだ顔を見せてやる。
そのたびに家康は嬉しそうだった。
家康を見る周囲も嬉しそうだった。
その全てを見る晴久は、やはりいびつな太陽だ、いびつな国だ、という思いを新たにした。
家康が政務の間、忠勝が護衛についた。いらねえよ、と本気で断った。出雲を一人でふらりと気ままに歩く癖がついている晴久にとって、忠勝は目立ち過ぎた。だが家康は退かなかった。
晴久殿に何かあったらワシは出雲の民に申し訳が立たん、どうか忠勝を連れてくれ。
溜息をつき、晴久は諦めた。晴久の譲歩を周囲が喜んだ。
気持ちが悪い。晴久は心底そう思った。そしてまた、天女の苦悩を思い知った。
天女は一度として、家康について深く語ったことはなかった。諸将も首を傾げるほどに吉は家康に冷たく、幼い頃から御存知なのに、と不審がられたものだった。
晴久もはじめは不思議だった。
だがいつの頃からか、そう、本能寺のあの日の少し前、天女のそれは正しいことなのだと直感した。
天女──姉に隠し事はしない。言いたいことは言う。だから言った。
なあ、きつ。無理するなよ。俺知ってるよ。
吉は疲れたように──この頃、限られた人間の前以外では決して顔に出すことはなかったが、吉は疲れていることが多かった──晴久を見た。
無理。何を。わらわが無理をしておると申すかえ。
晴久は答えた。
全部ぜんぶ、抱えなくていいよ。俺がいる。もしも徳川が何かを間違えたら、俺がいる。
全てを言わなくても、吉は理解した。そして眉を顰めて微笑み、晴久を手招きし、滅多にないことだが──晴久の頭を胸に抱いた。
晴久がおるの。そう、晴久がおったわえ。おってくれたわえ。
それだけで充分だった。全てが通じた。
もしも徳川が──太陽と称されるあの青年が何かを間違えたら、その時は。唯一無二の女の鼓動を聞きながら、晴久はそう決めた。
家康に初めて会ったのは織田の再挙兵の後、吉が奥州へ嫁ぎ、三河が出雲への同盟を持ちかけた時だった。
家康を見た。本当に太陽のような、美しい力を持つ青年だった。その場にいるだけで誰もが微笑みたくなるような、強い何かを持つ者だと思った。
なるほどな、と晴久は独りごちた。なるほどな、きつが心配していたのも分かる、と。
同盟の話し合いの初手からきつい言葉を浴びせられ、家康は驚くどころではないという顔をしていた。誰にも言われたことがない、ともすれば暴力のような言葉の数々だったのだから当然かもしれない。
後になり、家康は言った。
さすがは出雲守護代、信長公の弟と言われるだけはあると思ったよ。きつ殿にも冷たくされたものだ。
そうかい、と晴久は鼻で笑っておいた。そんな笑い方を誰かに向けられたことのなかった家康は戸惑っていたが、すぐに晴久に強い興味を持った。
何回目かの同盟の確認時、少し長く逗留すると言われ、家康は喜んだ。初対面はあんなことになったが、ワシはもっと晴久殿を知りたいのだ──取り繕うこともなくそう言った。
そうかい、と、また晴久は鼻で笑うだけだった。
逗留中、何度か城下を歩いた。忠勝は無言で付いて来た。はじめは気になったが、やがて風景のひとつだと思うようにすると気にならなくなった。戦国最強、それがどうした──晴久は本気でそう思っていた。
敵にすれば恐ろしい、味方にすれば心強い。晴久はその考えが嫌いだった。恐ろしい敵なぞいない。一番恐ろしいのは敵ではない。
欲を欲と気付かず、大義名分にすり替え、欲に塗れた己の闇を希望、夢と信じる者だ。
城下を歩いていた時、不意に道の先が騒がしくなった。忠勝が独特の呼吸を吐き、晴久を守る態勢を取る。だが晴久はあっさりとその横を通り、忠勝を狼狽させた。
人だかりが出来ている。その中央で男二人が言い争っていた。
俺じゃねえ。濡れ衣だ。みすぼらしい格好をした男が、裕福そうな商人の男に必死で訴えている。商人は怒り心頭の顔で、いいや、お前だ、お前だけだ、と何度も繰り返した。
おい、と晴久は忠勝に声をかけた。
ここには見回りの兵はいねえのか。普通、こんなことすぐに止めに来るだろう。
忠勝は困ったように、あるいは、やや恥を感じたかのように、いない、というような態度を示した。ふうん、と晴久は返した。
誰かが言った。
出雲の守護代さんだ。
それで視線が集まる。顔には出さなかったが、晴久はうんざりした。明らかに自分に仲裁を求める目をしていたからだ。騒ぎの渦中に「とても偉い人」が現れれば、一般の民はどうしてもそんな気分になるだろう。晴久は関わりたくなかった。他国の揉め事はどんなに小さいことでも嘴を突っ込むべきではない。その国にはその国のやり方がある。
だが彼らは日の本の守護を名乗る男に熱い目を向けていた。晴久は諦めた。
何があった、双方説明しろ。
晴久の命令に、二人は口々に主張を述べた。晴久は辛抱強く、黙って二人の話を最後まで聞く。
商人の家から盗まれた高価な櫛が高利貸しに持ち込まれた。誰が持ち込んだかは不明だった。だが普段から貧しい暮らしをしている男がなぜか小金を持っており、高利貸を質したところ、その男だったかもしれぬ、はっきりとは覚えていない、という曖昧な答えが返って来た。しかしその答えで充分だと思った商人は男を責め立てたのだ。
俺じゃねえ、俺じゃねえ。貯めてた金をやっと遣ったんだ。たまには美味いもんを食いたかったんだ。俺がずっと貯めてた金だ。貧しい男は必死だった。盗みは死罪も有り得る。良くても指を折られる。細々とした小さな仕事で食いつなぐ男にとっては死活問題だった。
嘘をつくな、お前しかいない、と商人は尚も責め立てる。
ああうるせえ、と晴久は思った。出雲では有り得ない城下の騒ぎだった。すぐに巡回の兵が駆けつけ、然るべき機構に委ねる仕組みを確立させている。よほどのことでなければ晴久の耳に入ることすらないと言うのに。
だが晴久はまた、分かっていた。これは家康の治世が悪いからではない。いまだ発展途上だからだ。天下を諦め、資金もあり、内政に力を注ぐ出雲と、誰よりも天下に近い場所にいる三河の内政を比較することは愚かなことだった。
守護代さん、どうでしょう。誰かが恐る恐る言った。晴久は溜息を押し隠して答えた。
双方、母は健在か。
二人は何を言われたか分からぬかのようにきょとんとし、やがて二人とも、他界しました、死にました、と答えた。
そうか。晴久は頷いた。
そうか。では再び問う。双方、母の名に賭けて誓え。──己が主張は正しいと。一片の嘘偽りなきものと。一片とて私情をまじえず事実を知っているからこそ述べたのだと。
貧しい男はすぐさま答えた。叫ぶように答えた。ええ、ええ、誓います、俺じゃねえ、俺は嘘なんかついてねえ。
商人の男は言葉に詰まった。周囲がどよめいた。晴久は何も言わなかった。
顔色を赤くする商人の男と、それを睨み付ける貧しい男を眺めていた。
やがて忠勝が晴久を促す。晴久は返事もせず、身を翻し、その場を立ち去った。
流石は守護代さんだねえ、天下を護る国のお人だねえ、これなら家康様を選んで当然だねえ──人々の賞賛の声が聞こえる。
馬鹿じゃねえの。晴久の小さなその呟きは、傍らを歩く忠勝にしか聞こえなかった。
城に戻り、薄々勘付いてはいたものの、晴久は明らかに自分が監視されていることを肌で感じた。特に不快感は抱かなかった。いかな太陽とて、内側に得体の知れぬ黒点を抱えれば監視のひとつもつけるだろう。そしてたった今の城下での話も既に家康の耳に届いているはずだ。
それはそれで構わねえさ、と晴久は独りごち、胸元から取り出した扇子で軽く肩を叩いた。
扇子を開いて仰ぎ始めるのと、家康がやって来るのはほぼ同時だった。
家康はやはり城下での話を既に聞いていて、流石だ、その場にいたかった、と掛け値なしの賞賛を口にした。
母の名に誓えなどと言われたら、嘘がつけるはずがない。笑う家康に晴久はにこりともしない。
お前がいたらお前が裁定するものだろうよ、と晴久が言うと、それもそうかとあの太陽のような笑い方をした。
そして家康は扇子に興味を示す。懐かしそうな目になった。
噂の扇子だな。きつ殿が昔、使っておられたものか。見覚えがある。大層優雅だった。どういういきさつで頂戴したのだ?
まあ色々とな、と晴久は答えるに留めた。家康は苦笑する。
いや、踏み込んでしまったのならすまない。ワシの悪い癖なのだ。気になる相手のことは何でも知りたくなるんだ。
晴久は冷たく返す。
お前が知りたいのは俺のことじゃあねえだろう。俺を通してきつの今を知ろうとするな。俺を通してお前の知らないきつを知ろうとするな。
家康は何かを言おうとした。謝ろうとしたのかもしれない、と晴久は感じる。だから遮るように言った。
お前が実際に見て、話をして、お前が覚えているきつが、お前の中のきつだ。俺から聞いたって、誰に聞いたって、そんなもんはお前のきつじゃねえ。
晴久殿は。家康が少しばかり、硬い声で言った。
晴久殿は、難しいことを言う。きつ殿はきつ殿だ。誰から聞いても、どんな話でも、懐かしい人の話は聞きたいと思うものじゃないか。
そうかい。晴久は答えた。そうかい。俺はそう思わねえよ。知りたきゃ会いに行く。気になりゃ話をする。どんな障害があってもそうする。自分で知りたい。自分で見たい。俺はそうやって生きている。
晴久は言わなかった。家康に言っても仕方ないし、教えてやることでもないと思ったからだ。
言わなかった。
きつはそうしていた。
魔王はそうしていた。
だから俺もそうすることにした。
そうしたいから国を安定させた。
それは俺が成すべきこと、尽くすべきことと一致した。
だが、言ってやる必要はないと思った。
家康は何かを感じ取ったのか、ふむ、と息を吐いた。
ワシも出来ることならそうしたい。だが国主たるワシがそうそう簡単にできることでもない。出雲や、当時の安土ほど内政が安定していればともかく、三河はまだ無理だ。
そうかい。晴久はまた、そう答えた。
そして扇子で口元を隠し、お前の相手はもうたくさんだ、という意思を示した。
家康は苦笑し、言う。
その仕草、きつ殿にそっくりだ。ワシに冷たいところも。
暫し考え、晴久は扇子を閉じた。
きつはお前に冷たかったか。そう問うと、家康は肩を竦めた。
幼い頃はよくしてもらったが、な。女々しいことを言った、忘れてくれ。
女々しいか。晴久は更に問う。家康の表情が硬くなる。
女々しいことだろう。惚れた女性に冷たくされたことが忘れられないなど。
悔しいのか。今でも。
晴久のその問いに、家康は答えなかった。失礼、と言い、部屋を出て行った。晴久は冷たい目で見送り、馬鹿野郎が、と呟いた。
その日の夜に開かれた宴で再び会った家康は、先ほどは失礼した、と素直に謝った。いや、俺も言い過ぎたよ、と晴久は返す。いかにも口先だけというそれに家康はやはり戸惑っている様子だったが、心配そうに見守る周囲の手前、すぐに明るい顔を作ってみせた。それで周囲は安心し、晴久は扇子を開き、小馬鹿にした笑いを隠したのだった。
宴が進み、昼の晴久の裁定の話で盛り上がる。同席した武士たちは口々に晴久を讃え、家康も改めて賞賛した。大したことじゃねえさ、と晴久は本音を言ったが、彼らはそれを謙遜と取った。
それから家康は三河の将来について熱く語り出す。理想であると分かってはいるが、と強く口にした。晴久は特に頷きもせず、さりとて否定もせず、話は聞いてるよ、という態度だけを示していた。興味のない話だが、立場として聞かなければならない時の態度だった。
その話もやがて終わり、今度は晴久についての話になる。誰かが言った。歌や書にも通じておられると評判の──最近は何がお好みで。
晴久は暫し考え、扇子を弄びながら答える。
いろはにほへと。
子供でも知っている手習いの歌に、座は一瞬反応に困る。だがすぐに家康が明るく言った。
基礎の基礎だな。大事なことだ。
晴久は軽く声を出して笑う。自分の前では滅多にないことに、家康は僅かに嬉しくなり、話を続けた。
色は匂へど、とは、やはり雅だな。基礎の基礎でありながら実際に書くと難しい。意味も深い。晴久殿の解釈はどうなのだ。
客人に花を持たせようとしていることを感じ、晴久はまた笑った。
まあ、仏教だからな。
晴久は言う。
金光明最勝王経音義。知らねえわけじゃねえだろう。
家康は頷いたが、すぐに咳払いをした。
知らないわけではないが、詳しいわけでもない。恥ずかしいことだが。
座の者たちも同じような顔をし、苦笑を漏らす。晴久は少しだけ教えることにした。全てを教える筋合いはなかった。
いろはにほへと、ちりぬるを──そうじゃねえんだ。いろはにほへと、ちりぬるをわか。七つの音ごとに区切る。全部に漢字が振られてる。漢字の発音の声調のために作られた形式、って言えばいいのか。
七つで区切るのは何か意味があるのか。家康が本当に興味を持った顔で問うた。こいつは何でも知りたくて仕方ないんだろう、と晴久は思いながら答えた。
あると言えばあるし、ないと言えばない。
どちらなのだ。家康は笑う。さあな。晴久も笑う。晴久が笑ったことが嬉しくて家康は笑い、二人が笑っている姿に安堵した周囲も笑う。図らずも晴久が三河に来てから初めて、座が笑いに包まれた夜だった。
翌朝、晴久に文が届けられた。出雲の尊子の名の文だった。中を改められた跡を見つける。巧妙に跡を隠したのだろうが、改められることを予測していた人間の目には分かるものだった。晴久は特に不快ではなかった。改めて当然だ、と思っていた。自分が家康と同じ立場ならそうするからだ。
だが同時に分かってもいた。これは家康の意思ではない。家康はこういったことを望まないだろう。監視をつけられていることすら、家康の意思ではないと感じていた。太陽を囲む者たちの、いわば忠義心が見え隠れする。
忠義心ってのは忠義を向けられる人間だけが心地よく感じるもんなのさ──誰に言うでもなく呟き、文を開く。
文を読み終える頃、家康がやって来た。
聞いたのだが、妹御から文が来たのだって?
晴久は素直に、ああ、と答える。
そういや、明日の昼に帰る。今日は城下で土産でも見せてもらうよ。
それならいくらでもワシが用意する、と家康は勢い込んで言った。一番よいものを選ぶから、ぜひ持って帰ってくれないか。三河にも出雲とは違うよいものがたくさんあるのだ。
城下で見たいんだよ、妹がそういう庶民的なもんが好きだからさ。
晴久が答えると、家康は笑った。
では、ワシと一緒に城下に行こう。最後くらい、嫌な顔をせずに付き合ってくれ。
晴久は笑った。
いや、俺もお前にそう言おうと思ってた。お前と城下に行きたい。
意外な晴久の言葉に、家康は一瞬唖然とする。
だがすぐに満面の笑みになり、それは嬉しい、是非行こう、すぐに行こう、と子供のようにはしゃいだ。
そう急ぐな、昼を食ってからにしよう、と晴久が宥めるのが大変なほどだった。
昼まで家康は晴久の部屋に留まり、何くれとなく話をしたがった。晴久もそれに付き合う。普段ほど冷たいあしらいはしなかった。
昨夜のいろはうたの話を思い出した家康は、恥ずかしいことだが、とまた言った。
恥ずかしいことだが、詳しく教えてくれないか。中々学ぶ機会がないのだ。
晴久は快諾し、使用人に筆と紙を用意させる。
家康が期待に満ちた顔で手元を覗き込む中、さらさらと書き上げてみせた。

以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

達筆だな、と家康は嘆息を吐いた。言われ慣れている晴久は特に嬉しくもない。
それから晴久は、昼までこの形式について家康に講義をした。之ってのはシって読むんだ、あとこっちの字は、と晴久は砕いて教えてくれる。丁寧で分かりやすい講義に家康は夢中になり、時に質問をし、答えを得て、少年のように顔を輝かせる。
ありがとう、と何度も言った。
ありがとう、晴久殿。新しいことを覚えられたのも嬉しいが、何より、晴久殿がワシに教えてくれたことが嬉しい。
そうかい。晴久はにべもなく、だが僅かに微笑んで言ってやった。
そうかい。他にも面白い意味があるんだが、帰って来てからにしよう。
家康はそれにも喜び、今日は素晴らしい日だ、と言った。
晴久はまた微笑んだ。
昼食を食べ、忠勝を連れて城下に下りる。忠勝がどことなく自分を警戒していることに気付いた晴久は、なるほど、こいつは見た目ほど馬鹿じゃあないらしい、と思った。
家康に気付いた民たちが喜びの声を挙げ、家康もまた、それにいちいち返答する。愛される国主、気取らない国主、まるで太陽のような──見ていた晴久は本当に、心底、気持ちが悪いと思った。
歪んだ国だ。
そう、心の中で呟いた。
肌で感じる。だから分かる。
分かる者は一握りだろう。それも分かる。
そして歪んだままでも、この国は、家康は、何ひとつ困りはしないということも。
悪を許さない。それが家康だ。
悪を許さない。闇を払う。民のために。笑顔のために。穢れなき太陽。正義の光を惜しげもなく民に注ぐ。
ああ、素晴らしい。晴久は思う。
素晴らしい。何て素晴らしい。素晴らしい──歪み。
その歪みをずっと案じていた女がいた。晴久は知っていた。今も案じている。晴久はよく知っていた。
安土にいた頃から、否、それ以前から家康に冷たかった女。
奥州に嫁いでもその冷たさは変わらず、むしろ今は完全に拒絶しているに等しい。
晴久は知っていた。噂に過ぎないが、不名誉な噂は大抵が真実だ。吉は家康よりも身分が低い男と結婚した事情を理由に、三河の国主様にお気遣い頂くことは何よりも心苦しい、と、恐ろしく他人行儀に家康に文を返している。家康が何度も吉に文を書き、気にしないで欲しい、と繰り返していることも知られていた。稀に吉から返信があるが、やはり他人行儀で、署名は必ず片倉吉となっていた。他の昔馴染みの武将への返信には片倉の名を書かず、吉とだけ書く女であるのに、家康にだけは片倉吉と書いていた。
不器用だよなあ。歩きながら晴久は呟く。何が、と家康は問う。
きつが、さ。不器用なんだ、あの人は。だから俺が苦労する。
ワシから見れば何でもこなす天女のような方だがな、と家康は不思議そうだった。
お前がそんなんだから、きつは冷たいんだ。
これは晴久にしては破格の好意からくる言葉だった。家康は呆然とする。それはどういう意味だ、と言い掛けた時だった。
昨日のように、道の先が騒がしくなった。
晴久は表情ひとつ動かさず、胸元から扇子を取り出し、立ち止まって口元を隠す。
何があった、と家康が周囲に問い、僅かに説明を聞くと、騒ぎの方へ走り出す。
護衛の忠勝は晴久を置いて行った家康に戸惑ったが、俺はいい、行け、と晴久に言われ、謝罪のような息を吐くと家康を追った。
晴久はゆっくりと歩き、家康たちを取り囲んだ人垣の後ろに立つ。誰かが気付き、出雲の守護代さんだ、と小さく言うと、周囲は慌てて道を開けた。
騒ぎの中心は昨日の商人だった。数人の役人に囲まれている。その傍にはやはり昨日の貧しい男もいた。
商人は必死で何かを言い訳している。自分はそんなことはしていない、何かの間違いだ、酷い話だ、と何度も繰り返す。だが役人たちは証拠があると強く言い、貧しい男に返すべきものを返せと言う。
家康が話を聞きたがった。役人たちは一斉に緊張し、商人は今にも泣き出しそうだ。貧しい男は地に額を擦りつけ、俺はもういいのです、こんな大事になるなんて思ってなかったんです、お慈悲を、と呻くように繰り返していた。
役人たちが経緯を説明する。家康は熱心に聞き、晴久は欠伸をしそうな口元を扇子で隠した。
経緯は簡単な、だが、家康が最も嫌う話だった。
昨日の夜に情報が入った。商人と貧しい男の騒ぎはやはり商人のたばかりだった。盗みは厳罰だと分かっているはずなのに、貧しい男に濡れ衣を着せ、盗まれたと偽ろうとした。実際は盗まれてなどいない、隠し持っている。むしろ他のものが盗まれたことにして、隠した物の存在を悟らせないようにしたのだ。私欲のために貧しい男を冤罪の危機に晒した行為は決して許されない。家康様も日々おっしゃっておられる通り、いつわりには厳罰をもって対処しなくては。
ワシはそういう行為が大嫌いだ。家康のその言葉は、商人にとって断罪に等しかった。商人は悲鳴を上げ、本当に知らぬのでございます、誤解でございます、と繰り返す。家康はそれに対して唇を噛む。どちらの話も何とも証明し難いことが分かったからだ。
場が膠着しかけたその時、なあ、と晴久がつまらなそうな声で言った。
失せ物ってのは何なんだ。何で隠し持つ必要なんざあるんだ。
役人が答えて良いものかという顔をする。答えろ、と家康が許可を出す。仕方なく役人が言った。
銀です。出雲から仕入れた銀を途中で抜いていたんです。この男なら立場上、それができる。
その答えに家康のみならず、周囲全てが驚愕した。その銀は、と全員が晴久を──銀山を持つ国の守護代を見る。
晴久は扇子を開き、口元をまた隠した。
家康は思い出す。こういう時、吉もまた扇子で口元を隠した。怒りの感情を隠すために。だからきっと、晴久も。少なくとも家康はそう思った。
銀じゃない。商人が絶叫した。そんなものはうちにはない、盗まれたのは家内の櫛だ、銀なんて知らない、手に入るわけがない、三河と出雲の友好の証を途中で抜くなんて不敬なことができるものか。
待て、これは大変なことだ。家康が怒りを込めた声で言った。
情報が入ったということは事実の可能性もあるということだ。家を改める。それで良いな。出て来なければお前は無実だ。
商人は一も二もなく従うしかなかった。貧しい男は相変わらず、お許しを、お慈悲を、と繰り返している。まるで彼の方が罪人のようだということに気付いたのは晴久だけだった。だから晴久は、扇子の影で口元を笑いの形に歪めた。
商人の家の捜索は驚くほどすぐに終わった。商人の妻の部屋の小箱から、小さな銀が見つかったのだ。余りにもぞんざいな隠し方に誰もが呆れたが、妻の部屋の小箱など確かに本人以外は近付かないことは確かで、それなりに知恵を回した悪質な行為だと判断された。
なぜこんなことをしたんだ。家康は言った。周囲は息を呑む。
あの家康なら、あの太陽なら、その言葉を言う時も、きっと苦悩に満ちた声であろうと思っていたからだ。
だが今は違う。
心から軽蔑する声と、顔だった。
ワシは皆に笑んで欲しい。だからこそ毎日、お前たちのことを考えて、平和の世に導きたいと願っているのに。なぜこんなことをした。
濡れ衣です、嘘です、こんなこと絶対に何かの間違いです。商人とその妻は絶叫していた。
家康は二人の声が届かぬかのように、残念だ、本当に残念だ、と繰り返している。晴久はやはり、扇子で口元を隠したままだ。
不意に晴久は視線を感じた。忠勝のあの目が自分を捕らえていた。僅かに扇子をずらし、忠勝だけには見える角度で──思い切り、笑った口元を見せてやった。
その瞬間、忠勝が身動きする。その途端、周囲が驚く間もなく、晴久は声を張り上げた。だから忠勝は動きを止める。他国の国主の声を遮って動けるほど、忠勝は身分が高いわけではなかった。
残念だよ、ああ、残念だ。まさかこんなことになるとはな。出雲も安く見られたもんだ。俺は哀しいよ、なあ、徳川の。今日は本当に、哀しくっていけない。
すまない、本当にすまない──家康の詫びの声は苦悩に満ちていた。誰もが予想する、あの太陽が裏切られた時の苦しい声だ。先ほどの軽蔑する声と顔を忘れるほどの声。
どう落とし前をつけてくれるんだ。俺は日の本の守護だが聖人じゃねえ。なあ、この国ではこんな盗みはどうするんだ。
商人はまた絶叫する。誤解でございます、守護代様、誤解でございます、何も知りません。
その絶叫を聞きながら、家康は言った。苦悩に満ちた、満ちた苦悩が溢れるほどの苦しい声だった。聞いた誰もが苦しみを共有するような、そんな声だった。
これほどの盗みは、もう、盗みとは言えない。叛逆だ。謀反に等しい。残念だ。ワシがこんなことを言わなければならないとは。
そして言った。
よく通るあの声で、太陽は罪人を焼き尽くす炎を発した。
死罪だ。
今までで一番大きな声でどよめく民たちと、商人夫婦の絶叫が響く中、晴久は扇子を胸元に仕舞いながら、手紙を書こう、と思っていた。
きつに、手紙を書こう。
忠勝があの息を吐いた。自分に向けられた最大級の警戒の呼吸だと晴久は知り、今度こそ、隠すことなく忠勝に微笑んでみせた。忠勝は何も応えなかった。
商人夫婦は最後まで罪を認めなかった。
認めないまま、翌朝、二人は罪の代償として命を失った。
その処刑に立ち会った家康は気丈に振る舞い、周囲の心配をよそに、晴久に正式に謝罪した。
こんなことになるなんて、ワシの治世がまだ甘いという証明だった。晴久殿や出雲に対する無礼、どうかお許し願いたい。
その声に偽りはなく、ああ、と晴久は頷く。
いや、構わねえけどな。俺んとこは全く実害がねえしな。お前も大変だったな。
そう言ってもらえるとまだ救われる、本当にありがとう、と家康は安堵した。
そのまま晴久は三河を出立することを告げる。予定通りだ、怒ったんじゃねえさ、長く国を空けていたら心配になった、お前だってそうだろう? と、親切にも家康に教えてやった。家康はこれにも安堵した。
晴久殿、また近いうちに会おう、この償いをさせて欲しい。
そう言う家康に、ああ気にすんな、気にすんな、と軽くあしらう。
そしてさも今思い出したかのように言い、胸元から書付を取り出した。
金剛のいろは、教えてやるって言ったが、時間がなかったからな。書いておいたよ。
家康は晴久の親切にいたく感じ入り、何度も礼を言った。晴久はやはり、ああ気にすんな、と軽くあしらった。
じゃあな。
晴久は素っ気なく言った。
ああ、本当に、ありがとう。道中気を付けて。
家康の心からの言葉に愛想笑いすらせず、晴久はそのまま一人で城を出た。街道に馬と供を待たせてある、そこまで歩く、と言い置いて。
一人で歩くなんて気ままなものだ。家康はその背を眺めながら、出雲守護代の自由をいっそ羨む。
晴久を見送ってから書付を開いた。部屋に戻るまで待てなかった。昨日からの衝撃で、心が何か嬉しい、楽しいことを求めている。
いつもは本当に冷たい晴久の珍しい親切に触れたくて、書付を開いたと言ってもいい。
やはりそれは達筆で、ずっと大切にしておきたい、と家康は強く思う。

以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

ふと、気付く。
七つに区切られた音。
七文字ずつにしたためられたいろは歌。
七文字が一行ずつ、見事な達筆で記されている。
だが各行の最後の文字には、まるでここを見ろと言わんばかりに点が打たれていた。









と。か。な──

家康は声に出してそれを読んだ。
読んではいけないような気がした。
それでも読んでしまった。


「と、か、な、く、て、し、す」


咎無くて死す


雷に打たれたような衝撃を感じる。
分からないほど愚かではなかった。血の気が引かぬほど愚者ではなかった。
その様子に忠勝が驚く。
家康は書付を握り締め、走り出した。驚く周囲を突き飛ばしてもおかしくないほどに必死で走る。
追いつかなければ。追いつくんだ。あの男に追いついて、訊かなければ。
どういうことだ。
どういうことなんだ。
まさか。
あの銀は。
盗まれたんじゃなかったのか。

街道に出る一歩手前、そこにあの男の背を見つけた。
家康は呼んだ。絶叫に等しかった。
晴久殿。
晴久は振り返らなかった。
不意に、信じられないほどの憎悪が湧き上がった。こんな感情は知らないと思うほどに、その背を憎いと感じた。
だから叫んだ。
絶叫だと自分でも分かる声だった。

「出雲守護代!」

晴久の歩みが止まる。
そしてゆっくりと、緩慢と言っても良いほどにゆっくりと振り返る。
家康は言った。

「仕組んだのか。何のために。どうやって! どうして!」

晴久は驚いた様子もなかった。ようやく気付いたか、とでも言いたいような顔すらしていた。
胸元から取り出した扇子で軽く自分の肩を叩いてみせる。
何の真似だと家康が思う間もなく、どこから現れたのか──家康は目を見張るしかなかった。
目立つ特徴があるようにも見えない男女数人が、ふ、と晴久の周囲を取り囲む。
忍だ──家康は直感した。出雲からずっと一緒だったのだろう。考えられることだったが、家康は敢えて気にしないようにしていたのだ。相手を信じる、という名目で。周囲が気を使って晴久を監視していたことは知っていたが、家康は何も命令を下してはいなかった。
忍たちを見て、家康はからくりの一部を理解した。
彼らならば簡単に銀を商人の家に隠すだろう。
彼らならば簡単に役人に情報を知らせるだろう。
出雲の忍は有名ではない。忍の存在も、家康自身いるだろうと予想はしていたが、実感を伴って、ああいるのだ、いたのだ、と思ったのは初めてだった。
その忍たちが突然、音もない動きで晴久を守る位置に立つ。家康は背後に忠勝の存在を感じた。
二人の国主は同時に言った。

「透波、退け」
「忠勝、来るな」

透波と呼ばれた忍たちは迷わなかった。忠勝は迷った。ああ、と家康は思った。
──これが違いだ。これが三河と出雲の違いだ。
忠勝は自分を命に代えて守ってくれるだろう。
だが忍たちが守るのは──守護代だ。
出雲そのものを守っている。
晴久を守っているわけではないのだ。
それを徹底させているのは他でもない、晴久自身だ。
それがなぜか、分かった。
暫しの沈黙が降りる。家康は迷いに迷う。どう言えばいいのか分からなかった。むしろ、何を言いたいのかすら分からない。自分がとてつもない過ちを犯したことに、かつてない絶望を感じていた。気まぐれであっても優しくしてくれたと思っていた晴久がその絶望に導いた事実にも、酷い衝撃を受けていた。
家康の様子をたっぷり観察した後、晴久が静かに言った。

「あの貧乏な男が櫛を盗んだのは、確かだ。そんなこと最初から知っていた。母親の名に誓うなんて、あんなにすぐ出来るもんじゃねえ」

家康は何も言えない。頭の中に激しく戦の鐘を突くような、酷い音が鳴り響いているような気すらした。

「後ろめたいから分かりやすい綺麗ごとに飛びつくのさ。商人の方がよほど真人間の反応だった」

晴久は続ける。口元に笑みすら浮かんでいる。

「透波が締め上げたらすぐ吐いた。盗んだはいいものの、恐ろしくなって捨てたんだと。それを拾って売ったのは他の奴だ。そこまではどうでもよかったから調べなかったがな」

ではあの男も罰せねばならない。真犯人も探さねばならない。家康が辛うじてそう思った時だった。
晴久がまるで、お前の退路を塞いでやるよ、と言わんばかりに冷たく言った。

「証拠なんかどこにもねえぞ。でっちあげるか? やり方なら今回で、ようく分かっただろう?」

家康は拳を握り締める。関節が白く浮き、てのひらに爪が食い込むほど強い力だった。
そして晴久を見た。
自分が知らなかった、知りたくなかった闇を見せ付けた日の本の守護を。

「何が」

呻く。

「何が、日の本の守護だ。日の本を護る国だ。汚い真似をして何が。何が日の本──罪もない人間を──」

言葉が続かない。悔しいのか、軽蔑しているのか、──恐ろしいのか、自分でも分からなかった。
だが本当は分かっていたのかもしれない。
目を背けていた闇。
忠勝が、きっと自分を大事にする者たちが近付けまいとしていた闇。
国を護る、民を護るという、太陽の陽が当たる綺麗な道の裏側には──闇がある。
薄汚い現実が、ある。

ああ、自分は。
護られていたのだ。
闇から。
薄汚い現実から。

晴久がゆっくりと、優雅とも言える、むしろ家康から見れば優雅としか言えない──そう、あの天女を思い出すほどに優雅な──所作で、胸元から扇子を取り出し、口元を隠す。
天女の。
魔王の扇子。

「知れたことに額を沈めて礼を申せ、三河の歪みし太陽よ」

その声は静かで、厳かなほどだった。今までの晴久とは全く違う声だった。
これが日の本の守護の声。家康が瞬時にそう思うほどの声。
そしてどこか、家康が──思い出す声だった。
憧れて憧れて、今でも焦がれてやまぬ、あの天女の声。

「美しき陽光なぞ、歪んだ太陽が佇む、甘くゆるやかに護られし場所にしか届きはせぬ」

出雲守護代はあの声で告げた。

「陽光は魔王に届いたか。それが全ての答えであろう」

届かなかった。家康は理解した。
届かなかった。あの人には。どんな心も言葉も届きはしなかった。

「天女の嘆きすら拾わず、只々、天女を焼こうとする傲慢、気付かぬか」

新しい衝撃だった。自分がしていたこと。自分が、してしまっていたこと。
そして、嘆き。
まさか、天女は。──吉は。

「嘆きは我が拾った。嘆きは貴様の咎となった」

自分に、教えたかったのではないか。
教えようとしてくれていたのではないか。
護られぬ立場。
護られてはならぬ立場。
かつて天女が魔王として存在していた立場。

それは強く、そして、清濁の全てを飲み、時には闇の化身とならねばならぬ、あの場所。

孤高の場所。

「貴様の咎は、日の本で最も重い」

声は響く。張り上げた声でもない。扇子で隠された口元から只々淡々と静かに、厳かに、どこまでも──信じられないほど公平に。

日の本の守護は、宣言した。

「貴様は悪しき存在である」

その瞬間、家康は叫んだ。弾かれたように叫んだ。叫ばねばならなかった。
否定しなければならなかった。

「違う! 違う、ワシは──違う、違う、違う……っ!」
「日の本の守護として断ずる」

頭を振る家康に言葉が容赦なく投げ付けられる。それはもう、魔王の声でも、天女の声でもなかった。
裁くことを知る、誰にも護られぬ、日の本を護る国の守護の声だった。

「孤独と闇──孤高の場所を知らぬ貴様は。知り、背負う覚悟もなき貴様は──日の本で最も悪しき存在である」

肩で息をしながら言葉を探す。何かを言い返したかった。自分はそんな存在ではない、そうであるはずがない、何よりもその存在を憎むのだから。
だが言えない。何ひとつ言葉が出ない。
晴久が扇子を閉じ、胸元にしまった。
そしていつも通りの声で言った。

「じゃあな。見送り、ありがとうよ」

家康は返事ができない。目の前の存在が晴久に戻った。家康が知る晴久だった。
晴久のはずだった。
だが二度と、今までと同じ心で晴久を受け入れられないことが自分で分かった。
晴久と忍たちが身を翻し、まるで何事もなかったかのように歩き出す。
ようやく、搾り出すような声が漏れ出た。

「一人きりの天下なんて、虚しいだろう。……そんな虚しい存在に意味があるものか……!」

晴久の歩みが止まった。ゆっくりと振り返った。
そして家康は見た。

「きつが虚しかったと、意味がなかったと、お前は言うか」

晴久は笑っていた。
今まで見たどの笑い方よりも素直に、そして優雅に、心からの笑みを家康に向けていた。

「ここが出雲なら、お前を殺すところだった」

残念だよ。晴久はそう言い捨て、今度こそ振り返ることなく歩き出した。

「……虚しかっただろう?」

どうして分からないんだ。家康は呻く。晴久の背に呻きながら、晴久の両腕に、家康には分からぬたくさんの何かを託した天女に呻いているとは気付けなかった。

「だからワシは、その虚しさから──あなたを──」

連れ出してやりたかったのだ。
皆で笑えるのだということを知って欲しかったのだ。
自分といればあなたも笑えるのだと。
あの日々のように笑ってくれるのだと。
笑って欲しかった。
呼んで欲しかった。
だから連れ出したかった。

呻きは晴久には届かなかった。
あの天女にも──孤高を生きた女にも、届きはしなかった。

どうして分からないんだ。
どうして分かってくれないんだ。

傲慢だと、やはり歪んだ太陽には分からない。
それでも、太陽に一点の闇が投げかけられたのは──紛れも無い事実だった。




お兄様、と遠慮がちな声がかけられ、晴久ははっとして意識を現実に戻した。
手習いに飽きた尊子が泣きそうな顔をしている。ああ、御免御免、とやや慌てて晴久は座り直し、尊子の髪を撫でた。物思いに耽りすぎ、長い時間を一人で過ごさせてしまった。尊子のように甘やかされて育った娘には酷い仕打ちだろう。
かなり真面目に書いたのか、あの酷かった文字が少しだけ見られるようになっている。
頑張ったな、今日は及第点だ。そう言うと尊子は機嫌を直し、ここを頑張ったの、ここも、と説明を始めた。晴久はそれにいちいち頷いてやりながら、妹の気が済む時を待った。吉にもこんなところが少しあったな、と思い出した。
ねえ、お兄様。尊子が訊いた。
さっき、何を考えてらしたの。
ああ、うん、と晴久は曖昧に頷く。尊子に分かるとは思えなかったし、語るべきことでもなかった。
お前の嫁入り先だよ。
あっという間に尊子が真っ赤になる。晴久は笑う。からかうなんて酷い、と妹は怒り、からかってねえよ、と兄はまた笑う。
そうだなあ。
庭を見ながら晴久は言う。
その向こうにある、砂と風の無何有を抱く、護る国を見る。
そうだなあ。お前が嫁に行くんだったら。

「三河にだけは、やらねえよ」

たとえあいつが、天下を取っても。