謝ることすら許されぬ幸せを



幼い頃から本当の、本物のお姫様だった。幼かった自分たちはお姫様を守るもののふの振りをすることがとても誇らしくて、楽しかった。
本物のお姫様はいつの頃からか本物の国主となって、日の本を両腕に抱こうとした。
自分たちはいつの頃からか、本物の国主を日の本の主にするのだと決めていた。
いつの頃からか国主の周囲には人が増えた。国主に魅了された者がいつの間にか離れがたくなり、いつの間にか同じ陣営となっていた。
国主はそれを純粋に喜び、心の底からの笑顔を向けて、その笑顔に彼らは喜んだ。いつの間にか国主は天女、あるいは魔王と呼ばれるようになっていた。
自分たちはいつの間にか、自分たちが本物のもののふになっていたことを知った。


魔王は稀に、本当に稀に、ふと誰かを探すような顔をする瞬間があった。それは誰も傍にいない時、或いは弟のような山陰の国主が傍にいる時、或いは自分のように幼い頃から傍にいる者しかいない時。
自分はそんな時、言葉を上手くかけることができなかった。山陰の国主はそのたびに、お茶を点ててあげる、といつもの皮肉めいた口調を隠して優しく言っていた。
それを聞くたびに、自分もそんな言い方ができればよいのに、と思ったものだった。だから自分はどうしてもこの山陰の国主が好きになれなかった。多分、彼も自分のことはあまり好きではなかっただろう。


天女の、魔王の元を離れたのは謀反などではない。だが世間は自分を、妻を誹った。妻が最後まで天女を心配していたことなど知らぬ世間は思う存分罵った。
罵ったのは世間だけだったと、自分も妻もその時は気づけなかった。
己の選択が天女にも受け入れられなかっただろうと思い込んでいた。
魔王のもとを離れてからは、一見すれば平和に自分たちの時間は過ぎていった。無論それなりに政局が動く時には国が揺れもしたが、魔王が歩んだ道を思えば穏やかなものだったのではないかと思う。
領民は笑い、妻の料理は美味く、慶次は頼もしく、自分自身の成長は分からなかったが、確かに充実した日々であったことは確かだった。


その知らせは突然にやって来た。


本能寺。


耳を疑った。天地が引っ繰り返ったのではないかと錯覚するほどに身体が揺れた。だがどこかで、ああ、いつか来る日だったのだ、とも思った。それは妻も同じだったはずだ。天女を慕っていた妻はひそかに涙し、自分は数日、どこか上の空で過ごしていただろう。
離れた身で何をわざとらしく嘆くのかと世間は思ったかもしれない。そう思われていることも知っていた。それでも自分たちは、その衝撃を昇華するまでに暫しの時間を要したのは確かだった。
それなりに動乱の時代が訪れようとする中、いけないこととは分かっていても、昔を思い出すことが多くなった。
尾張のあの日々は想像以上に色あせることなく、心の底に眠って、いつか思い出されることを待っていたらしい。驚くほど鮮明に思い出すことができた。
幼い頃からの思い出の中を歩くと、お姫様はいつもどことなく無表情だった。でも子分である自分たちにはよく笑った。自分たちはそれが誇らしかった。
そんなことを思い出していて、ふと笑った。どうなさいました、と妻が言う。いいや、と答えた。
いいや。
ひい様が。
恋をなさった日を思い出したんだ。
それがどんな日だったのか、妻は聞きたがった。妻は「ひい様」の時代の話をとても好んだ。ある時、なぜそんなに好むのかと問うと、少しだけ眉をひそめ、妻は笑った。だって、と言った。
だって、「ひい様」がお幸せな時のお話は、犬千代様がとてもお幸せそうにお話し下さりますもの。まつはそれが嬉しゅうござりまする。
そうか。そうかな。そうなのかな。自分はそうとしか答えられず、それから、あの日がどんな日だったのかを妻に語った。妻は目を丸くしたり笑ったり、少しばかり泣いたかもしれなかった。そしてぽつりと言った。
もし、その奥州から来たという剣士と本当に結婚なすっておられますれば、どのような人生をお歩みでいらしたことでござりましょう。
さあな。自分はそうとしか答えなかった。
でも本当は思っていた。
もしもあの剣士と結婚されておられれば。
ひい様は平凡でつまらない、幸せな奥方になり、平凡でつまらない、幸せな人生を送っておられただろう。
そして日の本は、いまだ未来への道標すら見つけることができなかっただろう。
どちらが良かったのか。歴史を追う者は後者だと言うのかもしれない。
自分と妻には、どちらが良かったのかとは言うことができなかった。言うことができない程度には、我らはあの方を慕っていた。
それでも、もしも、あの剣士と結ばれていたのなら。
自分はきっと少しばかり剣士に嫉妬しながらも、どうぞお幸せに、奥州で何かお辛いことがあればすぐに犬が迎えに参ります、と言いながら、尾張から嫁いで行くお姫様を見送れたことだろう。
そしてきっと、自分はそれを幸せだと感じたことだろう。
人間の幸福なんて、平凡の中にある。
それを知った今は、過去の有り得なかった未来を想像してそう思っていた。
どうしても天女がひい様だと思えない時がある。それはいつもそんなふうに、有り得なかった未来を想像する時だった。


その知らせも、
その騒ぎも、
全てが突然で、信じられなかった。本能寺が。お市様が。――魔王が。
余りの衝撃と前田を背負う責任感、確かめに行きたい衝動に雁字搦めにされ、身動きが取れなかった自分の背中を押した、と言うより、突き飛ばしたのは妻だった。
参りましょう、と妻は言った。参りましょう。今こそ。今しか。今でなければ。
今でなければ。
犬千代様のひい様は、犬千代様の思い出の中でしか生きて生きていられませぬゆえ。
その時思った。ああそうだ、と思った。
きっとそうだった、天女がひい様と思えない時があったのは、思い出の中で――あのお姫様を大切にし過ぎていて、天女の時に見せた、あの誰かを探す顔が余りにも哀しそうで、思い出の中のお姫様にそんな顔をさせたくなかったからだ。
やっと分かった。叫んでいたかもしれない。
まつ。
それがしは今すぐにでもひい様に自慢したくなったぞ。
犬の嫁がいかに良い嫁か、自慢してひい様にご安心頂かねば!


その炎は幻想の中にあった。紅の少年を従えた幻想の中の魔王は恐ろしく、天女のごとく美しかった。
見届けることしかできなかった。
お市様が斃れた。
生きておられるのか死んでおられるのか、自分にも妻にも分かりはしなかった。
だがそれよりも――身動きひとつ取れなかった。
見届けるしかできない。それが分かった。
頬に傷のあるあの男が剣を抜き、白い鎧を纏った魔王―の前に立った時、分かったのだ。
見届けるしかできないのだと。
そして知った。なぜか知った。妻もきっとこの時に知った。
ああ、この男が。
この男があの日々の時々、天女が探し続けていた男だ。
そう、あの顔は。天女のあの顔は。
恋をする顔だった。
誰かを慕う目だった。
かなわぬ恋を半ば諦めた、だがどうしても諦められない、そんなお姫様の顔だったのだ。


それからのことが余りにも目まぐるしくて、細かい部分を忘れてしまっているかもしれない。おそらくは多くの人が幸せになれる結果なのだったのだと思う。
そして驚いた。
本当の本当に、実は幻の本能寺が再び現れたことよりも驚いたかもしれない。
ひい様が奥州に。
奥州の、あの軍師と結婚だなんて。
いいや、ずっと昔に結婚していただなんて。
山陰の国主と会った時、つい勢い込んで訊いてしまった。
知っていたのか。晴久殿、まさかずっと昔から知っていたのか。
山陰の国主は肩を竦めた。どことなくうんざりしていたのは、同じような質問を既に何度も繰り返されていたのかもしれない。
知ってたよ。俺、あの右目が嫌いなんだ。絶対一生かけていびり倒してやる。なあ前田の、お前さんだって協力してくれたっていいいんだぜ?
そう言った山陰の国主――ひい様の小舅同然の彼はにこりと笑った。とんでもない、ひい様のご夫君にそんなことができるものか、と正しい答えを返しながらも、それもいいな、と思った自分がいた。
でもひい様の「夫」をいびりたいという欲望と戦う前に、どうしてもやらなければならないことがあった。
やらなければならないのはあくまでも自分であって、ひい様には何の関係もなかった。むしろ自分がこんなことをしたらご負担をおかけするかもしれない。世間にはどう思われていても、例え魔王と呼ばれようとも、繊細で女性らしい方であることはお変わりないはず。
あの時の選択を後悔することはない。今でも間違っていたとは思わない。
だが今なら分かる。あれからいくつもの、それなりの修羅場をくぐり抜け、魔王とは比較にならないまでも、様々な政治の駆け引きを経験した今だからこそ分かる。
あの時。
我らが別れを告げたあの時。
魔王は引き留めもしなかったし、表情を変えることもなかった。
だが今なら分かるのだ。
自分の、犬千代のひい様は、泣いていた。
それだけを――ただ、許されるのなら。
それが許されるのなら。
謝罪が許されるのなら。
謝りたい。それが自分の身勝手な感情だと分かっているからこそ、迷い続けていた。
お会いしたい。そして謝りたい。
間違っていたとは今でも思いませぬ。それは謝りませぬ。
それでも。
犬千代、ひどい自惚れと誹られましょうとも。
信長公――いいえ。
ひい様に、どうしても謝りたいのです。
お寂しい思いをさせました。
それだけをどうしても、どうしても。
寂しがり屋で、本当は一人が嫌で、恐がりで、泣き虫のひい様に、謝りたいのです。


その思いはどうすることもできなかった。仮にも前田の当主が、今では奥州の軍師の妻となった一女性を気軽に訪ねていくこともできなければ、余りにも親しい風体の手紙を送ることもできない(これは後で大変な間違いだと知った。結婚直後から、諸将がいわゆる余りにも親しい風体の手紙を送っていたとは!)。
ある日、まつが世間話のように呟いた。
そう言えば、犬千代様。山陰の国主様が今、奥州にご滞在であらせられるとか――
山陰のあの国とはそれなりに付き合いがある。深い付き合いではないが、互いに利用できる時はしようという程度の腹積もりで簡単な交流を続けていた。妻は尚も言った。
お近くと言えばお近くですし、奥州筆頭と出雲守護代にご挨拶もよろしいのではござりませぬか。
そうか。そうだな。そうだよな。自分はそれしか言えない。女は凄い、特に妻は凄いと思った。
妻が用意した土産物は菓子ばかりだった。山陰の国主が甘いものを好むとは聞いたことがなかったし、独眼竜の好みがはっきりと分かるほど深い付き合いもない。
それでも、この土産は最高だと思った。思い出の中のお姫様が、妻の選んだ菓子を見て笑っていた。天女も笑ってくれればいいのに。そう思った。
天女も笑ってくれれば――その前に不安なことがあった。むしろその不安が身体中を埋め尽くし、奥州へ向かう足を鈍らせた。鈍った足に気づいては自分を叱咤し、また急いで歩き、また鈍る。そんなことの繰り返しだった。
不安は単純なものだった。
会ってくれるだろうか。
自分に会って下さるのだろうか。
あの方のことだから、「奥州軍師の妻」になった今、「加賀の国主」に会うことは会うだろう。そういう方だ。公人としては日の本の誰もが驚くような革新的なことばかりをなさってはいたが、私人としては古風な女性だ。夫を立て、支えることをつとめとする、男なら誰もが大事にしたくなるような妻として生きているだろう。
でも、自分がお会いしたいのは奥州軍師の妻ではなかった。
お会いしたいのは――ひい様だ。
会いたかった。謝りたかった。
会って頂けなかったらどうすればいい。
謝ることができなかったらどうすればいい。
そんなことばかりを考えながら、予定よりも遅れて奥州にようやく足を踏み入れた。


一人きり、国主とは分からない旅装で――正式な訪問ではないし、独眼竜に気を遣わせたくなかった――国境を越え、また歩き、思ったよりも整備されている街道を歩く。独眼竜の代になってから街道の整備に力を入れていると言う噂は聞いていたが、まさかこれほど歩きやすく、安全とは思ってもみなかった。
急げば軍師の家までは半日もかからないよ、と道を訊いた老婆が教えてくれた。もっともっとかかっても良いのに、と思った。老婆が何となくにやついていたことには気づいたが、余所者の無知を嘲っているのだと考えることにした。
道行く人々がなぜか口々に声をかけてきては、どこへ行くんだとにやつきながら問いかけてくる。いい加減不気味だったが、我ながら律儀に答えておいた。仕官先を探していて、山陰の国主様にお目通りをと思って。そのたびに彼らはまたにやにやと笑い、道は会っているよ、このまままっすぐ行きな、と言った。
不気味だ。奥州はなんて不気味な所なんだろう。ひい様はこんな中にいるのだろうか。これは山陰の国主に相談する必要があるかもしれない。ひい様をこんな不気味な場所に置いておくつもりなのか、と。
鈍い歩みに陽光の方が痺れを切らし、徐々にその姿を地平線の中へ埋めようとして行く。これなら今日中に軍師の屋敷に辿り着くことはない。安堵した自分を情けなく思いながらも宿を探すことにする。
街道沿いには小さいながらも宿場町があった。茶屋もあって、日が沈む前までならここで小休憩ができるのだろう。茶屋で宿を紹介してもらうのも良いかもしれない。
一番最初に目に入った茶屋へ足を向ける。
店先に大きな日よけの傘を備えた席を置いた、街道沿いの茶屋にしては洒落た店構えだった。流石は伊達者、独眼竜の地だな、と感心してしまった。
その席には一人の女が座っていた。女が外で茶を飲む姿を見るのは珍しい。
饅頭をぱくつく姿も珍しい。
そう、珍しい。
それでも知っていた。やりたいからやる、そんなことを平気でしてしまう女を知っていた。
古風でありながら、新しいことも平気でやってしまう、そんな多面性に富んだ女を知っていた。
子供の頃から知っていた。
だから今も、驚きはしなかった。
驚きはしなかったが、声が出なかった。
だから、彼女が――

「あァ、やっとやっと――ごほっ」

天女が自分を見て何かを言おうとし、饅頭の欠片が喉に入り込んだのか、咳き込んだ姿を見ても、笑わずに済んだ。
笑わずに済んだのは良かったのだが、そこから先、どうしたら良いのか分からなかった。
呼んでも良いのだろうか。どう言えばいいのだろう。それとも叱責を待つべきか。顔を見られただけでも御の字と思うべきなのか。
分からなかった。
「お前、何をしている」
呆然としていると、茶屋の中から呆れ声と共に背の高い男がやって来る。頬に傷のある――軍師だ。
夫だ。
「だって、ごほっ」
「饅頭が喉に詰まったのか。がっつくからだ、みっともねえ」
「おまえさまはなにゆえに、そう――ごほっ」
何て言い草だ。ひい様に何て口を利くんだ、この男。前から知って何度も言葉を交わしているものの、流石にこれは度し難い。
怒るべき時だった。
だがなぜか腹が立たず、怒れなかった。
言葉よりもずっと、妻を見る男の目が優しかったからだと思う。
男は妻の背をさする。
そして呆然と突っ立ったままの旅装の自分に気づいた。
しばらく眺められた。見つめられた、と言っても良かった。
それから、ふっと微笑み、妻に何かを言ったようだ。
咳を治めた天女は頷き、夫に何かを言おうとした。だが夫は軽く妻の肩を叩くと、また茶屋の中へ戻ってしまった。
「もう、もう」
ひい様は不満そうだ。それから、眦をきりりとつり上げてこちらを見る。
ああ、と思った。
この顔は、癇癪を起こす一歩手前の、ひい様の顔。
「もう、犬が遅うて! 幾日待っておったと思うのだえ! 待ち切れなんで今日は此処まで参ってしもうたではないの!」

嫁御が文をくれて、ずうっと待っていたのに。
余りにも遅うて。
皆みなに、犬の人相書きを巻いて探したほどなのに!

まつがそんなことをしていたのか。
しかも人相書きだなんて。だから道行く人々はにやついていたのか。
軍師の嫁が人相書きを巻くほどに必死で待っている人間とすれ違えば、それはにやついても仕方ないかもしれない。

笑いそうになってしまった。
待っていて下さった。
犬を待っていて下さった。
何を不安に思っていたのだろうか。なぜ、あんなに不安だったのだろうか。
そんなことを思ってしまうほど、一瞬で不安は吹き飛んでいた。

思い出の中のひい様と天女が、一瞬で、ほんの一瞬で、一人の存在となり、幸せな女性として、自分の前に現れた。


「――ひい様」
ひい様。
この呼び方を、一体どれほど長くしていなかっただろう。
幻の本能寺では確かに呼びかけた。でも魔王は振り返りもしなかった。
だから今、呼ぶ時に、少しばかり声が揺れたのは仕方ないのかもしれない。
また返事をしてくれなかったら――

「何え」

ああ。

言葉も出ない。言わなければいけないことは山ほどあるのに。
ご無事で嬉しゅうございました。
ご結婚おめでとうございます。
ご健勝にて何よりに。
あの日々をお許し下さい。
それでも犬千代、いつでも、ずっと、本当に、

ひい様のお幸せを、お祈り申し上げておりました。

「――もう、もう」

ひい様がまた癇癪一歩手前の声を出す。
でも分かった。これは癇癪と言うよりも――「どうしたらいいのか分からない」時に出す、戸惑いの声。
幼い頃から変わらない、あの声だ。

「犬の、泣き虫!」

いいえ、何をおっしゃいます、いいえ――慌てて言い繕おうにも、我ながら声が揺れ、頬は濡れていて、どうにも説得力がないどころか、この歳にもなって人前で泣いてしまったことに心底驚く。
「ひい様」
「何え」
「ひい様」
「なに」
「ひい様」
「――もう、やかましわえ」
何かが風を切る音がした。敢えて避けなかった。べしり、と投げつけられた扇子が額に当たる。かなり痛かった。地に落ちる前に扇子を拾った。目の前でひい様が肩を竦める。
「旦那様に紹介しよ。加賀から遙々、わらわの犬が参ったわ」
「もう知り合いですよ」
「やかましわえ」

わらわの犬が参ったわ。

犬でいて良いですか。
そうおっしゃるということは。
一度離れた自分を、また犬とお呼び下さりますか。

「おまえさま、犬が――加賀の犬」
ひい様が茶屋の中へ夫を呼びに行く。丸っきり夫に従順な、普通の女性の姿だった。
夫――本来の身分なら誰かに呼びに行かせれば良いはずの相手。
山陰の国主はきっとこういう部分もあの男を嫌う原因なのだろう。彼がひい様を何よりも高貴な存在として扱っていることを知っている。身分ではずっと劣る奥州の軍師が、まるで普通の女のようにひい様を扱うことが耐えられないのかもしれない。
それでも、こんな僅かな時間でも分かった。
ひい様は本当に、心から、きっと――

しあわせ、なんだろう。

茶屋から軍師がまた顔を出した。今度は最初からこちらを見て微笑んだ。
その後ろにひい様がいる。

「奥州へようこそ」

軍師が穏やかに言った。
だから言い返すことができた。
きっとひい様が何よりも喜んでくれるであろうことを、言うことができた。

「いい嫁を、もらったな」

癇癪ばかりさ、と軍師は苦笑する。
おまえさまは何をおっしゃるの、とひい様が怒る。

だから笑えた。

「ひい様」
「何え」
「痛かったですよ、久々の一撃」

投げ付けられた扇子を差し出す。
ひい様はどこか慌てたようにそれを受け取り、軍師は「お前なあ」とだけ呟いて呆れた顔をし、自分は笑う。

帰ったら何から話そうか。
妻に何から話そうか。

謝ることすら許されなかったのだ。
それがとても幸せなのだ。

話の始めにそう言ったら、妻はどんな顔をするだろう。