幼い頃から傍にいて、いない時があれば不自然に感じる。
初めて会った時のことを、幸村はほとんど覚えていない。あまりにも幼い時に出会い、気づけば日常風景の記憶のどこにでも彼がいる。
歳を重ねるに従って、互いに役目や責任が増えて行った。それでも常に共にあるのは変わらない。
その場にいないと見えても、佐助、と呼べばすぐに返事がある。
一人だと感じたことがない。常に二人だ。
主君が一時、あまりに共にある二人に苦笑し、少し自立をせい、と言ったことがある。
他ならぬ主君の言、幸村は悩み、佐助に問うた。俺たちは一緒にいすぎるのだろうか。お館様に御心配頂いたのだ。
すると佐助は笑って言った。すぐには無理だろ。だって旦那、俺様がいなくちゃ何もできないじゃねえの。
そんなことはないと怒ってみせたが、結局そのまま、少しも変わることはなかった。
それでもたまに、幸村は足掻いてみる。佐助にやってもらっていたことをひとつ、自分でやろうとする。大したことではないが、自分一人でもできるのではないかと思った簡単なことを。
簡単なはずなのにそうでもない。やり方が分からない。どうしようもない。
困り果てた頃、どこで見ていたものやら、佐助が当たり前のように笑って現れるのだ。ああ、旦那、そんなこと俺様がやるって、すぐ片づけてやるから。
言葉の通り、幸村には難儀だったことを、佐助はすぐに片づけてしまう。ありがとう、と多少の悔しさと恥ずかしさをこめて礼を言うと、笑い返してくれる。そ して言うのだ。まったく、旦那は俺様がいなきゃ何もできないんだから。大丈夫だよ、俺様がやるし、旦那は少しずつできるようになりゃいいのさ。
その笑顔と言葉で安堵する自分がいるのもまた確かで、幸村はいつも、そうする、と返事をして終わりだった。
佐助に褒められることは滅多にない。部下であるはずなのに、幸村に辛辣なことを平気で言う。幸村はそのたびに言い返し、言い返されて言葉に詰まり、自らの不甲斐なさに落ち込むこともしばしばだ。
すると佐助が笑って肩を叩いてくれる。大丈夫、俺様がいるって。俺様が何とかするから。旦那は少しずつできるようになればいいんだよ。
本当に小さな頃から、何度佐助のその笑顔と言葉に救われたことだろう。
普段は軽口ばかり、部下の忍たちにはきつい言葉を発する唇から、自分に対してだけ優しい声が出ることを知っている。不思議なものだが妙な優越感すら持つこ とがあった。佐助は本当は優しい男だ。でもそれを知っているのは俺だけなんだ。そんな優越感だった。佐助のことを冷たいと言う者に、本当は優しい奴なん だ、と説明し、意外な顔をされるのが好きだった。
はしゃぎ過ぎれば諌めてくれる。
落ち込めば励ましてくれる。
誰かとぶつかって誤解され、やり場のない感情の渦に陥れば慰めてくれる。
欲しい時に欲しい言葉をくれるのだ。大丈夫だよ、俺様がいるよ。俺様だけは旦那ことを分かってるよ。大丈夫だよ。
責任が大きくなるに従って、その言葉がどれほど力のあるものか、信じさせてくれる佐助の能力がどれほど優れたものであるのかを実感している。
主君にはもう、自立しろと言われなくなった。いつの間にかできていたのだろう、と幸村は思う。
もう子供ではいられない。転んで泣いて、佐助に呆れながらも慰められていい立場ではない。武田軍副大将として恥じない男になる。
佐助は変わらず傍にいる。真田忍軍を率いる有能な男だ。昔に比べれば、彼の目から見ても自分は少しは頼もしく見えるだろうか、と気になることもある。
訊くことはないだろう。きっとあの軽い口調で言われるからだ。旦那は俺様がいなきゃ、何もできねえんだから。
いつまでも子供扱いだ。立場も立場であるというのに、そろそろそれは酷いものだと思う。だが嫌でもなかった。
だって、と思う。
だって、確かにそうだから
俺は佐助がいなければ
何もできないのだから
だからいてくれ、と願う。
否、願うという感情すらない。
いて当たり前。幼い頃から。物心がついたのと、佐助と出会ったのはどちらが先であったか分からないほどに、人生の全てに彼がいる。
俺様がいなけりゃ何も
そうだ。
佐助がいなければ何も。
何もできないのだ。
だからいてくれ。
何でもできる佐助。
俺のことなら何でも分かってくれる佐助。
心の底から願っている。
お館様に御心配頂いた、と幸村に言われた時、少々ひやりとしたことを覚えている。
信玄の前では控えていたつもりだったが、まさか見抜かれていたのだろうか、と思った。
それからは更に慎重になった。
だがそれ以降、特に言われることはなかった。見抜かれてはいなかったようだ。それでも、そのことは佐助に用心を重ねることの重要さを教えた。
幸村は相変わらず失敗を重ねる。頭が悪いのではないか、と一部の家臣に心配されていることを佐助は知っている。
だがそれは間違いだ、と思う。
幸村は頭がいい。一度教えたことは決して忘れず、細部までもを覚えている。その記憶力には佐助も少なからず驚く。
度胸もある。整った顔立ちに恵まれた血筋、そして太陽を思わせるような笑顔に、見ている者が呆れるような、だがつい心惹かれるような言動を繰り返す。いわば人を虜にする力を持っている。
その力に佐助が気づいたのは、いまだ幸村が十歳にも満たぬ頃だったろうか。
その時から、自分が少し変わったと思う。
身分が違う。役目も違う。存在の意味すら違う。自分は影で、彼はまるで太陽のようなひと。
彼が死ねば泣く人は多いだろう。自分が死んだら誰が泣くだろうか。
太陽のようなひとを間近に見ながら、当たり前のように影は惹かれた。俺は影でいいよ、と思った。あんたの影でいい。あんたの影がいい。
幸村は当然のように佐助を傍に置く。稀に、佐助はいつも俺の傍にいてくれるのだ、と誰かに話しているのを聞く。
それは違う。佐助だけが知っている真実がある。俺があんたの傍にいるんじゃないんだよ、旦那。あんたが俺の傍にいるんだよ。
佐助が少しでも離れれば不安そうな顔をする。佐助、どこに行った、とすぐに声に出す。そのたびに佐助は笑い──ほくそ笑み、俺はここだよ、と幸村の前に姿を現す。すると幸村は安堵する。
幸村は佐助が何でもできると信じている。それは子供の頃からの思い込みのようなものだ。
だが幸村が望むのであれば、そうなるしかなかった。あれもこれも、何もかも死に物狂いで手に入れた。技術も能力も。
傍に在るために、若くして真田忍軍を掌中に収めた。そのために何をしたのか、幸村に言うことは決してないだろう。
幸村は頭がいい。共に在ればすぐに知れる。
だから佐助はいつも言うのだ。
俺様が
俺様がいなけりゃ
幼い頃からずっと、何度も、笑いながら優しく、言うのだ。
俺様がいなけりゃ 何もできないんだから
自分でやろうとすることがある。知っている。佐助は黙って見ている。
ただ、稀に、
こそりと邪魔をする。
すると幸村は失敗する。
やり方も分からない。
不安な顔をする。
当たり前だ。何もかも佐助がやって、教えていないのだから。佐助がいるなら、と誰も教えはしないのだから。
幸村が考え出そうとすると、佐助はそれを阻止するために姿を見せる。笑いながら言うのだ。ああ、旦那、そんなこと俺様がやるって、すぐ片づけてやるから。
それで幸村は思考が停止する。もう少し考えれば導き出せていたであろう答えを掴めないまま、それに気づくこともなく、佐助に少し悔しそうに礼を言う。
からかう振りをして言ってやる。まったく、旦那は俺様がいなきゃ何もできないんだから。
そして幸村はそれを信じ込む。佐助がいなければ自分は何もできないのだ、と幼い頃から信じ込んでいる。
どんな時でも佐助がいなければ。
どんな時でも。
誰かと衝突し、誤解され、落ち込んだ時に、他の誰かが幸村を励ます。その言葉と誠意、優しさが幸村の心に届く前に傍に立ち、囁く。大丈夫だよ、俺がいるよ。俺だけは旦那のことを分かってるよ。大丈夫だよ。俺だけは。俺だけ。
何もできない旦那を、それでも俺はずっと支えてるよ。
何もできない旦那を理解できるのは俺だけだよ。
笑顔で繰り返す。何度も何度も。どんな些細なことでも囁くのだ。俺様がいなけりゃ、何も。
幸村はそれを信じる。
思い込んでいる。
佐助がいなければ何もできない。自分を本当の意味で理解してくれるのは佐助だけなのだと。
佐助は思う。
旦那は立派な将になれるよ。
なればいい。
旦那が大事な武田なら俺も大事にする。
旦那が大事なお館様なら俺も大事にする。
立派な将になろう。
立派で、俺がいなきゃ何もできない将になろう。
大丈夫だよ。俺は旦那より早く死なないよ。だから俺はずっと旦那を助けるよ。ずっとここにいるよ。
だからさ、
おいでよ。
俺の傍にいればいい。
「佐助」
幸村が呼ぶ。
影のいとしい太陽が、傍らに歩いて来る。
「どしたの、旦那。しみったれた顔して」
「困ったことがあって。お館様に顔向けできぬ」
佐助は笑う。
「本当に、旦那は。俺様がいないとなーんにもできないんだから」
そう信じていればいいのだ。
何もできないままであればいいのだ。
それが正しいことだ。
それが幸せなことだ。
佐助はそう信じている。
「そんなことはない。俺だって、佐助の手を借りなくても」
「まあまあ。──旦那はさあ」
──旦那。
「俺様を、信じていればいいんだってば」
──なあんにもできなくて、いいからね。