(Taking The) Easy Way Out 01



とにかく暑い。立秋も近いと言うのに、否、近いからこそ暑いのか。こんなんじゃ俺の身体も運も干からびちまう――左近は辟易としながらも、軽く辺りを窺い、役人の気配はないと確認してから街道を外れ、隠された林道へ入る。獣道のようにも見えるが、その実、確実に複数の誰かたちが踏みしめた跡がある。少しばかり離れるが、この先に目当ての場所があった。
林の中は木々の背が高く、街道ではこれでもかと照りつけていた太陽がなりを潜めている。木漏れ日にしては強過ぎる光が注ぐのは仕方ないが、意図せぬ体温の上昇と、過剰な汗の分泌を防いでくれる効果は充分にあった。
不意に左近は気分を変え、道を逸れた。目的の秘密の賭場にはこの先を直進すれば辿り着くのだが、干からびかけた身体と運に潤いを与えたかった。験担ぎと言えばそれまでだが、賭場に通う人間ならば気になったことは何とかしておきたくなるものだ。道を逸れた場所に小川があることを思い出したのだった。
――今日こそは、強い奴と逢いたいもんだね。
家の人間たちが眉をひそめるのも構わず、左近は賭場に入り浸っている。公的な賭場では勝ちが過ぎ、顔を出すだけで胴元に顔をしかめられるようになった。とにかく勝ってしまうのだ。如何様を疑われたことも何度もあるが、厳重な監視と検証の結果、全くもって正々堂々とした博打の結果に過ぎないと証明された。その強さは左近自身にも理由が分からない。
いつか全ての運を使い果たすさ――そう言ったのは左近に身ぐるみ剥がれた武人の誰かであったか、それとも賭場に出入りする民の誰かであったか。誰かは覚えていなかったが、言葉だけは妙に鮮明に覚えていた。
水のにおいを感じ、体感温度も急激に低くなる。小川が近い証拠だ。軽く頭から被って手を洗って、それから足もちょっと洗っておくか――考えながら左近は歩く。全く道がないように見えるが、やはり同じように小川を求める人々がいるのか、まるで獣道のような、それでも獣道よりは整然とした道なき道が見えた。楽でいいや、と左近は人知れず笑う。
水が跳ねる音がする。魚が跳ねたのだろう、この暑い中でも魚は元気なもんだ――違う生き物とはいえ感心しつつ、左近は水辺を目指す。いつの間にか足場が湿り、小川が目の前にあることを教えていた。
不意に林が開け、小川が目の前に現れる。
そして左近は、息をすることすら忘れた。
例えば物語なら、息を呑み、その後に深々と嘆息を吐くのかもしれない。我が目を疑うのかもしれない。だが左近はただ、息をすることを忘れた。
着物の裾を膝までからげ、足を洗う女がそこにいる。それだけであれば少々ばかりはしたない、だがこの暑さでは仕方ない所業だと左近も見て見ぬ振りをして、さっさとその場を離れただろう。それが女心を尊重するというものだ。
だが今は息をすることすらを忘れ、動くこともできない。
女がゆっくりと顔を上げ、左近を見た。左近は今度こそ自分が窒息するのではないかと思う。それほどまでに女は美しく、この場には、そして裾をからげている姿には不似合いなほど高貴だった。
――……天女さんが足を洗うなんてこと、あるんだなあ。
自分でも有り得ないとすぐに分かることを考えてしまう。そう思ってしまうほどに女は美しく、浮き世離れしすぎていたのだ。
普通の女なら突然の男の登場に怯え、悲鳴を上げるところだ。だがその女は堂々たるものだった。裾を片手で押さえたまま髪をかき上げ、左近をじっと見る。まるで観察されている、値踏みされている目つきだと、左近には分からなかった。
「ああ」
ああ、――ああ、と左近は何とか声を絞り出すことに成功しそうになる。妙に掠れていることは自分でも分かり、格好がつかないな、とどこか冷静に思う。
「その――」
瞬間、息を呑む。
背後から、首筋にひやりとした感触――小柄が押し当てられれば息を呑まざるを得ないだろう。そして心から後悔する。気づかなかった。俺はなんて抜けていたんだ。真後ろに、こんなに近くまで来られていたのに、女に見惚れてすっかり気づきやしなかった!
目の前の女がつんと顎を上げ、岸辺へ上がる。すぐ傍にある大振りの木の枝にかけてあった手拭いを手に取り、座り込んで足を拭き始めた。優雅と言えば優雅、しかし高貴と分かる身分の女が自分ですることでもないのだが、それすらも一枚の絵のように美しい。
だが左近にとって目下の問題は、首筋に押し当てられた冷たい感触だ。
「いくら暑いからって、そんな涼みはいらないよ。お気遣い、どうもありがとね」
いつもの軽口を装い、相手の出方を窺う。真後ろの気配は男のものだ。しかも只者であるはずがない。感覚で分かる。身長は左近よりも高く、小柄を押し当てた瞬間に迷いがなかったこと、何より左近の背後を取ったことから、かなりの手練れであることも予想できた。
――……この男の奥さん、とか? 確かに足洗ってるとこなんて見られたら、男としちゃ黙ってられねえよなあ。でもそれってかなり仲良しの夫婦で……あの姫さんも結構なご身分みたいだし、そんなご身分同士の夫婦だろ。今みたいな時代に珍しくねえ? 政略結婚じゃねえの?
「名乗れ」
背後の男の声は低く、有無を言わせぬ強さがある。声だけで一流の武人だと感じさせる力強さに、左近は素直に従いそうになった。だがすぐにそんな自分に気づき、次に猛烈に腹が立つ。どこの誰かは知らないが――そう思ったのだ。
――どこの誰かは知りゃしねえさ。でもな、仮にも島左近、後ろから手を出してくるような奴に名乗る名前なんざ――
「ああ、そうか」
不意に男がすっと小柄を引いた。当てられた時と同様、何ら迷いも前触れもない動作だ。それでも左近が舌を巻くには充分すぎるほど、その気になれば左近の首を切り裂けていたのだということを教えるには充分な迫力があった。並の人間なら腰を抜かしていてもおかしくはなかった。
「後ろから手を出す奴なんざ、ってところか」
「……その通りだけどねえ、どうして分かったんだい?」
悔しさ半分、驚き半分で左近は振り向かないまま問う。男は静かに答えた。女は足を拭き終え、今度は立ち上がって裾を直し、着物についた砂や草を払っている。
「着ているもんが良い布だ。それなりの家だろう」
「ま、そこいらの貧乏な家じゃあございませんが……ってね!」
逃さない距離だ。自信は充分にあった。振り向きざまに風を切るように高く足を蹴り上げ、声から判断していた男の頭部を狙う。絶対に外さない打撃だった。だが次の瞬間、左近は完全に降伏を決意する。
男が上半身を僅かに反らせただけで、渾身の蹴りは目標を失い、空を切っていた。標的を失って倒れかけた姿勢を何とか立て直そうとしながら、左近は男の顔を見る。ああ、こりゃあかなわねえや――そう思った。左近の攻撃を予測していたのだろうか、それとも余りにも予想通りだったからだろうか。左の頬に傷がある男は、呆れ切った顔をして左近を見ていたのだ。
ああ、俺ってば。左近は思う。
俺ってば、カッコワルイ。
「参りましたぁ」
そして姿勢を立て直しきれず、左近は見事にその場にひっくり返っていた。
「奥さんに何かしようなんて考えてなかったよ?」
「あの状況でそれが分かる夫がいるか。嫁に何かある方が困る」
「そうだろうけどさあ、それでもさあ――あんた、見た目と違いすぎるんですけどお」
さりげなく嫁が大好きですと言い放った男に、左近はどこかで石を投げてやりたくなる。
「おまえさま」
女の声だった。おまえさまって呼ぶのか、声も綺麗だなあ、とひっくり返ったままの左近は思う。
「ああ、どうした」
「ひだるうて」
「分かったよ」
空腹だと訴える妻に苦笑してから、夫は左近を見下ろす。敵意のない目だなあ、と左近はいやに冷静に思った。武士であれば恐ろしく屈辱的な体勢であることは充分に理解しているし、悔しくないわけでもなかったが、何よりも圧倒的な武力の差に、ここは冷静になって相手を観察するべきだ、と理性が働いていた。
「すまなかったな。この辺りにしばらくいる者だ」
「へえ、土地は違うの?」
言いながら、愚問だということはよく分かっている。女の言葉がまず京風であり、この一帯の話言葉とは違いすぎるし、男の言葉も左近たちの生活の中ではやや抑揚が違う。男は女と違い、京風というわけではない。左近の勘が疼いたのは確かだ。
――訳あり夫婦? かも?
「この辺は非公式の賭場があるんだ。俺より変な奴らもうろつくから、奥さんを一人で歩かせない方がいいよ」
「肝に銘じる」
では、と倒れたままの左近に黙礼し、男は妻を促して歩き出す。妻はおとなしく従ったが、歩き出す直前、ひっくり返った姿勢の左近をちらりと振り返った。
ああ、と左近は今度こそ心底呻いた。
俺ってカッコワルイ。
女の目は明らかに、失態を犯した見知らぬ男を軽蔑するものだった。




それから数日、賭場の人間の間でその夫婦のことが噂されるようになっていた。とは言え、直接接触した人間は左近だけのようだ。だが左近は素知らぬ振りを貫き、話を聞くに徹した。手も足も出なかった、と言いたい場所ではない。賭場では男らしさも重要だ。左近は優男と思われる外見をしているが、名家の出であること、名家に相応しい腕の持ち主であることはよく知られていた。だからこそ先日の話をするわけにはいかなかった。
「あの奥に、ほら、人が使ってねえ小屋があったろ。あそこに住んでるらしい」
「住んでるったって、先週くらいからだろ?」
「野郎の方が市に買い物に来てたぜ」
「嫁がえれぇ別嬪だって噂だが」
「だから市に連れてかねえんだろうさ」
違いねえ、と賭場の男たちはどっと笑う。確かにそうかもね、と左近は心の中で思いながら笑った。今の時代、美しい女はそれだけで財産になる。ことにあの女は、一目で特別な女だと分かるほどだった。良くも悪くも普通の人間しかいない市に現れれば大変な騒ぎになるだろう。
「野郎の方は物騒な見た目だしな、腕はどうだか知らねえが」
「ああ、いや、立つんじゃない?」
思わず言った左近に視線が集中する。左近は暫し迷ったが、肩をすくめて手の中の賽をいじってみせた。
「俺もちょっと見かけたんだ」
ちょっと見かけてカッコワルイ目にあったのさ、とは言わないでおく。
「あの頬の傷といい、体格といい、あと――やっぱり、いい女を嫁にするってことは、それなりに出来る男ってことさ」
「そりゃあそうだろうけどさ」
左近は名は知らないが、おそらくそれなりの家の者なのであろう男が眉をひそめる。この賭場はそんな者ばかりだ。誰も名前を名乗ることはないし、どこかで知っていたとしても、ここでは知らぬ振りをする。別の場所で出会っても無論同じこと。それが非合法の賭場と言うものだ。
「こんなところに、あんな小屋に。特に追われてるってわけでもなさそうだし、逆に怪しいんじゃないのかい」
「息抜きの夏期休暇か何かだと思うけどねえ」
そうとしか考えられなかったし、心のどこかでそうであって欲しいと思っていた自分には気づかない。左近は生来そういう人間だった。深い事情などなく、好き合った二人が夏の間、日々の煩わしさから逃れて楽しく過ごせればいいじゃないか、面倒な事情も悲しい事情もいらないのさ――そうとしか思わない自分がいた。
「どう見たっていいとこの夫婦じゃないか。旦那さんだって顔の傷がなけりゃそこまで強面ってわけじゃあないだろ? むしろどっかの戦場で負った傷なら勲章さ」
確かになあ、そりゃそうだ、と同調の声が広がる。
「――どちらさんもォ!」
誰かが「確かめに行こう」と言い出す前に、胴元がわざと彼らの気を引くように、派手に賽を宙に放つ。たちまち賭場は歪んだ熱気に包まれた。
熱気の中、左近はあの夫婦を思い出す。今日はなぜだか賽に集中できる気がしない。場を見る振りをして盆から引いた。普段はいわゆる常勝の左近が引いたことで戸惑った者もいたが、そんな日もあらァな、と胴元が低く呟き、左近のことはそれきり誰も気にしなくなった。
丁だ半だとまるで怒号のような声と熱気に包まれながら、左近は思わず眉をひそめる。それは引っ張り出した記憶に改めて怒りを抱いたひそめ方だった。まさかあんな。いくらあの男が手練れとはいえ。まさか――この俺が。女に軽蔑されるなんて。
腹が立つ。恐ろしく腹が立つ。なぜ俺が。
この俺が――この、島左近が。
「ああ、おい」
胴元がまた低く言った。
「テラ銭は置いて行きな」
帰るなんて言ってない――そう言おうと思った。だが言えなかった。今、これ以上この場にいることは許さない、と胴元が告げたのだ。賭場で胴元の言葉は絶対だ。従うしかなかった。
「分かったよ。お邪魔さんでした」
「誰かを殺したい顔をしやがって、なァ」
胴元の言葉に、賭場の人間が一斉に左近を振り返る。この場でも勝ち続ける特殊な男の、人好きのする笑顔以外を見た者はかつて誰もいなかった。
だが彼らが左近を見やった時、左近はいつも通りに人好きのする笑顔を浮かべ、胴元に「じゃあね」と軽く手を振って秘密の賭場を後にしたのだった。


「受け身は上等だな」
頬傷の男の声は呆れ半分、笑い半分だった。左近は天を仰いだまま、こんちくしょうめ、と口の中で呟く。賭場からの帰り、賭場で聞いたあの小屋へ行った。下心があったわけではなかった。夫婦がゆっくり穏やかに過ごしているのかどうか、それだけを知りたかったのだ。
そう、それだけのはずだった。それなのに今、あの日と同じように頬傷の男に転ばされている。小屋の外で薪を割っていた頬傷の男を見た時、止められなくなった。やあこんにちは、あの時はどうも――そんな風に声をかけ、男が顔を上げて左近を見、思い出してにやりと笑った途端、身体中の血が瞬時に沸騰し――それこそ戦場に足を踏み入れた時のような――足が勝手に地を蹴っていた。熱くなるもんじゃねえ、と男が言ったような気がする。だがそれを確認する前に、左近はあののように地に転がされていた。一体何をどうされたのか思い出せないほど瞬時に、速やかに、あまりに鮮やかに転がされ、暫し何が起きたのか分からないほどだった。
「……改めましてこんにちは」
「我が家へようこそ」
地に転がったまま挨拶をするのもおかしな話だが、起き上がる気力もなかった。あの日よりもだいぶ砕けた服装の男が見下ろしているのは分かるが、強すぎる夏の日差しが逆光になり、その顔は見えなかった。
「左近」
「ああん?」
柄の悪い声だなあと思いながら、左近は再び言った。
「左近って名前。この近くの賭場によく行ってる」
「ああ、あの賭場か。そろそろ誰か覗きに来るんじゃねえかと思っちゃいたが――」
「知ってたのかい」
「滞在するなら辺りを調べるくらいはするさ」
滞在、という言葉に左近は一人で納得した。そう、あくまで滞在だ。定住ではない。夏の間の仮住まいだ。
「俺は覗きに来たんじゃないよ」
「何をしに来た」
「何だろう」
左近は暫し考える。男は左近の言葉を促しはしなかった。だから左近はゆっくりと考えることができた。空の太陽に目を焼かれる。酷く熱い。少し目が痛い。
やがて左近は自分の感情を素直に口にする。
「あんたと、あんたの奥さんに会いたかった」
ふうん、と男は小さく言った。
「じゃあ客か」
「それでいいわけ? 不審者って思わない?」
「招いた覚えもねえが、俺たちに会いたくて訪ねて来た奴を追い返すほど野暮でもねえさ」
男は笑い、割った薪を集めて肩に担ぐ。
「茶も出さねえ嫁だが、それでも良ければ入るといい」
ああ、出さないだろうなあ、あの様子じゃなあ――男の美しい妻を思い出し、相変わらず太陽に目を焼かれながらつい苦笑した。男は左近をそれ以上待たず、薪を担いで小屋に入って行く。
「ああ」
小屋の扉を開ける前、男はいかにも思い出したと言うように背中越しに声を投げる。
「小十郎だ」
「ご立派なお名前で」
「それはどうも」
男――小十郎が小屋の中に消えても、左近はしばらく天を仰いで寝転がったままだ。やがて小屋の中から小十郎の声と、何かに呆れたような女の声が聞こえる。太陽に焼かれる目がいい加減に痛くなり、左近はやっと身体を起こした。
小屋の扉を開けるとすぐに土間があった。小さな小屋だ。框を上がれば夏の間は煮炊き以外には使われない囲炉裏があり、夫婦はその周囲で生活しているのだろう。明かり採りの窓が開かれ、穏やかな風が入り込んで来る。その窓から入る風が一番よく通る場所に、あの女が脇息にもたれて座っていた。小さくて粗末な小屋には不似合いな脇息だが、なぜか彼女には必要なものなのだろう、と左近は知った。
左近が声を出す前に小十郎が言う。
「水出しの茶でいいか」
「――そんないいもん、飲ませてくれるの?」
茶そのものが高級品だ。やはりこの夫婦は只者ではない。二人ともあの日よりもずっと砕けた格好だが、普段は決してこんな所で過ごすことはないのだろうと分かる雰囲気を纏っている。
土間で足を洗い、客人の礼儀として囲炉裏の一番下座へ座る。ここで普通の武家の妻なら「いいえどうぞこちらへ」と自分よりも上座へ誘うところだが、女は微動だにせず、左近を見ることすらなかった。もしかして、と左近は思う。
――旦那さんより、奥さんの方が身分が上だったのかもしれないなあ。
「手ぶらで申し訳ないんだけど、左近って言うんだ。よろしく」
左近はとりあえず女に挨拶をする。女は返事もしない。脇息に頬杖をつき、初めてちらりと左近を見た。左近は苦笑したくなる。
苦笑するしかない。
苦笑で――得体の知れぬ不快感、焦燥感を忘れる振りをする。
この女は違う、と今分かった。
ちらりと目をやられただけで分かった。
鳥肌が立ったのだから。
女の目には何ひとつ感情が浮かんでいなかった。
その目を見返すことができない。たかが女だ、そう言いたい自分がいる。
だが分かってしまった。
違う。
この女は――違う。
「……ああ、すまねえな」
小十郎が苦笑いをしながら言った途端、左近は自分でも驚いた。
びくりと身を震わせ、現実に戻ったと自覚したからだ。
――今、俺は――
女に、呑まれていた。
「人見知りする女なんだ」
「いや、人見知り……あ、そう……」
人見知りって話じゃ済まないと思う――そう言いたかったが、小十郎は「そういうことにしておけ」と言外に言ったことが分かった。目で「分かったよ」と示すと、小十郎は黙って左近の前に水出しの茶を置く。
「お前」
それから妻に声をかけた。こんな上等の女にでも「お前」なんて言っちゃうんだなあ――左近はいっそ、小十郎に対して感心してしまう。自分なら例え妻でも、これほどの女であればそんな呼び方はできないかもしれない。
「挨拶くらいしろ。客人だ」
「招いてなぞおらぬわえ」
「俺が家に入れた客人だ。文句があるか」
「――はい、ええ、はい」
明らかに不本意という顔だが、夫の言うことは絶対だと分からせる返事だった。これも左近には意外だった。見るからに気位の高い女が、例え夫とはいえ素直に言いつけに従うとは。
左近にとっては驚くことに、女は居住まいを正し、三つ指をついて左近に深々と頭を下げてみせる。明らかに「夫の客人への態度」だった。逆に左近は慌てに慌てる。この女に、こんな女に――慌てふためきながらなぜか自分も居住まいを正してしまった。小十郎がつい苦笑いを漏らしたことにも気づかなかった。
「道中にお暑うござりまして、おするするならしゃりて、まことおおはれにあらしゃります」
マジですか、と心の中で冷や汗をかいた。やはりこの女は只者ではないし、絶対に小十郎よりも本来の身分は上だ。暑い中無事に到着したことは喜ばしい――そう言った彼女が操る言葉は、名家と言われる出の左近でさえ滅多に耳にしない御所のものだ。それをすらすらと操れる女に舌を巻くしかなかった。そして同時に知る。
試されている。左近がこの挨拶にどう返すかを女は待っているのだ。この口上にすらりと返せる者は限られている。左近は完璧である自信こそないものの、教養として返答の仕方は分かっている。男としての威厳を保ち、だが優雅に頭を下げ、すらすらと口上を返す。それが礼儀だ。
だが――まるで賭場で盆を囲んでいる時のような緊張感を感じた。
試されている。
間違えるな。
女は左近を試そうとしている。
間違えたら――身包み剥がれる、そんな賭場だ。
どうする。
女は見えぬ賽を投げ、三つ指をついて下げた頭の下から左近の全てを見ようとしている。
どうする。
ここは賭場だ。賽は投げられた。
丁か、半か。
――ままよ。
使い古された言葉だ。だがそれしか浮かばなかった。ままよ。丁か半か――ええ、ままよ。
「――いっやあ、奥さん、すっごい丁寧だね! 俺にはもったいない挨拶だね!」
小十郎がちらりと自分を見た気配を感じる。だが見返す余裕はなかった。そう、余裕などなかった。頭を下げたままの女に明るい声で話しかけ、笑顔でいるのが精一杯だ。小十郎を見返す余裕などどこにあるものか。
「この辺で噂になっててさあ、すごい別嬪さんがいるって。そうしたら奥さんのことしか思い出せなくってさ?」
女はゆっくりと頭を上げ、首を傾げる。
「噂」
「そう。旦那さんもなんだけど、この辺の人じゃないのにこんな小屋に、って――」
「お前」
見かねたのか、それとも左近には分からない別の理由か、小十郎が妻に声をかけた。
「名乗れ。左近は名乗ったんだ、無礼だろう」
女は肩を竦め、脇息にもたれる。客人の前で更なる無礼だが、小十郎は咎める様子がなかった。ここはもう諦めている、とその表情が語っていた。
そして女が言った。
「名乗ろ」
「ああ、そりゃあどうも」
いかにも姫様っていう典雅な名前なんだろうなあ、京風の名前かなあ、それとも古典的な――左近は短い瞬間に妄想を巡らせる。この美しい姫に似合う名前を想像すると楽しかった。
すると女はさらりと言った。
「織田上総介信長」
時が止まった。そう感じたのは左近だけだったかもしれない。小十郎は左近が笑顔のまま凍ったことを見て取り、溜息をついて妻に「こら」と言う。左近にとってはとんでもない名を名乗った妻はぷいと顔を背け、夫に対して「こんな客人を引っ張り込んで不愉快だ」と態度で訴えたのだった。
それからたっぷり数分経った後に凍てついた時間から戻った左近に、小十郎は改めて「吉だ」と教える。
「きつさん?」
「ああ。――たまに悪ふざけがすぎる女なんだ。許せ」
「悪ふざけって言うか――よりによってあの名前を名乗るなんて、度胸あるねえ」
「名乗りて悪であるはずもなし」
吉の眉が跳ね上がった途端、左近は素早く察して笑顔になる。
「ま、びっくりしちゃったけどね! 魔王さんが怒らないならいいんじゃないかな!」
「ああ、怒らねえだろうなあ、うん」
「女の人の悪ふざけだもんね、そんなんで怒るとは思えないし」
まず耳に届きやしないよね、と左近は笑う。小十郎も笑う。
吉が少し遅れて肩を竦めた。
勝手にすればいい、と夫に向けて伝える態度だとは、左近には分からなかった。