午後の茶湯



犬だ、あれだ、あれ、そう、柴犬、ちっこい柴犬。晴久は思った。
目の前の少年はまさに、人懐こいあの柴犬だ。吉に纏わりつき、笑顔で可愛がられ、そして晴久に気づき、犬で言うなら「このひとだあれだあれ」の顔をしている。
「晴久、紹介しよな」
吉が扇子を閉じて言う。晴久に先に紹介するということは、晴久よりは下の地位だ。
「甲斐が武田の副大将、真田幸村殿。ゆき、こなたは出雲が守護代、尼子晴久殿」
「尼子殿であらせられますか!」
柴犬の顔が驚きと歓喜に彩られる。尻尾ありゃ振ってるな、と晴久は内心で呟いた。
「お初に御目文字仕る。真田幸村にござりまする」
「尼子晴久。宜しく」
お前の噂はよく聞いてるよ、とは言わないでおく。互いの立場的にどうしても政治が絡むことになるだろうから。
吉の前であまり政治的な話をしたくなかった。吉の言葉が少なくなるからだ。
──……旦那さんも、しねえのかな。
晴久はふとそんなことを思う。立場的には晴久よりも下だが、積極的に天下取りに乗り出している奥州の軍師ともなれば、早々に天下取りから退き、内政に力を注ぐことにした晴久よりも今の乱世の只中にいるはずだ。
自らの妻が誰よりも早く偉業を成し遂げ、乱世の親となった人物とあらば、助言なり何なりを欲さないのだろうか。それは晴久には分からなかったし、吉に訊くこともできなかった。奥州の吉は幸せそうだ。安土の城や出雲で見た、どんな吉よりも。過去を思い出させてはいけないことも、何とはなしに分かっていた。
「きつ様、お館様からお預かりものを」
「あァ、拝見したえ。さすが信玄坊主、粋なものを賜ったわ」
「さようでございますか! 幸村も嬉しゅうございます!」
「越後の軍神に贈ってやればよいものを、なァ」
「え?」
「何もなし、なし」
「きつ様が何もなしと仰るならば、何ものうございましょうな」
幸村はとにかく、吉に会えて嬉しいという様子を隠さない。吉もまたそれにいちいち嬉しそうに応じ、二人を見ていた晴久は、まるで本当に柴犬と飼い主に見えたのだった。
「晴久殿は、そのお召し物で参られたので?」
「ああ、うん」
言われることにはもう慣れた。嗜んでいる茶道の流派の都合で、晴久は着流し一枚で外を出歩くことが増えている。だがこの時代、着流し一枚で出歩く者は滅多になかったし、ともすれば眉をひそめられる格好だった。こいつもその手合いなのかなと晴久は構えることもなく考える。
だが幸村はにこりと笑った。
「涼しそうで、羨ましゅうございます」
「──まあな」
その笑い方で、ややもすれば気難しい晴久の気分を多少和らげたのは確かだった。
「普通の格好はお嫌いで?」
「そういうわけじゃねえ」
茶道の流派の考え方で、という話をする。幸村はそう歳の変わらない晴久が、思った以上に茶道に秀でていることを知り、素直に驚いた。
「茶道とは、奥深いのでございますな。それがし、どうもその方面には疎くてお恥ずかしい」
「──いや、いいんじゃねえの。好きな奴がやりゃいいんだ、こういうもんは」
「あ、でも、茶菓子は好きでござる。甘いのが好きで」
「……あっそう」
男でありながら甘いものが好き、と公言するのは珍しい。潔いのか何も考えていないのかと晴久は迷ったが、どちらでも構わないということに気づいた。別に友人になるわけでもない。たまたま吉のところで顔を合わせたから挨拶をしただけだった。
吉がくすくすと笑い、晴久を見た。
「晴久、茶を立てておくれたも」
「ん、いいよ」
「ゆきにも」
「ゆき?」
「晴久の前におるであろ」
「……ああ、そういうこと」
武士の名を縮めて呼ぶなど無礼極まりない時代だが、吉に逆らえる者など滅多にいない。何より幸村が気にしていない様子だったので、まあいいか、と晴久は思った。
「それがしも頂戴してよろしいので?」
「きつに立てんのに、何で一緒にいるお前を無視するんだよ」
「幸村、感激でございます!」
「お前、声でかいな」
「そ、それは申し訳ないでござる!」
「だからでかいって……」
すると堪えかねたように吉が噴き出した。晴久は暫く呆れていたが、やがて釣られて笑い出す。幸村はなぜ笑われたのか分からないが、吉と、知り合ったばかりの男が笑っているのを見て嬉しくなり、一緒に笑ってみせたのだった。
「旦那さんはどうするんだ? 帰って来るの、待ってなくていいのか?」
「お帰りは遅うなられるし、そも、あまり茶立ては好まれぬで」
「ふうん。──厨房行くよ、茶菓子の見立てするから」
「おこうに申せばよかろ、幾つか持って参るえ」
「俺が行った方が早いさ」
引き止める吉を尻目に、晴久は部屋を出る。男性、しかも晴久のような身分の者が厨房に行くことは一般的に驚くべきことだが、晴久は気にしないたちだ。
茶菓子を見立てるという理由は嘘ではないが、吉と幸村を二人にさせてやるのもいいような気がしていた。そして少しばかり、幸村の無邪気な陽の気に当てられたことも確かだった。
──俺には、ねえなあ。ああいうの。
見事な庭に面した廊下を歩み、厨房へ向かう。
どうするか、とやや迷ったが、害意を感じなかったため、周囲に使用人がいないことを確認してから足を止めた。
「顔、見せろとは言わねえよ」
返事はない。だが見られていることは分かる。
「お前の主君なんざ、俺は興味ねえ。だから俺の邪魔はするな」
唐突に、と言っても良かった。背後に気配が現れた。息遣いを感じるほど近くに立たれている。だが晴久は用心しようとは思わなかった。
「透波か」
「あんたの国の方じゃ、そう言うらしいね。姐さんにも言われたし。俺らの国じゃ忍って呼ぶんだけどさ」
「俺を付け回すのはやめろ。鬱陶しいんだよ」
「ああ、大丈夫。今はわざと、あんたにバレるようにしたわけだし。次からは分かんないようにするから」
だろうな、と晴久は思う。
「役目熱心も結構だが、主君が世話になってる相手の客人を不快にさせるもんじゃねえよ。失せろ」
「──はあい。出雲の国主様は怖いねえ」
気配が薄くなる。
だがその瞬間、耳元に息がかかるほど近くで囁かれ、晴久は息を呑んだ。
「美味しいお茶、飲ませてあげてね?」
瞬時に気配が消えた。
晴久は不本意だが、負けた、と自覚した。緊張を解くにはやや早まったようだ。そこを忍に手玉に取られたことが分かる。
「毒なんざ入れねえよ、透波じゃあるまいし」
吐き捨てるように呟き、厨房へ向かう。
さすがに面白い気分ではない。片倉家の使用人に八つ当たりするような愚かな真似はしないが、厨房で対応した女の使用人が、少しばかり困る程度には無愛想に弾みがついてしまった。
「晴久殿!」
厨房に幸村が現れた。晴久や使用人はさすがに驚く。
「お戻りが遅いので、ご様子を拝見に」
「お前、きつを一人にするなよ」
「右目殿からきつ様に急ぎの御文が。それがしがおりましたら、お読みになられるのをご遠慮なさるかと」
「ああ、あれか。急ぎって言うか、機嫌伺いの手紙らしいぞ」
片倉家に滞在することになって数日で、晴久はその手紙の内容を知ることになっていた。吉が直接言ったわけではないが、おこうが勝手に晴久に教えたのだ。
「特に用事ってわけでもなくて、他愛ないことばっかり書いてあるそうだ。帰って来る時間とか」
「え?」
「旦那さんが忙しくない限り、毎日来る。な?」
使用人の女に言うと、彼女はくすりと笑ってみせた。幸村が現れた途端、気難しい出雲の国主の口数が増えたことを意外に思いながら。
「小十郎様は、本当に。きつ様を大事になさっておられますゆえ」
「ああ、だから」
幸村が得心した声を出した。
「あんなに、きつ様は嬉しそうでいらしたのか」
これは貴重な生き物だな、と晴久は誰ともなしに苦笑した。吉がこの少年を可愛がる理由が少しばかり分かったのと──あの忍がこの少年の陰の部分を自ら進んで請負っているのであろうことが何となく分かったために。
「まあいいさ。──茶菓子、どれがいい」
「それがしが選んでよろしいので!?」
「正式な茶立てじゃねえし、立てられる方が好きなもの選ぶのが一番美味いんだよ」
「かたじけのうござりまする!」
満面の笑顔になった幸村に、晴久は無意識に僅かに微笑を返していた。
使用人が並べてくれた茶菓子を前に、幸村はたっぷり悩む。晴久は辛抱強く待ちながらも幸村を観察した。好きな甘味を前に悩む姿は、噂に聞く二槍の将とはとても思えない。戦場での姿を見てみたいものだ、と思った。
ようやく茶菓子を決め、二人は吉の部屋へ戻る。
「決まったのかえ。ゆきが決めたのであろ」
小十郎からの手紙を丁寧に折り畳み、文箱へ入れながら吉が笑う。
「よくお分かりでございますな、きつ様」
「昔から晴久はいつも、わらわに決めさせてくれたゆえ、ナ。甘味が好きな者が決めるが美味しと申して」
「その通りでござりまする!」
何でこいつはこんなに嬉しそうなんだ、と晴久は不思議でならない。だがこの短い時間に、幸村に対して少しばかりの親しみを持ったことは確かだった。
幸村の知るような堅苦しい茶立てではなく、まるで家族同士が「少しいい茶を飲もうか」と思い立った時のような、砕けた茶立てだった。幸村にはこの方がありがたい。幼い頃から茶席が苦手で逃げ回り、信玄にも呆れられているほどだ。最低限の素養は身に着いているが、好まない席にやむを得ず出席する時はどうしても落ち着かなかった。
今は気楽に茶を楽しめている幸村は、吉と話す晴久を観察する。これは癖のようなものだった。どんな人となりなのだろうと思うと止められない。
顔立ちは整っていて、割と色が白い。その分、漆黒の濡れたような髪の色と引き立てあって、独特の雰囲気を醸し出している。着流しに包まれた身体は細身だが 華奢ではなく、しっかりとした筋肉がついていることを窺わせた。茶の道具を操る指は長く、筋張っている。男らしい指だ、と幸村は思った。
歳の頃はあまり変わらないのに、晴久の方が自分よりも「大人の男」に見える。吉に対して幸村以外の誰もが多少は抱く「男」の構えを一切見せていないからかもしれない。それも幸村には不思議だった。他の武将が吉の噂話をする時、彼らは少々以上に吉を賛美し、幸村には分からない慕情を覗かせることもある。竜の右目が憎い、とまで言った者もいるほどだ。
だが晴久にはそれがない。吉を大事にしていることは言葉の端々や動作、世間の噂でよく分かるが、男の慕情は何ひとつ感じられなかった。
幸村の視線に気づいた晴久が、吉から幸村に顔を向ける。
「お前、得な奴だよな」
「え?」
「そんなに見ても不躾に思われねえのって、得だよ」
「そ、そうでござりまするか?」
「俺がそんなんやったら、ガンつけたと勘違いされる」
「尼子殿は観察眼が鋭いからでは?」
「そんなもんかね。それってお前が鈍いってことじゃねえか」
「えっ」
「そういうことだろ?」
「あ」
幸村は絶句し、その顔があまりにも呆然としていたものだから、晴久は思わず噴き出した。
吉はそんな二人を意外そうに、だが、嬉しそうに見ていた。


それから妙に幸村は晴久に懐いた。晴久ははじめ、面倒そうにあしらっていたが、冷たくしてもめげない、むしろ気づいていない幸村に諦めがついたのか、それとも正面から好意と興味を向けてくる態度を受け入れたのか、二日もすれば笑顔を見せて話すようになった。
昼日中、吉の話し相手をしていても、歳若い者同士で話し込む時間が急速に増える。吉は何ひとつ口を挟まず、二人の会話を黙って聞いていた。それが嬉しいのだと、稀に二人に向ける笑顔で教える。一度小十郎が一緒になった時、小十郎も同じような顔をしていた。
二人の話が盛り上がり、やがて武人の宿命か、古いいくさの話になる。これは二人だけではなく、誰もが吉の前では避けていることだった。吉が過去を思い出したがらないと知っているからだ。
ふとそれに気づいた二人はほぼ同時に口を噤み、思わず吉の様子を窺う。
すると吉が苦笑し、閉じた扇子で手を叩き、ぱん、と音を響かせた。
「何え、話をやめて」
「……いや、まあ。うん」
「その、失礼仕りました」
決まりの悪い声を出す二人に、吉はふっと微笑してみせた。
本当にこの子たちは、という顔で。

本当にこの子たちは──可愛くて仕方ないのだから。

「旦那様にも内緒で、ひとつだけなら、話をしてあげよ」
二人の若武者はつい顔を見合わせる。
「どのいくさがよいのだえ?」
吉の微笑がからかったものではないもの、そして嫌々話すのではないというものだと分かり、示し合わせることなく、二人で叫ぶように言った。

「桶狭間!」

「──やはりなァ」
予想していた吉はくすくすと笑い、長く話す準備として、まず足を崩したのだった。
「旦那様にも、他の誰にも内緒だえ」
閉じた扇子を口に当て、ちらりと天井を見る。そこにいるお前も勝手に聞けばよい、という目で。
吉の視線の意味に気づいた晴久は僅かに含み笑い、幸村は何となく照れた笑い方をする。天井裏の佐助が今、やれやれ、と苦笑していることを予想しながら。
そして吉は話し出した。
軍師である夫が、なぜ俺は聞けなかったのだと悔しがりそうな、見事ないくさの話を。