after the rain



「ほんに厭わし」
溜息をつき、吉は小休憩所の長椅子に腰掛ける。あっという間にびしょ濡れになった被衣を絞りたい衝動に駆られたが、織の糸がほつれてしまうので我慢し、壁にある笠掛けに引っ掛けるに留めた。市女笠にすればよかった、と今更ながら外出時の選択を後悔する。
昼下がり、使用人の目を盗み、供も連れずにふらりと片倉の家を出た。庭師の源爺だけが気づいていたことは分かっていたが、老いた武士は余程でなければ吉や小十郎に苦言を呈することがなかった。
突然の曇天に嫌な予感を抱く間もなく、空から大粒の雨が降り注いだとあればたまらない。
夏の空は変わりやすいとはいえ、晩夏にこれは余りに予想外だった。
──たまには東の市に行こうと思うておったのに。
普段行く南の市よりも、少しばかり値の張るものが売っている市へ向かう途中だった。旧臣の一族がよく顔を出す市でもあり、吉は意図的にそちらを避けていたのだ。小十郎にきつく言われない限りは付き合いたい方面ではなかった。
座ったまま前屈みになり、両肘を膝に立てて頬杖をつく。着物の下、膝を少しばかり開いたのは、誰もいないという気安さからだ。家でもしない、小十郎にも見せない姿だったが、一人の時ならたまにはいい。
土に跳ねる大粒の雫が草履を濡らした。爪先から冷えることを恐れたが、狭い小休憩所ではどうしようもない。指先を丸め、何の効果もない形ばかりの抵抗を示すしかなかった。
「早う熄みやれ。雨は好かぬのだえ」
空に話しかけても無論返答はない。むしろ、女の溜息混じりの嘆きを楽しむかのように雨が強くなる。吉はまたも溜息をつき、空を見上げるばかりだった。
東の市までの街道はそれなりに人の行き来がある。だがこの雨の中、歩いていた人々は方々にある小休憩所で雨を逃れていることだろう。街道の整備に余念の無い政宗は、自分の代になってから小休憩所を増やすことにも力を入れた。
雨を凌げる場所があれば、遠くから行商に来る商人が天気を恐れずに頻繁に行き来ができる。濡れる荷を最低限にすることができる。物が集まれば人が集まる。人が集まれば力が集まる。政宗が片倉の家に押しかけて来た時、吉の前でそんなことを勝手に語っていた。

唐突に雷鳴が轟いた。悲鳴を上げるたちでなければその程度の肝でもないが、やはり僅かに身を震わせる。
雨は好きではない、と思い出した。雷も嫌いだ。
街道を一人で歩いた日を思い出す。
あの日も雨が降り出したのだ。あの時も今も、全く同じだった。
今よりも凍える季節ではあったけれど、それでも確かに、今は──
追憶の中に取り込まれそうになる。息を呑んだ。思い出してなるか、と自らを律した。
あの雨の日を思い出せば、引き摺られるように──あの雪の日を思い出してしまう。
思い出したくはない。

雨は嫌いだ。
雷も。

雪も。

「──!」
不意に吉は姿勢を正し、脚を揃え、開いていた膝で乱れた裾を素早く直す。傍から見れば毅然とした武家の女の姿になった。
「場所を」
背が高く、姿勢のいい男がそこにいた。いつからいたのだろうか、と吉は自らの迂闊を呪いつつ、男を見上げる。
雨の日のお決まりである笠と蓑ではなく、小袖と袴に傘をさしている。
袴の裾は絞られておらず、開いたままだった。騎馬を誇りとする伊達の領では珍しいが、これが粋だと言う者もいる。無論、今の天候では相当濡れてしまっているが、それも気にせずに姿勢よく歩くのが、いわゆる伊達男だ。
「分けてもらえるか」
穏やかで、どこか笑いさえ含んだ声に、吉は敢えて澄ました声で答える。本当にいつからいたのだろう、と思いながら。
「この雨の中、否と申すほど冷とう出来ておらぬ。好きにし」
「──かたじけない」
男は傘を閉じ、小休憩所に足を踏み入れた。相変わらず吉は澄ましている。
粗末な木の椅子に雨避けの屋根と後ろ壁。
男が入れば一気に空間が狭くなる。
長椅子の、吉とは反対側の端に男は腰掛けた。
「どこへ行くんだ」
男の声は低く、だが、優しい。叩きつけるような雨の音の中、それでも吉の耳には確かに届く。
「東の市へ」
「買い物か」
「然り」
「何を買うんだ?」
「旦那様へ、差し上げるもの」
「へえ」
男の声に興味が混ざる。吉は相変わらずつんと澄まし、男の方へ顔を向けることもない。男は吉の横顔を見て僅かに笑っているようだが、吉は気づかぬ振りをした。
「何をくれてやるんだ」
「申す理なし」
「冷てえな。ここで会ったも何かの縁だろうに」
「縁あれど、深まるはまた異であろ」
男が僅かに声を上げて笑った。吉はただ、澄まし返っているだけだ。
そうだなあ、と男は言った。
「話そうか」
吉は答えない。無言で肯定の意を示す。それが分かるのが伊達男、と言わんばかりに。くつくつと男が笑う。女の気取った姿が楽しいのだ、と言うように。
「どんな旦那だ」
「申す理なし」
「天女みてえな女の旦那に興味があるんだよ。教えてくれてもいいじゃねえか」
ちらり、と一瞬だけ吉は男に目をやる。世辞とも本気ともつかぬことを言った男が悪戯げに微笑んでいることを確認し、また、ぷいとそっぽを向いた。
それでも答えてやることにする。
「日の本いちの剣の達者で」
「ふむ」
「情が深うて」
「ふむ」
「学もおありで、笛がたいそうお上手で」
「ふむ」
「ようよう、主君を御護りあそばす伊達の男よ」
「ふうん」
男がまた、笑う。
「妻にはどうなんだ」
「どう、とは」
「優しいか」
「それは」
吉は胸元で濡れることを回避していた扇子を取り出し、開いて口元を横から覆う。男から見えぬように。
「旦那様がそうお思いであられれば、そうであろ」
「自分じゃ分からねえのか」
「申す理なし」
「ったく、女ってのは」
強情なもんだ。そう言って男はまた笑った。吉は笑わず、取り澄ましていた。
雨は熄まない。僅かに雨足が鈍ったが、それでも相変わらず強い雨だ。
「俺の妻の話を聞くか」
吉は暫し黙り、やがて肩を竦めてみせた。
「晴れ待ちのアテにはなるかえ」
いかにも付き合ってやるという態度だ。
聞きたい、などという心はおくびにも出さずに。
「そうか、そうか」
男はまた、笑う。遂に釣られて吉も笑ってしまった。扇子を閉じ、話を待つ。
男が話し出した。
「可愛い女だ」
「そ」
「気が強いくせに、繊細で」
「誤りではないの」
「そうか? 俺はそう思ってるよ」
「ほうかえ」
「初めて会った時は、何者かと思った。とにかく気位が高くてな」
「そ」
「でもすぐに、可愛いってことに気づいた」
「……ふうん」
男が吉の横顔を見、微笑む。
吉は視線に気づかない振りをしながら扇子を弄んだ。
「教養があって、いい女だよ。特に舞がいい」
「そ」
「俺の主君も、妻の舞は手放しでお褒めになる」
「嬉しない」
「何だって?」
「と、奥方は申されるやもしれぬ」
「そうかい、そうかい」
今度は男は苦笑した。
雨脚が僅かに、僅かに弱まっている。通り雨にしては長いが、それももうすぐ終わるだろう。
「あいつは」
「ん」
「雨がいやだ、って言うんだ」
「……ふうん」
「熄むのが嫌だ、ってな」
吉は答えなかった。
男もそれきり黙った。
雨が降っている。跳ねる雨粒が足元を濡らした。
雷鳴はいつの間にか遠ざかっていた。
沈黙の中、屋根に当たる雨音が響く。
吉は何も言わない。
男も何も言わない。
ただただ、少しずつ弱まる雨音だけを聴いていた。
遠い空に光が差し始めても、二人は何も言わなかった。
跳ねる雨粒の勢いが弱くなった頃、吉が小さな声で言った。
「熄むのが、いやなのかえ」
「……そういうわけでも、ねえんだろうな」
「では、何」
「そうだなあ」
男は空を見上げる。吉は男の横顔を見る。
「熄んだら、俺と別れなきゃいけねえってのを思い出すんだろうな」
「ふうん」
「そんなこと、もうあるはずがねえのに」
「……あるはずが、ないの」
「俺は、そのつもりだよ」
「ふうん」
「俺は、雨が熄んだって」

男は言った。

「もう、あいつを一人で馬に乗せねえ」

──右目。乗せい。

「乗る時は、俺が一緒に乗る」

吉は答えなかった。ただ、男の横顔を見る。
雨が小降りになりつつあった。降り出した時と同じように、唐突に熄むのが夏の雨だ。
男は話し続けた。
「あいつと一緒に奥州の春を見て、夏を過ごして、秋を謳って、冬を越える。──冬の雪も」
男は言った。

「いつか──二人で、冬の庭を見る」

雨が熄んだ。
曇天は退き、少しずつ光が差し始める。

吉は男の横顔を見ていた。
唇を噛み締めた。
扇子を持つ指にぎゅうと力を入れた。

泣いていいのか分からなかったから。

「熄んだぞ」
男が立ち上がり、用済みになった傘を手に持つ。
先に外に出て、空を見上げた。
秋めいた夏の日差しが、再び奥州の柔らかい土と緑に降り注ぐ。
「まずは雨だ」
もう、と男は言った。

もう、大丈夫だ。
雨が熄んだって。

吉は微笑んだ。
笠掛けに引っ掛けた、濡れたままの被衣を取り、被ることは諦め、手に持って外に出る。草履の下でぬかるんだ土が暴れたが、気にならなかった。草履も足袋も汚して、男に小走りに近付く。
男が笑う。

「なにゆえ、わらわのおる場所がお分かりになられたの」
「道場から戻ったらお前がいねえ。源爺に訊いたら、東かと、ってだけ言ったんだ」
あの翁は、と吉は舌を巻く。小十郎は笑う。
「で、俺の何を買うんだ?」
「もう、買わぬやも」
「何だよ、そりゃ」
「だって、もうお持ちで」
「ん?」
吉は小十郎が持つ傘に目をやった。
「袴の時もお似合いの傘を、探そうと思うておったの」
「そりゃまた、何でだ」
「今の年はほんによう降るゆえ、おまえさまが袴で道場に参られる時、お使いかと」
「いいじゃねえか、探せよ」
「もう、もう。やめ」
「お前なあ」
だって、と吉は頬を膨らませる。

「それをお持ちのおまえさまが、とてもよい男振りなのだもの。他のものはもう、いらぬ」

流石に小十郎は咄嗟に言葉が出なかった。
そうか、と呻くように言い、咳払いをする。自分たちと同じように、別の小休憩所で雨上がりを待ち、街道を歩き始めた人々に聞こえなくて良かったと思いながら。

「──そうか。じゃあ、お前の傘を買おう」
「わらわの?」
「いるだろう。被衣じゃ今日みてえなことになる。降りそうな時は持って歩け」
濡れたままの被衣を示し、小十郎は言った。
吉は少し考え、やがて首を傾げ、それから「いや」と言った。小十郎は肩を竦める。
「荷物になるのが嫌なら、おこうに持ってもらえばいいだろう」
「そうではなくて」
吉が夫に笑いかける。
夫が自然と笑顔を返してしまいたくなる、甘えた笑い方。

「おまえさまが、お迎えにいらしておくれたも」

お前なあ、と夫は呆れた声を出す。
呆れた振りの声、だ。

分かったよ。
そうするよ。

雨が降ったら迎えに行こう。
雨が熄んだら一緒に歩こう。

もう、

雨が降っても、熄んでも、
俺たちは大丈夫だ。

「市に着いたら足袋を買ってやる。濡れたままじゃ気持ちが悪いだろう」
「あれ、嬉し」
「晩飯も市で食うか」
「ほんに? 東の市はよう知らぬの」
「片倉夫妻が珍しく東の市に来たってことになれば、頼まなくても呼んでくれる店があるだろう」
「斯様な濡れ鼠で、恥かし」
「膝を開いて座っていた女の言うことか」
「──いつからいらしたの、おまえさまは!」
たちまち真っ赤になった吉を見て、小十郎は声を上げて笑った。
ひどい、もう、と怒っていた吉も、夫の笑い声に共に笑い出してしまう。

雨上がりの空に夫婦の笑い声が吸い込まれて行く。
道行く人々が振り返り、何事かという顔をするが、やがて釣られて笑顔になって通り過ぎた。



一緒に、
奥州の春を見て、
夏を過ごして、
秋を謳って、
冬を越える。



いつか、
二人で、
雪の庭を、
見よう。