君臨せし君、指先に砂を



旧知と言えば旧知だ。四季折々には文と贈物を届け、礼状が返される。
気紛れに近くに寄った、と突然現れれば歓待し、礼を尽くし、何があろうと晴久は笑顔を絶やさない。
剣豪将軍と呼ばれる奔放な男は稀に、晴久の家臣が「主君が怒るのではないか」とひやりとするような際どい冗談を飛ばす。常であれば怒るか、完全に無視するかのどちらかであるほどの際どさであっても、この男には笑顔を絶やさず、上様の御戯れに臣は困り申して、と短く述べるに留まる。その答えに義輝は笑い、すまなかった、すまなかったと言って杯を重ねるのだった。
機嫌よく酔う義輝に魔王の話をされることもある。魔の朋とは恋仲なのであろう、と、また際どい誤解を笑い話のようにされる。晴久は苦笑し、あもじが聴すればおおおどろきさんに──姉が聞けば驚くだろう、と答えるしかない。将軍は食い下がることもあるが、数度同じ話をするうちに本当に恋仲ではないと納得したのか、それからは「魔の朋」の人と成りについて話すことが多くなった。魔の朋には恩がある、と何度言ったか、晴久は何度聞いたか知れない。晴久はそのたびに笑顔で頷き、自らが話すことは滅多になかった。
「朋よ」
その夜も義輝は晴久をそう呼んだ。晴久は笑顔で酌をし、はい上様、と返事をする。義輝は女が酌をすることを好まぬわけではないが、男同士の話がしたいと言って女や家臣を酒席から追い出すことも多く、今夜も晴久と二人で杯を重ねていた。
「いつも余ばかりが話している。話したいことはないのか?」
「申したきこと」
「そうだ。余は話すことが好きだが、聞くことも好きなのだ。聞かせてくれないか」
「ふふ」
話すことはない──晴久はその笑い方で教えた。
義輝が不意に苦笑する。彼にしては珍しい笑い方だ、と、晴久には分かる。その程度には将軍のことを理解していた。
「なるほど、血は繋がらねど姉弟だな。はぐらかす笑みがそっくりだ」
「あもじに」
「そう、魔の朋も、余に話をしたくない時はそうやって笑うのだ」
「上様にはぐらかす、などは無く」
お前にべらべら喋るほど能がないわけじゃねえさ──無論口には出さないが、晴久は思う。
出雲守護代の職は義輝によって与えられた。それは事実であり、恩を感じるべきだと言われれば確かにそうだと分かっている。だからこそ礼を尽くし、訪いがあれば何を放り出しても手厚くもてなし、どこかしら現実から剥離した感性を持つ男の相手をするのだ。
しかし義輝が求める関係はそうではない、ということも分かっていた。
腹の内を知りたいと思われている。それは策謀があるのではないか、足利に対する忠義の度合いを計りたい、ということではない。
──この男は、人として、時代を生きる一人の人間として、俺が、人が、何を考えているのか知りたいんだろう。
「臣が上様の御心に添えぬことは甚だ心の外にありて」
──生まれ付いての王者だからこその、我儘な、偏狭な望みだ。
「いつもそんな話し方をしているのか? 違うだろう」
「上様の御炯眼に、臣はねたもじと」
将軍様の洞察にはかなわない、答えながら、このようなあからさまな世辞口上は通じまいと分かっている。いわば空々しいやり取りだった。義輝もよく分かっていて、普段なら笑ってみせただろう。
だが今日は笑わなかった。
「余と朋が、幾たび杯を重ねたと思っている。余は朋に言いたいことを言い、腹を曝けたつもりなのだ。朋は今、この時でも臣と申すのか」
「身に余る御言葉に御礼を」
「余は朋を出雲守護代に任じた。足利という名を背負うのも確かだ。尼子がそれに何を思うかは分からぬわけではないのだ。だがこのような時くらい、余と僅かでも音を重ねようとは思ってくれないのか、朋よ」
朋よ。
義輝は正面から晴久を見据え、そう呼んだ。
晴久は暫くその視線を受け止めていたが、やがて伏目がちに逸らす。萎縮したのではなく、笑いそうになる自らを抑えるために逸らせたのだと、義輝には分からなかった。分からないながらも晴久の態度に業を煮やしたのは確かだ。
「朋よ」
また、そう呼ぶ。晴久は返事をする。
「はい、上様」
穏やかな笑顔で返事をする。
義輝は笑わない。なぜだ、と、苛立ちを抱いた。慣れていないのだ。
従うわけでもなく、萎縮するでもなく、従う顔をしながら、その実は何ひとつ従わぬ、さりとて名ばかりの将軍のくせにと侮るでもなく、まるで其処此処の人間に対するように、只々丁寧に扱われることに、義輝は──生まれながらの王者は慣れていなかった。
「余を見ろ」
「拝しております」
「拝するな。見ろ」
「臣には恐れ多く」
「臣と申すな。──朋よ。何故、余を」
そこで義輝は言葉を切る。詰まった、と言っても良い。
──何故、余を──

無視、するのだ。
朋よ。

晴久が静かに、丁寧に言う。
「出雲は上様に大恩ありて、朋なる御言葉に只々過分なばかりにて」
「余がそう呼ぶことが不満か」
「ふふ」
またあの笑い方をする。はぐらかしているつもりはない。嘘をついているわけでもない。
答えないだけだ。
答えても無駄だと知っているからだ。
義輝が苛立つことも知っている。彼が魔の朋と呼ぶあの女が言っていた。

人よ。
あれは、人よ。
苛立つ人よ。

そうだね。心の中であの日の姉に語りかける。
そうだね、きつ。この男は人だね。
だからあなたは──

「朋よ」
「はい、上様」
「その笑い方は、余は好きではない」

人だからこそ、この笑い方に苛立つ。晴久は分かっていた。
人だ。そして王者だ。
この男以上の王者が日の本にいるだろうか。
真の王者とはまさにこの男のこと。

「そう、おっしゃられましても」
「その話し方も好めぬ」
「そう、おっしゃられましても」
「黙れ」
「はい、上様」
義輝の苛立ちが声に出ている。晴久は素直に従った。これはこれでこの男に忠誠を尽くす面々にはひとつの魅力なのだろう、と思った。無理に感情を隠さず、素直に思いを曝け出す。甘えでもなく、威嚇でもない。それは自らが一人の人として、相手を一人の人として対峙するという証明だ。雲の上の人間にそう扱われる部下たちは自らを誇りに思い、主君への忠誠を新たにするのだろう。
「答えよ」
「はい、上様」
「余を、何故、視界に入れぬ」
「拝しておりますれば」
「そうか。──そうだな。では、質問を変えよう。余を、なぜ」

朋の世界に入れぬ。

「……何をおっしゃるかと思えば、御緩怠ながら大層な誤りを」
畏れ多くもと言いながら、晴久は内心で義輝の器を測りそうになる。だがすぐにやめる。答えは分かっている。
王者の器だ。真の王者だ。
人の世の、無二の王者。
「懇ろに饗されることには礼を言うぞ、朋よ」
「恐れ入り奉り」
「だが、それは余に対しての饗応ではないということも分かっている」
「何ぞ至らぬことがありますれば、臣として心より御詫び申し上げ──」
「黙れ」
「はい、上様」
そうではない、そうではないのだ、と義輝は苛立った声で呟いていた。晴久は答えない。王者が黙れと言うならば、王者に守護代の地位を与えられた自分は黙るしかない。
「朋よ」
「はい、上様」
「曝け出せ。余に見せるのだ」
「何を、でございますれば」
義輝の瞳が炎のようだった。並の者であれば射抜かれ、焼き尽くされるような炎だ。それでも晴久は怯みはしなかった。何ら衝撃を与えられることもなかった。ああ、と気付く。ああ、俺は──
──俺はこんな目を見ても、何も思わねえ。知っているからだ。
人の炎が人を焼くことはできない、と。
人を焼ける炎を持つ者は、人ではないのだと。
あの、魔王のように。
人で非ざる存在であろうとする魔王にしか持てぬのだと。
「朋の腹の内を見せてくれ」
「純なる白とは申せねど、黒ということもなく」
「余がそんな話をしていると思うのか。うつけを演じる心もないくせに、演じる振りをして余をあしらうな」
「御緩怠ながら、すもじ、酒が過ぎにあらしゃりて」
飲み過ぎだ、と晴久は柔らかく言った。義輝が酒豪であることを知っていながら敢えて言ったのは、もはやはっきりと、義輝に教えるためだった。
──話すことなんざ、ねえんだよ。本当にな。
「まるで」
義輝が呻く。晴久を睨めつけるかのごとき目は相変わらず炎のようで、感情の昂ぶりを教えた。
「まるで、戦をしているようだ」
「何のお話か、臣には分かりかねますれば」
「落とし難い敵を目の前にした将は、こんな心持ちになるのだろうな。憎くてならぬ。だが──」
剣豪の動きは速く、そして強かった。晴久が引くより早く腕を掴み、ぐいと引き寄せる。僅かな抵抗すらせず、晴久は引き寄せられるがままに、この短絡野郎と心の中で義輝を罵りながら、その腕の中に倒れ込んでいた。
些かの抵抗もないことにまた、義輝は苛立つ。
丁寧なもてなし、反抗的なことを何一つ言わぬ分別、女のように扱われても眉ひとつ動かさず、抵抗もしない。理想的な臣下だ。それがよく分かる。だからこそ苛立つ。晴久の顎をぐいと掴み、無理矢理自分と視線を絡ませた。
「だが、自らの力で屈服させたくてならぬのは──何故だろう、な」
「屈服も何も、端から出雲は上様の忠なる臣に」
「黙れ」
はい、上様。そう返事をすることはかなわなかった。
晴久が声を出す前に、義輝が噛み付くように、晴久の唇を己の唇で塞いでいた。




ああ、「強い男」だ。多くの男が好むであろう喘ぎ声を上げながら、晴久は思っていた。
稀に遊びで寝る西海の男と僅かに似ているかもしれない。否、根本は等しいのかもしれない。
閨で奉仕されることを善しとせず、組み敷き、正面から征服することを好む抱き方だ。
晴久が声を上げれば上げるほど、義輝は苛立ったかのように強く抱く。
──女なら気絶してるぞ、馬鹿野郎が──
それなりに閨の技には自負がある晴久でさえ、ともすれば理性を飛ばし、喘ぎではなく悲鳴を上げてしまいそうな力だった。乱暴というわけではない。
強さ、だ。
鍛え抜かれた体躯に美しい肌、組み敷く相手に快楽を与える手管。何もかもが強さを感じさせる。力の加減ではなく、その強さとはいわば──存在感だ。圧倒的な存在感が強さを知らしめる。
体躯に相応しい剛に貫かれ、晴久は背を仰け反らせ、喉を見せて喘ぐ。本気の喘ぎだ。理性を飛ばすな──屈服させようとする力に抗うことなく、だが呑み込まれぬよう、喘ぎながらも自らに言い聞かせる。
喉に強い痛みを感じた瞬間に思わず悲鳴を上げたが、ふざけんじゃねえ馬鹿野郎、と罵ることは何とか堪えた。喉に噛み付いた義輝はそれを望んでいたかもしれないと思いながら。
突き上げられる強さに我知らず男の腕に縋る。だが爪を立てることだけはしない。
腹の中が壊れるのではないかと思うほどに蹂躙されても、幾度も頂に投げ出され、遂には男としては屈辱とも言える乾いた絶頂を繰り返し味わわされ、泣きながら女のような悲鳴を上げ続けて声が枯れても。
爪を立てることだけは、しなかった。
朋よ。
義輝が荒い息の中、涙に塗れ、呼吸もままならない晴久の頬を優しく──今夜初めて、優しく撫で、囁いた。

朋よ
余の腕に、背に、爪を立ててくれぬのか
爪を
身に、心に
なぜ
爪を立ててくれぬのか
なぜ
誰も

晴久の唇が戦慄く。義輝はその唇から零れ出でるであろう言葉を待った。
そして晴久は途切れそうな息と共に、喘ぐように言った。

出雲は
上様の
臣にござりますれば

王者の瞳に浮かんだ感情が怒りであったことを、快楽を過ぎた苦痛の中で晴久は知る。
知ると同時に義輝がまた晴久を強すぎる力で蹂躙する。
喘ぎ、悲鳴を上げ、苦痛と快楽で拷問に等しい時間の中に叩き込まれても、爪を立てることはなかった。
それでも晴久は心の中、笑っていた。

ああ、人だ
人だ──人だ!
この男は人だ
与える者ではなく
破壊する者でもない
ただの人、だ!




蹂躙の後の男は優しいものだ。義輝も御多分に漏れず、まるで女にするように晴久の髪を、頬を撫で、抑え付けて紅くなった手首を取って唇を寄せては謝罪の言葉を口にする。ここまでが義輝のような男にとって、閨の流れのひとつだった。
「済まなかった。強情を張られて、抑えが効かなくなってしまったのだ」
「……御意に」
いかにも辛いと言うように何とか身を起こし、掠れた声で返事をする晴久の様子に義輝は慌て、構わぬ、横になれ、と命じる。流石に身体が限界を超えていた晴久は言われる通りにした。むしろ、早くこの男が眠ってくれないだろうかと願う。儀礼上、義輝が眠らない以上は晴久も眠れないのだ。
「これで屈服させたとは、流石に思ってはいないぞ。余はそこまでの愚物ではない」
自分の激情を恥じたのか、義輝は素直に言う。晴久は返事をしたつもりだったが、できなかった。余りの疲労に声を出すことすら難しかった。
「詫びよう。済まなかった。余に出来る事があれば償いに何でもしよう。好きに申せ」
汗に濡れた晴久の黒髪を撫で、女に気紛れの褒美を与える如くに言う。これはわざとだ、と晴久は知った。敢えてそうすることによって、自らに生じてしまいそうな自己嫌悪、あるいは羞恥心を感じないようにしている。王者も大変だな、と思いながら言った。
目を伏せ、理性が戻っていることを悟らせぬようにしながら。
「……出雲を」
「うん?」
「出雲を──今までのように、御守り下されば」

そうだ。
出雲を護れ。
いいや、俺が護るために──

「そのようなことでいいのか。償いにならないではないか」
「それだけで」

俺が出雲を護るために。
そうだな、安芸のあいつの言葉を借りたなら、こう言えばいいのか。
俺の。
出雲の。

「それだけで、臣は果報に」

駒に、なれ。

「そうか」
義輝は暫し無言でいたが、やがてまた晴久の髪を撫でる。
「それが償いと申すなら、余はそれしかできないな」
「出雲を」
「分かった、分かった。約定だ」
王者は笑う。力強さと希望、人の望み得る全てを手にした者の笑顔で。
晴久も笑う。忠実な臣下のように、人である男に。

あれは人よ。魔王と呼ばれる戦乱の親の言葉を思い出す。
そうだね。心の中で語りかける。
この男は、人、だね。
だからあなたは、この男ですら。日の本の全ての者が王者と認めるこの男ですら。
その腕に抱いて、見守るんだね。

なぜ世界に入れぬのか。この王者は言った。

教えることはない。晴久は思う。
誰かを自分の世界に入れる、なんて。
それはまさに、人がやることだ。
俺は人であろうと思っていないんだ。
俺が決めた道を歩み続けるために。

「それにしても、朋よ。次こそは語ってもらうぞ」
「臣には何も」
「本当に強情だ!」
男は笑う。晴久は口元を僅かに微笑ませる。
晴久が寝所を辞すために起き上がろうとすると、義輝はそれを引き止め、朝まで一緒に眠ろうではないかとやはり笑いながら言う。
「寝言で朋の本音を聞かせてくれ」
「では臣も御緩怠ながら、上様の本音を賜りますれば」
「まったく、ああ言えばこう言う者だ」
苦笑いをしながら晴久を引き寄せ、腕に抱いて目を閉じる。美しい体躯は健康な睡眠を得る術も心得ているのか、すぐに穏やかな寝息が聞こえ始めた。
ひとつだけ本音を言ってやってもいい、と晴久は思った。
だから小さく言った。
「女の腕に抱かれて眠る方が、好きだね」
返事は穏やかな寝息だ。
溜息をつき、義輝よりも早く起きるために深く眠らないよう気を付けながら目を閉じ、夜に別れを告げた。




魔王にはなれない。
けれど、人であろうとも思っていない。
ただ自分の決めた道を歩み続けるだけ。

お前の望みなど知らない。
知ろうとも思わない。
俺は出雲を護る者であればいい。

人はお前を王者と言うだろう。
生まれながらの王者だと。
日の本で唯一無二の王者だと。
それでも、誰が何を言っても、俺の世界のお前は。

いずれは砂に埋もれ行く、ただの駒。

俺の。
出雲の。

駒になり、砂に埋もれ行け。