「思った以上に砂ばっかりじゃねえか」
小十郎の辟易した呟きに、吉は肩を竦めた。夫は馴染みのない土地だから仕方ないが、吉は昔から何度も来ている土地だ。
「砂の地の側だもの、仕様もなかろ」
「港は別か」
「港は逆の側」
「そっちの方がまだマシだ」
「なら、なら」
吉が急に声を弾ませる。
「戻りに、港を見て参ろ。安芸に足を運ぶもよし」
「そんな時間はねえ。俺はすぐ政宗様の所へ戻る。大体お前、港なんて興味が――ああ、軍事的には見ておくのも必要だろうが、お前は出雲の港だったらいつでも見られるんじゃねえのか」
「……も、よいわえ」
「何がいいんだ」
「よいの!」
ぷいとそっぽを向き、吉は勝手に歩き出す。明らかに気分を害した態度だ。小十郎はなぜ妻の機嫌が急に悪くなったかが分からず――二人で美しい景色を見たいと言う女心だとは思いもよらず――、しかしはぐれるわけにもいかないので、溜息をついてから、緋の布をひらめかせて歩く妻を追った。――こんなに小柄なのに、よくこんな鎧を纏えるもんだ――何度思ったか知れないことをまた思う背中だった。
とはいえ、今は感傷に浸っている場合ではない。まだ陣を全て落とし切っておらず、鹿之助と話をしていないのだ。とにかくもう一度鹿之助に遭わなければならない。
「おい、晴久殿のことが心配なら、臍を曲げねえで俺ときちんと歩け」
「なんも。晴久なら、ほとぼりが冷めた頃にいけしゃあしゃあと出て参るわえ」
「どういうことだ?」
「どうせ、今頃――」
「――おっと」
「峰ッ!」
「分かってる!」
果敢にも立ち向かって来た一人の男を、小十郎は目にも止まらぬ速さで峰打ちに沈める。小十郎の速さに嘆息すべきか、吉の咄嗟の声に嘆息すべきか。とにかく吉の立場がある以上、いくら小十郎の用事でやって来た出雲とはいえ、できる限り人的損失を与えるわけにはいかなかった。
「おまえさま、お流石」
吉が無邪気な妻の顔で素直に夫の技術を賞賛する。小十郎としては大したことではなかったのだが、無論悪い気がするはずもなかった。
「どうってことはねえが――この先の道は?」
「ハテ、わらわもこの近辺には参ったことなく。道はあるようだけれど」
「砂の移動で他の道が塞がってるな、仕方ねえ。ここから行くぞ」
「はい」
歩き出した二人の背後で、峰打ちに沈んだ男が呻く。
「……おやっさんすら近寄らない危険区域……ここがそうだ」
その声は二人に届かなかった。
白鹿城の陣は自然を巧く利用している。歩きながらも小十郎は観察を怠らず、伊達軍にはないもの、本当に地形に頼っているだけなのか、防衛には一定以上の評価を持つ尼子の手の内が見える場所がないかと思いながら歩いていた。吉が話しかけても生返事だ。そのうち吉は息を吐き、いくさ馬鹿の夫を放っておくしかないと結論づけた。
「……ふうん?」
声を低くし、小十郎は吉を背にかばうように立つ。同時に腰の剣をいつでも抜けるよう、t柄に手を添えた。吉が夫の背中から少しだけ顔を出す。
「アレ、ま。ねこまたち」
「……お前はこれを見て猫って言うのか」
「だって、ねこまではないの。大きな」
妻の感性が理解できず、小十郎は苦笑いをしたくなる。
「引いていろ。俺の後ろから顔を出すな」
「でも」
「いくらお前でも、虎の相手は厳しいだろう」
「でも」
「いいから。――出雲に虎がいたとは知らなかったな」
「きっと」
「引っ込んでろ」
「……はい」
吉は肩を竦め、言われた通りに僅かに身を下げる。その目線の先には夫の背と、惚れ惚れするほど立派で美しい、二頭の白い虎がいた。二人の侵入者に気づいた虎は威嚇するように喉を鳴らし、のそりと身体を小十郎に向ける。小十郎も獣の如き目でその二頭を捉え、他に見る者があれば息を呑むような光景を生み出していた。
一度目が合った獣から目を逸らせてはならない。逸らせた瞬間に襲いかかって来るからだ。ことに正面から向き合っている一頭は確実に小十郎を視界に入れ、視線を捉え合っている。もう一頭はまるで様子見か、それとももう一人の侵入者を気にしているのか、どこかしら探るような気配を見せていた。
小十郎が正面の虎に気を取られていたことは否め得ない。だからこそ反応できなかった。
様子見をしていた虎が不意に動き、小十郎の背後にいた吉に襲いかかったのだ。
「――きつ!」
同時に正面の虎から目を逸らせてしまった。虎が動く気配を感じ、自らを呪う。正面の虎が咆哮し、飛びかかる体勢に移行する姿を見ながら首を動かし、もう一頭の虎に組み敷かれた吉を見る。のど笛を?み千切られているのではないか――心底ぞっとした時だった。
「あァ、やはり!」
信じられなかった。
吉が笑い声を上げていたのだ。
恐怖で気が触れたのかと思ったが、どう考えてもそんな女ではない。しかも小十郎の目の前で虎の頭を抱き、頬擦りして笑い始めたとあっては、何が起きているのかを考えるのも困難だ。兜が邪魔なのかそれも外し、重い、重いと笑いながら上半身を起こす。虎が派手に吉の顔を舐め、吉がまた笑った。
呆気に取られる小十郎の足下に、先ほどまで睨み合っていた虎がのそりと座り込む。つい小十郎が見下ろすと、その姿勢のままちらりと見上げられた。やはり小十郎には意味が分からなかったが、攻撃するつもりがないということだけは分かった。
吉が笑いながらわしわしと虎の頭を撫でる。虎は気持ち良さそうに目を細め、されるがままだった。
「久し、ナ。きなこ」
「がう」
きなこ、と呼ばれた虎が嬉しそうに返事をし、小十郎はまた唖然とする。この虎を知っていたのか、よく分かったな、それにしてもきなこってな何なんだ――妻に聞きたいことは山ほどあるのだが、どうにも上手く言葉が出ない。吉は小十郎の足下の虎にも声をかけた。
「うぬも久し。みたらし」
「わう」
そうだねえ、と言うように、みたらしと呼ばれた虎は尻尾を揺らめかせる。きなこよりも落ち着いた態度だが吉のことを覚えていて、親しみを抱いていることは明白な返事だった。
「あんこは今も晴久の御庭に住んでおるのかえ」
「がう」
「わう」
「そ。あんこだけがおなごであったから、尊子の遊び相手になったのであったわ」
「がう」
「わう」
「ん、ん。――懐かし、懐かし」
虎と会話が成立している妻を、小十郎は改めてまじまじと見る。美しい女が獰猛な獣と戯れている光景は何とも不思議なものだ。
「……お前」
「あァ、その子がみたらしと申して」
「……みたらし」
「わらわの主人と解したのであろ。賢い子ゆえ」
「わう」
みたらしは再び小十郎を見上げ、軽く鳴いた。小十郎は何となく頷いてみせる。きなこも鼻を鳴らして小十郎に近づき、くんくんと匂いを嗅いだ後、「がう」と鳴いてみたらしのように座り込んだ。
「この子がきなこ」
吉はきなことみたらしの間に座り、二頭を交互に撫でる。
「……そうか。どういう知り合いだ」
「元は神流川の宇都宮の御城の」
「……ああ、あそこは虎を戦略的に使うって有名だな」
「三頭、新たな仔が産まれたと聞き及んで。晴久と共に拝見しに参って、ナ」
こんなに小さかった、と手で大きさを示して笑う吉に、小十郎は「そうか」としか言えない。
「その時の三頭、きなことみたらしとあんこ。わらわが名付けを拝してなァ」
政宗であれば間違いなく「姐さんセンスねえ!」と突っ込んだだろうが、小十郎にはできなかった。突っ込みができるのはある意味、感覚を同じ世界で共有できる者のみだ。愛情は誰にも負けるつもりはないが、世界を同じ感覚で共有できている自信はなかったし、共有のための努力をするにも難しい範疇だった。
「多々あって、晴久が三頭とも出雲へと。まァ、こんなところにおったの。かわゆい仔たち」
蕩けそうな声を出しながら虎たちを撫で、頬擦りをする妻を見ながら、小十郎は溜息を押し殺していた。
俺は普通だと思っているんだが、俺の嫁はやはり日の本では珍しい種類なのかもしれない――たまに思い出してしまうことを今、また思い出していた。
「……にしても、だ。無粋な話だが」
「ん?」
「ここはおそらく白鹿城の防衛地点の一つだ。猛獣を置いておくってことは大抵がそういう使い方をするからな」
「まァ、かなりの猛者を食しておるというのは晴久にかねてより」
「……ああ、うん、そういうもんだろう」
数多の猛者を食い殺していると言うその虎を撫でながらあっさりと言う吉に、目眩を覚えないようにしながら小十郎は続ける。虎のことは敢えて見ないようにした。
「ここを俺たちが通過するには、攻略したって言う派手な証が必要だ。せめて後から来た奴らが分かるような証を残しておかねえと――って、お前に言うまでもねえだろうけどな」
「片倉も織田も、見るべき点は同じゅうしておると言うことは解したわえ」
「伊達も織田も、だ」
すかさず訂正された吉は肩を竦める。吉にとっては伊達よりも片倉――夫の家の方が重要なのだが、小十郎はそれが理解できない。
「つまり」
吉はきなこの頭に上半身を預け、もふもふとした毛の感触を楽しみながらも、小十郎の言を引き取るように続けた。
「証を残して見つけさするば、敵が戦意を奪えるというもの」
「そういうことだ」
「さりとて、この仔らは」
「……ま、お前がその調子じゃどうしようもねえだろうよ」
俺だって、と小十郎は苦々しい。
「俺だって、無闇に殺生してえわけじゃねえ」
つまりは虎を殺して証とすることが一番手っ取り早い方法なのだが、夫婦の事情――主に妻の事情――からしてそれは望ましくない、という話だ。きなこは安心したように喉を鳴らし、みたらしは「ありがとね」と言いたげに尻尾で小十郎を叩いた。小十郎はつい溜息をつく。なぜ俺は虎と話をしている気分になっているのだ、と思ってしまった。
吉が何事かを考える顔になる。それを見た小十郎は、認めたくないことだが、僅かに背筋が寒くなったことを認めざるを得なかった。――軍事の天才が急速に思考を巡らせる目つき。妻ではなく、魔王が現れた瞬間だった。
「……なれば、よ」
ほどなくして立ち上がり、魔王は厳然たる声を出す。その声もまた、小十郎が知る妻のものではない。戦略を告げる、戦乱の親たるものだった。
「猫どもよ」
それまで甘えきった顔をしていた虎たちが、傍目にも分かるほど引き締まった顔つきを見せる。
一頭一頭と目を合わせ、魔王は満足したように頷いた。
「我に従え」
そして魔王は宣言した。
小十郎が我が耳を疑うようなことを。
「死に真似」
いわば、死んだ振り。
「お前……それは……」
余りにも酷いだろう、と小十郎は呻く。吉は魔王の顔はどこへやら、おまえさま、御酷いこと、と眉をひそめる。
流石に脱力しきった小十郎をちらりと見てから、獰猛な虎二頭は――
「……嘘だろ……!」
もはや小十郎は驚くを通り越し、呆れ果てていた。
きなことみたらしが、ころりと砂の上に転がったのだから。
「あァ、やはり賢い仔らだこと!」
吉が大喜びで手を叩く。
小十郎はどこかで不思議な音を聞いたような、そして自分の背後に現実では現れるはずもない字が、なぜか空中に現れたような気がした。――【特別実績獲得!】
「おまえさま」
死んだ振りを続けるきなことみたらしを交互に撫でながら、吉が呼ぶ。
「……おう」
「これで、1000功だえ」
何の話か現実では分からないはずだが、どこかで分かる自分がいる。すてぇじごとに大切なことなんだ、と分からないはずなのに納得した。
「……労力に見合うか見合わねえか、分からねえが……良かったな……」
遠くから出雲の男たちの声が聞こえる。徐々に近づいてくるそれは、何とあの虎を、恐ろしい二人だ、きみは小砂漠を感じたことがあるか、と分かるようで分からない声が混ざっている。
もうよいわえ、と妻は虎たちを起こす。
虎たちは嬉しそうに妻にまとわりつく。
出雲の男たちがそれぞれの武器を手に、中には砂の上を滑る板に乗って一気呵成に襲い来ようとしている。
その喧噪と光景の中、小十郎は剣を抜く。
何もかもが理解できない時はひたすら斬る、それに限る。
――斬ってりゃ、最終的には何とかなるもんだ。
それがこの世界の決まり事なのだと、やはり分からないはずのことをどこかで分かってしまっている自分がいた。