Singin' in the Rain / Side D



ボスは雨が嫌いだ。嫌いと言うよりどうにもならないくらい苦手だと言う。その理由も分かる。あの能力は恐るべき強さを持ったものだが、やはりパーフェクトな能力など存在しないんだろう。俺の能力だって不便な部分がある。他の能力者だってきっと同じだろう。
雨になると外に出るのもお断りだ、とボスは言う。それならそれで宿なり船の中にいてくれればいい。用事があれば俺が済ませればいいし、酒の相手が欲しければ、それも俺がやればいい。思った以上にボスは俺をそばに置く。俺としては全く構わないし、むしろ俺以外の誰かがあの人のそばにいるのは面白くないし、はっきり言えば俺にだけ言いつけることが、俺は嬉しい。
ただ、たまにボスは俺のことをとても大事にしてくれているような錯覚を起こさせる。錯覚だと分かっていても俺はそれすら嬉しいが、それでも錯覚なんだと改めて思うたびに同時に溜息をつきたくなる。気まぐれな人だから仕方ないと諦めて、せめて錯覚している間はいい気になろうと思うようになった。
今日の雨は結構な強さだった。土砂降りと言ってもいい。
「溺れちまうよ」
ボスは葉巻を手にあからさまに嫌な顔をしていた。それでもちょっとした買い物をする予定があった。長く滞在するわけでもないし、予定はできるだけ消化しておかなければいけない。
「買い物、どうしますか」
「ああ、……ダズ、お前が」
「行ってきますよ。必要なもの、書いて下さい」
「お前が欲しいものも買って来ていいぞ。買ってやる」
「特にないです」
「つまんねえ野郎だな。せっかく買ってやろうってのに」
つまんねえ野郎。なぜそんなことを言われるか分からない。
なぜか少し機嫌を害したようにも見えるボスにメモ書きをもらい、俺は宿を出た。傘がなかったので宿で売っている粗末な傘を一本買う。本当に粗末で、雨が防げるのが不思議なほど雑な作りだった。いつも海なのだから傘なんて滅多に使わないし、これで充分だ。
土砂降りの雨は足下の土を跳ね返し、俺のボトムの裾をびしょ濡れにしたついでに汚していく。雨上がりには酷く蒸すだろう。宿に帰ったらいの一番に風呂に入りたい。
ボスに頼まれた買い物はそれほど大変というわけでもなく、すぐに揃えることができた。船の中で使うペンやインク、紙だ。クルーに買いに行かせればいいようなものだと俺は思うが、ボスはこういったものにこだわりがあるらしく、絶対に自分で買いに行くか、今日のような時には俺に言いつける。
買い物を終えた頃、雨がますます酷くなった。最後の買い物を済ませた店を出た俺は絶望した。
こんちくしょう、海軍は盗人を本腰入れて逮捕するべきだ。海賊なんかよりよっぽどたちが悪い。店先に立てかけておいた粗末な傘は誰かに盗まれていた。
これじゃ買ったものが濡れてしまう。品物が品物だし、濡れるのは駄目だろう。
すぐに帰りたかったが、少し雨脚が弱まるまで雨宿りすることにした。広くもない道を見回すと、昼は茶も出すパブを見つけた。これ幸いと飛び込む。
晴れていれば昼でも賑わうのだろうが、この天気じゃ客足も悪い。マスター以外は誰もいなかった。
「いらっしゃい。酷い雨だね」
若いマスターがカウンターの中から俺に笑いかけた。俺よりもだいぶ若いだろうが、こういった仕事の男は年齢より大人びていることが多い。
「雨宿りをさせてくれ。頼まれものだから濡らせねえ」
「お買い物帰り? 大歓迎。ビール?」
「……いや、酒以外で」
昼間のアルコールの魅力に誘惑されなかったとは言わないが、ボスに買ったものを届けるまでは自重しておくことにした。マスターは手際よくオレンジジュースを用意してくれる。船では貴重なビタミン源だが、陸で飲むとは思わなかった。
店の中には俺しか客がいない。マスターは多弁ではなく、ぽつりぽつりとたまに何か言うだけだった。一見の客にあれこれ話しかけるタイプでもないらしい。俺もそれほど口数が多い方ではないし、人見知りの気も強い方なので助かった。
雨の音を聞きながら時間を過ごす。
結構人気のある店なのだろう。客がいなくても夜の活気が想像できるほど、そこかしこに人のよろこびの気配を感じる。良い店は人の気配が残るものだ。フロアの隅に安いピアノが置いてある。俺のように無骨な人間には、それがとても小洒落ているように思えた。
ボスはどうだろう。俺よりもずっと質の良いものを知るあの人には当たり前なのだろうか。
「傘は?」
マスターが柔らかく言った。
「盗まれた」
「おや、ご愁傷様」
「傘はよく盗まれるらしいな」
「そうかな」
「そうでもないか?」
普段使わないし、海の上にいることが多いので、陸では見当違いのことを言ったかもしれない。
マスターは声音と同様、柔らかく微笑む。
「どんな傘」
「宿で買った。安いし、粗末な傘だから盗まれたことそのものはいいんだがな」
「ああ、それじゃあねえ。盗まれるさ」
「はあ?」
「執着がないものがどこへ行こうが、傘の勝手さ」
何を言われたのか咄嗟に理解できない。俺はぽかんとした顔だったかもしれない。マスターが何かおかしそうに笑ったから、多分そうなんだろう。
「ものにだって心があるよ。この人のそばにいたい、とか、この人じゃなくてもいいって、そういう心がね」
「――俺はそういう考え方が苦手なんだ」
水商売の人間は妙にスピリチュアルなことを言い出す時がある。このマスターもそうだったのか。溜息をごまかすために煙草を咥え、火をつける。
「リアリストだね」
頼んでいないクラッカーがオレンジジュースの隣に置かれる。チャージ代わりだろう。
「でも、不思議なことにね」
マスターは勝手に俺の煙草を一本取り、火をつけて煙を燻らせた。
「こういう店だから、傘の忘れ物も結構あるんだけど――みんな良い傘は忘れて行かないんだ」
「ふうん?」
「忘れて行くのは、それこそ持ち主がどうでもいいと思ってるような傘ばっかりさ。取りに来る人もほとんどいない」
それから、とマスターは続ける。
「誰かに――特に、大事な人に買ってもらった傘。これはみんな忘れて行かないし、なくさない」
「ふうん」
「誰かに買ってもらうと」
マスターは扉の外に目をやる。俺もつられてそっちを見た。
「大事な人に買ってもらったからなくしたくない、って思うんだろうね」
雨が小降りになっている。これなら何とか品物を濡らさずに帰れそうだ。
「ご馳走さん」
「はい、ありがとう。今度はお二人でどうぞ」
お二人、と言われてついマスターをまじまじと見る。マスターはにっこりと笑った。
「その買い物を頼んだ人とご一緒に。宿のクロコダイルさんでしょう」
「……よく知ってるな」
「宿と飲み屋なんて繋がってるものだよ」
なるほど、これも経済活動の一面か。
ジュースの代金を払い、店を出ようとする俺にマスターは言った。
「その頼まれもの、大事にされると思うよ」
何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わずに店を出た。
小降りの中、何とか品物を濡らさずに宿へ戻る。ボスは退屈そうに葉巻を燻らせ、窓際で本を読んでいた。
「戻りました」
「ご苦労さん。遅かったな」
「傘が盗まれて、ちょっと雨宿りを」
「海賊が盗まれてどうする、馬鹿か」
「すみません」
品物を渡すと、ボスは中にあったペンを出して検分する。満足のいく品物だったのか、少し嬉しそうに口元を綻ばせた。
その笑い方を見て思い出した。傘の話、マスターの話。思い出したということは、結構面白かったのかもしれない。だから何の気なく言ってしまった。
「ボス」
「ん?」
「何か買ってくれるって言ってましたよね」
「欲しいもんでもできたのか」
何でもいいぞ、とボスは笑う。俺は正直に言った。
「傘、買ってくれませんか」
「盗まれたのに?」
「いえ、次はなくさないと思うんです。――ああ、そうじゃなくて、ボスが買ってくれたらなくさないと思うんです」
「何だそりゃあ」
ボスの眉が僅かにひそめられ、こいつは何を言っているんだ、と表情で示す。確かに唐突すぎたかもしれない。説明した方がいいだろう。
「雨宿りしたパブで」
「うん」
「大事にな人に買ってもらった傘はなくさない、って教えてもらったんです」
驚いた。
ボスがきょとんとした顔で俺を見てから、それから――僅かに赤くなったからだ。
「……そうか」
「はい」
「まあ、それなら、まあ――傘か」
「あの」
俺は急に心配になる。ボスの体調が悪くなったんじゃないかと思ったからだ。
「大丈夫ですか」
「何が」
「赤くなったから、熱でもあるのかと――」
「いや、……いや、別に――傘か。傘、な。うん」
「ボス?」
ボスが息を吐く。
「いや。傘、なあ」
窓の外を見たボスが少しだけ笑った。
「雨がやんだら、買いに行くか」
「はい」
雨がやんだらどんな傘を買ってもらおうか。きっとこの人は何でもいいぞ、好きな傘を買ってやると言ってくれるだろう。でも俺は傘なんて分からない。だから言うだろう。ボスが選んで下さい。それが一番いい。
多分、俺はその傘をなくさないんだろう。
俺にとってボスはとても大事な人だから、その傘をなくすことは決してないんだろう。
ボスにとって俺が大事な人間じゃなくても、俺はボスが大事だから、それでいいんだと思う。
雨が上がったら傘を買いに行く。
ボスにとってはそれだけのこと。
俺にとっては大事なこと。

雨が上がったら、傘を。