Singin' in the Rain / Side C



単なる気分の問題だ。俺は自分でも気分屋のきらいがあると思う。
同じベッドに眠っていたダズが起きる前にさっさと身支度を整えて部屋を出る。起きたら間違いなく付いてこようとするか、もしくは危ないから行かないで欲しいと懇願の形の命令をするだろう。そう、こいつは俺に――この俺に命令する唯一の人間だ。本人だけが気づいていない。
昼間にやたら強く降っていた雨は夕方になる前にやみ、今は湿気もある程度追いやられている。まだ雨が降る可能性がないとは言い切れなかったが、傘を持つのが面倒で手ぶらで宿を出た。まだ多少の湿気を含んだ夜中の空気がひんやりと、そしてどこかじっとりと感じられて、正直言えば快適とは言えなかった。
ダズを置いて宿を出たのは本当に気分の問題にすぎなかった。何となく、たまにはこいつ抜きで軽く酒を飲むのも悪くないと思ったからだ。理由はなかった。少しばかり機嫌が悪いし、俺だってそんな日がある、って程度だ。
宿の近くにはそれほど目立つ店がない。元々繁華街というわけでもなく、賑やかな街でもなかった。誰もいない深夜の道を適当に歩いていると一軒の店が目に入った。他に店は見当たらない。探すのも面倒だ。ここでいい。
ドアを開け、ふむ、と俺は独りごちた。
「看板か?」
店の中には客が一人もいなかった。それでも繁盛している店なんだろう、そこかしこに人のよろこびの気配が残っていた。フロアの隅の安いピアノの存在が店の雰囲気を場末ではないものにしている。思ったよりも小洒落た店のようだ。
カウンターやテーブルにはまだ片付けていないグラスがある。マスターと思しい若い男が洗い物でもするのか、カウンターの中で袖を捲っていたところだった。マスターは俺に顔を向け、にこりと笑ってみせた。
「ドアが開いたなら、飲む運命。いらっしゃい」
「一杯でいい」
「ごゆっくり」
カウンターの奥の席に座り、マスターの背後に並ぶボトルの数々を見る。小さな、そして豊かでもないこの街には似合いの安酒ばかりだった。
「カクテルはいかが」
俺の酒の品定めと評価を感じ取ったのか、しかし気分を害した風もなく、マスターはにこりと笑いかけてきた。俺はつい苦笑いをしてしまった。
「失礼したな」
「お気になさらず。サー・クロコダイルのお眼鏡にかなうような酒なんて置いてないのは確かだから」
「俺を知っているのか」
「知らないとでも思ってる?」
「いいや、言ってみただけだ」
そこまでわざとらしく謙遜するつもりはない。世間に顔も名前も知られていることは自覚していた。
「カクテルを頼む」
「お好みは?」
「甘くない。任せた」
酒なら何でも良いというたちでもないが、この流れならマスターに任せておいた方がいい。マスターが氷を砕く音を聞きながら、葉巻を咥えて待つことにした。
「あれ」
不意にマスターが手を止めて店の外を見る。
「また降って来た」
俺は溜息をつきそうになった。俺の意思でふらりと出て来たが、雨を歓迎するわけでもない。看板になったら軒先を借りて雨がやむまで待つしかなさそうだ。
「雨宿りになりそうだ。少し長居させてくれ」
「どうぞ。今日は昼から雨宿りのお客さんが多いよ」
「そうか」
そう言えばダズも昼間、俺の使いの帰りにパブで雨宿りをして来たと言っていた。その割には酒のにおいがしなかったような気がする。昼から酒を飲むことに罪悪感でも感じたのか。規範もへったくれもない世界に生きているのに、あいつはそういうところが生真面目だった。
「どうぞ」
あいつのことを考えている間にカクテルが出来上がっていた。見た目だけでは何と言う名前なのかが分からなかった。
「これは?」
「”雨夜”」
「初めて聞いた」
「あまり有名じゃないしね」
「ふうん」
グラスに口をつけると思った以上に辛口で、そして強いカクテルだと分かった。ジンとウイスキー、それにベルモットだろう。隠し味に柑橘系の何かが入っている。
「ジンとウイスキーとベルモット、あとひとつが分からねえな」
「そこまで分かれば上等。あとひとつはレモンキュラソー」
「馴染みがねえ」
「普段カクテルを飲まない人だとそうかもね」
ドライフルーツが練り込まれたホワイトチョコレートがグラスの横に置かれる。チャージにしちゃ気が利いている。甘いものが好きじゃねえんだ、という野暮は言わない。酒と甘いものが素晴らしく合うことを知っているのは人生の大きな喜びのひとつだと思う。もっとも、組み合わせを間違えると二度と試そうという気になれない危険なものでもあるのだが。
――そういや、あいつとそんな飲み方をしたことがあったか。
いや、なかったはずだ。俺もあいつも酒はいけるくちだが、そもそも二人でゆっくり飲むということがない。あいつは俺の世話をすることに使命感でも持っているのか、一緒に飯を食う、酒を飲むというより、給仕されている気分になることが多かった。
そんなことはしなくていいんだが、どうにも言うタイミングを逃している。あいつがそれを自分の役目としていることが分かるからだ。あいつがやりたいのならそうすればいい。他の奴にやられるよりずっといい。
それでも、たまに言いたくなる。俺はお前を召し使いにするために連れて来たんじゃねえぞ。身の回りの世話なんか他の奴がやればいい。いいや、俺一人で充分できる。
お前は俺の何なんだ。
俺はお前の何なんだ。
――それでも、お前がやりたいからやっていることを、やめろとは言えねえ。
「口に合わなかった?」
マスターが不意に声をかけて来た。カクテルの中の氷が随分溶けている。思ったより長い時間、あいつのことを考えていたことに気づいて苦笑したくなった。
「――いや、美味い」
世辞ではなく事実だった。癖の強い酒をステアしただけのカクテルだが、絶妙なバランスで美味さが際立っている。このマスター、若いのに大した腕だと言ってもいいだろう。惜しむらくはこんな田舎の場末の店だと言うことか。
「それなら良かった」
「ああ」
「お二人で来るかと思ったのに」
「ん?」
「あの大柄な――昼に来たんだけどね」
「ダズか。ここに来たのか」
「ダズって言うんだ? 雨宿りして行ったよ」
「ふうん。酒のにおいはしなかったがな」
「酒じゃなくてジュースだったし」
「ガキかよ」
「大きなお子様だ」
マスターは笑いながら誰もいないフロアへ出る。後片付けだろう。他に店員は見当たらなかった。俺は葉巻をゆっくりと燻らせながらカクテルを口に運ぶ。
そう言えば、雨がやんだら傘を買いに行くつもりだった。結局行かなかった。雨がやんで俺が出かけるぞ言った時、あいつが止めたからだ。
傘が欲しいんだろう、買ってやるってのに何なんだ――俺がそう言うと、あいつは眉をひそめて言った。この天気じゃまた降るかもしれませんし、それじゃボスが難儀だからやめておきましょう。
俺はそれから機嫌が悪い。自分でもどうにもできない程度には機嫌が悪く、もちろんあいつにどうこうできるレベルでもない。いや、もしかするとできるかもしれない。
簡単な話だ。俺に謝ってキスのひとつでもすりゃあいい。俺はあいつにそれを許しているし、あいつにも分からせているはずだ。
それでもあいつは自分からは決してそういうことをしない。俺が命令するまで何ひとつしない。
――それじゃ意味がねえよなあ。
ガキじゃあるまいし、と自分でも思っている。だが人間ってのはどこかしら不自由にできているもので、いくつになってもこれだけはガキのようになってしまう。
これだけは――恋愛だけは。
それでもガキの頃よりは多少ましになっていて、いや、もしかすると酷くなっているのかもしれないが、やはり昔と今とでは違うこともある。
ガキの頃なら言っただろう。それはやめろ、と。
でも今はそう言う気になれない。あいつがそうしたいからそうしている、と分かっているからだ。
そもそもこれは恋愛なのかすら俺には分からなかった。この歳で恋愛? もしかすると単なる執着なんじゃないだろうか。あいつを手放したくないからこそ新世界に誘ったことは嘘ではない。だがそれが恋愛というものなのかという自覚もない。それなりに長い付き合いになっていて、情が移って執着に変わっただけなのかもしれない。
そうか。不意に気づいた。そうか。――そうか。思った以上に俺は衝動的にあいつを連れてきて、傍に置いているわけか。
「お代わりは?」
すっかり氷が溶けたカクテルを見かねたのか、それとも少しばかりの商売っ気を出したのか、片付けをしていたマスターがいつの間にか横に立って訊いて来た。知らない間に横に立たれていたことに驚いたが、それくらい考え込んでいたってことだろう。
「雨はどうだ」
「まだ降ってる」
「もう一杯」
「同じ?」
「任せた」
マスターは手際よくカクテルを作り始める。俺はそれをぼんやりと見ながら、またあいつのことを考える。他にも考えることは山ほどあるのに、今はどうやらどうやったってあいつのことを考えてしまうらしい。他のことを考える努力を放棄した。俺にもそんな時はある。
「そう言えば、あの人――ダズさん。あれはあなたのお使いだったのかな」
「……ああ、色々な」
「そう。随分大事に持っていたから」
「何を」
「お使い物を。うちで雨宿りしたのも、荷物を濡らしたくないからって言ってた」
「ほう」
「傘を盗られちゃったみたいでね」
「馬鹿な奴だ。海賊のくせに盗まれるなんざ」
「聞かなかったことにするよ」
俺の名前を知っているのに、俺たちが海賊ということは聞こえない振りをする。随分と清く正しい水商売をしているようだ。嫌いなタイプじゃない。またこの島へ来ることがあったらここに寄ろうと決めた程度には好きなタイプだ。
「傘をな」
「うん」
「買ってくれって言い出したんだ」
「ダズさんが?」
「ああ」
「へえ」
マスターはなぜか口元を微妙に笑いの形に歪め、またカクテルに意識を戻す。俺は勝手に続けた。何となく話したかったし、どうせマスターが他言することもない。こういった店はそんなものだ。
「買ってもらうとなくさないんだと」
「ふうん」
「あの図体でそんなことを言うもんだからな。おかしくて」
「へえ」
「でもまあ、買って欲しいって言うなら買ってやるさ。そのつもりだったんだが、急に出かけるのを取りやめにされて」
俺はそこで一度話を切った。俺の能力の弱点まで言う必要はない。このマスターなら知ったところで何ら関係ないだろうが、わざわざ教える理由もなかった。
「まあ、買ってやれなくてな。俺はそれで面白くなくなったわけだ」
「残念。せっかく買ってあげようと思ったのにね」
「そうだな」
でもこれは一種、象徴的な出来事だったのではないかと思った。俺とあいつの関係性。俺は元を正せば衝動に等しい感情であいつを傍に置いている。じゃああいつはどうなんだろう。ただ俺の世話を焼くことに熱心で、俺の心そのものを考えてはいないのだろうか。
「あいつは俺に、自分がしたいことをする」
口から出たその言葉に、なぜか俺自身が納得した。そうだ。そういうことだ。
「……なるほど、そうだ。あいつは自分がしたいことばかりする」
「そうなの?」
「俺が何かをする前に先回りして片付けることもあるし、俺の世話で自分の時間を潰すこともある」
「ふうん」
「自分がしたいことをしているのに俺のことばかりで、自分のことなんざ二の次だ」
「ふうん」
マスターは俺の前にカクテルを置く。グラスの縁にレモンの皮が飾られていた。翡翠のグラデーションが美しいとしか言いようのない酒だった。
「これは?」
「うちの看板カクテル。店の名前」
「ほう」
店の名前なんざ見ていなかった、とも言えず、俺は曖昧に返事をしておく。
今度のカクテルは僅かに甘さを感じた。とはいえ敬遠したい甘さではなく、ベースのジンの風味を広げるために存在する甘さだった。
「ダズさんって」
「ん?」
「大事な人に傘を買ってもらうと、って言ったんじゃないの?」
「――何だって?」
そんなことをマスターに話しただろうか。いや、話していないはずだ。マスターは僅かに笑うと、カウンターをするりと抜けてフロアの片付けに戻った。
俺は何とはなしに溜息をつき、目の前のカクテルを口に運ぶ。

 雨の中で唄っている

不意に背後から歌声が響いた。片付けをしているマスターだ。ピアノを置く店だけあってマスターも音楽の心得があるのか、なかなか良い歌声だった。俺も知っている歌だ。

 雨の中で唄っているだけだよ
 なんて素敵な気分なんだろう
 また幸せになれるなんてね

俺は心の中でつい一緒に歌っていた。歌ってのはそんなもんだろう。誰かが知っている歌を歌い出すと、釣られてつい歌い出してしまうものだ。

 雨雲に笑ってみせて
 空は暗く曇っているけれど
 心には太陽が照り付けていて

自分に苦笑いしたくなる。いつの間にか心の中ではなく、小さく口ずさんでいた。心には太陽が照り付けていて――
「……新しい恋にはぴったりさ」

なるほど、と思った。なるほど、それでいいのかもしれない。
これは恋だ。それでいいだろう。

 嵐が来たってそのままでいいさ
 みんなが逃げたって構わない
 でも雨が降っても
 僕は笑顔でいるだろう

この歳でまた新しい恋をした。そういうことでいい。
あいつは恋をしているのだろうか。それは分からない。
でもそれでいいんだと思った。

 道を歩きながら
 口から出るのは大好きな歌
 僕はただ雨の中で唄っているだけ

それでいいんだ。
俺は恋をして、その相手はいつも傍にいて、俺の世話を焼くことに熱心だ。やりたいならやればいい。俺はあいつがやりたいことをやらせてやるだけだ。
傘が欲しいなら買ってやる。明日買いに行けばいい。雨がやんだら買いに行けばいいだけだ。雨がやむまでは宿の中で二人でだらしなく過ごしていればいい。

 雨の中で踊ろう
 なんて幸せな気分
 だってまた

「……だってまた、恋をしたんだから」

ドアの外を見て、それから苦笑する。マスターも気づいたのか、歌をやめて「いらっしゃい」とドアの外に言った。
雨に濡れ、服のボタンを掛け違えて難しい顔をしたあいつが入ってくる。
馬鹿な奴だ。俺がいないことに気がついて探しに来たんだろう。服のボタンを掛け違えても気づかないほどに急いで探しに来たんだろう。
馬鹿な奴だ。
それでも――俺は初めて、こいつが勝手にすることが嬉しいと思った。
「ボス」
難しい顔のまま、ダズは言った。
「傘を買ってくれませんか」
思わず俺は笑ってしまった。
これでいい。そう思った。これでいいんだ。こいつが俺に向ける感情がどういうものか知る由もない。
それでもいい。こいつはこいつがやりたいことを勝手にやって満足だろうし、俺は勝手にされることに満足している。
「雨がやんだらな。買ってやるよ」
「買ってくれれば」
「うん?」
「なくさないんで、もう、ボスを探す時に濡れなくてすみそうです」
なぜかマスターが小さく笑った。

 雨の中で踊ろう
 なんて幸せな気分
 だってまた
 恋をしたんだから
 僕は恋をしている

カクテルの名前、つまり店の名前が”After the rain”だと知ったのは、雨がやんで店を出た後だった。偶然だろうが、これは面白い偶然だと思った。たまにこんなことがあるから人生は面白い。
「ダズ」
「はい」
「悪い店じゃねえな」
「そうですか」
それならまた来ましょう、とダズは言った。
むろん意識などしていないだろうが、それはまるで許可を与える言い方で、俺はなぜか妙に嬉しくて、嬉しい自分がおかしくて笑ってしまった。

 僕は恋をしている
 僕はきみに 恋をしている



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After the rain / 雨上がり