ボスと眠ることはそう頻繁にあるわけではないものの、全くないってわけでもない。むしろ週に数度は、ってところだろう。俺としては何でこんな関係に落ち着いたのか分からないまま、それでも俺以外がボスとこういう……なんだ、セックスをするっていうのはとんでもなく嫌なことで、つまり俺はボスとこういう関係になれて有難いと思っている。
ただ、ボスと眠るようになって思い出したことがある。俺は相手より、つまりは、愛していると思った人間と眠る時、決して先に眠りたくないってことだ。ずっとずっと、ある時から夜を共にする相手がいても、眠る時は別々にしていたからすっかり忘れていた。ボスと眠るのはボスがそれを望んだからだ。この人は不思議と子供じみたところがあって、初めてセックスをした時、寝た相手が起きた時に隣にいないのは寂しいじゃねえか、って、別々に寝ようとした俺を引き留めた。それからずっと、セックスをした夜は一緒に寝ている。
お前、いつも俺より遅くまで起きてるんだな、とボスはたまに言う。そうですね、と俺は答える。理由を問われることはないし、俺も積極的に言いたいことじゃなかった。ただ、どうしても、この人より、この人だからこそ、先に眠ってしまうことが恐ろしくて仕方なかった。そうだ、俺は先に眠るということに恐怖感すら抱いている。この人と眠るようになってから思い出した恐怖だった。
その日も俺はボスと同じベッドにいながら、ボスが眠る時を待っていた。早く寝ろよ、とボスは眠そうな声で──少し派手にセックスしたから疲れたんだろう──いつもよりも早く寝付いた。基本的にこの人は寝付きがいい。
規則的な寝息を聞きながら、俺は軽く息を吐く。俺はこの人が好きだ。ひどく好きでたまらない。愛しているということなんだと思う。だからこそ、先に眠るのが恐ろしい。今日も先に寝てくれて良かった。俺も眠れそうだ。目を閉じて、眠りの国へ先に行ったボスを追うことにする。
それからどれくらい経ったんだろう。目を開ける。真っ暗だ。身体が妙に痛い。妙に、と言うには少し痛すぎる。重力の感覚で、横たわった姿勢であることは理解できた。身動きを取ろうとしてできなくて、驚いた。不思議な圧迫感を全身に感じていた。妙に埃っぽい空気で喉に違和感がある。何だ、どういうことなんだ、どうしたんだ──パニックにならないように気をつけながら、俺はとにかく状況を把握しようと躍起になる。焦るな、慌てるな、と何度も自分に言い聞かせた。ボスは? ボスは大丈夫か? 大丈夫? 何が? これはどういう状況なんだ? ああ、それでもボスの安否だけは──その時だった。俺を呼ぶ声が聞こえた。
「ダズ」
女の声だった。かなり至近距離から聞こえて、そして身体にぬくもりが与えられていたことをようやく知った。俺は声の主であるその女に抱き締められていたのだ。誰だ。どういうことだ。
「ダズ、大丈夫?」
俺は返事をした。うん、と言った。
うん、大丈夫、大丈夫だよ。
大丈夫だよ、母さん。
そうだ、母さんだ。このぬくもりもにおいも、母さんのものだ。母さんの腕に力がこもった。ああよかった、と、母さんは本当に安堵したように言った。
「すぐに助けが来るから、怖くないわ」
それならいいね。俺はそう答えた。母さんはまた俺を強く抱き締めた。ねえ母さん、何が起きたの。分からない。
「そうね、何って言っても──母さんもよく分からない」
母さんでも分からないことがあるなんて、思わなかった。
「建物が崩れちゃったみたいね」
その言葉だけで、俺はもう、信じられないくらいに、子供のように恐ろしくて、かあさんに抱き付いていた。母さんはもっと強く抱き締めてくれた。大丈夫よ、と言ってくれた。
母さんはそれから、いろんな話を始めた。俺を怖がらせないようにしようとしてのことだろう。どんなに楽しい話も俺の身体の痛みや不安感を拭ってはくれない。だが母さんの声を聞いているだけで、そして時折呟かれる、大丈夫よ、という言葉だけで、俺は安堵することができる。
建物が崩れた理由は分からない。遠くの国では地震という厄介なものがあるらしいが、俺たちが住んでいるこの近辺ではそんなものは滅多にない。とにかく分かることと言えば、今の俺たちは、崩れた建物の中に閉じ込められ、抱き合って横たわったまま身動きも取れない状況だということだ。貧しい地域だ。救助なんて来ないかもしれない。近所の連中が互いに助け合うことはあっても、さすがに崩れた建物をどうこうできるわけがない。外がどんな状況なのかも分からない。きっと海軍が来てくれるわ、と母さんは何度も言った。だったらいいね、と俺は何度も答えた。
長い時間だったのか、短い時間だったのか。身体の痛みが増して来た。母さんは泣き言ひとつ言わなかったが、やはり身体が痛いことは、たまに漏れるうめき声で明白だった。
「眠りなさい」
母さんが言った。
「眠れるうちに、眠っておきなさい。何かあったら起こしてあげるから」
母さんも寝ようよ、と俺は言った。そうね、と母さんは言った。
「ダズが寝たら、寝るわ。だから眠りなさい」
分かった、じゃあ、おやすみ。母さんに早く眠って欲しくて、俺はそう言った。身動きがほとんど取れない中、母さんは何とか顔だけを動かして、俺の額にキスをした。
「おやすみ」
母さんが言った。
「おやすみ、ダズ。愛してるわ」
滅多に言われない言葉に、急に照れくさくなって、母さん、変だよ、と俺は呟きながら目を閉じた。母さんが笑ったような気がした。
それからどれくらい眠ったのか。目を開いても暗闇だ。分かるはずがなかった。
ただ、身体の痛みはだいぶマシになっていた。
母さん、と呼ぼうとして、俺は息を呑んだ。
俺を抱き締めている腕が、俺を包み込むように抱き締めてくれている身体が、母さんが、とても、信じられないほど、信じたくないほど、今までに経験したことがないほど、冷たかった。
母さん。
俺は呼んだ。返事はなかった。眠っているだけだ。きっとそうだ。だからもう一度呼んだ。母さん。返事がなかった。何度も呼んだ。母さん、──母さん、母さん。
身動きが取れない。鼓動を確かめることもできない。ただ冷たいことしか分からない。嘘だ。──嘘だ。嘘。やめてくれよ。母さん。母さん──やめてくれ、やめて、起きて、母さん、頼むから、どうして、嫌だ、母さん、母さん──
何度も呼んだ。呼び続けた。泣きながら呼んだ。泣きながら呼び続けた。声が枯れた。母さん、起きて、母さん、母さん、頼むよ、起きて──
ダズ。誰かが呼んだ。遠いところから、いや、近いかもしれないところから、誰かが呼んだ。
起きろ。
ダズ。
起きろ。
「ダズ」
男の声だった。知らない声だった。知らないはずなのに、ああ、俺はこの声がとても、とても好きだ、と思った。
「起きろ」
だから、起きた。
俺は眠っていたのだ、と、ボスの声で思い出したから。
起きたと思った途端、俺の脇腹に無慈悲な蹴りがぶち込まれていた。本気で呻く程度の無慈悲さだ。酷い。あんまりだ。ボスは滅多にこんなことをしないのにどういうことだ。
「うるせえんだよ」
「……え」
「母さん母さんって、お前、どんだけマザコンなんだ」
明らかに不機嫌な声で、ボスは眉をひそめて俺を見ている。俺は何とか身体を起こし、はあ、と我ながら間抜けな声で返事をした。マザコン? 俺が? ──そこでやっと、夢を思い出した。
夢を。
夢──夢。
「すみません、……夢を」
夢であって欲しかった記憶を。
「見てたんです」
「どんな夢だよ。ママと出かけて迷子にでもなったか」
「え」
「ガキみてえに呼び続けやがって」
「……そうですか」
そうだろう。呼び続けた。10歳にもなっていなかった、あの日も呼び続けたのだから。あの日の追憶を夢で見たのなら、呼び続けるしかなかったんだ。
何日も何日も、声が枯れても。俺は呼び続けた。朦朧とした意識の中でも呼び続けた。母さん、母さん──
海軍は確かに救助に来てくれた。だが、俺が救出されるまでは何日もかかった。生きているのが不思議だと言われた。そんなことどうでもよかった。死んでしまっていてもよかったと思った。
俺を抱き締めたまま、母さんは死んだ。何日も俺はそのまま、抱き締められたまま、母さんを呼び続けて、母さんが死んだと分かっていても呼び続けて時間を過ごした。
母さんが腐っていく時間を、ただ、身動きひとつ取れずに過ごすしかなかった。
「すみません」
「ああ?」
「起こしちまって」
「……ああ、まあ、なあ……」
俺が寝ている間に母さんは死んだ。
俺が起きていたからって、母さんが生きていたとは思えない。
でも、俺はあれから──怖くてたまらない。
俺が先に寝てしまったら、もしもその間に、俺を抱き締めている人が、俺が抱き締めたい人が。
「ったく」
「──ちょ、ボス!」
驚いた。ボスが俺を抱き込むようにして横になったからだ。反射的に逃れようとした俺を強く抱き締めて、ボスは溜息をついた。こうなったら俺は動けない。もしこれで俺が逃げたら、この人はますます不機嫌になるだろう。
「俺は眠いんだ」
「すみません、あの」
「おとなしく寝ろ」
「寝て下さいよ」
「ああ、寝るよ」
早く寝て欲しかった。寝息を聞きたかった。そうだ、寝息を聞いて安心したかったんだ。生きてるって。だから俺はいつも、ボスが先に眠るまで、寝たいとは思わなかったんだ。
「お前も寝ろ」
「ボスが寝たら寝ます」
「ったく」
ボスはまた溜息をつく。機嫌を悪くしたかもしれない。だがこれだけは譲れなかった。怖くて仕方ないからだ。ボスが先に眠ってくれなければ、俺は明日起きた時、どれほど後悔するか分からない。
「お前は」
もう眠い声で、ボスが言った。
「単純なくせに、めんどくせえな」
そうですか、すみません──言いかけた時、既にボスは眠りについていた。
だから俺は安堵した。
先に眠って欲しいんだ。いつでも。
先に眠って、どうか、いつも、いつか。
いつか死ぬ時に。
俺が起きている時に、死んで下さい。