この女は親切だった。それが俺に取り入るための見せかけの親切でも、大方の女性が本能で持つ母性のようなものからくる親切でも、どちらでも良かった。娼婦は不思議と親切な女が多いような気がする。
いつもより僅かに深酒をした俺は、船に連れて来たこの女とそれなりに楽しんだ後、我ながら珍しく、少し世間話をした。女が思った以上に話を引き出す技術に長けていたというのもあると思う。娼婦としては優秀で、贔屓の客が多い女だ。その理由がよく分かる。
普段なら俺はそれほど喋らない。酒の力は偉大で、そして愚かだ。女は話し上手と言うよりも聞き上手で、俺はいつの間にか、女に乞われるままに話していた。
女はさすがと言えばいいのか、俺の過去を知ろうとはしなかった。自分から喋りたがる者以外、海賊の過去なぞ触れない方が良いと分かっているんだろう。
ただ、女らしいと言えばいいのか、それとも酔った男をあしらうにはちょうどいい話題なのか、俺の過去の恋愛の話を聞きたがった。
いつもの俺なら恋愛の話などしない。
そう、やはり酒の力は偉大で、そして愚かなのだ。
「一生一度だ」
短く言うと、女はいかにも興味津々の顔を作り、俺に向かって目をぱちくりと瞬かせてみせる。自分の魅力を最大限に引き出す術を心得ている女だった。
「今でも忘れられない」
どんな人だったの、と女が問う。俺は答えた。心のどこかで、本当は誰かに話してみたかったのだと理解した。
「真っ直ぐで」
真っ直ぐで、真っ白で、とても綺麗なひとだった。
真っ直ぐで、真っ直ぐすぎて、歪みを持つ人間を受け止めるのではなく、
真っ白で、真っ白すぎて、暗い色を持つ人間を染めるのではなく、
「自分の世界を持ちながら、他の人間の世界を眺めているようなひとだった」
真っ直ぐさも、真っ白さも、誰も侵すことはできなかった。
俺はいつの間にか彼の世界に存在を許され、眺められるのではなく、あの彼女とはまた違う意味で、彼に近しい者として傍らにいる時間を過ごした。
女が、おそらく何の気なく言った。
王様のようなひとだったの?
「いや」
そうだな、こんな言い方をすればそうも思うだろう。女が王様という言葉で何を言いたかったかは分かる。傲慢なひとだったのか、と思ったのだ。
「王様になりたくなくて、自分の世界を守っているひとだった」
それが分かったのは──そうだ。あの時だ。
あの時、知った。
俺や彼女がどんなに一緒に行こう、一緒に上に昇ろうと手を伸ばしても、飄々とその手をかわしてしまうひとだった。
出世に興味がないだとか、きっとそんなことではなかったのだろう。
王様になりたくなくて、自分の世界を守りたくて、それは裏を返せば──
「傷つけたくないひとだった」
曖昧な言い方だ。きっと女には分からない。
俺が傷つけたくなかったひとだった。それは間違いなかった。
でも本当の意味は違った。
あのひとは傷つけたくなかったのだ。
誰かを傷つけたくなくて、王様になろうとしなかった。
俺は知っていた。それをいいことに、あのひとを掌中から出そうとしなかった男を知っていた。あのひとはそれを知った上で男の下にいたのかもしれないし、知らないまま、可愛がられる部下でいたのかもしれない。どちらにせよ、あのひとはその立場をよしとしていた。
王様になる必要もなく、誰かを傷つける必要もなく、真っ直ぐで、真っ白なまま、正義というものを求められる世界を手に入れていたからだろう。
俺はあの時、知った。
海軍を離れると言った時、何もかもを知った。
あのひとは真っ直ぐで、真っ白で、誰よりも純粋で──誰よりも、無意識で全てを踏みにじるひとだった。
いや、踏みにじるという言葉は正しくないかもしれない。だが俺はどこかでそう感じた。あのひとは自分が信じるもののためなら、不要と認識したものをあっさりと捨ててしまうのだ。他の者ならおそらくためらうであろうものですら、自然に、驚くほど自然に手放してしまえるひとだった。
そして本当に欲しいものだけを手元に残していくことができるひとだった。
だからこそだったのかもしれない。仲間と認めた相手はどこまでも信頼して、見捨てることがなく、誰にでも平等で、それでもあの彼女と、そして俺だけには家族のような情を当たり前のように与えてくれて、何もかもに絶望した俺をどん底から救ってくれた、誰よりも優しかった彼は、だからこそ、俺が彼の世界から離れると知った時に──
「……俺を、あのひとの世界から一瞬で締め出した」
そのままの関係でいられるなどと、都合の良いことは無論考えていなかった。だがそれでも、あんなに、本当にほんの一瞬で、俺が本当に海軍を離れて父親と同じ道を歩むと納得したあの一瞬で、あのひとは俺を、あのひとの世界にいることを許さないと告げる目で見た。
睨みつけられたわけでも、憎悪を向けられたわけでもなかった。ああそうか、それならお前はもうここにはいられないよ──あの瞳にそれだけを告げられたのだと思う。
そして時が過ぎ、再び出会った時、失せろと一言言われたあの時、俺は確かに傷を負った。図々しいことは分かっている。それでも傷ついた。あのひとの世界にいられないということが、あんなにも苦しいものだと思わなかった。苦しくて、痛かった。
女が不意に俺の手を取った。
そして言った。
傷ついたのね。
まだ好きなのね。
一生一度と言うくらいに。
それほど傷つけられても、そう言えるくらいに。
理解できない、と俺は思った。傷つけられた? 俺が彼に?
ああ、確かに俺は傷を負った。でも、あのひとが意図的につけた傷なんかじゃない。あのひとはあのひとのままだった。何も変わっていなかった。
あのひとの前に、今の俺が現れれば──
「……俺が傷つくのは当然だったんだ」
あのひとに傷つけられたわけじゃない。
女はなぜか悲しそうな顔をした。作った顔だった。そうだ、この女は一流の娼婦だった。女の力で男を虜にする生業の人間だ。きっと俺も虜になったかもしれなかった。あのひとを思い出してさえいなければ。
この女が、傷を勘違いしなければ。
女はまた言った。
傷つけられたのよ。
そのひとも無意識だったかもしれない。
でもあなたは傷つけられたのよ。
女の言葉を本当に理解できたかどうかは自信がなかった。だが明らかに、俺の身体の奥から不可思議な熱が生まれた。性欲ではない。何らかの欲望ではない。
純粋な歓喜の熱だった。
ああ、ああ、──ああ、俺は、傷つけられていたのか。
あのひとに。
彼に。
傷つけられていたなんて!
女が言う。
でも大丈夫。いつか傷は癒えるわ。
わたしでよければいつだってその手伝いをするわ。
「お前が?」
この女が? 何をするって?
「お前が何をするんだ?」
女は微笑んだ。そして言った。
「その傷を癒してあげる。そうすればいつか、素敵な思い出にできるわ」
クルーに掃除を命じることにした。清潔な環境でなければ眠れないというたちではないが、やはり汚過ぎては気分が悪い。
言いつけられたクルーは一番の古株で、俺のことをそこそこよく理解している。部屋の中の光景に溜息をついた。
「風呂に入っている間に掃除しておきます」
「そうか」
「──何が気に入らなかったんです? いい女だったのに」
「ああ、──いや」
気に入らなかった。そうだ。確かにそうだ。
だから急に我慢ができなくなったんだ。何となく霞がかった意識の中、ベッドの中のことを思い出す。
「気に入らなかったんだ」
「ですから、何が」
「傷が」
「傷?」
「傷を癒すなんて、そんな」
ベッドの女はだらしなく横たわっている。動かないのが不思議で──ぼんやりと思い出した。そうだ、そうだった。
殺したんだ。
あまりにも我慢ができなくて、気分が悪くて、首を絞めたら動かなくなった。
だって、傷を癒すだなんて──そんな──
あのひとがつけてくれた傷を、どうして癒すなんて。
せっかく、せっかくつけてくれた傷なのに。
「風呂に入って寝酒を飲んで、今日は寝ちまった方が良いですよ」
クルーが言った。
そうだな、と俺は答えた。
あなたは傷つけられたのね。
そうだな。
そうだ。
俺は傷つけられた。
傷つけられたのだ。
傷つけられたなんて、
ああ、なんて、なんという、
なんという幸せに気づいたことか。