孤独な生きもの



全く思い出さないなどとは口が裂けても言えない。海軍から海賊へとなった時、いいや、海軍という存在、海兵という存在を感じるたびに思い出していたと言ってもいい。
海軍に入った時、まだ幼いと言われてもおかしくない年齢だった。それでも同じ年齢の誰よりも多くを見過ぎていた。だからはじめは──望んで入った海軍だったはずなのに──同期の全てが幼く見え、一年先に入った程度の連中も似たようなもので、ろくに打ち解けようとはしなかった。必要性も感じなかった。
だがいつの間にか彼と、そして彼女と三人でいることが当たり前のようになっていた。彼や彼女が無理に誘いをかけたことはなかったし、自分も近づいた記憶はない。
だがいつの間にか、本当にいつの間にか、三人でいることが当たり前になって、彼と彼女はまるで恋人同士のようだったのに、そんな事実は全くなくて驚かされたもので、そしてその驚きに慣れた頃、自分は彼と彼女を等しく愛した。
だがいつの頃からか、自分の目線は彼を追うようになっていた。彼女はそれに気づき、やめておいた方がいいわよ、と幾度となく口にしていた。最初ははぐらかしていたものの、遂に観念して言ったものだ。別に伝えるつもりなんかないし、きっと今だけだ。
そう、今だけだ。あの頃、今よりもずっと幼かったあの頃はそう思っていた。愛しているのは今だけだ。年齢以上に大人びていた自分は、恋心すらも大人のように分析していた。
子供だった自分たちはいつの間にか経験を積み、海軍の軍人として何度も死線を潜り抜けた。そのたびに生きて帰ったことを三人で確認するように顔を合わせ、街へ行き、好きな酒を飲み、今になれば笑えるような小さなトラブルに巻き込まれたりもした。
彼はいつも棒付きキャンディを口に咥え、口数は少なかったものの、誰からも一目置かれ、そして信頼され、愛されていた。滅多に怒りを見せることはなかったし、むしろ年齢から考えれば冷静な男だった。
彼が苛立ちや疑問を抱き、無言でキャンディを噛み砕く時だけ、周囲は少し緊張していたかもしれない。彼女も自分も少しばかり背筋が伸びる瞬間だった。
彼女には言えなかったことがある。
最後の日、別れるその時──彼にキスをした。本気でキスをして、言葉にはしなくても、愛しているということが伝わったと確かに知った。彼は何も言わなかったが、それが正解だったし、彼の優しさだったと思う。受け入れられても拒絶されても、哀しく、そして恋に破れた者独特の、あの惨めな気持ちにならずに済んだ。
幸せだった。海賊になった今を悔いることなどないし、非難する者なぞ屠ってやれば良い。
それでも確かにあの頃、あの日々、あの日、自分は幸せだったと思う。その記憶を消そうとは思わない。消そうと思って消せる類のものでもない。
消したくないと願う程度には、それは自分にとって大切な領域にあるものなのだ。
だからこそ今、思う。強く思う。
補給で接岸した港、偶然にも彼の軍艦が接岸していた。
海軍将校として目の前に立つ彼を見て強く強く、思う。
覚えているだろう。

覚えているだろう。
俺を覚えているだろう。
あの日々を覚えているだろう。
忘れられるものじゃないだろう。
あのキスを覚えているだろう。
だから。

ああ、なんてみっともない。
こんなにも時間が経ったのに、俺は──
まだ、彼を愛しているのだ。

彼は言った。

「失せろ」

それはもう、聞いたことがないほどに、冷たく、事務的に。

不思議と酷い衝撃を受けた。そう、不思議だと思った。だが、不思議だと思うことそのものが不思議だということに気づいた。
自分は海賊だ。
彼は海軍、昔から海賊嫌いで有名な海兵だ。
そうだ。
彼が海賊に親しい言葉をかけないことは、何ひとつとしておかしいことではない。
おかしいことではない。分かっている。
それなのに衝撃を受けたことが不思議で不思議でならなかった。
全身からさあっと音を立てて血の気が引いたことが信じられなかった。
裏切りなどであろうはずがないのに裏切りだと感じた自分が理解できなかった。

ああ、期待していた。
期待していたのだ。
何て虫のいい話だ。
あの一言を言って欲しかったのだ。
久し振り。
ただその一言を。
今でも拒絶していないのだという言葉を聞かせて欲しかったのだ。
彼のことをよく知っていたはずだったのに、すっかり自分の都合の良いように記憶を書き換えていた。
彼がそんなことを言うはずがない。
海賊にそんなことを言うはずがない。

海賊と、海軍将校だ。
それが全てだ。
海賊となった瞬間にそうなったはずだ。
彼の中にはもう、あの日の三人はいない。

自分自身で納得した。自分がどれほど都合の良い願望を抱き続けていたのかを実感した。
棒付きキャンディではなく葉巻を咥えていた彼は、答えない相手に業を煮やした風情もなく、それ以上一言も発さずに身を翻す。
その足元に葉巻が落ちた。不作法にも吐き捨てられたものだった。

馬鹿ね、と女の声が聞こえた。顔を上げると驚くほど美しくなった彼女がいた。
目が合うと、馬鹿ね、ともう一度言ってから、彼女はあの言葉を唇から滑らせた。

「お久し振りね」

冷たい顔を作ろうと精一杯の努力をして、失敗して、唇をおかしな形に歪めて美貌を無駄にするさまは、あの日の彼女のままだった。

そして気づいた。
彼が吐き捨てて行った葉巻の吸い口が噛み潰されていたことに。

それが恐ろしく哀しく、それなのに、ひどく嬉しいと思った自分が滑稽でならなかった。