傘はお持ちで?



気まぐれで訓練場に顔を出したクザンに散々痛めつけられた。本人としては「可愛がった」程度の組み手だっただろうが、まだ16歳、入軍して数ヶ月のスモーカーにとってはとんでもない苦行だった。
同期の中どころか数年上の入軍者の中ではずば抜けた格闘能力を持っているということで有名なスモーカーだが、やはりクザンにかなう域にはまだ達していない。身体も少年独特の細さが目に付き、パワー不足は否め得なかった。お前は20代半ばになったら身体が出来上がってくるタイプだよ、計画的に筋肉つけな、とクザンはよく言っている。
訓練の組み手自体は手も足も出なかった。投げ飛ばされた数は覚えていないし、自分から掴みに行っても手が届く前に転ばされていた。打撲も痣ももちろん、口の端や額は切れて血が流れ、スモーカー自身が一言でも苦呻を漏らしていたらクザンのリンチと思われても仕方のない光景になっていた。
それでも音を上げず、最後は受け身も取れないまま、立ち上がるのがやっとの状態でふらつきながらも食らいつこうとするスモーカーを見て、クザン自身が「終わり」と宣言し、最後に思い切り転ばせた。流石にスモーカーはもう立つことができず、喘息患者が起こすような荒すぎる呼吸をして天を仰ぐことになった。
見守るしかなかった同期たちの中からヒナが真っ先に飛び出した。てっきりスモーカーを介抱するのかと誰もが思ったが、何と彼女はクザンに食って掛かった。何してんの、何でここまでするの、酷いじゃない――気の強い彼女を止められるのはスモーカーしかいないのは有名な話だったが、そのスモーカーは既に引っ繰り返っている。結局クザンがなぜかヒナに謝り、謝る相手が違うじゃないの、とヒナは更にエキサイトし、どうにか立ち上がったスモーカーが息も切れ切れに、そもそも謝ることじゃねえ、と言ってヒナを納得させた。
「って言うか」
医務室で傷の応急手当を済ませたスモーカーは、なぜか室内で腕を組んで仁王立ちしているヒナを見る。
「何でお前がクザンに文句を抜かすんだ」
「弱い者いじめしたから。ああいうの、ヒナむかつくし」
「弱い者いじめじゃねえよ。――ダイレクトに俺が弱いって言うのはお前くらいだ、新鮮すぎて感動するよ」
「同期とかよりはずーっと強いけどさ、でもクザンよりはずーっと弱いし?」
「10年後目標ってことで」
「オッサンになるまで弱くていいわけ?」
「うるせえ。お前帰れよ、もう定時過ぎてんじゃねえか。俺は帰る」
「スモーカー、帰る前にここにサインだ」
二人の会話をにやにやして聞いていた軍医が――海軍内で静かに広がる「スモーカーとヒナが付き合っているのではないか」という誤解を彼も信じていた――医務室利用の証明書類へのサインを求める。スモーカーは眉をひそめたが、逃げられるものではなかった。
「洗っておきゃ治る傷ばっかりなのに。次から来ねえ」
「そう言うもんじゃない、出血したら全部医務室って言うのは規則だからね」
軍医にたしなめられるスモーカーを見てヒナがふんと鼻で笑う。
「医務室使うなんて弱いの証明だし。クザンが来るたんびにこれだもんね、弱いよわーい」
「お前がいつかクソみてえな男に引っかかったら全力で笑ってやるから覚悟しとけよ」
「あ、男で思い出したんだけど。同期のカレンがさあ――」
「興味ねえ。ドクター、どうも」
「はいお疲れ。ヒナちゃんも気をつけて」
「はあい、お疲れ様でっす」
手にしていたスモーカーの上着を投げ付け、軍医にはにっこり笑い、ヒナは先に医務室を出る。スモーカーは同期の少女の傍若無人振りに息を吐き、上着を着込んでから軍医に会釈をしてヒナを追った。
「そう、それでカレンが」
医務室を出た所にいたヒナがスモーカーを見るなり話を再開する。スモーカーは上着のポケットから棒付きの小さなキャンディを出し、口に咥えて歩き出しながら「興味ねえ」ともごもごと言うが、ヒナはお構いなしだ。スモーカーの上着のポケットに勝手に手を突っ込み、キャンディを引っ張り出して同じように咥える。もごもごとせずに話すのはスモーカーよりも余程器用だった。
「カレン、ずっと彼氏いなかったんだけど――」
「カレンの男事情なんて知らねえよ」
同期の女の恋愛事情より、キャンディを咥えた時に口の中に滲みた方が重要事項だ。これでは夕飯が食べられないかもしれない。既に空腹になりかけているのにたまったものではなかった。
「お疲れっす」
「お疲れ様でっす」
「はいお二人さん、お疲れ」
擦れ違った一年先輩と会釈を交わす。仲が良いねえと言いたい顔をしながら先輩は通り過ぎる。これは正面玄関を出るまでの恒例行事のようなもので、ほとんどの人間が、この見目の良い同期二人はとうに出来上がっていると思い込んでいる。無論事実ではなかったし、そもそも二人は全く気にしていなかった。変な子たちだ、とクザンが呆れているのも事実だった。
「だから。いなかったんだけど」
「できたのか。おめでとう、はい終わり」
「だからあ。話聞けっての、ヒナむかつく」
「興味ねえってのに」
「ヒナは興味あるからスモーカーくんは聞いてればいいの。――カレンにも遂に気になる男の人ができたってオチで」
「そこでオチかよ。出来てから話せ、つまんねえ」
「その相手ってのが、スモーカーくんの隣の部屋なわけよ?」
「寮の? アルビオン?」
「そうそう、その人。先週の奉仕活動で急接近したらしいよ」
「ふうん、あいつねえ」
寮では家族同様の生活をする。馬が合えばこれ以上過ごしやすい場所もなく、その中で出会う仲間はかけがえのない存在になる。まだ入隊して数ヶ月、アルビオンと馬が合うかどうかはまだ判断しかねたが、悪い付き合いはしていなかった。
「彼女いなかったはずだな。あと、かなり誠実な奴」
「じゃあ、カレンのことをスモーカーくんが全力で笑うことはないかなあ?」
「俺が笑うのはお前の時だけだ」
「ほんとむかつくんだけど!」
憤慨したヒナはキャンディを噛み砕いてしまう。腹立たしい顔でまたスモーカーのポケットを探った。スモーカーは好きにさせながら足を止める。出口の辺りで数人が立ち尽くしていた。
「雨か」
それほど酷い降りではないが、傘を差さずに歩くには躊躇われる雨が空から地面に次から次へと降り注いでいる。傘を持っていないスモーカーはうんざりした。口の中や傷が痛いし、湿気は打撲に響く。
「うん。ねえ、何でイチゴ味ないの。ヒナ、イチゴ味がいいんだけど」
「そのアメじゃねえし、イチゴは俺が食ってるのが最後だ」
「うっそ、ヒナ、傘持ってないしイチゴ味食べたかったし!」
「どっちも残念」
スモーカーはわざとがりがりと音を聞かせるようにキャンディを噛み砕く。ヒナがまた憤慨し、スモーカーをぼかぼかと叩いた。好きにさせつつ、スモーカーは「ふうん」と視線の先を見て呟く。ヒナもスモーカーが何を見ているかを知り、「ふうん?」と可愛らしく唇を尖らせた。
「カレンとアルビオン。噂をすればヒナ感激」
「何だ、あいつら。傘持ってんじゃねえか」
ヒナがスモーカーを引っ張り、静かに二人に近づいて行く。スモーカーは溜息をついた。女ってやつはどうしてこういう話が好きなんだろう、とヒナを知ってから呆れることばかりだ。
周囲にいた数名もカレンとアルビオンの最近の接近に気付いているのか、雨の様子を見る振りをして、二人を窺っていることは明白だった。どうやら興味がなかったのはスモーカーだけだったようだ。
渦中のカレンとアルビオンはすっかり二人の世界で、聞いている方が苦笑いしたくなるような会話を交わしている。いわゆる、お互いに好きだと分かり合っているのに口に出せない、そんなもどかしい時期の会話だった。
「雨だね」
「そうね。傘があって良かった」
「そうだね。――ああ、あの」
「何?」
「……傘、いつも持ってるんだ?」
「置き傘してるのよ」
一緒に帰ろうか、とかそういうのを言うんじゃねえのか、カレンもカレンだ、まっとうに受け答えしてんじゃねえよ、とスモーカーは溜息を堪えて思う。カレンが格闘訓練ではそこそこ男を薙ぎ倒す女であったことを思い出し、余計に溜息を堪えるのに大きな努力を必要とするはめになった。察したヒナが「静かにしてなさいよ」とばかりに肘でつつく。
「ああ、あの、アルビオン」
「何?」
「今日、水分補給のドリンク、ありがとう。助かったわ。あの――訓練の時、わたし、ちょっと具合が良くなかったから」
「あ、いや、うん。全然。女性なんだし、いつも体力有り余ってる女子ってヒナだけじゃない?」
「確かにそうかも」
待ちなさいよヒナむかつく、と憤慨しかけたヒナをスモーカーが抑えたことも知らず、二人の男女は楽しそうに笑う。
「でもヒナって凄いのよ、わたしたち女子の同期の中では一番。あんなに可愛いし、スモーカーくんと付き合ってるのも当然よね」
だから付き合ってないし、と二人揃って言いそうになったが、どうせ言っても無駄だということはよく分かっているのでもう諦めている。それよりもヒナはこの二人の会話が気になっていたし、スモーカーは早く帰りたくてたまらず、早く喋るだけ喋ってお前ら帰れと思っていた。
「俺は――カレンも可愛いと思うけどなあ。ヒナとタイプは違うけど」
雨がやむのを待っている振りをしている周囲は冷やかしの口笛を鳴らすことを何とか堪える。無論ヒナも興味津々だ。スモーカーだけが「こいつらかったるい」という顔をしていた。
「……そんなこと言われたの、初めてなんだけど」
「あ、そう? そうなのかな、――えっと……いや、でも」
可愛いと思うけどなあ――アルビオンの声は今にも消えそうだった。
背後にいるスモーカーはカレンとアルビオンの耳が真っ赤であることを知る。
女子寮と男子寮は反対方向だ。彼らはそれぞれ傘を差し、正面玄関を出れば反対方向へ歩くことになる。
それきり二人は黙る。スモーカーから見える後ろ姿は相変わらず耳まで真っ赤だ。
スモーカーは今日何度目か分からない溜息をつき、新しいキャンディを咥えてから、ヒナの背中を軽く叩いて歩き出す。ちょっとちょっと、とヒナが焦ったが、構わずにアルビオンの肩を小突いた。二人の世界に浸っていたアルビオンはスモーカーが驚くほど激しく驚愕の声を上げる。
「あ、ああ、――スモーカー!」
「おう。お疲れ」
「お疲れ、うん」
「傘、ねえんだ。だからカレン」
「え?」
「カレンの傘、貸してくれ。後でアルビオンに渡しておくから」
二人の返事など待つ必要はない。状況が理解できずに慌てふためくカレンの手から勝手に傘を奪い取り、開きながら雨の中へ足を踏み出した。見ていた周囲がスモーカーの大胆な行動に軽く手を叩いたり口笛を吹く。ヒナがカレンに女子独特の親愛の体当たりをし、片目を瞑って笑ってみせてから、先に歩くスモーカーを追いかける。
「……あの」
スモーカーの傘に勝手に飛び込むヒナと、そのヒナに何か文句を言っているスモーカーの姿を見ながら、アルビオンが顔を真っ赤にしたまま言った。
「こういうことなんだけど、その」
「……うん」
「あの、本当に良かったらなんだけど」
女子寮まで送って行くよ。
その言葉をアルビオンが言えたかどうか、先を歩くスモーカーとヒナには分からなかった。
だが夜、いつもより少し遅く寮に戻ったアルビオンが、スモーカーの好きなドーナツショップの大きな袋を照れくさそうに笑いながら押しつけた。
スモーカーは肩を竦めてから遠慮なくひとつに齧り付き、口の中の傷を刺激され、いてェ、と呻くはめになった。