足繁く、と言うのか。女か、と皆が笑う。
終業後、残業があっても無視して退勤してしまう日が続いている。終わらなかった分は翌朝早く出勤して片付けるので問題はないが、今までにない態度なので誰もが首を傾げていた。
「ヒナ、何か聞いてんだろ?」
同期の問いに、意外にもヒナが肩を竦めた。
「全然知らない」
「マジかよ」
「訊いても教えてくれないし。まあ、そのうち、なんて言っちゃって。ヒナ分かんない」
「ヒナにも言わないってのは珍しいな」
「んーまあ、あいつマイペースだし」
そのうち言うだろうし、とヒナは勝手に思っていた。傍から見ればスモーカーと付き合っていると思われるほど時間を共有するヒナとしては、スモーカーはそういう人間であることをよく理解していた。
「じゃあ、またね」
彼女が満面の笑みで手を振る。スモーカーも笑顔で手を振り、また明日来るよ、と言って彼女の部屋を出た。
廊下ですれ違った彼女の母に呼び止められ、少し話す。母親は娘と娘のボーイフレンドを二人きりにさせようと、いつも席を外してくれていた。
寮までそう遠い距離ではない。いつも歩いて帰る。今日もいつもの棒付きキャンディを口に突っ込み、歩き始めた。もう日が暮れたとはいえ、この近辺の冬は、北海出身のスモーカーにとっては大した寒さではなかった。仕事帰りの大人たちは冷たい海風にうんざりした顔で歩いている。夜の街へ遊びに行く若者たちは寒い寒いと文句を言いながらも笑っていた。
明日は4時に起きて5時には出勤して、訓練前に書類仕事かな、と残して来た仕事を考えてうんざりしたが、彼女と会える時間は限られている。休日以外は夕方から夜だけだ。後悔しようとは思わなかった。
彼女と出会ったのは偶然だった。
訪ねた先ですれ違った彼女を可愛いなと思って通り過ぎたら、背後で彼女が倒れる音がした。下心なく助け、すぐに彼女の母が駆け付けて二人揃って礼を言われ、色々と話を聞いて彼女と気が合った。こんな出会いもあるのね、と彼女は笑っていた。その笑い方がとても可愛いと思ったのだ。
女性に人気のあるスイーツショップに寄り、明日の夕方まで大丈夫なものを、と店員に頼む。若い女性店員はスモーカーの意図を看破し、少し笑いながら「焼き菓子なんてどうかしら」と勧めた。
「明日のアフター5までは大丈夫よ。あなたが好きなものも入れておけば一緒に食べられるんじゃない?」
「その洞察力、凄いな。海軍入りなよ、クザンに紹介する」
無論冗談だ。女性店員はまた笑いながら、人気のある焼き菓子を選んで包んでくれた。
あのお菓子が好きなの、と彼女が言っていたのを思い出した。それは入っているかな、入っていなかったらまた別の日に持って行こう。そう思いながら家路に着く。
故郷の話をすると、この街で生まれ育った彼女は喜んだ。楽しい話ばかりを選んで、彼女の笑顔を楽しむ。持って行った焼き菓子をとても気に入っていた。お母さんにも少しあげてもいいかしらと言うので、もちろんだよと返事をする。今度は少し多めに買って来よう。
「春になったら」
スモーカーは言う。
「あったかくなるし、どこか行こう。遠くが嫌なら綺麗なカフェとか」
「綺麗なカフェなんて知ってるの?」
「知らねえけど、同期なら知ってる奴がいるから訊いておくよ」
「カフェなら、ねえ、ここがいいな」
彼女は雑誌を手に取って開き、スモーカーに見せる。女性向けの雑誌で特集されているカフェは、スモーカーが少々気遅れしてしまいそうな洒落た店だ。だが笑って「いいな」と言った。
いつも通りに手を振って帰る。
歩く途中で思い出し、電伝虫をポケットから引っ張り出した。彼女と会う時はいつもポケットに押し込み、反応しても聞こえないようにしている。どうせ滅多に連絡など入らない。
だが今日は違った。電伝虫がヒナの顔のまま怒っている。やべえ、と青ざめた。慌ててコールバックすると凄まじい勢いでヒナが出た。
『西の街で強盗で緊急配備なんだってば、馬鹿、どこ行ってんの! 休日以外は退勤後も電伝虫出ろってのは規則なのにヒナびっくり!』
「……まだ間に合う?」
これは本気でまずい。軍は治安維持の任務もある。クザンの隊の中ではトップのアタッカーであるスモーカーがいないとあっては地元の人間に変な顔をされかねないし、クザンの顔を潰すことにもなりかねない。
『もう出る、現場で集合しかないからね! クザンがめっちゃ怒ってるし、覚悟した方がいいよ!』
『あ、今日はいいよ、来なくていいよ』
悲鳴を上げたくなるほどの恐怖を感じた。クザンがヒナの電伝虫を奪ったのだ。いつも通りの穏やかな声だったが、付き合いが深いスモーカーには分かる。これは本気で怒っている。
「あ、すぐ行くから、まじでごめん! どこ!」
『今日は結構、コケコッコー。寮に帰って反省文でも書いててチョーダイ。明日、話聞くから』
「いや、ちょっと待っ──」
『お疲れ』
無情にも電伝虫が切られた。
「……コケコッコー」
始末書で済めばいいなあ、と絶望感に襲われる。
天を仰ぐ。冬の夜の空は今にも泣き出しそうな雲で濁っていた。明日も寒いだろう。雪が降るかもしれない。
翌朝、朝礼の後に訓練所のクザンのオフィスで詳しい説明を求められた。なぜか勝手に入り込んでいたヒナも「フォローできないし」という顔で見ている。まさかクビはないが、訓戒程度にはなってしまうかもしれないことはスモーカーも覚悟していた。
「どこ行ってたの」
「……友達のとこ」
「電伝虫、出せないようなとこ?」
「出せないって言えば出せない」
「規則だと、そういうとこへ行く時は必ず先に連絡するようにって決まってなかったっけ」
「おれのミスだ。反省してる」
クザンはじっとスモーカーを見る。反省に嘘がないと判断し、珍しく溜息をついて「次からは気をつけようね」と言った。昨日の出動の内容が大したものではなかったということも幸いした。
「別件の任務で間に合わなかったことにすりゃいいよね。ヒナ、辻褄合わせの書類作っといて」
「もう作ってあったりしちゃったりして、ヒナ偉い」
「まじ偉い」
思わずスモーカーはヒナを拝んだ。クザンは「でもさあ」と言う。
「ヒナから聞いたんだけど」
「うん」
「予想としては女性問題なわけで?」
「──問題っていうか……まあ、今回、こうなったから問題だけど」
「話しても大丈夫な感じ? 内容としては。不倫とかは流石にまずいよー、軍規に明記してあるし」
「不倫じゃねえし、別に何も悪いことはねえけど」
何ていうか、話したくない。
その返答にクザンはまた溜息をついた。
「これからもこういうことが続くなら、話さざるを得なくなるし──相手の女の子にも迷惑がかかるかも、ってのは分かってんの?」
「あー、うん、でも」
「でも、何」
スモーカーは言葉を探す。上手い言葉が見つからなかった。ヒナはそんなスモーカーを心配そうに見つめる。
長い時間をかけて言葉を探した後、ようやくスモーカーは言った。
「春になる前には会うこともなくなるから」
「……ふうん」
クザンは短く返事をし、しばらくスモーカーを見ていた。やがて「訓練行きな」とだけ言って、手元の書類に目を落とした。
ヒナは二人を見るしかできなかった。
スモーカーはいつものキャンディを口に突っ込み、クザンのオフィスを後にする。
毎日彼女に会いに行った。彼女はいつも笑顔で迎えてくれる。彼女の母親はスモーカーを下にも置かぬ扱いだった。仕事が休みだった父親に会った時には彼にまで同じことをされ、いっそ恐縮してしまうほどだった。
春になったら。彼女は笑って言った。
カフェに行きたいわ。それからこの服も欲しいの。スモーカーくんのお友達にも会ってみたい。
スモーカーは彼女が言うことには全て、笑顔でイエスと答えていた。だから彼女は喜び、ますます笑った。自分が大事にされていると分かって嬉しいのだ。
「海に出たいわ」
「自家用の船はないな、借りないと」
「パパのを借りましょうよ。小さいけど格好いいのよ」
「お父さんが貸してくれんのかな」
「大丈夫よ、スモーカーくんなら」
わたしが今まで付き合ってきたボーイフレンドの中で、スモーカーくんが一番気に入られてるわ。彼女はまた笑う。だからスモーカーも笑った。
春になったら。
毎日そんな話をした。
やがてスモーカーが話すばかりになり、彼女は頷くばかりになっていった。
緊急出動があっても、よほどの大事件でなければスモーカーには招集がかけられなくなっていた。
スモーカーは話す。春になったら。そうだな、あれもこれも。春になったら。
彼女は笑っていた。
春になり、スモーカーは残業をするようになった。どこかへ行く様子もなかった。
終わったのかな、と誰かが言うことはなかった。
一日だけ、スモーカーが忌引きで休んだからだった。
「知っておりました」
クザンは本部を訪ねて来た両親に丁寧に言った。
両親は涙を堪えてクザンに頭を下げる。母が涙声でクザンに必死に説明した。
たまたまなんです。入院していた娘が具合を悪くして廊下で倒れた時、たまたまご友人のお見舞いにいらしていたスモーカーさんが助けて下さったんです。
元気だった頃、街でよく見かけたスモーカーさんに憧れていた子なんです。
愚かな私はスモーカーさんにそのことと、娘が――の病であることを言ってしまいました。
毎日病院に来て下さって、大変なご迷惑をおかけしたと思います。
でも娘は毎日喜んで、喜んで。
最期まで娘は喜んで、笑っていたんです。
全ては娘のためにして下さったことでした。
どうかどうか、スモーカーさんにご処分などは──
「大丈夫」
彼女の両親の懇願に、クザンは静かに言った。
「初めて話を聞いた時に、おそらくそうであるとは分かっておりましたので──スモーカーがお嬢様の最期に良い思い出を作るお手伝いができましたこと、上官として光栄に存じます」
カフェでぼんやりと過ごす。周囲は小洒落た女の子ばかりだ。
男一人で紅茶を飲んでいるスモーカーに興味を示す子もいたが、一人しかいないテーブルにカップがふたつあることを訝しみ、近づかない方がいいと判断してまた自分のテーブルへ戻って行く。
春になったら。彼女は言っていた。
あのカフェに行きたいわ。
そうだな、春になったら。スモーカーは言った。
彼女は笑っていた。
痩せ細り、喋るのも苦しかっただろうに、それでもスモーカーを見て、声を聞いて、嬉しそうに笑っていた。
電伝虫が喚く。ヒナだった。
『クザンが一緒にご飯食べようって言ってるんだけど』
ふっと笑って電伝虫をしまい、伝票を手に立ち上がった。