陸の冬の寒さは海風の寒さとは違う。冷たい海風は気分を酷く落ち込ませるし、船室にいても波が荒れ、船が揺れ、海で生きる人間にとっても快適とは言い難い。
だが陸の寒さなら話は別だ。船乗りの誰もがしみじみと思うだろう。ほどほどに密閉した建物に入り込み、暖炉の優しい火に甘えながら、温かい飲み物を楽しむのは格別の幸福だ。
暖炉の火がぱちりとはぜる。乾いたその音を断続的に聞きながら、ローは座り込んだ毛足の長いラグから窓の外を見た。床の上に座ることが好きで、特に冬、あたたかいラグの上に座ると動きたくなくなってしまう。
厚い雲が空を覆い、いかにもすぐに雪を降らせる準備を見せつけている。恋人と共に来たこの島は、一度雪が降り始めるとやむまでが長い。長い冬は旅行者の足を遠ざけ、人前ではあまり堂々と一緒にいることが難しい二人が訪れるにはちょうど良い環境を作り上げていた。島もそんな客を当て込んで宿を作り、どんな二人を見ても口外しない安心感を商品にして島の経済を成り立たせている。
立場上、それほど長い時間を共に過ごせるわけではない。雪が深くなりすぎる前に島を発つことになるだろう。それでも、いつもの味気ない執務室や仮眠室での逢瀬ではない。ろくに言葉を交わすこともできない、七武海の上納の日でもない。何となく、ローはそれが不思議だった。
ドアが開く音がした。ほぼ同時に、心地よい甘さを想像させるシナモンのあたたかい香りが入り込んで来る。
「何か変なものでもあるのか」
部屋に備え付けのキッチンで用意した、湯気の立つマグカップを二つトレイに載せたスモーカーが声をかける。ローは振り返らず、相変わらず外を見ていた。
「変って?」
「空に何かあるのか」
「雪が降りそうだ、ってだけだな」
「ふうん」
スモーカーはローの隣に座り、ラグの上にトレイを置く。ローは早速マグカップをひとつ手に取り、想像通り優しいあたたかさを感じて、僅かに口元を綻ばせてから口をつけた。それを見たスモーカーも僅かに微笑む。
「アニスシード」
「よく分かったな」
あたたかいワインに入れられたスパイスのひとつを当てたローは気分が良くなる。他愛ないこと、どんなに子供じみたことでも、スモーカーに褒められることが好きだった。過去のどこかに忘れて来た幼い一面を、この男の前でだけは隠し切れないことはもう諦めていたし、この男と愛し合うようになってからは、いっそ心地よく感じていた。
「好きなんだ」
「そうか」
「シナモン。これはすぐ分かる」
「そうだな」
「クローブと、あとはオレンジ」
「林檎とローズマリーも少し」
「まじで? ──本当だ」
最初は気づかなかった果実とハーブを指摘され、改めて一口飲んで気づく。
「ほんの少し。言われなきゃ気づかない程度に」
「美味い」
「そりゃあよかった、ばあさんも喜ぶ」
「ハロウィンに報告してやれよ」
「まだ生きてる、馬鹿」
故郷の祖母を勝手に殺され、苦笑してローの頭を小突いた。ローは怒った振りをしてから笑った。そして不思議だと思った。
こんなに穏やかに、まるでいつもこうやって二人で過ごしているのではないかと錯覚してしまう自分が、とても不思議だと思った。
それは間違いなくスモーカーがそのようにローを扱っているからだ。待ち合わせ場所で会った時、久し振りだなだの何だのと、時間を感じさせるようなことを言わなかった。恋人の私服の冬服が珍しくて思わず目を奪われていたローに、当たり前のように、ああ、行くぞ、と言っただけだった。再会を喜んで抱き合ったわけでもなければキスをしたわけでもない。本当に、まるで「いつものように」。そんな錯覚をしてしまうほど、スモーカーは自然にローの傍に立った。
「ロー」
「ん」
「寒くねえか」
「平気だ」
「そうか。それだけ細いんじゃ、寒いんじゃねえかと思ってな」
「お前が言うか」
「ん?」
「脂肪がない」
「人よりはな。だからって特に寒がりってわけでもねえよ」
よく勘違いされるんだが、とスモーカーは肩を竦めた。ローはその理由がよく分かり、つい笑ってしまう。それから少しだけ、専門分野について口にした。
「体脂肪が少ないと寒がりだって、よく言われてるけどな」
「俺は特殊らしいな」
「違う。本当は関係ねえんだよ」
「へえ?」
「代謝の良さなんかは関係してくるんだが、結局は体質だ。デブに冷え性がいる説明がつくか?」
「なるほど、確かに。──初耳だ。ヒナに言ってやってくれ、昔からよく言われて鬱陶しい」
ローは暫し返答に詰まり、思ったことを言っていいものかと悩む。昔の自分なら言えなかったし、今もこれを言うにはひどく勇気がいる。それでも昔に比べれば、と自分で思った。──昔に比べれば俺も成長したもんだ。勇気を出せば言えるって分かったんだから。
黙り込んだローに気づき、スモーカーが「どうした」と言う。
「ロー」
「ああ、いや、その──」
──昔の俺なら、何でもねえよ、って言っただろうな。
「こう、俺といる時は。こういう感じでいる時、って言うか」
「うん?」
──何でもねえよ、って言って、どうして言えなかったんだろうって後で落ち込んで、結局こいつに心配されてたんだろうな。
「こういう時に、だけなんだ、他の時はいい」
「うん」
ローの要領を得ない話し方でも、スモーカーは答えを急かさない。いつもだ、とローは思う。スモーカーの前で悩み、勇気を出すまでの長い時間、一度も急かされたことはなかった。お前の言葉を待っているよと態度で教えてくれるスモーカーを、とてもとても好きだと思う。
だから勇気を出すことができる。
「こういう時は」
「ああ」
「黒檻屋の名前は聞きたくねえ」
ただそれだけだ。本当にこれだけの話だ。普通の恋人同士なら、別に勇気を必要とすることでもない。それでもローにとっては大変な勇気が必要なことだった。俺といる時は他の奴の、恋人と間違われるような奴の話をするな、と言うことが、ローにひどく勇気を振り絞らせた。
昔はなぜ、こんなにも勇気が必要なのかが分からなかった。言えば聞いてくれると分かっているのに、どうしても言えないこともあった。飲み込んだことがいくつもあった。それに呆れてスモーカーが怒ったこともあった。それが哀しくてひどく落ち込んだこともあった。
「──そうか」
スモーカーが低く言った。
「悪かった」
「別に謝らなくても、でも、ただ」
「悪かった。嫌だったんだろう。もう言わねえよ」
怒った声音でもなく、機嫌を害した様子もなかった。ローはほっとして息を吐く。どっと疲労感を覚え、それが果てしなく滑稽なように思えて苦笑した。
「疲れた」
「どうして」
「お前にノーを言うのは、勇気がいる」
スモーカーはしばらくローを見詰めていたが、やがてローの頬を包むように柔らかく撫でた。この感触が好きなローは手を重ね、今度は安堵の息を吐く。
「馬鹿馬鹿しいってのは分かってる」
「そうか」
「お前がこんなことで怒るはずねえってのも、ちゃんと」
「そうだな」
「でも、俺には一大事なんだ」
「分かった。俺が悪かった。キスしろよ」
いとも簡単に手打ちの方法を提案され、ローは喜んでそれに乗る。触れるだけのキスをして、ああ、そういえば今回会ってからキスをしたのは初めてだ、と気づいた。
──そうだ、一大事なんだ。今でも。馬鹿馬鹿しい。とても馬鹿馬鹿しいのは分かってる。
お前が好きで好きでたまらなくて、
お前に嫌われたくなくて、
嫌だ、とか、やめろ、とか、本気で言うのは本当に、勇気がいる。
「雪」
ふと外を見たスモーカーが言った。
「降って来たな」
「本当だ」
降り始めにしては大粒の雪が、遂に空から降りて来た。これから長い雪の日々が始まるのだろう。どんな二人でもその雪の中に埋もれてしまえるように。この島の冬は雪の中に埋もれるどこかの二人のためにある。
「荒れなきゃいいんだがな」
スモーカーの呟きに、そうだな、とローは答えた。何が、とは問わない。この男が言うなら、それは海のことだ。雪がひどくなれば海も荒れる。灯台を見失った船が難破することもある。冬の海はそれが恐ろしいのだ。ある意味ではローよりも海を知り尽くした海軍の男は、たまにマグカップのあたたかいワインを口にしながら、これからの天気を予想するように窓の外を見ていた。海軍のさがのようなものだ。これは嫌だと思わず、ローはその横顔を眺めていた。
自分のマグカップを暖炉の前に置き、ローはラグの上にごろりと横になる。頭をぴたりとスモーカーの腿に押し付けると、空から意識を戻したスモーカーが笑って髪を撫でてくれた。その感触が嬉しかった。
雪が落ちる音が聞こえる。海面に落ちる時の音とはまた違うそれを、スモーカーのてのひらの感触と共に楽しむ。アニスシードとシナモン、あたたかいアルコールの香り、頬をくすぐるラグの毛並みが心地よい。
「もしも俺の船が難破したら、海軍は助けてくれるのか」
「難破しねえだろ」
「もしもだよ。もしも、そうだな、灯台が見えなくて。雪で」
「救難信号が出てりゃ行くさ」
「お前は来ねえだろうな、上級将校だし」
「お前の船なら行くよ」
「嘘つくなよ。さすがにまずいだろ」
スモーカーがまた髪を撫でた。
「じゃあ、その時は休暇だ。お前の船の救難信号を見た瞬間から」
「よく言うよ」
「愛してるんだ、当たり前だろう」
何を言い返すことができるだろう、とローは思う。スモーカーの腿に頭を押し付けたまま、髪を撫でられたまま、つい身をよじってしまった。耳まで熱い。間違いなく真っ赤になっていると自覚する。
愛していると言われたことがないわけではない。むしろ何度も言われている。それでも、この男の言い方がいつもとても卑怯だと思う。心の準備をする間もなく、自然に、当たり前のように、それでも特別だと分からせてくれるように、愛していると言うのだ。
ローはそのまま顔を上げられず、スモーカーも特に急かすことをせず、ただ髪を撫でられ、撫でて、あたたかい香りを感じながら、雪の降る音、暖炉の火がはぜる音を聴く。やがてローの動揺も落ち着いた頃、今度は睡魔が忍び足で近づいて来た。あまりにも忍び足で気づかなかった。抵抗しようという発想すら抱けず、ローはうとうとと意識を揺らせ始める。スモーカーの手は相変わらず髪を撫で、睡魔と同盟を組んでいることを隠そうともしなかった。
冬の嵐が訪れようと
夢うつつの中、ローは穏やかな声と旋律を聴いたような気がした。それがスモーカーの声だということは分かったが、彼が歌っているのだということに気づくまでやや時間を必要とした。
冬の嵐が訪れようと
わたしの声があなたを導くだろう
何の歌だろう。ローは知らない歌だった。何の歌だと訊こうとしたが、睡魔がそれを許さなかった。
わたしの言葉があなたを光差す方と連れて行くだろう
わたしがあなたの灯台となる
何の歌だろう。穏やかな旋律だ。聴いているだけで気持ちがいい。それはスモーカーの声だからだと、夢うつつのローには思い至らなかった。ただ気持ちがよくて、このまま眠ってしまってもいいような気がしてきた。まるでいつものことのように錯覚してしまうほど、あまりにも穏やかで優しい時間だった。
これは冬の歌
冬を嫌う人は多くても わたしは決して嫌いじゃない
そうだ、眠ってしまってもいい。二人でいる時間は限られている。それでも眠りたい。眠くてたまらないし、幸せでたまらない。
当たり前のように髪を撫でてくれる。当たり前のように愛していると言ってくれる。
幸せでたまらない。
このまま眠りについても、きっと怒らないと分かっている。
愛は生きている
あなたを導く愛が生きている
怒らないと分かっている。それでも一言断っておいた方がいいだろうか。根が真面目にできているローは思う。
勇気はいらない。怒らないと分かっている。本当はいつも分かっている。
いつでも勇気などいらないということを知っている。
当たり前のように愛してくれる男が教えてくれた。
いとしい冬に わたしはあなたの灯台となろう
冬は決して 忌まわしくて長い季節なんかじゃない
好きなハーブとあたたかいワインの香り、毛足の長い感触と、何よりいとしい声、それが紡ぐ穏やかな旋律、何もかもが心地よかった。
心地よくて、よくて、好きで好きでたまらなくて、あまりにもいとしくて、単純に思った。
単純に、呆れるほど単純に思った。
何て幸せなんだろう。
冬は決して 忌まわしくて長い季節なんかじゃない
あなたがわたしの腕の中に 長くいてくれるから
何て幸せなんだろう。
俺はどれほどこの男を愛しているんだろう。
この男はどれほど俺を愛してくれているんだろう。
本当は特別な時間なのに、錯覚する。
いつものことだって。
これがいつものことならどれほど幸せなんだろう。
あまりにも幸せで、いとしかった。ゆっくりと睡魔に飲み込まれる瞬間まで、スモーカーという男がいとしくてたまらなかった。
眠っても、起きても、それはいつものこと。
そう錯覚させてくれることがどれほど幸せなんだろう。
愛している。
愛してくれている。
いとしくていとしくて、幸せで、たまらなかった。