本格的な冬になるにはまだ早い。だが確実に秋は深まり、G-5の兵士たちも訓練前には寒い寒いと縮こまることが多くなっている。スモーカーは殊更に寒がりではないが、なぜか寒さに強いのではないかと言われることが多かった。おそらく色素のせいだろう、と人生において何度思ったか知れない。雪が降ったらあんたが見えないわ――母親にはよく笑って言われたものだった。
肌の色も白い。新兵時代、炎天下の訓練でも真っ黒に焼けるということはなかった。赤くなった挙げ句に水ぶくれに悩まされたものだ。それもいつしか慣れた。慣れたと言うより諦めだった。体質はどうにもならない。色の白さと(今からは想像もできないと言われるが)10代ならではの未成熟な身体によからぬ欲望を抱き、手を出そうとする先輩兵士を叩きのめすことにも同時に慣れて行った。これはどうにかなることだった。
今は炎天下とは無縁の秋、むしろ初冬と言っても良い季節だった。軍に入ってから長期休暇以外で途切れたことのない海のにおいを当然のように感じながら、着古したダッフルコートの前を止めながら宿舎を出た。
今日は休日だ。普段の休日なら宿舎内にある運動施設で身体を鍛えたり、普段読む暇のない本を読んだりして過ごすのだが、月が変わって年末の空気が流れれば忙しくなる。今のうちに買い物を済ませておきたかった。しかし昼食の後、買ったまま手をつけていなかった本を見つけてしまったのが運の尽きだったのか。少しだけと思って開いた本につい引き込まれ、気付けばティータイムも過ぎ、そろそろどこの店でもディナーに向けて慌ただしく準備をする時間になっていた。やっちまった、と痒くもない頭をぼりぼりと掻き、せめて買い物の下見だけでも済ませてから夕飯をどこかで食べることに決める。
宿舎は海から少し離れた場所にある。万が一の津波で兵士が全滅しない配慮だった。無論、通常時に港で何かあった時のために、兵士はローテーションを組み、それぞれ港湾警備をこなす。軍事上当然の配慮とも言えるが、生活を考えると少し不便な位置だった。栄えている市場は港付近にある。宿舎からは徒歩で一時間ほどかかった。
宿舎と港の間にG-5の駐屯地がある。いわばスモーカーたちの職場だ。顔を出して兵士たちを驚かせてやるのも面白いと思ったが、もうすぐ定時になる上、上司がいない独特の解放感の邪魔をするのも可哀想だと思い直した。兵士たちはたしぎをからかい、たしぎはからかわれて憤慨しながら一日を過ごしたことだろう。そのうちからかわれる振りが出来るようになりゃ「大佐ちゃん」卒業なんだがな、とスモーカーは思う。
港へ行くには住宅街を抜けた方が早い。制服の時にはとおらないようにしている道だが今日は私服だ。陽が落ちる前に港に着きたかったので通り抜けることにした。
ふと、人だかりが目の前に現れる。暫し考え、溜息をついてそちらに歩いた。自分が何かをしようとは思わないが、駐留軍高官として素通りが出来る状況ではなかった。もし素通りしたと分かれば、後日、駐留軍に批判的な政治団体に「治安が乱れても無視をした」と騒がれかねない。
「すまねえ、通してくれるか」
民家の庭先に群れる近辺住民をかきわける。誰かが「中将さんだ」と言ったのをきっかけに、人垣が動き、道が出来た。その先にあった光景にスモーカーは眉をひそめる。海軍の管轄ではないが厄介な状況であることは確かだ。この近辺はお世辞にも治安が良いとは言えないが、こういうことが多いというわけでもなかった。
「ああ、どうも、中将さん」
スモーカーが赴任して来た時から挨拶程度はしている若い警官が軽く敬礼する。本来はする必要がないのだが、やはり軍高官には反射的にしてしまうものだ。スモーカーも軽く答礼する。意識して海軍式の敬礼はしないようにした。どこで民間人の反感を買うか分からない。あくまでこの土地に生きる人々を守る警官に添う立ち居振る舞いをした。
「人死にか」
「殺人ですね。応援待ちです」
「被害者は」
応援待ちでこれから現場捜査になるためか、足下には遺体がそのまま転がされていた。発見された時の状態だろう。まだ20代前半、おそらく女性に人気を博したと思われる男性だった。
「家の中で刺されたらしいんですが」
警官が目で家の方を示す。家の中からまき散らされたように続く血痕が、被害者の苦痛に満ちた最後の道程を示していた。
「助けを求めてここまで来て、事切れたって所でしょうね。あの出血でよくここまで頑張ったって言いたいくらいです」
「身元は?」
「狭い街ですから。まあ、評判が良いとは言えない男でしたから、誰かの恨みを買ったんでしょう」
「そうか」
「頸動脈、それから腹ですね。凶器は検死で分かるはずですが、まあ」
警官が肩を竦める。
「キッチンに血だらけのナイフ」
「分かりやすいな」
「恨み満載の刺し方にしちゃ、親切な犯人です」
「手伝いが必要なら連絡を」
「どうも」
定型文となっている挨拶と再びの敬礼を交わし、スモーカーはその場を去る。軍が介入することではない。度を超した兇悪犯が関われば軍に協力要請が来ることもあるが、現状では考えにくかった。狭い街だ。おそらく犯人はすぐに捕まるはず。同情されるような犯人であればその限りではないが、ああいう手合いの男――警官が「評判が良いとは言えない」と口にするような――を殺すような人間が一方的に同情されるかと言えば、それは考えにくかった。
港に着いたが、事件で時間を取られたことに溜息をつく。陽が暮れる前に店を回りたかったのだが、どうも不可能な時間帯だ。初冬のこの時期はもう日暮れが早く、店によっては強盗を嫌い、日没と同時に閉めてしまうこともある。
早々に店じまいをしている姿をちらほらと見かけ、今日は買い物を諦めることにした。次の休日は朝から、少なくとも正午には動くようにしよう。今日は少し気ままに長い時間酒を飲むのも良い。ちょうど夕飯時に合わせて酒場が灯りを入れ始めていた。
どの店にしようかと歩いているうち、ふと足を止める。波止場に近いその店はオープンテラスで、昼はカフェ、夜はダイニングバーになる形態だった。スモーカーも過去に何度か来たことがある。海風を受けながら葉巻を燻らせ、好きな酒を飲むにはもってこいの店だ。いつもならビールをまず飲むところだが、初冬で長く外を歩いたからか、鍛えた身体も冷えを感じ始めている。温かいワインが飲みたくなった。
そして僅かに考える。今日は休日だ、と心の中で数度言い聞かせる。やがて内心で俺もつくづく馬鹿野郎だなと呟きながら、テラス席にいた真っ白なコートを着た女の前に立った。
「同席していいか」
女は顔を上げ、あら、と言うような顔になる。美女と言うにはやや難があるが、メイクやファッションに力を入れ、自分を綺麗に見せようという努力を怠らないということを分からせる女だった。
「まさかの中将さん? 他にも席はあるけど」
「嫌なら他の席を紹介してくれ」
「――どうぞ。ちょっと寂しいところだったから、嬉しいわ」
「ありがとう」
「初めまして」
「どうも」
スモーカーが席に着くと、様子を窺っていた店員がぎこちなく近づいてくる。
「ああ、スモーカーさん――珍しいですね、こんな」
「たまにはな」
「ああ、そうですね。ああ、あの、ありがとうございます。ビールで?」
「いや、冷えたから今日はグリューワインと、……あんたは?」
女の前には何もなかった。注文を取った店員が伝え忘れたのか、それとも何も頼んでいなかったのか。後者だろうとスモーカーは思った。問われた女は「あら」と呟く。
「やだ、頼むのを忘れてた。――お酒は苦手なの。どうしよう」
どうしようと言いながらスモーカーに視線を送る。
「……紅茶に、ミルクと小さくしたマシュマロ」
女の好きなものなど知らない。たしぎがオフィスでたまに美味そうに飲んでいるアレンジティーをそのまま言った。店員は「はい」と小さく返事をし、そそくさと立ち去る。女がクスンと鼻を鳴らすような笑い方をした。男の気を引こうとする笑い方であることは明白で、なるほど、とスモーカーは呟きたくなる。――なるほど、練習したんだろうな。男の気を引くために。
「可愛いもの、知ってるのね」
スモーカーに注文をさせたのはわざとだ。それはスモーカーにも分かった。男を「計る」癖があるのか、それとも気取っているのか。スモーカーにとってはどちらでも良かった。見知らぬ女にそこまで思考を巡らせる必要は無い。
「部下の女がたまに飲んでる」
――……そういえば。
ふと思い出した。前触れもなく執務室に来たローに、今これしかありませんから、と言ってたしぎがこのアレンジティーを出したことがある。いつも通り悪態をつきながらも、ローはしっかり飲み干すことによって、美味かった、気に入ったとたしぎに伝え、たしぎは胸を張ったものだ。
「葉巻吸うんでしょ。どうぞ」
「いいのか」
「いいわよ。彼氏も吸うから、慣れてる」
「……どうも」
スモーカーが葉巻に火を点ける仕草をじっと見て、女は何が嬉しいのか笑ってみせた。スモーカーは笑わなかった。
波止場からは海と船が見える。太陽が今にも水平線の中に潜ってしまいそうな中、陽のあるうちにと滑り込む船が数隻目に入った。
「綺麗よね」
「そうか」
「船を見るのが好きなの」
「そうか」
「中将さんは? 見飽きた?」
「家を見飽きることはねえよ」
スモーカーの返答が気に入ったのか、女は微笑んだ。
「いいわね、そういうの。軍は長いの?」
「20年。16の時から」
「本当に長いわね!」
女の驚嘆と、注文の品が運ばれて来るのはほぼ同時だった。店員はスモーカーに何かを言いたそうな顔をしていたが、スモーカーは気付かない振りをする。女はカラフルなマシュマロが浮かんだミルクティに、女性たるものこうあるべきと言わんばかりの可愛らしい態度で喜んでみせた。
「これ、素敵ね。とっても可愛い」
「そうか」
女はそのドリンクがいかに可愛いか、こんなものを注文してくれたあなたがどんなに素敵かと話し始めた。スモーカーはたまに相槌を打ったり打たなかったりしながら、ただ海を見て女の話を聞く。女は決してスモーカーに取り入ろう、あわよくば得な思いをしようとしているわけではないと分かる。ただただ、目の前の男に、ある意味で媚びた話をする癖がついてしまっているだけだ。女性から見れば虫酸が走ると言われて嫌われるかもしれない。男からすれば――反応が分かれるだろうな、とスモーカーは淡々と分析した。苦笑して遠ざける男もいれば、中にはよからぬ方向へ考える男もいるだろう。
「今日は非番なの? それ、私服でしょう。いつものコートと違うわ」
「まあ、そうだな」
「何をしてたの」
「買い物をしようと思ったが、時間がなくなった」
買い物と言うと身を乗り出すのはこういう女の特徴だろう。あなたに興味があるわ、と示すにいは最適の態度だ。水商売とも思えない女がこんな態度を取ることに、スモーカーはいっそ寂寥感を感じた。男ってやつは。そう思ったのだ。――男ってやつは、本当に。クズはどこまでもクズなんだ。
「何を買う予定だったの? プレゼントでしょ?」
「――ふうん?」
「当たり? 奥さん? 恋人?」
「……後者」
「どんな人!」
こんなに素敵な話はないわ! 女は全身でそう表現し、それがスモーカーに哀しいと思わせた。スモーカーは適当にはぐらかそうとしたが、様子を窺っていた店員と目が合い、店員の怯えたような目につい肩を竦める。陽はすっかり落ちて闇を招き、波止場に並ぶ店の灯りがその中に浮かび上がっていた。テーブルのランプが女の白いコートに柔らかい色を与える。
「どんな人? 可愛いの?」
「そういう話は苦手なんだ」
「いいじゃない、いいでしょ?」
女はしつこく、だが男の気を損ねない程度に甘えて身を乗り出す。スモーカーは観念した。
「おおむね可愛い」
「おおむねって? 可愛くない時もあるの?」
「仕事で会うとこの上なく可愛くねえ」
「何してる人なの」
「……船を下りればヤブ医者だ」
「すごい! 女医さんって素敵! わたし、頭悪いから憧れる!」
「女医さん、ねえ」
医者なら俺も女医の方が何かといいな、とスモーカーは素直に思った。スモーカーの知るあの医者は心臓を引きずり出すことが甘える意味なのだから、毎度どうにもたちが悪い。しかも本人は甘えている自覚がないから厄介なのだ。
「付き合ってどれくらい? 結婚するの?」
「結婚――いや、勘弁してくれ」
苦笑を通り越して本気で笑ってしまった。結婚という単語があまりにも荒唐無稽に思えて仕方ない。女はスモーカーの笑いを恥ずかしさゆえのはぐらかしだと思ったのか、それ以上追究しないと言うように、クスンと鼻を鳴らして笑った。
「その人にプレゼントを買う予定だったの?」
「そうだな。ちょっと早いが、来月は忙しい」
神の子の生誕の前後は、一般の職業であれば長い休暇になる。だが軍人はそうもいかなかった。特に海軍は海賊の襲来に備えて通常通りの警備がある。不運にもローテーションに巻き込まれた兵士に付き合い、休暇をずらして出勤するのがスモーカーの毎年の習慣だった。
「いいなあ。そういうのって、いいよね。その人もすっごく嬉しいでしょうね」
「どうだろうな」
そう言いながら、その時の反応が容易に予想できた。もらっておいてやるよと言い、プレゼントに悪態をつき、本当にお前はセンスがねえ、とでも言うだろう。それでも執務室から出ようとはしないで、スモーカーの仕事が終わる時間を待つ。
可愛いの? と女に問われたことを思い出した。ああ、可愛いな、そういう所が恐ろしく可愛い、と改めて思った。
「嬉しいわよ。わたしだって嬉しかった」
「……ふうん」
「このコート、可愛いでしょ?」
着ている白いコートを示し、女は笑う。スモーカーは暫し迷った後、僅かに微笑んだ。肯定されたと思った女は嬉しそうに声を弾ませる。
「先週、彼がプレゼントにくれたの。わたしに絶対似合うからって。お金がないのに日雇いでわざわざ一日働いて」
「ふうん」
「彼、凄いのよ。今はちょっと、仕事を探してる最中なんだけど――とっても頭がいいの。何でも知ってて」
「ふうん」
それから女は自分の恋人がいかに素晴らしいかを語り出す。目の色を変えていると言っても良かった。スモーカーはただ、いかに彼が女を愛しているか、いかに優しいか、彼に選ばれた女がいかに幸せかという話を静かに聞き続ける。そして、ああ、と思う。
――ああ、俺は男だ。この女に何ひとつ共感できやしねえ。
もしも自分がこの女の立場だったら。いや、こんな立場になるはずもない。
もしもあの彼がこの女の立場だったら。いや、こんな立場にするはずもない。
もしも自分が海軍でなければ。普通の男なら。
ああ、それでも――この女に何ひとつ共感できることがない。
ただただ、この女を哀れだと思う。
「そう、それでね。彼、海軍に入りたかったんですって。でも故郷の病気のお母さんが心配で、長く航海に出るのが不安だったんだって」
「ふうん」
「入軍試験の筆記も実技も、とっても良かったんですって。でもそういう理由を上の人に話したら、きみは海軍に向かないから、って理由で落とされたの」
「ふうん」
嘘だ。スモーカーはそう断じた。女の気を引くためにそんなことを言う男は五万といる。どんな理由があろうが優秀な志望者は合格させるし、どうしてもと言う事情があるなら地上勤務にすることも可能なのだ。軍の仕組みを知らない男が、軍に夢しか見ない女に使いそうな方便だった。だがそれを口にするほど、スモーカーは愚かでも冷たくもなかった。
「ほんとに――仕事が見つかれば、良かったんだけど」
「ふうん」
「ねえ」
「ん」
「もし、中将さんがね、軍人さんじゃなくて」
「ああ」
「普通の人で、でも仕事がなかったら」
「ああ」
「恋人さんに、面倒見てもらおうって思う?」
「ヒモになるかならないか、ってことか」
スモーカーが言ったことに、女は自嘲のような笑みを漏らした。スモーカーはその笑みを見ないようにする。
見たくなかった。なぜこの席に座ったのか、後悔した瞬間だった。
「軍人やってなきゃ、会わなかった」
「そうなの?」
「仮定のしようがねえ」
「もしもの話よ」
女は黙り込み、スモーカーの答えを待つように海を見る。闇に覆われた海でも目が慣れれば見えるものだ。冬の気配を含んだ海風に、波が飛沫を上げていた。
スモーカーは女を見ない。見たくなかった。
もしもの話――彼を思い出そうとする。思い出すまでもないことに驚きはしなかった。思い出すまでもなく、彼の仕草や声、怒った顔も嬉しそうな顔も、意地を張る顔も――全て思い出せる。自分の前でしか見せない表情の数々。
どれほど。どれほど、と思う。
「……もし、そうなっても」
あの生意気な口が、あしらわれて悔しがる顔が、ふとした時に見せる年齢よりも幼い様子が、ベッドの中で噛み付く癖が、それでもいつもスモーカーよりも強い男であろうと強がる姿が、
何もかもが、
どれほど、いつからか、
「今のお前さんみてえな顔は、させねえだろうな」
どれほど、いつからか、
いつかは別れなくてはならないと分かっていても、
こんなにもいとしいと思うようになっていたのだろう。
「……そう?」
女の声は震えてはいなかった。暗闇の中の海を見たまま、ただ、静かに言った。無意識に男に媚びる癖をかなぐり捨てたかのように冷たい態度だった。
「わたし、そんなに変な顔してる? 美人じゃないのは分かってるけど」
「今の状況ならまっとうな顔だ。心配すんな」
「今の状況、ね」
女は笑う。あの自嘲だ。
「変な話して、ごめんなさいね。中将さんみたいな人ならどうだろうって、知りたかっただけよ」
「そうか」
「彼がね、もう本当に仕事が見つからなくて――ううん」
女はまた笑う。
「見つける気なんてなかったの、知ってた」
「ふうん」
「でもずっと、探してるけど見つからないって言ってたから」
「ふうん」
「わたしも働いてるから、生活費は何とかなるしね」
よくあると言えばよくあるパターンだ。スモーカーもそういった関係の男女を知らないわけではない。海軍しか知らないが、それなりに世間を知っている。そしてこういう男女は、よく円満とは言えない関係になっていく。
「でもね、彼。もっとお金が欲しかったって言うより――それが目的だったのかしら」
信じたくないけどね。女はそう言って、笑う。スモーカーは笑わない。ああそうだよ、それが目的だったんだ。その言葉は飲み込んだ。
「中将さんなら、言わないだろうなあ」
「……そうだな」
女は笑う。
泣きながら笑っていた。
スモーカーは彼女の顔を見たいとは思えなかったし、見る勇気もなかった。
「言わないだろうなあ」
女は呟く。
泣きながら呟く。
そんな顔はさせないと、スモーカーが言った顔をしながら呟く。
「娼館に知り合いがいるから会ってみないか、なんて、言わないだろうなあ」
素敵な人だったの。女はそう言った。
素敵だったの。とても素敵だった。
お化粧なんて興味なかったし、男の人に媚びるなんて考えたこともなかったの。
でも彼に気に入られたくて。
彼が好きで好きで。
好きだから。
好きだったから。
騙されててもよかったのに、でも。
もう、我慢できなかった。
「中将さん」
「ああ」
「ありがとう。もう行ってくれても大丈夫」
「そうか」
「わたし、一人で行ける。逃げないわよ」
「一緒に行ってやる」
女は笑う。
白い、白かったはずのコートを着ている女は笑う。
愛したはずの男の返り血を、白いコートがまだらに染められるほど浴びた女は泣きながら笑う。
「中将さんが声をかけてくれて、嬉しかった」
「そうか」
「それで充分なの。一人で行ける。迎えも来たわ」
スモーカーは何も答えない。
店員からの通報でやっと到着した警官が、少し離れた場所から様子を窺っていることにようやく気付いた。警官が来るまで女を足止めしておくという緊急の手伝いを、充分すぎるほどに果たせたようだと知る。
「好きだったの」
女が呟く。
「そうか」
スモーカーは答える。
彼を思い出す。
会いたいと思った。
好きだったの。
好きだったのよ。本当に。
女の最後の呟きに、そうか、と最後に答えた。
それしか言葉が見つからなかった。
ただ、会いたいと思った。
宿舎に真っ直ぐに帰る理由はなかった。陽が落ちる前に駆け込みで入港した船を見たからだ。むしろ真っ直ぐ帰ればたしぎに盛大に文句を言われるはめになっただろう。
スモーカーがいなくても、執務室に入り込むことは許している。禁止したところで無駄だ。スモーカーが執務室に着いた時、ローは既にたしぎの淹れた紅茶を飲んでいた。
「顔くらい見せてやってもいいと思って、寄った」
「そうか」
「補給が終わったらすぐ帰るけどな」
その台詞もいつも通りだ。甘い言葉など何も言いはしない。
「じゃあ明日の朝には出るんだな」
ちょっとした意地悪で言った。案の定、ローは言葉に詰まって少し顔を赤くする。スモーカーは笑い、こめかみに口付けて、脱いだコートをコートハンガーにかける。
「船員のリフレッシュが終わるまで、いろよ」
「……そうしてやる」
「嬉しいよ」
いつもは素直に「いたい」と言えないローのために口実を提供しているだけのこの口上も、今日は違った。
「おい」
ローが戸惑った声を上げる。当然だな、とスモーカーは自嘲した。
――俺としたことが、海軍中将ともあろう者が。
「何だよ」
「いや」
抱き締める腕に力を込めた。
「嬉しいだけだ」
会いたいと強く思った時に、いとしい相手に会えた。抱き締めることができた。
嬉しい、と、素直に感じた。
「ロー」
「何だよ」
すっかり調子を乱された声で返事をしながらも、ローは抱き締めて来る男の背に手を回す。少し迷った後、刈り込んだ髪を乱暴に撫でた。スモーカーは少し声を出して笑い、また抱き締めた。
「会いたかった」
「何だよ、気持ち悪い」
「そりゃ悪かった。でも」
会いたかったんだ。
もう一度そう言って身体を離す。ローが難しい顔をして――どんな顔をしていいのか分からなかったから――スモーカーの袖を掴んだ。そして言った
「俺もだ、馬鹿野郎」
会いたくなきゃ、こんなとこ寄るか。
顔を真っ赤にして言うローをいとしいと思うまま、笑いながらまた抱き締める。
会いたかった。幸せだった。
いつかは別れることが、別れなければならないことが分かっていても、こんなにも、ひどくいとしい。
好きだったのよ。女の声を思い出す。
好きだったのよ。
俺もいつか、そんなことを思うのだろうか。
それは不安なのか、哀しみなのか、それとも一種の覚悟なのだろうか。スモーカーにはまだ分からない。
分かりたくもなかった。
今はただ、いとしい、会いたいと思える彼の温もりを感じられることが幸せだった。
それだけでよかった。
好きだったの。
好きだったのよ。本当に。
そうか。
それしか、言葉が見つからなかった。