大丈夫 だいじょうぶ



憧れの人です、という女性海兵は多い。女性海兵と言うより、まだ少女と称されるべき年代の娘たちが口にするようだ。
たしぎ自身や同期の数少ない女性海兵は、少女と称するには歳を取り、女性と自負するにはいまだ青い。この辺りがきっと厄介なんだわ、とたしぎは思っていた。正確に言えば、たまに同期と交流をすると感じることだった。
少女と女性の狭間にいる自分たちは、海軍という世界ではかなりの少数派に入る。腰掛け程度で辞めていく女性海兵はもっと早くに艦を降り、そうではない女性海兵は少女というちょっとした特権のある年代を過ぎ、いわゆるセクハラも乗り越えなければならない立場となり、出世をしようにも圧倒的な男性社会、余程抜きん出た何かがなければ行き詰まる──そんな現実をひしひしと感じ始める頃だった。
たしぎはそんな同期たちの中でも出世している方だ。それまであからさまに手柄と不自由が増える出世を避け、やりたいことだけを自由な立場でやっていたくせに、唐突に出世するぞと言い出した上司に引きずられた一面は否定できないが、それが驚くほどプラス方向に作用している。同期の中には妬み半分、劣等感半分で距離を置く同性も出始めた。それに気づいた時は哀しかったし、仕事のことよりも真剣に落ち込んだものだ。今もまだ完全に気にしないということは難しい。
そんな時、年下の少女海兵がうっとりした顔で口にする言葉がいやに耳につくような気がする。憧れの人です。
それは自分に向けられたものではなくて、必ずあの女性将校の話になった時だ。薄桃色の美しい髪と美しい肌、大変な美女であることは疑いようがなく、いつも熱心な取り巻きの男たちを冷たくあしらい、高飛車な口調で上官にも物怖じしない箴言をし、責任を果たすことに重きを置く能力者。
20年来の同期ということからか、上司と親しいとたしぎは知っている。普通なら海軍のセレモニーで姿を見かけるのが精一杯であるはずの将校だが、特権と言えば特権、上司の執務室で初めて身近で見て、本当に綺麗な人なんだ、とひどく驚いたことを覚えている。そんな彼女に向かってブスと言ってのけた上司にも心底仰天し、この人の感性はどこかおかしいのだ、とやはりその時に初めて思った。
少女たちは彼女を憧れの将校だと言う。美しくて男性顔負けの出世をして、畏怖される能力を使いこなすなんて──きゃあきゃあと口々に騒ぐ姿に違和感はない。自分はそこまで騒いだ記憶はないが、当時の同期たちがよく同じように騒いでいたし、その話を聞いて頷いていた自分の姿も覚えている。憧れている、という言葉は、きっと当時の自分にもあてはまるのだと思った。
それでも少女という年代をいつの間にか終えていた今、それは単なる憧れという言葉で片付けるのは難しい。少女の頃は世界が何と単純にできていたことだろう。
あの女性が美しいのは自信があるからだろうか。仕事ができるから? 功績を残したから? それなら自分だって、彼女には及ぶか分からないが、それなりにきっと美しい(口にすることは決してないが、たしぎはそう思っていたし、その程度の自信は持っても良いと正しい自己評価をしていた)。
そしてもっと長い間、彼女よりも功績を残している女性将校、おつるもいる。確かにおつるも、昔はとんでもない美女だったと聞いた。若い頃は赤犬や黄猿がメロメロでさ〜、取り合いで決闘寸前だったんだよ〜、と、いかにもオッサンが好みそうな表現で教えてくれたのは、上司の上司、氷の男だった。上司はその隣で、ああそういやまあまあ綺麗だったかもな、と言い、お前の美的感覚はやっぱりおかしすぎる、本当におかしいよ、と氷の男に言われていた。
それでも何か違うと思う。彼女とおつるは何かが違う。彼女が年齢を重ねても、おつるのようになるとは想像できないし、おつるがたとえ昔は綺麗だったとしても(今でも綺麗な女性だとは思うが、ある種の格好良さを意識させられる女性であることは確かだった)、今の彼女のような綺麗の種類ではなかったのではないかと思う。
何が違うのか。何が違うんだろう。
分からなかったし、同期の同性に訊いてみても、誰も答えられなかった。そして驚くことに──本当はそれほど驚きはしなかった、女性の集まりはどうしてもそうなってしまいがちだから──彼女に対する非難が同期たちの口から零れ落ちた。憧れの人だったはずなのに、とたしぎは少し寂しく思い、かと言って絶望はしなかった。歳を取って海軍というものをおぼろげに理解して、そして少し絶望しそうになっている。おそらくそんなものを乗り越えて遥か高みにいる彼女を、憧れという幻想細工のような存在から、それなりに血肉を持った、ある種の俗で身近な存在であり、かつ到達するには困難な場所にいる存在だと思う経験を積んでしまっただけのことだ。
彼女に不満を持ったことはないし、同期の同性たちのように非難しようなどとは夢にも思えない。それはきっと、同期たちとは違い、彼女と顔を合わせる機会が多いからだろう。
同期と言えば上司と彼女は同期で、今では全くの誤解だと分かってはいるが、二人は男女の仲なのではないか、むしろなぜ結婚しないのか、と思っていたことがあった。人前で露骨に恋人同士であることをアピールするわけではないが、きつい言葉の応酬はいかにも心を許し合った者にしかできない特別なもので、それでいて上司は決して性的なからかいをすることはないし(彼女の容姿をブスと口にするのは上司にとってからかいではなく本気なのだろうが、彼女はそれに関してはもう諦めているようで、怒る振りをしているだけだとたしぎには分かっていた)、彼女も性的に甘えるような態度を見せない。それなのに並んで歩けば分かりやすく紳士的、かつ淑女的な距離の取り方をするし、これで誤解するなと言う方が到底無理というものだ。それぞれに恋人がいる、と聞いた時は本気で驚いたものだった。その恋人は何度か替わり、そのたびに彼女は自棄酒で酒乱振りを発揮すると有名で、どんな時でも上司が迎えに駆り出されていたものだった。一度など最前線にいた時、今にも敵船制圧のために上司を先頭に全員が乗り込もうとした瞬間、上司の電伝虫が喚き、上司が律儀にそれに応じ、お前ちょっと待て、俺が帰るまで飲みに出るんじゃねえぞ、次の男の目星つけとけ、と怒鳴りつけていたことがあった。本当に変な二人だ、と大事な局面なのに脱力しかけたことを覚えている。
そんな二人の姿をずっと見ているし、彼女だけを見る機会も多い。上司の執務室にふらりとやって来る彼女はいつも美しく、たしぎにも優しかった。その優しさはあくまで「同期の部下」に対するものではあったが、女性同士によくある「女性同士だから仲良くしなきゃね」という、実際は監視と序列付けのためだけの関係を強要されないことがありがたかった。つまりは彼女の優しさが真実のものだということだ。
上司がいない時に来ることもあった。すぐに帰る時もあれば、少し執務室で休んで行くこともある。その時の彼女はやはり綺麗だった。
その日の自分は少しおかしかった、とたしぎは後々になって思う。少しおかしかった。上司が席を外している時にやって来た彼女が、上司のデスクチェアに深々と腰掛け、細い煙草を手にして煙を燻らせていた姿がとても綺麗だと思った。だから言ってしまった。
綺麗ですよね。
彼女は何を言われたのか、すぐに分からなかったようだ。だからたしぎはもう一度言った。
ヒナさん、とても綺麗ですよね。どうしてそんなに綺麗なんですか?
彼女は少したしぎを見詰め、それから、どうもありがとう、と言った。言われ慣れてるんだな、とたしぎは思った。
変なこと言ってすみませんと謝ろうとした時、彼女は言った。
「あなたに綺麗って言われるんじゃ、まだ美しくなれてないみたいね。ヒナ落胆」
「どういうことですか?」
「私、おつるさんのように美しくなりたいの」
おつるは確かに綺麗だったと言われる美女で、でも今は歳を──たしぎは混乱しかける。
「おつるさんは──でも、確かに、昔は綺麗だったって聞きましたけど」
そんなたしぎの混乱は予想済みだと言わんばかりに、ヒナはうふふと笑った。この笑い方は好きじゃない、とたしぎは唐突に思った。胸がざわついたからだ。そのざわつきの感情の出どころの名前は──
「あの人は美しいわ」
出どころの名前。認めたくないと思った。
彼女は言った。
「年齢を重ねれば、綺麗なんてものは損なわれて当然よ。美しさは女を磨かなきゃ手に入らない」
認めたくないと思った。

憧れの人じゃなかったの。
憧れているの。
だから悔しいの。
わたしはわたしが一番でいたいのに、そうよ、女なんてみんな本当はそう思ってるのに、
この人がいると一番でいられなくなっちゃうって分かってしまうから、
だからあの笑い方が嫌なの。
女なんてって思うような女がわたしなんだってこと、教えられてしまう笑い方が嫌なの。

上司が執務室に戻って来て、彼女がそこにいることに驚いた様子もなく、よう、といつも通りの挨拶をする。彼女がうふふとまた笑った。だがそれはたしぎに向けたものとは違う笑い方で、その笑い方は好きだとたしぎは思った。
「ねえ、スモーカーくん」
「ん?」
「たしぎがね、綺麗ですって」
「何を」
「私をよ」
「たしぎ、眼鏡の度が合ってねえぞ。こんなブス」
「あなたねえ」
いつも通りのやり取りで、いつも通りに二人は最後に笑い合う。いつも通りなら自分もそれに交ざっていたと分かっている。
でも今日は交ざれなかったし、これからも今までのような気持ちで交ざれることはないだろうと知った。
そんなたしぎを見て、彼女がうふふと笑った。嫌いな、あの笑い方だった。

(憧れているの)
(だから悔しいの)

(でも嫌いじゃないの、好きなのよ)