今日は深酒というほどの深酒ではなかった。スモーカーが長く足を運んでいるパブ、二人の他には客がいない時間のカウンターで、ヒナはそこそこ行儀よく酔っていた。若いマスターは二人の会話を邪魔することはなく、グラスの面倒を見てくれる。
スモーカーはいつも通り一般人としては過ぎた量の酒を飲んでいても、見た目は酒を飲んでいないかのような風情のままだ。ヒナでなければ、あるいはここにはもういない、スモーカーをよく知る氷の男や、それから海賊となった男でなければ、今夜の彼は随分と酔っているということに気付かなかっただろう。
気付いたヒナは少しばかり悪戯心を出す。普段のスモーカーであれば鼻で笑って回答を拒否するような質問をしようと思ったのだ。
「頭に、I’m drunk(俺は酔ってる)、ってつければいいわ、ヒナ期待」
「はあ?」
「練習。どうぞ。俺は酔ってる」
「俺は酔ってる」
笑いを含んだ声で復唱したスモーカーの様子に、ヒナは勝利を確信して微笑んだ。カウンターの中の若いマスターはスモーカーのグラスの中身が少なくなっていると知り、面白そうな話が始まる前に声をかける。
「中佐さん、次は?」
「中将だ。任せる」
「はい」
「彼女にチェイサー」
「あなたもね」
「いらねえよ」
「100ベリー。今日は客が少なくてね」
「言うだけマシだな」
「ありがとう」
スモーカーを中佐の頃から知っているマスターは、二人の前に100ベリーの水を置いてから新しいカクテルを作り始める。
「で、何だって?」
「たまにはのろけてもらおうかと思って。好きなだけのろけてちょうだい、ヒナ親切」
「何言ってんだ」
「だってスモーカーくん、恋人のこと、全然のろけないじゃない」
「──いや、相手が相手だし」
「歴代全部よ」
まだ子供の頃からの腐れ縁だ。スモーカーの恋人はほぼ全員見ている、知っている、話したことがあるという自負があるヒナは、逃げようとしたスモーカーにぴしゃりと言った。
スモーカーは公務を離れれば、それなりに恋人に甘い男だ。それなりという言葉では控えめだ、と、ヒナやたしぎのように近い場所にいる者が言いたくなる程度には甘い。
だが第三者に積極的に恋人の話をすることは滅多にない。心を許した者に一言二言、たまにぽつりと言う程度で、じっくりと聞かされた者はまずいないはずだった。
「どこがいいのよ?」
「何がだよ」
「俺は酔ってる。おっしゃい」
スモーカーは苦笑し、諦めたのか、それとも酒の力が勝ったのか、投げやりに言った。
「俺は酔ってる」
「そうよ。で、どこがいいのよ、あの豆大福ちゃん」
「そうだな」
残りが少なくなったグラスを揺らす。溶けかけた氷が緩慢な音を立てて崩れた。
「俺の機嫌を損ねることを異様に怖がっているのがいいな。妙な言い方だが」
「あら、やっぱりそうなの」
「分かるか」
「分かるわよ。スモーカーくんに我がままや強気なこと言ったって、完全にスモーカーくんの意見を拒否することがないじゃない」
「目じりの皺の数と年の功ってのは比例するもんだな」
「ちょっと」
「俺は酔ってる」
たちまち眉を跳ね上げたヒナを見て、くすくす笑いながらすかさず口にする狡さに、本当にこの男は酔っているのだろうかとヒナは溜息をつきたくなる。
「嫌な免罪符を設定しちゃったわね、ヒナ後悔」
「どうもありがとう」
「馬鹿にして。──いいわ、じゃあ次」
「ふうん?」
「どこが好きなの?」
「さっきの質問とどう違うんだよ。水を飲め、水を。お前は酔ってる」
「そこまでじゃないわよ」
言いながらも、ヒナは水の入ったグラスをきゅっと空ける。見ない振りをしてしっかり様子を窺っていたマスターが動きかけたが、スモーカーが自分のチェイサーグラスと取り換えたことが分かり、また自分の作業に戻った。
「豆大福ちゃんの好きなところをどうしてもひとつだけ言うとしたら。ってことよ。どんなとこ?」
「──なるほど」
「難しいでしょうけど──」
「簡単だよ」
あっさり言い、スモーカーはグラスを傾ける。溶けた氷の味しかしなかった。
「俺と別れることを全く考えてないのが、可愛い」
ヒナは体内のアルコールを忘れ、まじまじと隣に座る腐れ縁の男を見た。視線に気付いたスモーカーは葉巻をひとくち吸い、ふっと煙を漂わせてから、俺は酔ってる、と言った。嬉しそうな声だ、とヒナは思った。だから言った。
「嬉しそうに言うものね」
「そうか」
「そうよ」
「俺は酔ってる」
「あら、そう?」
「ずっと誰かに言いたかったのかもな。それが可愛くて可愛くてたまんねえ、って」
少し黙ってから、ヒナは言った。
「酔ってるわね」
「そうだな」
「私も酔ってる」
「そうか」
「酔ってるから訊いちゃうけど」
「ああ」
「愛してるの?」
少しの間もなかった。
「愛してるよ」
ああ、とヒナは思った。
真実だ。
彼は息をするように真実を吐いた。
「愛してるのに、別れが前提なの?」
「そうだ」
「今までの恋人も、全員そんなことを考えていたの?」
「いいや」
スモーカーの声は穏やかで、それでいて楽しそうだった。彼は今本当に楽しい、恋人の話ができて嬉しいのだ、となぜかヒナは分かった。
「俺は今の立場を捨てる予定はねえし、あいつも最終的には俺と対極に戻る」
今は政府が許可を与えているという、海軍に生きる者としては最大の理由がある。だから共にいる。それはヒナも分かっていた。だからって、と思った。
──だからって、そんな考えであの子といるなんて、それは──ねえ、スモーカーくんそれは──
「スモーカーくん、そんなの、いくらなんでも──」
「俺は酔ってる」
思わず強く言いかけたヒナを明らかに遮るために、スモーカーはそう言った。ヒナは黙るしかなかった。
「いつか、俺の知らないところで、俺の知らない誰かを好きになる。また恋をする」
それでいいの、とヒナは問いたかった。だがスモーカーが続ける言葉を遮ってはいけないような気がした。
きっと二度と、スモーカーは同じことを言わない。
今だけだ。今この瞬間、酒の力を借りた振りをして、ただ一度、あの彼との恋の話をしている。
「また恋をして、誰かと愛し合えばいい」
その言葉を紡ぐスモーカーの声は甘く、心から愛しい恋人の話をしているものだった。いつか別れることを悲嘆などしていない。その先にあるかもしれない、恋人の新しい恋に嫉妬する様子すらない。
そして言った。忘れない、とヒナは思った。
忘れないだろう。
「俺の手が届かない場所で」
忘れないだろう。
「誰かと愛し合えばいい。──俺のことを愛したままで」
本当に、心の底から、いとしい愛しい恋人との未来を語る男の横顔を、忘れられないだろう。
「スモーカーくん、本当に」
「うん」
本当に。
本当に、彼、あの子、
恋愛だけはふつうの、ふつうよりも臆病なあの子、
「本当に、その恋愛観」
とても愛されて、
とても愛して、
そして、
「異常だわ」
可哀想な、恋をしたわね。
「ヒナ」
「なあに」
「忘れてる」
「何を?」
「” I’m hammered (私はひどく酔っ払っているの) ”」
ヒナは黙った。スモーカーも黙り、葉巻の煙を燻らせる。
見計らったのか、それとも単なる偶然か、沈黙を破るようにマスターがスモーカーの前にグラスを置いた。
無骨な指が持つに相応しいロックグラスの中に、丸い氷と尖った味を想像させる琥珀色が漂っている。無言で手に取り、試すように唇を湿らせて、ようやくスモーカーは沈黙を抜け出した。
「スコッチと──珍しいな。カカオとシナモン」
「当たり」
「名前は?」
カクテルの名前を問う。マスターはにこりと笑った。
「エゴイスト」
「──I’m hammered!」
笑いながら半ば叫んだのはヒナだ。スモーカーは肩を竦め、今度はくいと一口楽しむ。
「美味いよ」
「それはどうも」
「彼女にもう一杯。任せる」
「お酒はもういいわ、チェイサーを頂戴。氷を目いっぱい入れて、うんと冷たいの」
マスターが返事をする前にヒナは言った。
「もうたくさん、うんざりよ」
何に、とは言わなかった。
スモーカーはグラスを目線の高さに掲げ、ヒナに向かってにやりと笑い、そして言った。
「I’m hammered」
嘘ばっかり。
呆れ果てた振りをしてヒナがそう言うと、マスターは僅かに笑い、スモーカーは涼しい顔でグラスを傾けた。
いつか、俺の知らないところで、
俺の知らない誰かを好きになる
また恋をする
俺の手の届かない場所で
誰かと愛し合えばいい
俺のことを愛したままで