同じ海の上にいるのだから、逢おうと思えばいつでも逢える。──などと言うのは所詮何かの物語で、それこそ女子供の好むような小説に多い考え方だ。実際は海賊と海軍、しかもどちらも世界的に重要視される立場であり、それなりに(特にスモーカーは)どうしてもこなさなくてはいけない仕事がある。逢おうと思えば? 冗談だろう? 大体俺は陸上勤務ばっかりなんだ、同じ海も何もあったんもんじゃねえ──泣く子も更に泣く強面が眉を顰めて言う程度には、逢瀬が不自由な恋愛をしていた。
だからいざ逢って二人きりになれば、互いの部下には見せられないような、極限まで甘い時間だったり、限界まで時間を共有しようとしたり、とにかく二人で特別な瞬間を過ごしたがる。そこは年齢や経験の差かもしれないが、ローの方がより熱心に恋愛ごとをこなそうとした。スモーカーは年下の恋人のしたいようにさせることがほとんどで、自分から何かを提案することが少なかった。
「たまには──ふぁ」
久し振りに顔を合わせた夜、それなりに(きっと彼らを知る人々の想像以上に)甘い時間を過ごし、目が覚めたのはいつもよりだいぶ遅い時間だった。ブランチと呼ぶには早いが、朝食と言うにはやや遅い食事をだらしなくポーチで待ち、それでもまだ眠いローは、たまには、と言いながら欠伸をしてしまった。海風が気持ちいい。船の上でも当たり前のように感じる風だが、陸で感じるものはまた違うのだ。海軍中将の入る借り上げの家だけあって、(スモーカーに言わせれば)無駄に広く、そしてローにとってはそこそこ嬉しいことに、外からポーチが見えない造りになっていた。
「何だ」
洒落た盛り付けなど無論ローは期待していない。予想通りスモーカーが準備した朝食は素っ気なく、いかにも適当に選んだ皿と、紙袋に入ったままのフルーツと、新聞紙に包まれた丸々一本のバケットが無造作にテーブルの上に置かれた。
「たまにはお前が決めればいいのに、って」
「何の話だよ」
問いながら、スモーカーは再び家の中に消えて行く。ローは紙袋の中に手を突っ込み、選ぶでもなく、一番最初に掴んだオレンジを引っ張り出した。皿と一緒に運ばれていたナイフで適当に、だが流石は外科医と言われるような器用さで皮を剥き、一房口に入れて寝起き一番の水分と糖分を味わう。昨夜は随分酒も飲み、起きた時には明らかに水分が不足していた。新鮮なフルーツの瑞々しさと栄養素を、身体中がこの上なく歓迎するのは当然だ。
「で、何の話だ?」
今度は牛乳と水、コップが載ったトレイを手にスモーカーが戻ってきた。ローが剥いておいたオレンジを一房つまみ、グラスに牛乳を注ぐ。ローはそれに水を加え──陸にいる船乗りにはままある行動だった──スモーカーも同じことをした。
「いつも俺が決めるから。何をしたいとか、行きたいところとか」
「希望がある奴が決めるのが一番だ」
「出世しねえ中間管理職みたいなこと言うんじゃねえよ」
バケットを上品にスライスするという意識のない男二人は、男ならではの指の力にものを言わせ、適当に千切ってかじりつく。もぐもぐと口を動かしながらもごもごと何事かを呟いたローがぱちりと指を鳴らすと、オレンジの皮が消え、大雑把に薄い紙に包まれたチーズの塊が現れた。
「棚の中に入れっぱなしだった。よく場所が分かったな」
「前に来た時に見た」
以前スモーカーが少し食べた後、適当に包んだのか、包み切れていない部分が乾いてしまっていた。そこを指で不作法に千切り、捨てると思いきや、ローは口の中に放り込む。スモーカーが苦笑した。
「せっかく陸にいるのに、そんなものを食うな。柔らかい部分にしろ」
海に出れば食料は想像以上に重要で、少しの無駄も許されない。乾燥して堅くなってしまったチーズも当然食べるべきものだ。だからスモーカーは、陸にいる時くらいはそんな部分は捨てていいと思う。ローは奥歯にこびりつくような乾燥しきったチーズの感触を楽しむように笑い、マナー違反を承知で飲み込まずに言った。
「癖になるんだ。くっつく感じが面白くて」
スモーカーが肩を竦め、紙袋からキウイを取り出してナイフを持ち、しかしその後、少しばかり悪戯げに言った。
「実は俺もだ」
「そうじゃないかと思ってた」
「本当かよ」
「本当だ」
会話を楽しむための白々しい嘘をついたローは笑い、堅いチーズを飲み込む。スモーカーも笑ってナイフを動かす。ローは早速手を伸ばし、剥いたスモーカーよりも早く口に入れてしまった。どうしようもねえクソガキが、と怒った振りをしながらスモーカーは紙袋にまた手を突っ込む。
引き抜かれた手にはレモンがあった。ローは思わずキウイをぐっと飲み込み、「縦!」と、菓子を見つけた子供のような声を出してしまった。スモーカーが口元を緩める、つまりはスモーカーにとって恐ろしく可愛い恋人の姿だ。船乗りにとってレモンは格別の菓子だった。海上では命を繋ぐこともあるほど重要な栄養素を含んでいることも、誰もがレモンを愛する理由だった。長い航海になると、港に着いたら真っ先にレモンをかじるんだ、と言う船乗りもいる。スモーカーも長い航海任務中には、必ずと言っていいほどこのフルーツを思い起こしていた。
「だからさ──うう」
希望通りの形に剥いてもらったレモンを早速かじり、ローは酸味に悶絶しながら話を再開する。
「酸味が強すぎたか」
「これくらいがちょうどいい。だからさ?」
「ああ」
「たまには俺じゃなくて、お前がさ。何か決めてみりゃいいんじゃねえ?」
「──俺が、なあ」
「行きたい場所とかさ」
「行きたい場所。なるほど、──どこかに行きたい」
「馬鹿か」
海上ではあまり食べない新鮮なフルーツを好きなように好きなだけ食べ、だらしなくバケットをかじり、そのままでは海の人間には味が強すぎて水で薄めた牛乳を飲み、わざと堅いところを選んだチーズを舐める。昼なら少しばかり、軽めの酒が欲しくなったかもしれない。海風と共にだらけきった時間が、外界から遮断されたポーチを通り過ぎる。互いに口にするわけではないが、互いに心地よいことは分かっていた。
「急には思いつかねえが」
「そりゃそうだろうけど」
「お前と、どこかに行くのは悪くねえな」
ローは答えない。正確に言えば答えられなかった。難しい顔をして照れた感情をごまかし、紙袋に入っていたネーブルを投げる。受け取ったスモーカーは涼しい顔で皮を剥き始めた。
何度言われても、何度されても、スモーカーの突然の愛情を示す言葉や態度に咄嗟に上手く対応できない自分が嫌になる。もっとスマートに、そうだ、スモーカーが惚れ直すくらいの洒落た返しができればいいのに。
「まあ、まだ午前中だ。ゆっくり考えてもいいだろ」
「まあな」
「その間にお前が行きたい場所を思いついたら、そっちでいい」
「それじゃ意味ねえし」
「ふうん」
ネーブルを削ぐ要領で一口分を切り取り、ナイフから滑らせるように器用に口に入れる。水分の多いネーブルはスモーカーの口元を妙に濡らし、寝起きのままのラフな髪型やリラックスした表情も相俟って、ローにはひどくセクシーな姿に見えてたまらない。異性だけが性的対象になる人間からすれば理解できない感覚だろうが、とにかくローにとってはたまらない姿なのだ。
本当に、とローは思う。──ああ、本当に、俺はこいつが好きなんだなあ。世界で一番格好良くって、セクシーに見えてたまんねえ。
「ロー」
「うん」
「ネーブルは」
「いらねえ。お前食って」
「何で」
「見ててえの」
文法としてはおかしな言い回しで、どこか子供じみた甘え声になったローに、スモーカーは薄く笑った。ローも笑った。ああ、俺は甘やかされている、と感じる瞬間で、そして何よりも嬉しい瞬間だった。──だってそうだろう、こんなふうに甘やかす笑い方を向けてもらえるのは俺だけなんだから。
「白猟屋」
「何だよ」
「やらせろ」
「食ったらな」
「早く」
スモーカーは笑い、今度はネーブルに丸ごとかじりついた。
酒の入っていた昨夜よりは手短に、でも昨夜よりは随分とじゃれ合うようなセックスを楽しめば、時間は正午に近くなる。やがて港町の教会が昼の鐘を鳴らすだろう。
ベッドの中で怠惰に、どうでもいい話をしたり、焦らなくてもいい沈黙を楽しんだり、二人以外には無意味な時間が過ぎていく。どこへ行こうか、と何度かローが問い、そうだな、どこかへ行こう、とスモーカーが返事をする。眠くなりそうだったので適当に服を引っかけてまたポーチへ出て、だらしなく散らかしたままだった食事の残骸を片づけ、風通しのいいリビングでコーヒーを飲む。どこへ行こうか、とまたローが問い、そうだな、どこへ行こうとスモーカーがまた返事をし、教会の昼の鐘を聞いた。
またどうでもい話をして、たまにキスをして、コーヒーに飽きたスモーカーはウイスキーと混ぜ合わせてしまう。オヤジくせえんだよと馬鹿にしながらローも同じことをした。
どこへ。そうだな。何度も同じことを言いながら、やはりどうでもいい話ばかり。余ったフルーツをワインに漬け込んで、それでもどうでもいい話ばかり。どこへ。そうだな。そういえばこの間。本当か?
風通しのいいリビングだ。ポーチも庭も、どこもかしこもきれいな海風のにおいがする。この家は好きだ、とローは思った。ここでふたりきりでいられることがとても嬉しい。
静かだな、と思っていたら、珍しくスモーカーがソファにもたれて居眠りをしていた。いつもはローがよく寝てしまうため、居眠りをするスモーカーを見るのは珍しい。
疲れてるのかな。それとも風が気持ちよかったのか。ローは考える。そして嬉しくなる。──ああ、俺といても寝るんだ。それなのに俺は全然寂しくない。とても嬉しい。
起こす必要もなく、普段はあまりまじまじと見る機会のない寝顔を眺める。キスをしたくなったので、起こさないように最新の注意を払って、誰もいないのに周囲を窺って、ようやく目の下にキスをする。
リビングのテーブルに無造作に置かれていた本は法律についてのもので、軍法会議のケースについて書かれたページに栞が挟まっていた。読むともなしに読み始めると案外面白い。字を追っているうちに時間を忘れた。
少し陽が傾く頃、スモーカーが目を開けた。長く寝たか、と眠そうにローに問い、そうでもねえ、とローが真実より体感を答える。
「面白いか?」
ローが読んでいた本を見て、スモーカーが意外そうに言う。まあまあ、とローは答えた。
「でも、お前が軍法会議にかかる予定があるとは知らなかった」
ローのそれは冗談のつもりだったが、スモーカーは息を吐く。
「俺じゃねえ。部下だ。弁護するんだよ」
「へえ?」
スモーカーはそれ以上語らなかったが、何か面倒があるのだということはローも分かった。ここで追求すればこの時間が終わる、あるいは少し変質することも分かった。だから追求しようとは思わなかった。
「いい結果になるといいな」
それで話を終わりにすると、そうだな、とスモーカーは答え、ローの髪にキスをした。
「出かけるって時間じゃなくなったな。どこかで晩飯が精々だ。悪かった」
「まあ、いいんじゃねえの」
「お前も起こせよ」
「いや、楽しかったし、いいかなって思って」
「はあ?」
「ここでいい」
どこかへ行こうと聞いたのは、そのどこかがきっと楽しい場所になると思ったからだ。ただそれだけだ。二人で楽しい場所に、スモーカーが行きたい場所に行きたかっただけだ。
どこへ。そうだな。どこへ? ほら、楽しかった。どこへ、そうだな、言いながら何をしただろう。他愛ないことだ。何を話しただろう。どうでもいいことだ。それが楽しくて仕方なかった。
スモーカーが眠っても寂しくなかった。自分の前でも気を抜いて(抜いたのだろう、とローは思う)、眠ってしまったことが嬉しかったし、寂しいと思わず、眠っていてもふたりでいるということを実感できたことが嬉しかった。
「ここで?」
「ああ、ちょっと違う、ごめん」
どこへ、そうだな、どこへ。
楽しかった。嬉しかった。
「ここがいい」
他愛なく、どうでもよく、それなのに楽しい、ここがいい。
ふたりで楽しい場所に。
嬉しい場所に。
どこへ行こうか。どこかへ行こう。
ここがいいんだ。
ここが、どこかになっていた。