One Sweet Day



 何ひとつ音がしない。深い眠りについていると勘違いできるほどの静寂は一切の音がしない。無音の世界を初めて経験しているような気がする。身を寄せている男の身体のぬくもりと鼓動がなければ、きっと上下も分からないほど重く静謐な世界にすべてを飲み込まれていただろう。
 雪洞で時間を過ごす。それだけの時間だ。キリコが少し出掛けると言ったから、どこへ行くのかと訊いた。山で1泊するとだけ聞き、じゃあわたしも行く、と言ったら苦笑された。それでも結局連れて来てくれた。
 身動きをする衣擦れの音すらにも違和感を覚えるほど、ここには音というものがない。ただ目を閉じて呼吸する。それだけで時間が過ぎていく。雪洞の中の防寒は完璧を超える完璧さで、寝心地と空気の清涼感はほかの場所では味わえない。2人用のシュラフに
 そしてこの静寂も、きっとこの雪洞の中か、それとも海の底のどちらか、それほどに人間の世界から離れた場所にしか存在しないだろう。
 時間はもう真夜中だ。雪洞の壁を掘って作った棚に置いたキャンドルランタンの明かりが柔らかな橙色の光で空間をあたためている。ダウンで作られた2人用のシュラフは想像以上に柔らかく雪で覆われているはずの地面からの寒気を遮断してくれていた。
 抱いてくれているキリコは眠っているのか、起きているのか、BJには分からなかった。どちらでも良かった。目を閉じて穏やかにゆっくりと呼吸を繰り返し、腕の中に自分を入れてくれているだけであたたかかった。
 どうしてこの場所に来たがったんだろう、と思ったが、わたしも行く、と言った時、苦笑しながらも拒否はしなかったことがすべての答えなのだろう。
 ここは静謐だ。あまりにも静かだ。

 何もない。何ひとつ存在を感じない。
 常に付き纏う死のにおいがない。
 常に逃げられない生命の声が聞こえない。

 認めていいのかは分からない。だがそれを思うことによって後ろめたさを感じる必要はなかった。少なくともこの場で、同じ空間の共有を許した男と2人でいる今、その感情は後ろめたさではないのだと決めた。そう決めて、ああ、何を思ったって誰も分かりはしないのだから、そう決めてもいいじゃないか、と不意に思った。それほどここには誰もいないと感じた。自分を抱く男の腕のあたたかさと鼓動だけがあればいいとまで思った。
 何もない。
 付き纏う死のにおい、逃げられない生命の声。
 それは希望に繋がるにおいと声だ。よく分かっている。1度としてその生命から逃げようなどと思ったことはない。死から目を背けようと思ったことはない。
 それでも思うのだ。今だけは思っても許される。
 誰もいない。
 何もない。
 ああ、わたしは、
 わたしたちは、いま、

 生命のいとなみから解放されている。
 生命のいとなみの糸を握る時間から解放されている。
 それはいつでも生命を謳歌する喜び、別れかたを決める快味の時間、それでも時として糸が切れてしまう、糸を導く方向を誤ってしまう、ああ、わたしたちは万能ではないくて、ぜんぶできる、なんだってできるわけじゃないんだと思い知らされる時間から。

ただただ、わたしとあなた、2人きりの静寂の中で、常に忘れられない生命のいとなみから、今だけは解放されている。
 いつだって生命とともに歩もう。これからもそうだろう。後悔することもないだろう。ああ、決して後悔しない道だ。わたしたちが生きる道だ。

 それでも今は、いまだけは、
 わたしとあなたしかいない静寂の空間のなかで、何も感じないで、まるで世界にはわたしたちしかいないような錯覚の中で眠るのもいいじゃない。

 キリコが少し疲れていることは分かっていた。だから一緒に行くと言った。疲れてるくせに一緒に行っていいの、と道中に言ったら、そうだね、おまえも疲れてるからちょうどいいだろうね、と言われた。そうかな、と思ったが、きっとそうなのだろうと静寂の中で知った。信じられない静寂がすべてを遮り、ああ、日常のすべてを遮断するとこれほどまでに静かなのか、と思った。キリコの腕のあたたかさと鼓動しかいらないとまで思った。
 雪洞の外は少し吹雪いている。明日の朝は入り口を内側から掘ることになるだろう。そして入り込む朝陽の眩しさに目を眇め、きっと言葉を失うほどに美しい雪山の夜明けを見るのだろう。シュラフに入る前、その美しさを語ったキリコにぎゅうとしがみつくように身を寄せる。静寂を穢すような無粋な衣擦れの音が嫌だったが、キリコの腕に少し力が入った。
 生命のいとなみから解放されていても、この腕の持ち主の生命からは解放されないのだ。そう思った。それが幸せだった。今のわたしを繋ぎ止める生命は、今はこれだけでいい。そう思ったし、それが幸せだった。この夜が過ぎればきっと愚かなことを考えたと思いそうだったが、──それならわたしは愚かでいい。夜が過ぎたわたしはきっと愚かなわたしを笑わない。
 すべての生命が沈黙する静謐に似合うような静けさで、唇が重ねられた。柔らかいキスはやはり静寂に相応しい静かなもので、静かに、そして深く重ねられてゆっくりと離れていった。
 不意におかしくなった。キリコを笑ったわけではない。それでもおかしくて、僅かに唇を笑いの形にした。気付いた男は優しく笑い返す。それが嬉しくて、また静かに唇を重ねた。
 おかしくなった。ここでできないことなんてきっと何もない、と思ったからだ。
 ここではなんだってできるんだ、わたし。
 だってここでできることなんて、キリコと一緒に静かに眠って、キリコとキスをするだけ。
 ほかになんにもない。
 ぜんぶできる、なんだってできるんだ、わたしたち。
 面白いことに気付いて、キリコに話をしたかった。だが静謐とあたためられたシュラフの空気、そしてキリコの腕のあたたかさと鼓動があまりにも気持ちよくて、いつの間にか待機していた睡魔を受け入れてしまっていた。

 わたしたちはいまだけ、生命のいとなみから解放されている。
 あなたとわたしの生命以外のいとなみから。

 明日からはまた生命のいとなみの糸を握る。
 それでも今は、あなたとわたしの生命だけしか存在しない静謐の中で、ぜんぶできる、なんだってできるよろこびに浸りながら、ふたりきりで眠るのだ。