電話が減った、と急に気付いた。俺から電話をすることも多いが、あいつからかかってくることも多い。どちらかと言うとあいつからの方が多いはずだ。顔を合わせない日、大抵はお嬢ちゃんが寝た後、短くても一日に一度は話をする。
互いに仕事が入っていない時の決まりごとのようなものだが、別に絶対的なルールってわけでもないし、そもそも恋人同士なら一般的なことだろう。
そう言えばここのところ、俺からかける方が多い。不満でも何でもない。単なる事実としてあいつからかけてこなくなった、それだけの話だ。言動に電話を嫌がるものはないし、電話に出れば相変わらずの態度だし、要は相変わらず可愛い、まあそういうことだ、取り立てて考える必要もない。
……と、思っていたんだが、ここ半月ほどは様子が違う。いや、相変わらず可愛いんだ、それは確かだ。都内や近郊で仕事の時は俺の家に寄ることがほとんどだったが、ここのところは自宅に直帰している。お嬢ちゃんが寂しがらないようにしているなら良いことだ。それでも俺に一言もないのか、と思ったのは確かだ。こっちだってそのつもりで外出の予定を立てたりしているわけだから、一言くらいあってもいいだろう。
「マフィン、いい?」
崖の上の家に行った時、BJだけを客間(実質的に俺の部屋)に呼んだ。お嬢ちゃんとユリとの昼下がりの女子会の前に簡単に話しておきたかった。どう考えたって大したことじゃないし、毎晩の電話で軽く話してもいいんだが、BJの性格上、恋愛関係の話はできるだけ顔を見てした方がいいことも分かっているので仕方ない。ほとんどの男は面倒な女だと評するだろうが知ったことじゃない、面倒も含めて可愛いから問題ない。
「怒ってないし、怒らない」
ベッドに並んで座り、先に宣言する。俺と恋人同士としての問題を話し合う時、話の大小に関わらず必要な宣言だ。いつか不要になればいいんだが、俺の感触としても、心療内科的な見地からしても、BJにとってはまだ少し時間が必要な項目だと思う。
「そういう話?」
隣で軽く息を吐いた──俺が過去の男じゃないってことに安堵した吐息だ──BJの手を握り、俺は頷く。
「大した話じゃない。すぐ終わる」
過去の男に植え付けられた女の恐怖感はそう簡単に拭えない。こいつだけじゃない、どんな女性でもそうだ。それくらいDVってものは根が深い。
「いや、本当に大した話じゃないんだ。電話の件で」
「電話」
BJがちらりと俺を見上げた。心当たりがある仕草だ。なるほど、意図的にやっていたわけか。
それはそれで可愛い──愚かと言わば言え。俺は愚かで構わない。もし意図的──駆け引きのつもりだったとしたら恐ろしく可愛いじゃないか。こいつが、あのブラック・ジャックが女の常套手段を取るなんて。
よくある手段だろう。急に接触を減らして相手に気を持たせる。俺はそんな女を過去によく知っているし(こいつには死んでも言わないが)、世の中で恋愛を楽しむ男たちのほとんどだって知っている。
だから俺はつい笑った。BJが訝しむ顔になる。ごめん、と謝っておく。
「ごめん、ちょっとね。可愛いと思っただけだ」
「──馬鹿じゃないの」
「馬鹿で結構。急に電話がこなくなったから、おまえを思い出す時間が増えたような気がしてね」
「え、──それは、……そっか」
BJはうつむき、うう、と呻いた。少し顔が赤くなる。いつまで経ってもこんなことに慣れない女が可愛くてたまらない。
話が終わったらすぐにキスをしようと決めて、俺はさっさと話を進めた。本当に簡単な話だ。そのつもりで家にいる日もあるんだし、来ないなら連絡をくれよ。言いたいことはそれだけだ。分かった、そうする、という程度の答えしか予想してなかったし、その程度しか必要がない話だ。
だが不意にBJが小さな声で「ごめん」と言って俺を驚かせた。
「いや、謝ることじゃない。ただの連絡だ」
「そうだけど、──うん、ごめん、分かった。これからはそっちに行く時だけ電話するし、あんまり行かないようにする」
「そうじゃなくて──ちょっと待とうか。もう一回話そう」
何言ってんだこいつ、焦るな俺、と自分に言い聞かせながら物分かりのいい年上の恋人の顔を保つ。おそらく成功している。安楽死の患者の前で穏やかな顔を貫くことに比べればどうってこと──いや、正直に言うとこっちの方が案外難しい時が多かったりするんだが、ともかくそれはそれで話を続ける。
「来てくれていいんだ。おまえが来ると嬉しいのはいつだって本当なんだから」
「そう?」
「嬉しいよ」
握っていた手を離して肩を抱く。どうした、なぜいきなりネガティブモードになってるんだ、おまえ。このまま進むとお得意の「どうせわたしなんか」モードに入るパターンが見える。それはまずい。今日はお嬢ちゃんもユリもいる。この後は楽しい気分で楽しい女子会に合流するべきだ。
「ただ、来ると思ってたのに来なかった時、寂しいんだよ。最初から分かってればまだましだろう。そういう話だ、おまえを責める話じゃないのは分かる?」
「でも」
「うん?」
「迷惑だったわけだし」
「迷惑じゃない。──そうだな、電話が欲しいんだ、それだけだよ。おまえの声が聴ければ、おまえが来なくてもその日は我慢できる」
額を合わせるとBJは唇を噛み、それからしばらくして小さく頷いた。そうする、と呟いた声で、俺はこの話を終わりにすることにした。予定が狂った。まずいな。このままさあ女子会へ合流だという気分じゃないだろう。
「もう終わり。聞いてくれてありがとう。気分転換に散歩でもする?」
この家の「散歩」は崖から浜辺に降りて少し歩くことだ。もちろん俺もそこでBJを少し可愛がらせてもらう。こいつも二人で散歩をするのが好きなのは知っているし、気分転換にはもってこいだ。
だが今日のBJは普段よりも複雑だった。首を横に振り、少なからず俺を驚かせた。
「しない」
「俺はしたい。付き合って」
「夏の昼間の海は目が痛いって言ってたくせに」
確かにそうだ。人種的な虹彩の都合で、昼間の海面を反射する光が痛い。だからもっぱら散歩は夜だが、構わないよ、と俺が言う前にBJは立ち上がった。
「行かなくても平気。ありがと。これからちゃんと電話する」
「──分かった、ありがとう。俺も仕事の時はできるだけ電話はするから──」
「別にいらない、手間だろうし。キリコが家にいなかったら仕事ってことだから分かる」
「ちょっと──そうだな、もう少し話そう。ここじゃ駄目だ、テラスで」
「必要ないし、もう話は終わりだと思うけど?」
明らかにBJがおかしい。普段と違う。俺は顔に出さないように気を付けながら記憶の図書館の棚を全速力でひっくり返す。項目は過去の女のパターン。脳内を覗かれる装置が開発されたら全力でぶち壊さなくてはならないパターンであることは認める。どのパターンだ。──ヒット。まさか。いや、これはないだろう。だがこれしか俺の記憶の中に凡例がない。
凡例より抜粋。俺には理解し難い原因──しかもおそらく俺のせい──があって怒っている。だが俺には心当たりがない。つまり面倒くさいパターンである。
「マフィン」
「うん」
「何を怒ってる? 分からない、教えてくれよ」
「怒ってる? わたしが?」
BJが目を丸くした。本気で驚いた顔だ。外れたか。
「怒ってないよ。キリコこそ──」
「怒ってない、怒るような話じゃないし、俺はおまえに怒らないって決めてる」
「あのダサい機械を壊した時は滅茶苦茶怒ったくせに」
「ダサいって言うな。あれは医者として怒る。おまえのパートナーとしては絶対怒らないって話だ」
「何が医者だ、この──」
人殺し、って言葉を予想する。不本意だがこの場合は許そう、下手に原因が分からないまま怒り続けられるより、一度別件で興奮させた方がいい。宥めた後に改めて話をする機会を作りやすくなる。でもダサいって言うな、正直言ってセンス皆無のこいつに言われたくない。
「……何でもない」
予想した言葉は飲み込まれた。俺は溜息を隠す。BJは俺が何かを言う前に部屋を出ようとし、俺にやや慌てて手を掴ませるはめになる。何でもないってば、と手を振りほどこうとするが、それが単なるポーズだと分かる程度には力が入っていなかった。
「マフィン、──クロオ、ちゃんと話そう。何でも聞くし、何でも話してくれよ」
「わたしの話なんて聞いても仕方ないよ」
「いつもは話すのに?」
「キリコの話の方が面白いし」
「そんなことないだろう」
言いながら、俺はここのところの電話を思い出していた。あまりこいつ自身の話を聞いていない、と今更気付いた。つまりBJは俺に自分の話をしなかった、あるいはしたくなかったということだ。
まずいな。もう少し早く気付くべきだった。これはまずい状況に片脚を突っ込んでいうと言わざるを得ない。
これはあれだ。相手への気持ちがすり減った時、距離を置きたいと思い始めるパターンだ。恋愛にはよくある話だが、そうだな、傲慢だと言われそうでも白状すると──まさかこいつが俺に対してそうなるなんてすっかり考慮外だった。傲慢への批判は甘んじる。だが後にして欲しい。まずは俺の愚かな思い上がりによるこの状況の挽回を目指さなければならない。
「電話の話に面白さって必要か? そういうものじゃないだろう」
「そういうものじゃなかったってこと?」
「面白さは必要ないってこと」
「面白くなかったんだ?」
「そうじゃない。おまえとの電話にエンターテインメントを求めてないってこと。毎日のことを聞くだけで幸せなんだ。それだけなんだよ」
「鬱陶しくない? キリコの家に置きっぱなしのものも整理しなきゃいけないと思ってたのに」
何言ってんだおまえ、馬鹿言ってんじゃねえ、それ別れるって意味だぞ! ──無論怒鳴りつけるようなミスはしない。いや、怒鳴りかけたが死ぬ気で耐えた俺の対BJスキルを一体誰が絶賛してくれるだろうか。
「マフィン」
極限まで冷静に、だが冷たくならず、あくまで優しく。ここで怒りや失望を見せれば取り返しの付かない未来しか残されない。別れる? 馬鹿を言え。どうしてもって理由があるなら翻意するまで話し合うし、まあ何だ、ここだけの話、その程度の心理コントロールなら余裕。特にBJほど病んでいる女なら本気で余裕。
世間じゃ勝手に高評価らしいが、俺は紳士なんかじゃない。俺だって充分病んでる。独占欲と執着に支配された、BJを手放さないためならどんな手段でも使うクソ野郎だよ。心理的なコントロールなんて序の口だ。医療以外じゃ並外れた病みっぷりのBJと最高にお似合いだろう?
「先に確認させて。おまえが言ってることは俺にとって、別れたいっていう意思表示にしか思えないんだ。それでいい?」
「──どうしてそんなこと言うの!?」
一瞬でBJは今にも泣き出しそうな顔になる。泣き出しそうどころか既に涙目だ。なるほど、理解した。別れる意思はないらしい。俺は内心で病んだ自分を奥に押し込め、普段通りの対応──どうせいつもと同じ、こいつの言葉足らずの行き違いだ。後は話をさせればいいだろう──に戻る。危なかった、病んだ自分が取りそうな手段を考えると心が荒む。何をするかは言わないでおこう、最低な内容だから。ちなみに脅迫や暴力、性的なあれこれやら何やらではないことだけは明言しておく。
「泣かないで。違うってことでいい?」
「キリコが別れたいなら仕方ないけど」
ったく、クソビッチめ。この女はこういうところが小ずるい。いつだって自分が可哀想な立場で終われるような足場を用意する。こいつじゃなければ呆れるし、だがこいつだからこれすら可愛い。俺も大概末期だ。
「俺が? 馬鹿言え、自由の女神が赤く塗られる可能性の方がよっぽど現実的だ」
アメリカが社会主義になる方が、と比喩したら、BJは唇を歪めて頷き、泣いた目元を指で拭う。俺が身をかがめてそこに唇を寄せると、息を吐きながら抱き付いて来たので抱き返す。OK、最悪の事態は免れた。こうなりゃこっちのもの、普段通りのパターンに持ち込める。慣れは便利だ。
「きちんと話してくれよ。安心してからキスしたい」
「今してくれないの?」
半分拗ねた、半分は泣いた声で言われて耐えられる俺なんかどこにもいない──と言いたいが、問題解決を優先する俺なら余裕で耐えられる。ただし耐えて見送った分は後で数倍にして回収する。くそ、夜になったら浜辺の散歩は確定だ。無意識で煽りまくりやがって、このクソビッチめ。
「したいよ。でも今したら話ができない。何があった? ──何かされた?」
腕の中のBJが俯いてしまう。唇を噛んでいることからして、おそらく自分では処理しきれないほど感情を動かされた可能性が推測できる。そういう時にする仕草だからだ。
一体どうしたんだ──そう言おうとした時だった。
「とってもごめんなさい、にいさん、先生」
妹よ、なぜおまえは僅かに、ほんの僅かに開いたドアの隙間から、俺たちを覗くのだ。ちなみに俺はしっかりドアを閉めた。ノックもせずに開けるな、おまえ。大体何なんだ、とってもごめんなさいって。
「随分長い時間話してるから、その──予想できちゃって。電話の件でしょ?」
「……おまえが知ってる理由から訊けばいいか?」
「あの──先生が少し前、にいさんに電話をかけすぎてるんじゃないかって──」
「ゆ、ユリさん、いいから、ごめん、やめて!」
BJが俺の腕を振りほどき、ドアを開いて、ユリを遠ざけるようにぐいぐいと押しながら出て行ってしまった。でも、ちょっと、と言うユリの声と、いいからやめてと言うBJの声がリビングの方へ遠ざかる。
置いて行かれた俺の立場を一言で言うと「間抜け」だろう。Could you just not? ──勘弁しろよと思わず母国語で呟いて、一服し終える頃にはユリが俺を呼びに来るだろうと思いながら煙草に火を点けた。勘弁しろよ。煙と共にもう一度呟いておいた。
事情を知っているのはユリだけではなく、どうやらお嬢ちゃんも同様だったらしい。お嬢ちゃんは直接BJに聞いたと言うより(そもそもBJはお嬢ちゃんに俺との恋愛ごとを話さない)、その洞察力で事情を察したようだが。やっぱりこのお嬢ちゃん──この女が、うちの女たちの中じゃ一番優秀な女なんだろうな。
だが事情を聞いた俺としては笑うに笑えない内容で、なるほどBJならあの行動に出るのは仕方ないと納得せざるを得ない。
それから思う。病んだ女に女性向けの恋愛情報誌を与えるべきじゃない。つまりはそういうことだ。
「なるほどね。──……なるほどね……」
他に何を言えばいいのか分からない。ユリが示したページに書かれた話の馬鹿馬鹿しさに絶句する。女ってのは──いや、やめよう、差別発言になる。ウーマンリブをリアルタイムで見聞きしてきた目の前の妹に成敗される未来しか見えない。
そのウーマンリブ、今で言うならフェミニズムに熱中する奴らから見れば、おそらく稼ぎ方以外では確実に一目置かれるであろう闇医者は、ソファを挟んで俺の前に座り、しかし隣のユリに顔を押しつけながら耳まで赤くして悶えている。お嬢ちゃんは溜息をつき、お茶の支度をするのよさ、と言って席を外してしまった。BJのために男女の揉め事に興味のない幼女役を引き続き演じてくれるのだろう。つくづくいい女だ。
「わたしが貸したのが悪かったんだけど」
「そうか、おまえのか……そうだよな……」
流行のコスメにヘアスタイル、男性の心をくすぐる一ヶ月の着回し、日本では洒落ているとされる欧州料理の手抜きレシピに無責任な恋愛コラム。確かにこんな雑誌をBJが自分で購読するとは思えない。
BJは恥ずかしくて仕方ないのだろう、悶えては足をばたつかせ、呆れたユリに抱え込むようにハグされてようやく動きを止めた。
「でもね、にいさん。まさか真に受けるなんて思わないじゃない」
いいや、おまえは何も分かっちゃいない。BJへの助け船のつもりかそんなことを言うユリに、俺は内心で思い切り駄目出しをする。
「それにこんな項目に全部あてはまるような女性、滅多にいないわよ」
「いる」
「まさか」
「おまえがハグしてる女だ」
ユリはまじまじと腕の中のBJを見下ろし、ユリの胸に顔を隠したままのBJが「いっそ殺して」と呻く。安楽死医の前で何言ってんだ、依頼料の見積りでも出してやろうか。
取り敢えず俺はBJに対して怒りはない。病んだ女、かつまともな恋愛経験なかった女が馬鹿げた情報を鵜呑みにしてしまっただけの話だ。だが騒がされたのは事実であり不愉快なので、問題のコラムを書いたライターに呪いをかけておくにとどめておいてやる。
「そうなの? 電話のことだけじゃなかったの?」
ユリはBJに問う。BJは呻くばかりで答えない。代わりに俺が答えてやった。
「コンプリート」
「……そっか……」
我が妹の胸中、察するに余りある。そりゃそうだろう。俺だってBJと他人なら同じような声を出すだろう。コラムのテーマは酷いものだった。
【恋人をうんざりさせる重い女の特徴! あてはまったら要注意!】
「先生、重い女なんだ……?」
俺以外の大抵の男じゃとっくに別れてる程度には重い──流石に口には出さず、俺はBJから見えないことを確認してから、妹に対して肩を竦めることで肯定の意を示しておいた。ユリはBJを抱いたまま引きつった笑顔で「でもそういう先生も可愛いー」と優しく棒読みで言い、BJは再び足をばたつかせ、殺せ、殺してくれ、とユリの胸で喚いたのだった。
ユリの提案でまずは女子会、BJを落ち着かせることを優先させる流れになった。異論はない。女同士の方が良い時もある。
「ロクター、どうぞなのよさ」
「ああ、ありがとう」
お嬢ちゃんは相変わらず素知らぬ幼女の顔を貫きながら、テラスで待つ俺にコーヒーを持って来てくれた。
「あの雑誌はオサレご飯の作り方ばっかりで役に立たないのよさ」
「……読んだ?」
「ちょーっとだけ」
「ちょーっとだけ、ね」
「まあまあ面白かったのわよ」
確かにちぇんちぇいは重いのわよねえ、と付け加えるように呟きながら、この家で一番いい女は家の中に戻って行った。彼女がとてつもなく賢くていい女だという以外の感想は控えておく。
溜息をつき、まだ夕方にもなっていない海面を見る。陽光が反射して目が痛い。眇めてようやく痛みを感じない程度の強さだった。ユリも目が痛いから夏の昼間はテラスに出ないと言っている。
サングラスかカラーグラスを買って来ようと思っているのに、なぜかいつも忘れる。陽光のせいで残った目まで不自由になったらたまらない。悪影響が出る前に本気で買って来なければ。
それにしても思い出すだけで頭痛がする。手元に持って来てしまったユリの雑誌をめくった。何度見ても女ってやつは──いや、黙ろう。
重い女の特徴? あてはまったら要注意? 馬鹿な記事を書きやがって。馬鹿な記事を読みやがって。
【注意! 重い女の特徴!】
いつも会いたがる! /毎日電話する! /仕事の予定や行き先を根掘り葉掘り聞く! /自分の話ばかりする! /彼氏の部屋に自分の物を置きたがる! /元カノのことを気にしすぎる! /彼氏の好みに染まりすぎる! /浮気の心配をしすぎる! /怒りっぽい!
何が重い女の特徴だ。むしろあいつの特徴だ。コンプリートだ。何だ、このコラムはなぜあいつの紹介をしているんだ。お洒落な女が蓮っ葉な無免許医を目指すブームでも起きているのか。
というのは冗談だが。
こんなもん、あいつなら全部あてはまるに決まってる。それどころか項目が足りていないと断言してやってもいい。
だがむしろ俺は言いたい。この程度で重い女だなんて馬鹿を言うもんじゃない、って。これがスタンダードだと思えなきゃBJとは続かない。
逆を言えば、これを許容する程度でBJを自分の女にできるってことだ。だったら許容するだろう。余裕すぎる。日常生活の一環に過ぎない。
まあ、別にあいつを馬鹿にしているわけじゃない。見下しているわけでもない。
本当は分かっている。あいつがこんな面を出すのは俺の前だけだ。はっきり言えば俺が初めての恋愛相手だ。病んだ女と恋愛するならこの程度は覚悟しておくべきだ。
あいつの昔の男? さあ? 死んだか、それとも殺したか。覚えてないと言っておこうか。そもそもあんなものは恋愛じゃない。ノーカウント、すなわち俺が最初で最後の男であることは間違いない。
「改めて読まなくてもいいじゃない」
拗ね切った、だが落ち着いたと分かる声が背後からかけられる。俺は敢えて振り返らず、煙草に火を点ける仕草に紛れて返事をしなかった。拗ねた女が隣にの椅子に座る。
「中々興味深くてね」
「どれもわたしみたい、って?」
「スタンダードな女の話だな、って」
「そうやって誤魔化して終わり? さっさと話をクローズしやすいから?」
「本音だよ」
早くこのトラブルを終わりにしたいと思って言ったのは本音だ。だが口にしたことも本音だ。眩しい海に目を眇めたまま、煙草の煙を細く、長く吐く。昔からの癖だった。
「おまえと一緒になったんだから、おまえがスタンダードだろ」
BJは唇をひん曲げ、俺の煙草ケースに手を伸ばす。まだ恥ずかしい、それでも嬉しい、照れくさいといったところか。
「おまえが重い女だなんて」
BJがちらりと俺を見る。一度もそんなことを思ったことはないよと言ってやれれば俺はまあまあいい男だ。だが俺はこいつにとってはとてつもなくいい男でいる義務があるので違うことを言う。
「ベトナムの頃から知ってるよ」
事実を口にすると、BJはフィルターを噛んで煙草を台無しにした。もったいない真似をしやがる。火を点けてもいなかったそれを灰皿に投げ入れ、ぼそりと言う。
「ベトナムで会ったわたしが重かったんなら」
「うん?」
「ドクター・キリーなんて女子大生にキスをした変質者だ」
「してねえだろ」
とんだ言い掛かりだ。神掛けて誓うが、俺はあの夜、可愛い女子大生に手を出してなんかいない。もちろんキスだってしていない。──ああ、でも──不意に思い出した。それから、隣に座る女が可愛くてたまらないと、何度思ったか知れないことをまた思った。
俺が何かを言う前に、BJが俺から煙草を奪って灰皿に押しつけてしまう。それから俺を上目遣いに見上げ、人差し指で俺の唇に触れた。だから俺も同じことをした。人差し指でBJの唇に触れる。あの日、あの夜、まだ挫折を知らなかった俺が、密林の中で見つけた可愛い女子大生にしたように。されたように。
それからどちらからともなく顔を傾けて、指ではなく、唇でキスをした。唇を合わせたまま、可愛いね、と言ったら、下唇をかぷりと甘噛みされた。俺はあっさり煽られた。
このクソビッチ、まだ陽も高いってのに。それでもさっさと「散歩」に連れ出してやろうか──俺が考えている間についと顔を離し、BJは立ち上がって家の中へ入って行く。待てよ、と俺が言う前に、BJがリビングのユリとお嬢ちゃんに言っている声が聞こえた。
「キリコのサングラスがいるから買って来る。ユリさんは今度自分で選ぶ? 選ばないならキリコが買って来るけど」
今はお預け、でもこれからは昼間も「散歩」しよう。そういうことだ。俺はつい小さく笑い、出掛ける前の最後の一服のために煙草を咥えた。可愛いな、と思った。
「ねえ」
なぜか顔を赤くしたBJが戻って来る。
「どうした」
「ピノコとユリさんが」
「うん?」
「どうせ都内に行かなきゃキリコが買うようなサングラスはないんだから、って」
「──え?」
人前に出るわけじゃなし、この家の散歩で使う程度ならこの家の近辺でも良かったんだが、BJが言った続きに俺は苦笑するしかなくなった。
「今日はゆっくり探してキリコの家に泊まって来れば、って言うんだけど」
どうしよう、と困惑しきった顔で、本当はそうしたいくせに、BJは俺に判断を任せるようなことを言う。重い女の得意技のひとつだ。それでもこれがスタンダード。だから俺のやり方だってスタンダードでいい。──俺とこいつにとってのスタンダードでいい。
「断る理由がある?」
俺はないと思うね。そう付け加えると、もう、と呆れた振りをして、それでもしっかり嬉しそうに、答えが分かり切っているのに素知らぬ顔でいてくれるリビングの女たちに伝えに行った。その後ろ姿を眺め、ああ、可愛いな、と思った。
重い女、大いに結構。日常生活にいる女が重い? 馬鹿言え、好きな女が日常生活に当たり前のようにいてくれるなら、その重さがスタンダードだと思えるようになるのが男の義務だ。強要はしないし単なる俺の主義にすぎない。
それでも俺の女には、俺が義務を果たす価値がある。俺がそう思っている。だからそれでいい。
もしかしたら、そんなのは女にとって都合のいいことだと嘲笑されるかもしれない。そんなことを言う奴はどこにでもいる。
それなら笑えばいい。指をさしてくれてもいい。それこそ俺が正しい証明なのだから。
たったそれだけのことで、あの女が俺の女で居続ける。
「ねえ」
俺の可愛い女が呼びに来る。
「早く行こうよ」
「分かったよ」
BJが好きな、優しくて格好のいい年上の恋人の顔で頬にキスをして、唇ではなくて不満そうな顔をしたBJに、車の中でゆっくりキスしよう、と、ぽってりとした可愛い唇を人差し指でなぞりながら囁いてやる。馬鹿じゃないのと言いながら嬉しそうに笑う女が愛しくてたまらない。
何て簡単なことだろうか。
策を弄する必要もない。
いざと言う時以外は。
俺は紳士なんかじゃない。
独占欲と執着に支配された、BJを手放さないためならどんな手段でも使うクソ野郎だよ。
今のところ、その必要がないだけだ。
重い女をスタンダードにするだけでいい、そんな簡単なことで俺の女にしておけるんだから。