朝から本を読み続け、疲れていたことは否定しない。だが疲れていたとしても、数秒前の自分はどうかしていたとキリコは既に後悔している。
「痴漢!」
顔を合わせれば人殺しだの何だのと人聞きの悪いことを平気で叫ぶ女だが、今回はそれよりもたちが悪い言葉を叫ばれた。たちまち周囲の剣呑な目が集中し、冗談じゃない、とキリコは眉を顰めざるを得なかった。よりによってニューヨークご自慢のタイムズスクエアで、しかも週末の夜に集めたい種類の視線ではない。
「キリコ──」
「ストップ。夫婦ね」
「私が!? 誰が!? 何!?」
「大きい声をお出しでない。──ああ、どうも、妻と待ち合せでね。声をかけたら驚かせちまったんだ、大したことじゃない」
唐突な宣言に仰天するBJを後目に、キリコは早速正義感を出して歩み寄って来た男に向かってまことしやかに言う。いかにも正義感に溢れた風情の白い肌の男は眉を顰めた。
「夫婦?あんた、痴漢って言われただろう」
男は訝しむ顔をしたが、キリコは気にしないていを装って続けた。
「彼女と再会したのは最近だからまだ慣れてないようで。俺だって分からなかったのさ」
「と言うと?」
「これ。ベトナムでね」
黒い眼帯を指先ですっとなぞると、男は決まり悪そうに何度か頷いた。隣にいたBJは「クソッタレ」と口の中で日本語を呟き、男の態度の変遷に大きく溜息をついてみせる。この国でベトナム復員兵、しかも戦傷持ちの相手となれば、正義感よりも関わりたくないという保身が強くなるはずだ。
BJ自身、騒ぎを大きくしたいわけでもない。そもそも声をかけたのは自分で、いつも通りに仕事について問い詰めるはずが──そこまで考えた時、男がBJの顔の傷にようやく気付き、明らかに嫌悪の色を隠し損ねた表情になった。BJとしては慣れているとはいえ良い気分でもない。キリコが演出する設定に乗ることにした。
「騒がせて失礼、私たちは大丈夫。どうもありがとう」
BJの言葉に男はほっとした様子を隠すこともなく、二人に軽く手を挙げて雑踏の中へ向かった。成り行きを見守っていた人々も胸を撫で下ろし、それぞれの週末の夜へ戻って行く。
「キリ──」
「俺が悪かった。謝る。先生、ごめん。大変な失礼をした」
衆目が消えた瞬間に眦を吊り上げたBJの機先を制し、キリコは本気で謝罪の言葉を口にした。どうかしていた。いくら何でも酷い真似をしてしまった。
雑踏の中、いきなりコートを掴まれてあの声が聞こえたのだ。人殺し。ああ、またか、偶然にもほどがある──そう思いながら振り返った時、目に飛び込んだのはコートを掴み、睨み上げるBJだった。
ああ、と思った。
ああ、可愛いな、と思った。
だからかもしれない。何も考えていなかったのではなく、可愛いな、と思ったからこその行動だった。BJの額に唇を押し当てたのだ。
「いくら何でもキスしていい相手でもシーンでもなかった。反省する」
「ふうん?」
BJは袖を通さないコートの中で腕を組み、顎をクイと上げてキリコをまたも睨み上げる。ああ、可愛いな、とまたキリコは思ったが、今回は失態を犯すことなく見降ろした。
「こんなツギハギの──しかも鬱陶しい商売敵の女にもキスできるなんて、あんたの悪趣味っぷりはあのクソッタレな装置だけじゃなかったんだね」
「そんな言い方しなさんな。俺だって答えに困る時があるんだ」
「怒ってるから仕方ない」
そりゃあそうだろうね、あいつのことだって元をただせば俺のせいだから。その言葉は飲み込んでおく。
助けに入った白い肌の男がBJの顔の傷に気付いた時、明らかに嫌悪感を抱いたことはキリコも気付いていた。BJ自身がどのような感情を持ったかは想像する以外にできないが、気持ち良い類のものであるはずもない。
かと言ってそれを謝れば、この女は更に気分を悪くするだろう。キリコはそれを知っていた。偶然の中で幾度も出会ううちに自然と知った彼女の一面だ。
「クソッタレもクソッタレな夜になってる。ニューヨークまで来て痴漢に遭うなんて」
不機嫌を強くアピールするBJに、キリコはわざと小馬鹿にするように鼻で笑ってみせた。もう少し彼女の不機嫌に付き合うべきだと分かったからだった。
「だから俺は謝った。次にするべきことは?」
「仕事かどうか、正直に白状しな」
「白状させてどうなさる」
「仕事なら邪魔しに行ってやる」
「おお、怖。──ごろうじろ」
キリコは両手を胸元に上げ、BJに向けてひらひらと掌を振って見せつける。BJはしばらく首を傾げていたが、やがて「なあんだ」と息を吐いた。
BJに「悪趣味」と言わしめた鞄を持っていないと示すことで、キリコは仕事ではないと彼女の問いに答えた──BJ流に言えば白状した──のだった。
「細工は流々って? おまえさん、本当に外国人?」
「ここじゃ先生も外国人だろ」
減らず口の応酬をしながらも、仕事ではないと知った途端に僅かに表情を和らげてみせた女を、ああ、可愛いな、とまた思った。これでおしまいにしてくれるのか、とも。
「仕事じゃないなら何してる」
「公共図書館で薬学知識のアップデート」
「仕事じゃねえか、馬鹿」
「汚い口をききなさんな。仕事がなくて暇なんだって解釈を頼みたいね」
「失業しちまえ、ざまあみろ」
キリコを「おまえさん」と呼んだ。それは彼女がキリコに対しての怒りを収めたという証だ。いつの頃からかこんなことも分かるようになった。
「先生こそニューヨークで何を? 暇なご身分でもないだろうに」
「買い物」
「買い物? へえ、色気も素っ気もない着た切り雀が麗しい装いに目覚めでもした?」
戦前からファッションの都と名高いこの街で女性が買い物をすると言えば──俺にしては短絡的な発想だな、とキリコが自覚することは否め得なかった。しかしそれにしても、なのだ。そう思ったって仕方ないじゃあないかと自分で自分を擁護した。
キリコが見かけるBJはいつでも同じ服装だ。袖を通さない黒いコートにパンツスーツ、白いブラウス以外の姿を見たことがない。化粧は全くしない上に髪もざんばら、伸びた後ろ髪は無造作に束ねるだけ。紅のリボンタイが辛うじて洒落っ気と言えるのかもしれないが、キリコからすれば「色気も素っ気もない着た切り雀」と評するしかなかった。
だがBJはその評価に不満なのか、明らかに気分を害したように眉を跳ね上げた。
「いらない日本語をよくご存知で。おまえさん、絶対モテないね」
「先生に報告する義務がないだけでそれなりに」
「確かにそんな話は聞きたかない、時間の無駄だ。とにかくおまえさんには関係ないし、洋服を買いに来たわけでもないから。じゃあさよなら」
「はいはい、ご機嫌よう」
あっさりと雑踏へ紛れに歩を進めるBJの後姿を見送る。本当に色気がない、と思った時、BJが突然コートの裾をひらめかせて振り向いた。
「どうして私が服を買うなんて思ったんだ?」
「──さよならの前に言うべき質問だ」
本気で呆れた顔をしたキリコを見て、BJはしばらく彼の言葉の意味を考えていたが、やがて「ああ、そうかも」と言って苦笑した。
その時、BJの視線が動く。視線の先ではタイムズスクエアの時計がちょうど20時を指したところだった。
「ああ、もう──閉店しちゃったな」
「ブティック?」
「そこまで私に服を買わせたい情熱が理解できない。不動産屋だよ」
「まだ買うのかよ。島だの何だの腐るほど持ってるのに。タイムズスクエアにアパートでも欲しいって?」
「うん」
「はあ?」
キリコとしては冗談で言ったつもりが、BJはあっさりと肯定した。さすがにキリコは二の句が繋げない。タイムズスクエアで一部屋買うだけで一体いくらするのか、そして審査がどれほど厳しいのか、この女は理解できているのだろうか、と心配にすらなった。
「野暮なこと訊くんだがね、先生。いくらすると思ってる? 分割なんかできない仕事だろう、モグリ」
「野暮天の痴漢野郎。私が金に困るもんか」
「もう痴漢の話は無しだ。野暮天は辛うじて許す。確かに先生に金の話なんて野暮だからな。──そもそもモグリの無免許医が審査に通るわけないだろう? モグリじゃなくたってね、この国の人種差別のことは分かってる? 日本人、しかも女性が審査通過なんて絶望的だ」
「この国の知り合いが連帯保証人になってくれるって話はついてるから、不動産屋から電話するつもりだった」
「誰」
「金持ち」
「そりゃそうだろう。だから誰」
「おまえさんも知ってる──」
さらりとその名前を口にしたBJは、まるで今日の夕飯はボンカレーにするんだと言っていてもおかしくないほど日常の顔だ。だがキリコは天を仰ぎたくなり、実際に仰いだ。今日は曇りか、星が見えない、と思ったのは瞬間的な現実逃避だった。それほど「保証人になってくれる人」の名前は衝撃的だった。
「ああ、そりゃあ……外国人でも女性でも分割でも何でも通りそうだ」
「一括で買うんだけど」
「分かってる。物の例え」
それぞれの週末の夜を楽しむ周囲の人々が聞いている可能性は低いが、やはり用心するべき名前であると判断したキリコは──BJは少しばかり、こういった危機管理が甘いとキリコは常々思っている──BJに「食事」と一方的に宣言して先に歩き出す。BJもようやく自らのミスに気付き、珍しく減らず口を返さずに速足でロングコートの男の後姿を追った。
「ねえ、あなた、待って、歩くのが速くってよ」
「こういう時だけ可愛く言いなさんな」
わざとらしく女性の言葉で文句を言ったBJに舌打ちしたくなる。ごく稀に見るこの女の女性らしい言動がどうにも好きになれなかった。下心がある時にしか見せないものだからだ。
「タクシーに乗りたいわ、停めて下さらない?」
「俺に払わせるつもりだろ。──その薄ら寒い女の真似をやめてくれるなら必要経費だ」
言いながら流しのタクシーに手を挙げた。週末のタイムズスクエアですぐに掴まえられたのは幸運だと言うべきだろう。
「有能な野暮天だ、おまえさんの手配能力と引きは最高だよ」
タクシーが停まった途端、あっさりと女言葉を引っ込めてにんまりと笑うBJに、なぜ俺はこんな女を可愛いと思った挙句にキスをしちまったのか、とキリコは不思議でならなかった。
キリコが選んだ店は観光客と地元民が入り混じるダイナーだった。20時を過ぎた今、夜を楽しむ人々で賑わっている。キリコは入り口近くにいた若い男性店員に先に多すぎる紙幣を渡し、カウンターの端、一番奥を、と指定する。
「こんなに? いいんですか?」
「我儘を言わせてもらいたいからね。──妻とゆっくり楽しみたいんだ、できれば誰も隣に座らせないでくれ」
「そんなことで? ええ、どうぞ! ちょうど一番奥が空いていますから」
誰が妻だ、と言う目付きでキリコを睨み付けるBJを後目に、気前が良すぎるチップを手にした店員は愛想よく請け負った。
「BJ、飲み過ぎるなよ。何にする?」
「ギネスとシードルを半パイントずつ──」
「──彼女にバドワイザー、俺にブルックリン。キャッシュオンで」
客たちの喧騒の中、BJの言葉を遮り、キリコは店員にオーダーする。BJが言いかけたオーダーが無茶苦茶だと気付いていた店員は苦笑して頷き、キリコがテーブルに置いた酒代の紙幣を回収して行った。
「先生、ここはアメリカ。分かってる?」
店の雰囲気を鑑み、二人はコートを脱いだ。ただでさえ目立つ容姿なのに、場にそぐわない服装で更に目立つのは好ましくない。キリコがガンベルトをしていなくて幸いだった。
「イギリスなら今ので通じるし、ここにもギネスはあるだろうに」
「そうじゃない。ギネスとシードル半パイントずつ? 頭おかしいだろ。普通の奴なら腰が抜ける」
一時期は英国の自治体でも禁止されていたほど強いビアカクテルだ。BJが酒に詳しい──キリコから言わせてもらえば酒に汚い──のは知っていたが、これはあんまりだろうと心底呆れた。
「ロンドンのパブで飲んで最高だったんだ。また飲みたかったのに」
「一人で飲んだんじゃないだろうな、あんなもん」
「男と飲んだ」
「──ああ、そう」
ロンドンにそういう男がいるんだな、と小さい声で呟くと、喧騒の中でもしっかりと聞こえたのか、BJは「男なんざどこにでもいる」と淡々と言いながら煙草を取り出した。ああ、そう、とキリコはもう一度呟いた。思った以上に驚いてしまったことが自分でも意外だった。まさかこの女の口からこんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
注文したビールを持って来た店員は、多すぎるチップの礼としてチーズの盛り合わせを置いて行った。ようやく本題に入れそうな環境が整い、キリコは溜息をつく。ここまでで随分疲れた気がした。そう言えばBJを誘って食事の席に着くなど初めてのことだ。
「で、さっきの話」
「だから、ギネスとシードルを半パイントずつ──」
「お仕事モードじゃない時の先生のペースに合わせると疲れるってことが分かったから、俺のペースでやらせてもらう。さっきの話。保証人、本当にあの人なわけ?」
「あ、そこまで戻るんだ?」
「元々ね、その話をね、したかったのね、俺はね」
一言ずつ力を入れて区切りながら、萎えてしまいそうな心を何とか奮い立たせる。この女を相手にマイペースで事を進めるのがこんなにも難しいとは。
「てっきり個室だと思ったのにこんな店だからさ。するつもりがないと思ってたよ」
「個室なんてこの辺じゃホテルのレストランくらいしかないし、先生のその格好とノーメイクじゃ無理。だからここ」
「ハロウィンならモンスターのメイクってことにできたのに」
冗談か本気か分かりにくい声音で言いながら、BJは指で顔の傷をなぞる。キリコは思わず溜息をつきそうになり、チーズを口に放り込んで何とか堪えた。BJ相手に限らず、女が身体の傷を笑い話にすることが好きではなかった。
「そういうのいらねえです。で、保証人の話ね」
「うん」
BJがバドワイザーを口に運ぶ。水かよ、と呟き、少しキリコを苦笑させた。出来の良いビールのはずだが、あの無茶苦茶なビアカクテルを好むと言うのなら有り得ない感想ではなかった。
「いつ知り合ったんだ。さすがに驚いた」
「今日の昼過ぎ、っていうか夕方」
「は?」
「オペした。報酬の代わりに保証人になってもらっただけ」
「──オペの話なんて回ってなかったぞ」
保証人ほどの社会的地位があれば、BJにオペを依頼するほどの重病になった時点で闇の世界では必ず情報が飛び交ったはずだ。今回はそれが一切なかった。情報統制を敷くにしても──キリコが思考を巡らせ始めた時、BJがキリコの腕を叩き、煙草を深く吸い込んだ後、思い切りキリコの顔に向かって吹き付けた。無礼極まりない蛮行に、キリコは自分の忍耐力を試すはめになる。
「っ、この、何しやがる」
「黙ってんじゃないよ」
「考え込む案件だろうよ、これ」
「無視しやがって」
「しちゃいないだろ」
自分の煙草とは違う煙のにおいが鼻腔に纏わりついて嫌になる。レストルームで鼻洗浄をしようかとまで思ったが、先にBJが口を開いたので席を外しそびれた。
「勝手に先走って考え込みやがって、早漏野郎」
それにしても汚い口だ。キリコは頭痛すら覚える。──ああ、ユリがこんな口をきくような女の子じゃなくて良かった、本当に良かった。
「たまには恥じらいを知る言葉を選んじゃくれませんかね、先生」
「男の患者の玉裏から尻穴まで見る人生だ、恥じらいなんてゴミの日に出しちまった」
「分かった、もういいから本題を話してくれ。──ああ、いや、その前にね、先生。ひとつだけ訂正させてもらう」
「うん?」
キリコはぐいとビールを煽り、やや力を込めた声で宣言した。
「俺は早漏じゃあないよ」
途端、BJがビールを噴き出し、一瞬店内の視線が集中した。俺の危機管理能力にも問題があるようだとキリコは失態を自覚したが、反省はするまいと決めた。──男の矜持として訂正しなければならないことだった、俺は間違っていない、俺は早漏じゃない、決して間違っていない、よって反省しない。
「話は物凄く短いんだ。ここでご馳走になるのが心苦しいくらい」
「ご馳走……いや、うん、それで?」
タクシー代はともかく、食事を奢るなどとは一言も言った覚えがなく、後から回収しようと思っていたのだが、話が進まないことを危惧してキリコは現状での訂正はやめておく。早漏さえ訂正できていればとりあえず構わない。
「凄く簡単に言うと。あの人──公園で最低限の護衛しかつけないでジョギング中の彼が、散歩してた私の前で転んで、膝がちょっとぱっくり行って、オペってほどじゃないけどその手当をして、いたく感謝されてぜひともお礼を、って言われて、じゃあ保証人になって、ってお願いしたらいいよって言ってくれた話」
「……それで?」
「おしまい。消毒して絆創膏貼ってやっただけでまあ美味しいこと美味しいこと」
「いや、あのね、ストーリー? ストーリーでいいのか? とりあえず大筋は分かったんだが。そうじゃなくて……そうじゃなくて、こう……」
本気で頭痛を感じそうになる。仕事の時や自分を罵る時のBJの明朗な話し方はどこへ行ったのか。いや、今も明朗と言えば明朗なのだが、必要とされる情報を相手に渡そうというつもりが微塵も感じられない。いっそインフォームド・コンセントとして説明を頼めば良いのだろうか。
そんなことを考えて注意が疎かになり、キリコの上着から財布を引っ張り出したBJが颯爽と店員が待つカウンターの中央へ行ったことに気付けなかった。気付いたのは彼女が新しいビールを手に戻り、上着に財布を突っ込んで戻した時だ。
「……先生、犯罪行為はモグリだけにしろ。財布を盗むなんて最悪だ」
「返しただろ」
「中身も返せ」
「みみっちい。お代わりを買っただけ。細かいこと言いなさんなよ、死神ともあろう男が」
水かよなんて文句言ってたくせにお代わりか──そう思いながらキリコは自分のビールを飲み干す。すっかりぬるくなっていた。
「俺も買って来るから、もう少し細かく説明できるように考えておいてくれ」
「全部話したのに」
「どんな怪我だったのか? 状態は? 今後あの人の活動に影響は? とりあえずこの3つ」
「おまえさんに何の関係があるわけ?」
「──場合によっちゃ株価に影響するし、更に場合によっちゃ鉄のカーテンが開いちまうかもよ?」
「だから、おまえさんに何の関係が──」
「俺は社会人、先生はどうだか知らんが俺は社会人。だから気になる、以上。インフォームド・コンセントが必要なんだ、考えとけ」
「医療行為? 私は高いよ?」
「それ以上減らず口を叩くな、口を縫うぞ!」
流石に少々大声を出したことは責められまい。カウンターの中央で声に気付いたあの店員が苦笑してキリコを待っていてくれる。本来なら店員がオーダーを取りに動くものなのだが、妻とゆっくりしたいと言った客に気を使い、敢えて放置していたのだ。
「ビールですか?」
「いや、もっと別の──ウイスキーは何がある?」
「どうぞ、選んで」
カウンターにずらりと並ぶウイスキーボトルを検分する。その間にもひっきりなしに客が酒をオーダーし、店のあちこちで笑い声、乾杯の声、どこかでは喧嘩めいた声。BJと二人切りの空間に居座りすぎて、ここがダイナーだということをすっかり忘れていたことに気付いた。
「ああ、じゃあこれ。ブナハーブン。もったいないけど割りたい気分なんでね、一番若いやつにして、ソニックで割って」
「はい。──奥様、お酒がお強いですね」
「あいつにとっちゃ水みたいなものらしい」
「ここで1パイント一気飲みして、また1パイントを新しく持って席に戻ったんですよ」
「──……不作法をして失礼した、本当に失礼した」
丁寧に酒を作ってくれた店員に酒代と、そしてまた改めての紙幣を渡し、心からの詫びとした。この店員はBJのお陰で今日は大儲けじゃあないか、と思った。
「BJ、不作法にも程が──」
「うるせえわよ馬鹿キリコ、いつまでもだらだら店員に貼りつきやがって、あんたホモなの? ホモでしょ? 未来を生きてる?」
「……先生、さすがにそれは俺もお仕事モードになってお話ししなきゃいけない侮辱だよ」
本気で苛立ちを感じて本音を言ったことは確かだが、同時にBJの様子がおかしいことに気付く。要は酔っ払っている。いくらカウンターで1パイント、ここでまた1パイントを飲んだとしても──既にBJのビールは彼女の胃の中に引越しを完了させていた──バドワイザー程度でここまで酔うとは思えない。
「何がお仕事モード。人殺しだし。殺す? 私のこと殺しとく?」
キリコはここ数ヶ月で一番大きな溜息をつく。一気に沸き上がった様々な感情を溜息で逃がした。ほんの数分離席しただけでBJは泥酔し、あまつさえ侮辱の言葉を吐き、しまいには自分を殺すのかと来たものだ。これが見知らぬ愚かな誰かに言われたのなら鼻で笑って無視できるものを、この女に言われることだけはなぜか耐え難かった。
手にしていたグラスに口をつけ、トニックウオーターよりもシャープな、ソニックウオーターで割っただけのウイスキーカクテルの香りで感情のコントロールに努める。ものの数秒でそれは成功し、次にBJにかけた声は自分で予想していたよりも穏やかで、いかにも物分かりがいい男のものだった。
「どうした、何が不満なんだ、先生。俺に八つ当たりしたいことがいつ起きた?」
「いつ? 八つ当たり? いや違うけど? 全然八つ当たりじゃないんですけど?」
「あのさ、──何でもない、失礼」
異変を嗅ぎ付けた周囲の客や店員の視線を感じ、キリコは誰に言うでもなく謝罪の言葉を口にする。酔った女の狼藉未満だと理解した彼らは再び自分たちのパーソナルスペースに意識を戻した。カウンターの中のあの店員だけがさり気なく見続けているが、彼の仕事として当然だろう。とはいえ見続けられていては話もしにくい。緊急事態だ、仕方ないんだ、と自分に必死で言い訳をし、設定を活かすことにした。
「ゴージャス、少し飲み過ぎてる。もう帰ろう」
美しく愛しい妻や恋人に使うセンテンスで呼びかけ、パイントグラスを彼女の手元から遠ざける。つまり当初の設定の「夫婦」を貫き、酔った妻を介抱する振りをして店を離れたい。本音としては首根っこを掴んで引きずり出してやりたかったが、場所柄そうもいかない。これ以上目立つことは避けるべきだ。
白々しい単語にBJが怒るのではないかと予想しているが、それならそれで酔って暴れる妻を抑え付け、周囲に謝りながら連れて帰る男を演じやすい。むしろその方が話が速い。注文ごとに支払いをし、気が向けばすぐに退店できるキャッシュオン・デリバリーを選択した自分を心から褒めたくなる瞬間だった。
「帰る?」
だが意外にもBJは怒らず、キリコのグラスに手を伸ばす。駄目だよ、おしまいだ、と優しい声を作りながら──心の中では「酒に汚ねえクソ女が」と罵っていた──その手を抑えた。するとBJは息を吐き、驚くべきことにキリコに身体を寄せてみせる。
「意地悪をしないで、アイ・キャンディ」
その唇から零れた言葉は聞いたことがないほど甘やかなもので、キリコは演技を忘れて硬直するところだった。よりによってアイ・キャンディ、「目の保養になるくらいに格好良いあなた」とは。自分がゴージャスと呼んだことを思い出し、片目とツギハギが呼び合うにしちゃあ互いに奇妙な皮肉が効いている、と頭の片隅で思った。不快ではなかった。──所詮演技なんだからな、快も不快もあったもんじゃないさ。
「だってあなた、戻って来ないんだもの。わたし、もう寂しくっていけないわ」
夫の胸元にぎゅうとしがみついて顔を埋める妻の姿としては最高だ。こいつ酔ってない、闇のアカデミー主演女優賞を狙ってやがる、とキリコは判断し、即座に思考を切り替えた。睦言を囁く夫の顔でBJの髪を撫で、耳元に唇を寄せる。
「尾行されてた気配はなかったぞ。タクシーに乗る時と降りる時、どっちも確認した」
「誰かがここにいて連絡したんだろ。偶然だとは思うけど、アウトローの世界なんざ狭いもんだしね」
「これだからモグリは。トラブルを仕入れて歩きやがって」
「死神に転売してやるよ」
「押し売りはお断りだ。──出るか。ホテルは?」
「キャンセルしちゃった。用事が済んだら一緒に泊まっていいって彼が言ったから」
「……ニューヨークにも男がいるって? お盛んすぎるだろ」
「保証人のゲストルームだよ、馬鹿キリコ。──アイ・キャンディ、誤解なんてやめて! わたし、あなた以外の男性なんて興味ないわ!」
アメリカだからこそ通じる大袈裟な声と言葉で男に縋る力を強くする。
「ああ、いや、誤解なんてしていないよ。寂しくさせて悪かったね」
キリコも妻の態度に驚いた男を演じつつ、ああそうか、恋人がいる土地なら最初からホテルも取らないか、と納得した。納得した自分に奇妙な違和感を得たが、今は考える時ではないと違和感を思考の場所から締め出した。
「キリコ」
「ん」
「分かった。最初っからおかしいと思ってた奴がビンゴだ」
「最初っから? 何で言わなかった」
「言ったって仕方ないからさ。おまえさんには分からない」
「女の勘? 便利なもんだ。俺は本当にさっぱりだった」
「キンタマでしか物事を考えられない男の勘になんて期待してないよ」
「本当に口を縫いたくなって来た」
裏口から出た方が良いと判断し、キリコはBJを抱き締めたまま扉を探して視線を巡らせる。従業員の通用口でもあればそこから──その時、あの店員と目が合った。首を傾げ、大丈夫ですか、と唇を動かしてみせる。素晴らしい店員だ、俺の財布の中の残りの札を全部あげたい、と思いながらキリコは目で彼を呼んだ。
「こんなていでね、恥ずかしいよ」
「いいえ、僕もお引き留めしすぎてしまったから申し訳なくて」
聞こえていた店員は笑顔で言う。キリコは苦笑した。なるほど、BJが言った「ホモなの?」はこの店員を相手に想定していたのか。あの時点でBJが既に演技を始めていたということに思い至り、この女はやたら頭が良いのだ、とキリコは改めて感心する。それにしてももう少しましな演目を選んで欲しかったものだが。
「もう帰るよ。悪いんだが、裏口から出してもらえるかな。正面じゃ恥ずかしくってね」
「ええ、どうぞ。お連れしましょう。お荷物はコートだけ? お持ちします」
「コートはちょうだい、この人がプレゼントしてくれたものなんだもの、触っちゃ嫌よ!」
BJがヒステリックな女の声を出してみせた。
「ああ、すみません! 大事なコートなんですね」
「そうよ、やめて、駄目よ」
「ゴージャス、気持ちは嬉しいが彼の親切に怒るべきじゃない」
キリコは優しくたしなめる振りをし、誰がこんな物騒な代物を買ってやるもんかと思いながら彼女にコートをかける。酔った顔で男の胸に顔を押し付けながらコートの着具合を直すBJの手が、さりげなく医療器具の位置を確認したことが分かり、ふうん、と独りごちそうになってしまった。
「こちらです、暗いから足元に気を付けて下さいね」
店員が先導して歩き始めた時、キリコにしなだれかかっていたBJは酔っている演技をどこへやら、素早く手を伸ばし、カウンターに残されていたキリコのグラスを一気に空け、呆れるキリコに向かってにんまりと笑い、ご馳走さん、と唇を動かしてみせ、再び身も世もなくしなだれかかったのだった。
奢るなんて一言も言ってない、と告げる気にもなれなかった。
「先生、一本寄越せ!」
「何で丸腰なんだよ、馬鹿キリコ!」
罵りながらも飛ばされたメスは正確な軌跡を描き、見事にキリコの手に収まる。裏口で待ち構えていた人数が余りにも多く、丸腰では手に余ったのだが──死神がメスを一本手にしただけで空気が変わる。それまで人数に物を言わせて余裕の笑みを浮かべていた襲撃者たちが明らかに怯んだのだ。
ここで映画なら決め台詞のひとつも吐きながら格闘するところだが、それよりも遠い過去に叩きこまれた訓練がキリコの身体を瞬時に支配した。左目の奥の記憶を拳に載せる。思い出したくもない悪夢のようなあの現実の日々が、今の自分とあの女を救う事実に嫌悪感を抱かないことが不思議だった。
「軍医の技術じゃないわな」
「先生こそ、女医さんの技術じゃないね」
ものの数瞬で6人もの襲撃者たちを沈めた元軍医は、気絶した襲撃者たちから銃を回収し始める。それから壁に突き刺さったメスでダーツの的のように女医に縫い付けられた例の親切な店員を見た。店員は怯え切り、失禁しても責められないほどの震えようだった。
「キリコ、全然メス使ってない」
倒れている男たちをざっと検分し、怪我の中にメスによる切り傷がないことを確認したBJが首を傾げる。
「いや、こう」
「うわ、それは怖い、こっち向けるの無し、NG」
「こっちを出して怯ませた隙にもう片手で殴るなり、この長い脚で蹴るなり」
キリコが改めて握り込んでみせた拳の先、指の間からメスが突き出ている。こんなものが襲い掛かれば本能が敗北を叫ぶだろう。銃を持っていたとしても、男たちが怯み切って地面に叩き付けられたのは当然と言えば当然だ。
「チップ返しな、とてもじゃないが満足できるサービスじゃないぞ」
キリコが壁に縫い付けられたままの店員に声をかけたのは会話の始まりの宣言だが、実際のところ半ば本気だった。BJが声を上げて笑う。そう言えば彼女が今日、声を上げて笑ったのはこれが初めてだ、とキリコは思い出した。
「何がおかしい」
「ケチくさいこと言いなさんなよ。私にギネスとシードルを半パイントずつくれた良い店員なんだから」
「──カウンターに行って一気飲みしたのがそれか」
「美味しかった」
「どれだけ強いんだよ。おい、やっぱりチップは返せ。とんでもない店員だ」
店員は返事すらできない。目を覚ましかけ、足元で呻いた襲撃者の一人の頭を「うるさい」と無情に踏んだキリコを見て、更に怯え切った。
「まあ、チップは先生から回収するとして」
「何言ってんの。──はい、所属と名前。連絡先。所属の中の立場。速やかに吐きな」
「ビッグフォーねえ。まあ、こいつの場合はこれで充分か」
「何それ」
「捕虜になった時に敵に提供する最大限の情報。この4つ以外を言わないのが良い軍人」
「誰にとって良い軍人」
「もちろん母国にとって良い軍人」
「どうしよう、私は別にビッグフォーとやら以外の情報はいらないんだけど、おまえさんは何か必要なわけ?」
「……まあ、とりあえず今の4つに答えな。──こら、うるせえよ」
再び足元で呻いた襲撃者の頭を、煙草を咥えながら今度は思い切り踏んだ。その途端、店員は泣き声で求められた情報を吐き出し始めたのだった。
情報を聞いたBJは溜息をつき、煙草を探したが、カウンターに置いて来てしまったのだと気付いてキリコに指で「くれ」と示す。ライターもなかったので更にキリコを指で呼び、シガーキスで火を点けた。ベトナム以来だな、と二人で同時に思ったが、お互いには分からなかった。
「五大ファミリーかよ。こんな場所で店員なんぞやってるなんて予想外だ」
店員は戦後急速に勢力を拡大したマフィアのひとつに所属していた。ろくな地位ではなく、簡単に言えば下っ端だ。
「店にBJが来たら連絡するようにって、夕方に言われて──」
「聞いてないことまで言うなんて、私たちにとっちゃ良い軍人になれそうだね。夕方?」
「そうです」
「何で夕方? 何か言ってた?」
「手術をした後だから疲れてるはず、誘拐してファミリー専属にするって……俺が言ったんじゃない、やめてくれ!」
眉を跳ね上げて新しいメスを向けたBJに叫び、店員は遂に失禁した。気が済んだBJはメスをしまい、全くもう、と呟く。
「あいつらか。面倒くさいな、保証人に相談しておこうかな」
「夕方に知り合ったばかりの人が聞いてくれるもんかね。アパート購入の保証人になるよりまずい話だろうに」
「あの人はたぶん、私の頼みを今後ほとんど断らないと思う」
「その心は」
「私を可愛いと思った」
「──はあ?」
「権力者って大抵そうなんだ。私を可愛いと思ったら、憐憫の情もプラスして放っておけなくなっちまうのさ。憐憫のせいで可愛いと思うのかもしれないけど、まあ、どっちでもいいや。エロい意味で手を出して来る奴はいないし、得してるから」
憐憫って何だよ──そう問おうとして、やめた。ああそうか、と瞬時に理解できてしまった自分がいたからだ。きっと憐憫が先だろう。若く幼く見える日本人の女性、まず目に飛び込むのは顔の大きすぎる傷。傷に隠れて見逃しがちな、実は整っている顔立ちは日本人独特の美貌で、だからこそ傷が更に痛々しく見える。そして明らかに苦労した風体。そのくせこの女のことだ、対応もやや無礼な、だがそつのない態度だったに違いない。成功した男が憐憫からの愛しみを抱くには充分すぎる材料が揃い過ぎていた。
「愛玩動物じゃあるまいし、何が得してる、だ」
「わんわん!」
「やめろ、可愛くない」
「練習しとく。──まあ、そんな感情のままじゃ長くは続かないからね。何かの仕事で恩を売ってビジネス面でも固める。そんな感じ」
「──THE 女」
「キリコでもできるよ」
「俺は男だ、御免だね」
「相手がホモなら問題ない。練習すれば?」
もはや魂が抜けているようにも見える店員を指し、BJはにんまりと笑う。この笑い方は本当にろくなものではないのだと頭にインプットし、キリコは足元の襲撃者を──もはや哀れな被害者と言うべきか──腹立ち紛れに蹴り飛ばした。
「そういや、何だってこいつが最初から怪しいと思ったんだ?」
「驚かなかった」
「はあ?」
「私の顔の傷。驚かなかった。元々知ってる奴くらいしかそんな反応はできないんだ。だからもしかすると、前もって私の特徴を誰かから聞いているのかもしれないって思ってね。そしたらビンゴ」
笑いながら顔の傷をなぞるBJの姿に、キリコは何とも言いにくい気分になる。察したBJは話題を変えた。
「実際問題、保証人が夕方に手術をしたって話がさ、おまえさん──今リアルタイムでニューヨークにいる闇の人間よりも早く掴まれてたってことなんだから。おまえさんが大好きな株価に影響することになるかもしれない」
「大好きって言うか大人の嗜み程度で……まあ、確かにそうだな。死なれたら大暴落だ。ファミリーの内通者がいる可能性が高いな」
「あ、それいいなあ」
たちまちBJが顔を輝かせる。キリコから見たら全く可愛らしいものではなく、目がドルマークになっているような気すらした。
「いいのかよ」
「最高、最高。──起きなよ、店員くん」
まだ壁に縫い付けられたまま失神している店員の顔を笑顔で容赦なく張り飛ばし、BJは目を覚ました彼に向かってにんまりと笑った。
「店の電話、貸しな」
こいつは頭がいい、だが頭がおかしい。キリコは今日最大の自信をもって断定した。
だってそうだろう──もはや溜息をつく気にもなれない。
──だってそうだろう。今しがたぶちのめした男を叩き起こして店の電話を貸せと言うなぞ頭がおかしい。そして何より、保証人になってくれる相手が危機に晒されていると知って目をドルマークにするなぞ、俺が知ってる奴の中でブチ抜けて頭がおかしい。本当におかしい。──アメリカ合衆国大統領が危機に晒されて喜ぶなんて。
「ありがとう、先生。よく気付いてくれた」
「偶然だったの。でもお役に立てるなら嬉しいわ」
合衆国大統領閣下が目尻を下げ、まるで娘や姪を可愛がるようにBJに親愛のハグをする。そしてBJの口からすらすらと流れ出るのは何とも可愛らしい女言葉で、しかも日本訛りを普段より強調する念の入れようだ。キリコ自身にその好みの傾向があるので分かるのだが、日本人女性の日本訛りの英語はすこぶる可愛らしく聞こえるため、好む欧米男性が少なくない。
BJの素晴らしいまでの下心を垣間見たキリコは、彼女のコートを持ち、わたくしはコートハンガーでございます、皆様の御事情には関係ございませんと言う顔を貫きながら心の中で「今後こいつをやらずぼったくりのクソビッチと呼んでやろう」と決めていた。周囲のSPたちが自分の風貌に警戒していることが分かるため、よりコートハンガーに成り切る努力をする。
「閣下が公務でニューヨークにいらしてるニュースは色んな人が知っていたでしょうけど、まさか公園の怪我のことまでこんなに早く回るなんて。わたし、怖くってたまらなかったわ」
「大丈夫だ、そんな恐ろしい話、明日には夢になっているよ。先生を誘拐だなんてとんでもない。もう手配してあるからね、安心してくれて構わない」
「違うの。内通者がいるかもしれないなんて、閣下に何かあったら──」
「合衆国大統領ともあろう者が、マフィアなんぞにやられるわけがないさ」
でも心配をありがとう、と大統領は今日知り合ったばかりの相手にするにはやや熱が入り過ぎたキスを頬に落とす。SPや秘書たちの警戒度が上がったことを感じ取り、キリコはますますコートハンガーとして生きていこうと言う思いを強くする。大統領の意思とは言え、モグリの医者に近すぎるのだ。もしBJが何か不審な動きをした途端、SPたちは銃を抜くか、BJに飛びかかって抑え付けることだろう。
「閣下、あの、──あのう」
うわあ、俺、コートハンガーのくせにこいつが可愛いって思っちまった──キリコは恥ずかしがる演技をするBJを見て、つい人間に戻りかけてしまった。
「どうした?」
「その──日本では、結婚する人以外にキスをしないの。だから、その」
「それは済まなかった! そうだ、そんな話を聞いたことがある──済まなかった、本当に申し訳ない!」
「あ、違うの、だから、その──違うのよ、嫌じゃなかったけど、でも恥ずかしいから! 嫌じゃないの!」
ここまでやるか、とキリコはいっそ感動していた。BJの営業はハリウッドの女優が裸足で逃げ出してもおかしくないほど可愛らしい。そして大統領は今、オペの時の毅然とした彼女の態度を思い出し、そのギャップでますます彼女への好意を膨らませることだろう。
「わたし、こんな傷があって──嫌じゃないけど、わたしを見てびっくりする人ばっかりだから、余計に引け目を感じてしまって」
ソファに場所を移してまで続く雑談の中、BJが会話を誘導したことに気付いたキリコは、コートハンガーとしての努力を最低限に抑えて聴覚を研ぎ澄ませる。どうせ「閣下は驚かなったみたいだけど」とでも付け加えるんだろう、と思ったが、その予想は裏切られた。
「公園でお会いした時、閣下も驚いてらしたでしょ」
「いや、その──すまない、気を悪くしたね。あの時は──」
「違うの。謝らないで。驚いたお気持ちを隠そうとして下さったでしょ? とっても嬉しかったのよ」
オネエサン、どこのお店? 俺指名しちゃうよ? キリコの思考は最もなのか、それとも現実逃避なのか。あのBJが。早漏だのキンタマだの尻穴だのと平気で口にする酒に汚い女が。まさかここまでできることに──いや、やってしまうことそのものが余りにも衝撃だった。
大統領はほっとしたように息を吐き、あの時の自分は上手いこと隠せていたのだ、と信じることができた。同時に女を傷つけなかったという事実に、男としての自尊心がくすぐられる。
「でもね、閣下のように思って下さる人の方が少ないのよ」
「残念なことだ。みんな等しく神の子なのに──ああ、泣かないで」
可愛らしい日本人女性が目の前で涙ぐんだ姿を見て、胸が締め付けられた大統領は彼女の手を取る。俺もその立場ならそうしていただろうね、相手がBJじゃなけりゃあね、とキリコが心の中で呟いたことも知らず。
冷めた目で、だがBJの営業能力に感心しながら一連の光景を眺めていたキリコだったが、BJが次に言った言葉でひとつだけ残った目を見開いてしまうことになった。
「わたし、ベトナムに行ったの。彼も軍医として行っていたわ」
「何だって?」
部屋中の視線が集中し、ああ、俺はもうコートハンガーとして生きて行くことをBJによって禁じられたのだ、と諦めたキリコは、見詰めて来る大統領に軽く目礼した。
「──その目は?」
「お話しするまでもございません」
「……失礼した」
「恐れ入ります」
「彼に椅子を」
そろそろ疲れていたキリコにとって、大統領の指示は有り難かった。「客人のお供」から「大統領として表向きは敬すべきベトナム帰還兵」にランクアップしたからだと分かる。この国の政治家にとってベトナム帰還兵は厄介なものなのだ。しかも傷痍兵となれば、更に厄介だと思われていたとしても仕方がなかった。迂闊な対応はできないだろう。かと言って深い話をしたいはずもない。敗戦以来、どの政治家もベトナム関連の問題を忌避し、敬意を払う振りをしながら、必死で視界から追い出そうとする。キリコはよく分かっていた。
正直、面白い気分ではなかった。先ほどまでBJの信じられないような女の顔での営業を眺めていた時間が既に嘘のようだ。──なぜ俺の話なんぞしやがった。同情を引いて金だの地位だのを引き出す材料にされるために俺はベトナムに行ったわけじゃない。このクソビッチ、いい加減ぶっ殺して──
「彼は恨んでいないの。誰のことも」
──……ぶっ殺してやろう、って今思いかけたけど、もう少し聞いてやろうか。そうか。恨んでいないのか。そうだな。俺は──恨んでいない。意外だよ。そんな話、絶対したことがなかったよな。
先生が、俺が誰のことも恨んでないって知ってて、それが営業の嘘の言葉でもね。意外だし──何だ、何だよ。とんでもねえよ、このクソビッチ。
嬉しいって思っちまったじゃないか。ちょっとだけな。
「閣下はさっき、みんな等しく神の子だっておっしゃったわ。本当にそう思ってらっしゃるって、わたし、信じてもいい?」
「ああ、もちろんだ。信じてくれ」
「信じるわ。──だからよ。どんな傷を持っていても、彼もわたしも、──ベトナムの傷を恥じることなんてないし、恨んでもいない。国も宗教も違うけど、でも等しく神の子なんだもの」
「うん。──うん。ありがとう、先生。──ありがとう。ああ、すまないね。ちょっと……」
「閣下、ごめんなさい。わたし、きっと失礼なことを言ってしまったのね」
「そうじゃないんだ」
大統領は目元を抑えた。だからキリコは思い出した。そうだ、この大統領──ロンと言う愛称を持つこの大統領は──
「私はベトナムを忘れようなんて思ったことはなかったんだ。分かっていてくれるんだね、先生」
「ええ、もちろんよ。閣下がとても偉大な大統領だって、ベトナムに行ったからこそ分かってるわ」
──この大統領は、ベトナム兵の労苦を覆すかのように──強い政治を目指す男だった。俺は知ってる。ベトナムを忘れるためだ、なんて言う奴もいる。俺が仕事で出会った帰還兵にもそんな男がいた。でも俺は知ってるし、──今、本当に分かった。
「彼だって分かってる」
BJの指が大統領の目元を拭った。SPたちも秘書も動くことはなかった。キリコも動きはしなかったし、泣いた男を揶揄する気持ちにもなれなかった。
「等しく神の子だから、閣下も悩んだり苦しんだりなさって、それでもベトナムの記憶を救おうとして下さってるのは分かっているの。神様の愛をご存知だからでしょう?」
「そうとも。──そうだとも。すまない、さっき私は安心したんだ」
「何を?」
「先生が傷ついていないと分かって──先生を見た時に驚いてしまったことを、先生が傷ついていないと分かって。すまない。安心するなんて。どんな姿でも、どんな傷があっても等しく神の子なのに、私は何て──」
「誰だって驚くし、いいのよ。いいの、もうそれはおっしゃらないで」
それからBJは辛抱強く大統領の懺悔を聞き続けた。もしこの部屋の中の誰かが内通者だったら一大スキャンダルになるだろうな、とキリコが思う程度には深すぎる懺悔だった。だがその心配はないのか、むしろSPも秘書も、冷静な顔を保とうとして失敗し、目元を真っ赤にしている。ここに内通者がいたとしたら相当な演技派だと言うしかない。
相当な時間が経ち、大統領が落ち着きを取り戻し、キリコが「今聞いたことをベッドに入るまでに忘れないと明日の太陽を拝めないんじゃないか」と危惧し始めた頃、BJが言った。
「たくさんお話ができて本当に嬉しかったわ」
もうおしまい、という意思表示だ。
「傷の話から、本当にごめんなさい。苦しいお話をたくさんおっしゃって頂いた気がする」
さりげなくカウンセリングしてたくせに、とキリコは心の中だけで彼女に突っ込む。どちらかと言えばキリコの領分なのだが、この天才外科医は心療医学に関しても才能があるらしい。
「わたしとあの彼、仕事以外のことはすぐ忘れちゃうんだけどね」
笑って付け足された言葉に、部屋にいたキリコ以外の誰もが心底の安堵の表情をした。
「ありがとう、先生。それにしても人の心は難しいな。気にしないと考えるだけでも偽善なんじゃないと思ってしまう」
「偽善の何が悪いの。神様が責めなければ偽善も愛よ。わたしだって──そう、閣下が保証人になって下さるあのアパートのことなんだけど、あれだってきっとわたしの偽善よ。でも同意して下さって嬉しかったわ」
「ああ、あの。今日は手続きができなかったのかな、連絡を待っていたんだけど」
「そうなの。時間が遅くって。その後に今日の騒ぎになって」
BJは世間話で大統領の一日を終えてやろうとしている。これも患者に対する気遣いなのだとキリコは知っていて、外科医を辞めたら心療内科で食って行けるよと本気で思った。
「彼が守ってくれたの。軍医だったけど、さすがね。凄く強くてあっと言う間だったのよ。みんなやっつけちゃったんだから」
思わずキリコはぽかんとしてBJを見る。守るも何も、人間を的にして楽しそうにメスダーツなんかしてたくせに──だから俺があいつらを──高速で内心そう突っ込んでいた時、感極まったように大統領が立ち上がり、速足でキリコに近づく。そして強くキリコの手を握った。慌ててキリコは立つはめになり、落としそうになったBJのコートを何とか腕にかけることに成功した。──コートハンガーとしての役目は我ながら完璧だ。だがなぜ大統領閣下はコートハンガーの手を握るんだ!
「か、閣下?」
半ばパニックになるキリコと、感動しきった顔でその手を握る大統領を交互に見比べ、さすがのBJも唖然としてしまっていた。
「あなたの素性は詳しくお聞きしない」
「とっくに秘書さんがたが調べてご存知でしょうに」
この部屋に入る前、ともすればBJが店から電話で連絡をした数分後には、優秀な秘書たちが調べ上げていただろう。
「ドクター・キリコ、確かに。だが今はあなたに礼を言うべき時なんだ。──先生を守って下さってありがとう。先生とは今日会ったばかりだが、人生で何人も巡り会えないような大切な人だと思い知っている。本当にありがとう」
大統領は感動から興奮しきりで、キリコが手を離すまでに結構な難儀を必要とするほどだった。苦笑したBJが割って入り、ようやく離すことができたほどだ。
「ああ、先生、悪かった。アパートは明日でいいんだね?」
「ええ、朝一番で行くからすぐに連絡できると思うけど、ご迷惑だったら塩梅の良い時間を教えて下さる?」
「迷惑だなんてとんでもない。何なら一緒に行ってもいいくらいだ」
「閣下より閣下の周りの皆さんが嫌な顔をしてるわ、残念だけどそれはごめんあそばせ」
さすがにうんざりした顔になったSPと秘書たちをぐるりと眺め、大統領は「すまない」と彼らに軽率な発言を謝した。
「でも、本当にあのアパートは重要だ。お金は大丈夫なのかい? 私だって少しは──」
「保証人になって下さるだけで充分よ! あとはさりげなく、あの部屋がNPOのリハビリ相談センターになるってことを誰かにお話しして下さったらもっと嬉しいけど」
「は?」
俺は何て間抜けな声を出しやがったんだ──我ながらキリコは思った。NPO? リハビリ相談センター? プライベートで買うのではなかったのか?
キリコの疑問を察したBJが、ああ、そういえば言ってなかったっけ? と呟く。そして自分の顔の大きな傷を指でなぞって見せた。
「戦傷でも、事故の傷でも。 心の傷だっていい。悩む人が愚痴を零せる場所を作る。もちろんベトナムの傷痍兵もみんなオーライ」
「私が保証人ならNPOへの寄付も集まりやすいさ」
「だから宣伝なさってね、閣下。もちろん公職のルールに触れない程度に、よ」
「もしかしたら不動産屋の誰かが世間話をするかもしれない。もしかしたら、ね」
大統領は上機嫌でBJにキスをしようとし、そして日本人のマナーを思い出して、慌ててハグに切り替えた。本当はハグもしないけど、でも閣下ならいいわ、とBJはすかさず言って、彼の心臓に自分への好意をピン止めすることに確実に成功したのだった。
「あんな場所にそんなセンターを作ったら、ベトナムを忘れようとする金持ちだって無視できやしないもの」
凄く嬉しい。BJはそう言って笑った。女の顔ではなく、キリコが知るBJの顔で笑った。
ああ、可愛いな。その笑顔を見て、キリコは心の底からそう思った。
結局キリコまで大統領のゲストルームに宿泊した。正確に言えば固辞したのだが、ぜひ一緒に朝食を、ぜひおもてなしを、先生の恩人は私の恩人だと大統領に粘られ、諦めざるを得なかったのだ。誰が恩人なんだか、と大統領が先に寝室に引き上げた途端、いつもの調子に戻ったBJが憎まれ口を叩き、恩知らずなら飲み代とチップ代を返しな、とキリコもようやく減らず口を返すことができた。そして恐ろしく眠くなり、トラブルなど日常茶飯事の人生だが、今日は格が違うトラブルで精神が疲れ果てたことを自覚しながら上等のベッドで眠りに着いた。
翌朝の朝食の席ではまたBJの「THE女の営業」を見せつけられ、胸やけを覚えてしまい、シンプルながら上質な朝食の味がさっぱり分からなかった。可憐な日本人女性と言う設定にしては多すぎる量を次々と平らげるBJは、それでもしっかりとたまに恥ずかしがる振りをし、だって昨日の夜はなんにも食べてなかったんだもの、と大統領に言い訳をして見せる。大統領はそれすらも愛らしく思ったのか、実に健康的だ、素晴らしい、今時の女性はダイエットばっかりで──と称賛することしきりだった。
朝食の後は少しばかり雑談をし、BJが大統領のヘルスチェックの真似事を──BJは本気でチェックしたのだが──して、ひとしきり大統領が楽しんだ後、散々惜しみながらの別れの時間を迎える。ハリウッド映画よろしくのもったいぶった別れのシーンが目の前で繰り広げられ、キリコは今すぐコートハンガーになりたい、こんなシーンは無機物として存在するのが一番ラクだ、と思ってしまったのだった。
「ドクター・キリコ、先生の今日の契約を見守ってくれ。身の安全は手配してあるが、あなたのような人が傍にいてくれるのなら心強い」
「ええ、光栄ですよ。承りました」
面倒くせえ、断られるなんて思ってない顔で見やがって! ──無論そんなことは言えない。この大統領に思い入れがあるわけでもなければ、政治的な支持をしているわけでもないが、あのアパート、ひいてはあの目的そのものの保証人となる。聞いてしまった以上、自分の感情で大統領の機嫌を損ねられるほど、キリコは自分で思うような冷酷な人間に成り切れてはいなかった。
「そういや、本当に昨日の夜は何も食べなかったな。そりゃあ先生も朝から分厚いベーコンエッグを3皿平らげるはずだ」
車を用意すると言われたが、気ままに観光もしたいから、と言う建前でBJが断り、二人は道すがらで拾ったタクシーに乗っている。実際はキリコが疲れすぎていたことを見抜いたBJの配慮だった。
「空腹だったのは事実だけど、あれは結構きつかったよ」
「無理しなきゃ良かったのに」
「おまえさんだって全然食べてなかったじゃないか」
「先生の食べっぷりに胸やけがしてたのさ」
大統領の前での可愛らしい言動はどこへやら、座席でふんぞり返って脚を組み、いつも通りの言葉に戻っている。キリコはそれを特に惜しいとは思わない自分に安堵した。
「酒ならいくらでもいけるんだけどなあ」
「先生は少し、綺麗な飲み方を覚えるべきだね」
「何だって?」
「いいえ、なんにも。──まあ、少食を気取る女よりはあの年代のオッサンにウケるだろうよ」
「まあね、でもあれ以上食べるとドン引かれる。塩梅が難しいんだ、ああいう手合いの営業は」
「営業ねえ。お見事なもんだったよ。俺はコートハンガーになるしかなかった」
「何それ」
「こっちの話。──ところでさ、先生」
「ん」
「何でベトナムの話で終わりにしたんだ」
急に話を変えられたと理解したBJは、ゆっくりと隣に座るキリコを見る。タクシーは朝の渋滞に巻き込まれ、苛立つほどのろのろと走っていた。
「終わり、って?」
「俺はベトナムを恨んじゃいない。この国も、この国のあの日の政権もね。でも」
眼帯を指でなぞる。昨夜はこの奥の記憶が役に立った。恨んでなどいない。憎んでもいない。ただただ、思うのは──いや、今は俺のことじゃあない、と意識を隣の女に戻す。
「でも、先生の傷はベトナムじゃないだろう」
「……そうだね」
「言っても良かったんじゃないか」
「誰に」
「大統……保証人に。聞く義務はあるだろう。あの人はそういう立場だ」
ずっと昔。まだきっとあの保証人もせいぜい一兵卒だった。戦争があった。どちらが悪いかなんて、そんなのは勝った方が決めることだから話し合いたくはない。でも確かに言えることがある。あの時の不発弾は。罪のない母子を、文字通り引き裂いたのは──
「──やめて、この話。好きじゃない」
「先生」
「好きじゃない。つまんない。言ったって仕方ない」
「先生、──好きじゃないのは悪かった。でも、先生が言ったっていいこともあるだろう」
「あの人に言ってどうにかなる?」
「ならないね」
「じゃあ、どうしてこんな話をする?」
「だって、先生。あのままじゃ」
先生はベトナムを悪役にしておしまいにしちまったじゃあないか。
「……どういうこと」
「──いや、何でもないよ。悪かった、変な話だった。もうおしまい」
「どういうことって聞いてるんだ。答えろ」
「俺はここで降りるよ。──ああ、すまない、彼女を頼む」
「キリコ!」
タイムズスクエアまで行くには充分な料金と多少のチップをドライバーに渡すキリコに、BJは思わず声を荒げる。キリコは彼女に構わずに扉を開け、渋滞で鳴り響くクラクションの喧騒の中に降りた。
「キリコ!」
続いて降りようとしたBJを止めるため、長身を折り曲げて車の中に上半身だけを戻す。せっかちなクラクションの洪水音を聞きながら、自分を見上げるBJの顔を見下ろし、ああ、と思った。
ああ、可愛いな。
だからキスをした。
「じゃあね、ゴージャス。楽しかったよ」
そうね、アイ・キャンディ、わたしもよ。彼女がそう言ってくれることを期待した。だがそれは有り得ないとすぐに理解し、我ながら優しいと信じられる微笑みを投げかけてタクシーの扉を閉めた。
扉の向こうにBJがいる。もうキリコを見てはいない。
唇を抑え、真っ赤になっていては、男を見送ることなどできはしないだろう。
キリコはもう一度彼女に向かって微笑んでから、雑踏の中に歩み始めた。