珍しくキリコが酔っ払っている。そんな日もある。でもいやらしい酔い方であるはずがなく、普段より少し唇の端が持ち上がることが多くなったり、普段より少し私の髪や頬を撫でる回数が増えるだけだ。誰にも迷惑がかからないんだったらいくらでも酔えばいい。私の酔っ払い方よりよっぽどましだ。あ、私は本当に酷いからトップシークレットってことで。
キリコの家で夕飯を食べていて、デイリーワインを一本空けて、二本目はやめて、どうしよっかなって考えてたら簡単なカクテルを作ってくれた。飲みながらリビングのテレビを見るのが好き。テレビはどうでもいいことが多いけど、一緒に何か、同じものを見るのが好きなんだと思う。
私に作ってくれたちょっと甘めのカクテルは、スパークリングワインに桃のネクター、ざくろのシロップを入れて氷と合わせるだけの簡単なやつ。美味しい。キリコは同じスパークリングワインに林檎のリキュールを目分量で合わせてた。私やユリさんには丁寧に作ってくれるのに、自分の分はいつもすごく適当に作るから不思議。
昔はいつでもちょっといいワインを開けてくれたけど、それも嬉しかったけど、でもある日、デイリーユーズの──それでも充分美味しいんだけど──キリコにとってはいつものワインが出て来て、作ってくれたご飯もいつもよりお洒落じゃなくって、まあ、それでも充分すぎるほどお洒落なんだけど、それでも何て言えばいいんだろう。
普段着、って言えばいいのかな。
すとん、って、はまった。
はまる、って言い方が正しいか分からないんだけど、ああ、わたし、このひとの日常の中でご飯食べるんだ、って思ったんだ。
そう思ったら、また、すとん、ってはまった。ああ、このひと、わたしの日常の中でご飯食べるんだ、って。
特別なことじゃなくなったんだなあ、って。
そのタイミングが二人して同じだったんだなあ、って。
それが、すとん、って私の中にはまって、それ以来その部分が「当たり前」って名前になって、動かなくなった。
前だったらキリコが何でも先回りして用意してくれて、それがパーフェクトだったから、それもスマートで何て素敵なのって思ってたんだけど、今はそうでもなくなった。だからってスマートで素敵じゃなくなったわけじゃなくって、これも「当たり前」の部分にぴったり収まってる。
「甘いの食べたい」
「うーん、何かあったかな」
私もそこそこ酔ってるから、グラスを片手にキリコに懐く。キッチンにデザート探索に出かけようとしたキリコが機嫌よく笑って、立てねえよ、って言う。私はわざとしがみつく力を強くしたりする。また笑ったキリコがキスをしてくれるまで離さない。
「ちゅーしてくれたら離す」
「じゃあしない」
「何それ、ひどい」
「離してもらいたいわけじゃないし」
「何それ」
私は笑った。嬉しかった。愛情を向けられれば嬉しい。そんなの当たり前。日常の中なのに、何度も嬉しいって思えることのひとつだ。
他人には──ううん、ピノコやユリさんにだって──見せられない、キリコの背中に抱き着いたまんまで一緒にキッチンに行く。ええ、わたくしども、これでもモグリの天才外科医と死神の化身でございます。お見せしません、できません。
「チョコレートとか?」
「そういう気分じゃないな。カクテルが桃だったから、口の中がフルーツ」
「バナナと林檎と、あと何だっけな、クランベリーがあったな」
「どれも単独で美味しい」
「まあ、ここまで来たことだし」
「どこまで」
「おまえを釣るための材料がたくさんあるところ」
そりゃあキリコの家のキッチンですから。いつだって美味しいものがスタンバイしてるすごいとこなんだから。
何もしない私が纏わり付いてもキリコは器用に、それこそいつものことだから、って顔で、なぜかクリームチーズと生クリーム、ヨーグルトをがっと泡立てる。うちには常備されていない食材ばっかりだ。でもこれはキリコの家だと当たり前、割といつも普通に置いてある。
何してるんだろうと思ったら、そこに小さく刻んだフルーツを入れて混ぜ込んだ。すごい。最高。食べなくたって分かる。これ絶対美味しいでしょ。
「スポンジの切れっ端なんかがあると美味いんだけどな。生憎、そんなものがない」
「あれあった」
「何」
「バゲット。薄く切って、ちょっと焼いて。あったかいうちにのっけて食べたい」
「料理ができないのに天才の発想だね」
んー、って、ちょっとふざけた声をくぐもらせながら私の頬に唇をぎゅーっと押し当てて、キリコはバゲットを切りに取り掛かる。
まだボウルの中にあるクリームまみれのフルーツが美味しそうで、勝手にスプーンで直接すくって食べる。美味しい。すごく美味しい。
私の無作法に「こら」って言った死神に、同じスプーンでSay ahh、つまり「あーん」ってやる。こらって私を叱ったばかりの男が言われた通りに口を開けるのも、今じゃ誰にもお見せできない日常。
「レモンでも絞ればよかったかな」
「食べる時に絞れば?」
「なるほどね」
言って、私の唇をぺろりと舐める。あ、これ。もう分かってる。慣れた。だっていつものことだから。
えっちしたくなっちゃったやつだ。
そりゃ分かりますとも、いつものことだし。よくあることだし。
でも不思議と、セックスする時はいつでもまだ緊張──緊張じゃないのかな。何だろう。いつものことなんだけど、いつもするセックスなのに、いつも特別な気分になる。
一緒にいられる時間の中で、一番距離が近くなるからかもしれない。私が死ぬほど好きな距離だからかもしれない。本当はそれくらいの距離にいたい。あ、年がら年中えっちしたいわけじゃないから、念のため。キリコはたぶんしたいだろうけど。こいつすごいエロいから。
「まだ食べてないのに?」
「冷蔵庫で寝かせた方が馴染んで美味いよ」
「ふうん?」
「無理だしね」
「何が」
「エロいから。クリームつけてさ」
言って、私の唇の端を舐める。何を言っているのかすぐに分かって。我ながらちょっと赤くなってしまった。このエロ死神、そんな連想する方がエロい。
「そのまま寝るのは無しにしてよね。これ食べたいからちゃんと作って」
「ちょっと酔ってるから寝ちゃうかもな」
「そんなんならしない、した後に寝落ちする死神なんて最低」
「じゃあ寝ないようにここでしよう。寝る場所がない」
「ここで? 馬鹿じゃないの?」
「馬鹿で結構」
セックスするのはいつものことだけど、キッチンは想定外。非日常。すとんってこない。でも私が何を言おうがキリコの指はあっという間に私を脱がせてしまって、ええい、もう、この神技、何度やられてもどこで修行しやがったんだって……やめよう、私は嫉妬深くてまずい。
なんて自省しているうちに退っ引きならないくらい触られて、もう馬鹿みたいにきもちよくって、馬鹿みたいにきもちいいのっていつものセックスと一緒で、そうか、非日常だと思ったキッチンでのえっちも日常なんだなって、そういう、ああもうごめん、きもちいいからまた後で。
めちゃくちゃきもちよかった後は、ほどよく冷えたフルーツとチーズクリームを、焼いたバゲットに乗せて齧る。美味しい。すっごい美味しい。
「そう言えば」
服を着るのもめんどくさくって、下着にいわゆる彼シャツだけでリビングで食べてたら、ジーンズだけ適当に履いたキリコがエアメールを持って来た。
「バスマから手紙が来てた」
「え、見せて」
「はい」
ドーハで世話になったホテルの通訳の女性からだった。またホテルにいらして下さい、と書いてある。またいらして下さい、奥様とご一緒に。
「結局バスマも他の連中も、私が奥様じゃないって最後まで気が付かなかったな」
「まあ、俺たちの歳も歳だからな。そうしておいた方が彼女たちの世界では理解しやすいんだよ」
「なんてことかしら! 指輪ももらったことがないのに!」
ふざけて言って手紙をキリコに返す。指輪とかは別にどうでも良かったし、ただのおふざけだったんだけど、手紙を片付けたキリコに急に言われた。
「欲しいの?」
「何?」
「指輪」
「しないし。私の仕事は何だっけ?」
「外科の先生だね、確かね」
「正解です」
「欲しいの、って訊いたつもりなんだが」
「しないし。って言ったつもりなんだけど」
「ふうん」
私の隣に座って煙草に火を点けて煙を吐き出すのは日常の光景。でもちょっと今、何だか違う成分が入ったような、入らなかったような。キリコがくゆらせる煙の中に隠れちゃいそうだった。
でも、だって仕事が仕事だし、衛生面とかさ、色々あるし──ああいうのって何の意味があるのかよく分かんないし、分かんないけど、分かんないから、……嘘、いらないって言えない。でも仕事が。ああ、変な答え方しなけりゃよかったな。
キリコはまた雑に作った酒を飲んで、私を見た。唇の端っこを笑いの形に持ち上げて、言った。
「欲しい?」
分かってるくせに。こういう意地悪をほどよい加減でやってくるのも当たり前になってて、されるばっかりの私はちょっと悔しい日常の一瞬かも。
そんなのいらない、って、少し昔の私なら言っちゃったと思う。それで絶対後悔して、察してくれたキリコが慰めてくれるところまでワンセット。
でも今はそうでもない。
言ってもいいんだよ、って、長い時間をかけて教えてもらったから、言いたいことを好きな人に素直に言えることが、日常の中に当たり前のこととして納まってる。
相変わらずちょっと緊張するけど、でも怖くはない。わがまま言って嫌われないかな、怒られないかな、って、好きな人に対して心配しなくてよくなった。ちなみに昔の男の場合だと、これに殴られないかな、蹴られないかなってのが入ったけど、キリコは最初からそんなことしない。そこはご心配なく。
「欲しい」
「ふうん」
いいよ、って言ってくれるかと思ったのに。何だ、期待させただけか。──って、あれ、期待してたか。そうか。期待しちゃってたか。……良くない? 好きな男に指輪もらえるかも、って期待したって良くない? 仕事柄つけられないからもったいないし、実際のところはいらないって言うべきかもしれないんだけど、でも欲しいものは欲しくない?
「今すぐは用意してないからなあ」
「そんなの分かってる。いいよ、別に」
少し酔っているキリコは笑って私の左手を取った。
「本物はそのうちね」
今はこれでね。って言って、キリコは私の薬指にキスをした。
ぶわって、何て言っていいか分かんない感情が湧き上がって、何だか私は大変なことになっていたみたい。いつの間にかキリコがごめんごめんって苦笑しながら謝ってて、要は私はパニックになっちゃったってこと。
「そ、そういうのは」
「うん、ごめんね」
「そういうのは、だから、──酔ってない時にしてよ、無神経の馬鹿死神!」
そりゃそうだ、ごめん、ってまた謝りながら、それでも笑うキリコがにくたらしくってばしばし叩いているうちに私も笑い出して、結局二人で笑い転げて、いつもよりたくさん笑いながら仲直りのキスをした。当たり前の中に、違う当たり前が増えた。たかが指輪って言わない。素直に嬉しかったし、やっぱりかっこよかったし。酔っ払っててもね。
当たり前の中に、日常の中にびっくりするくらい突然に、新しいことって増えていく。それがまた、すとんって音が聞こえそうになるくらいに心の中にはまりこんで当たり前になるって、キリコと一緒にいると分かる。
今日も増えた。いきなり。突然。それでももしかしなくても当たり前かも。
前よりも好きになっちゃった、って。すとん。