ソーダ水は果汁無し



【以下の方は閲覧をおやめになった方が良いかもしれません】

・モブ女性と(大人の意味で)遊ぶキリコがNG
・スパダリじゃないキリコがNG
・格好いいところがひとつもないキリコがNG
・身勝手で情けないキリコがNG
・冗談抜きで最低男なキリコがNG

ご注意をば。

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 考えるまでもなく、また悪い癖が出たのね、とユリは溜息をつく。知ったのは偶然にすぎなかった。ユリの行き着けのカフェの店員が教えてくれたのだ。お兄さん、勘違いかもしれないんですけど、と前置きをされた時点で、やりやがったわねと直感したことは確かだった。
「たまたま見かけたんです。最初は人違いかと思ったんだけど──でも、ユリさんのお兄さんのことを見間違うとは思えないし」
 買い物帰りの荷物持ちに呼び出す時、このカフェで兄と待ち合わせをすることがある。兄の恋人であるBJと、彼女の宝物であるピノコが一緒のことも多い。だから店員は兄をよく知っている。兄とBJが恋人同士であることも。
 しばらく鳴りを潜めていたが、兄の悪い癖──ちょっとした病気かもしれない──が出たのだ。全てを聞くまでもなかった。
「どんな女性だったのかしら?」
「あら」
 店員は「知っていたのか」と言う顔でユリを見た。
「お兄さん、そういうこと、その、よくやるんですか?」
「最近は先生──パートナーね。彼女に夢中だからおとなしかったけど、慣れて油断したんだと思う。昔は酷かったのよ」
「そうなんですか。……まあ、かっこいいですもんね、お兄さん」
 店員の言うことに異論を唱える気はないが、これは由々しき問題である、とユリは結論付けた。要は兄がつまみ食いをしたと言うことだ。この店員はBJにも好意的で、だからこそ心配してユリに教えたのだろう。その親切に感謝し、ユリは詳しい話を聞くために、カプチーノのお代わりを注文した。


「聞いたわよ」
「何だよ」
 家に帰るなり眦を吊り上げてきつい声を投げ付けて来た妹に、キリコは眉を顰めて返事をする。歳の離れた妹には弱いが、かと言って不戦敗も兄として癪だ。
「あのカフェの、いつもの店員さんに聞いたの。見られてたわよ」
「何を」
「先生よりちょっと年上の、胸が大きい女の人と資生堂パーラーにいたんですって?」
「ソーダ水が飲みたいって言ってたからな」
「安く上げたわね」
 何だそんなことか、とでも言いたい顔でしれっと返事をした兄に、ユリは思い切り溜息をついてみせる。
「先生に知られたらどうするのよ。店員さんは絶対言わないって約束してくれたけど」
「知られないようにするのがマナーだろ。馬鹿を言うなよ。あいつが一人じゃ行かない店にしてる」
「店員さんに見られてるじゃないの! 何回会ってるのよ!」
「二回」
「せめて一回でやめておきなさいよ!」
 引っ叩いてやりたい衝動を抑えつつ、ユリは言った。
 だが兄がいつの間にか、凄惨な記憶の傷とかなり上手く共存するようになっていたということを実感したのも確かだった。公言は憚られるが、女遊びはその証明だ。
 自分がまだ幼く、そして兄が今よりも若く社交的でよく心からの笑顔を見せていた頃、たびたびこんなことがあった。両親も苦笑していたものだった。
 復員後はとてもそんなことができる状態ではなかったし、生き方も大きく変わっていた。それが今になって少しずつ、変わりはしたものの、昔の兄を思い出すような面が見え始めていることも確かなのだ。
 かと言って今はBJという存在がいる以上、兄は今後も女遊びに手を出すべきではない。兄のことだ、決して知られないようにすることは確実だろう。
 だがやはりBJは今までの女とは全く違う。無論、兄が過去の女とは比較もできないほど大切にしていることも事実だし、彼女の力があってこそ、記憶の傷との共存が推し進められたと理解している。兄もそれはよく分かっているはずだろうに、ユリは溜息をつくしかない。
「日本で言うなら、そうね、『浮気は男の甲斐性』って時代じゃないのよ、分かってる?」
「浮気? 俺が? おまえ、何を言ってるんだ」
 ユリは心底の頭痛を覚えた。これだ。兄はこれがおかしいのだ。昔からそう思っていたが、今改めてこの歳になると強く強く思う。
 兄が言いたいことは理解している。同意ではないが知識として理解はする。
 つまりこうだ。あくまで遊び、相手への気持ちなど微塵もない。
 もっと端的に言ってしまえば「やりたいだけ」。浮気という自覚は全く持てず、要は男性にとっての風俗遊びと変わらない感覚なのだ。恋人が知れば不快になるから言わない、ただそれだけ。
「根底が女性蔑視なのよね、にいさんは。恋人も浮気相手も馬鹿にしてるってこと、どうして気付かないのかしら」
「馬鹿にしちゃいないし浮気でもない。あいつは人生最後の女だし、他の女は通りすがりに目が合うだけだ」
「ほんと最低。にいさんって最低。浮気者は罰を受けるべきよ。ただし先生に気付かれないように」
「浮気じゃないって言ってるだろう」
「そう思ってるのはにいさんだけ。とにかく二度と会わないこと、今後は先生以外の女性に手を出さないこと、先生に知られたらジャパニーズ土下座じゃ済まないって思っておくのね!」
 本気で怒っている妹に「はいはい」と適当に返事をして更に怒らせながら、待ち合せは何時だったかなと考える。二度と会わないことと言われたのであれば、妹に弱い自分としては受け入れざるを得ない。
 だから二度と会わない。今回を限りに。
 要はちょっと気に入って三回目の約束を既に取り付けていて、今回遊んで終わりにするか、と思っていたのだった。
 前回と同じパーラーで待ち合わせをし、質の良い、だが普段使う店よりはリーズナブルなイタリアンでまあまあのランチを。車の運転があるためキリコは酒を飲まなかったが、女にはどうぞと勧める。心得た女は礼儀として一杯だけ、赤のハウスワインを楽しんだ。それから少し車を走らせ、会話を楽しみ、デートマニュアルに模範例として載りそうなコースを及第点でクリアしてから、やはり普段よりもリーズナブルな宿で楽しく遊ぶ。
 その女も遊び慣れていて、これきりと言う話をするまでもなかった。三回も会うなんて珍しいのよ、楽しかったわ、と別れ際に笑って告げ、雑踏の中に消えて行った。いい女だったな、明日あたりまでは忘れないかもな、と思いながら、キリコはその日、帰路に着いた。
 明日あたりまでは忘れないはずだったのに、家に帰って恋人から電話が来た途端にすっかり忘れた。
 珍しく恋人から「二人でどこかに出掛けたい」と言われる。滅多にない可愛い誘いを断る理由など何ひとつない。早く会いたいね、愛しているよと言って電話を切る。妹の軽蔑しきった視線には気付かなかった。


 いつも通りの格好にいつも通りの化粧っ気のなさ。だが最高に可愛い恋人は、迎えに来た男のキスを受け入れてにっこり笑った。可愛い、とキリコは気分がいい。
「今日は私が運転するから、キリコは助手席」
「珍しい。どこに行きたいんだ?」
「銀座」
「ふうん?」
 仕事でもなければBJが近付かない土地だ。人が多い場所をあまり好まない女なのだから仕方ない。だが行きたい場所があると言うのなら好きにさせてやりたかった。BJはあまり自分の希望を言わないのだ。普段も二人でどこかに出掛ける時はほぼキリコが決めてばかりだった。
 T県から銀座まではそれなりに距離があるが、長時間のドライブで今更気詰まりになるような関係でもない。途中で運転を替わろうとしたが、BJは「今日は私が全部決める」と言って拒んだ。滅多にない主張をするBJが可愛くて、キリコは気分が更に良くなり、好きにさせた。
 車を降りれば普段通りだ。人が多いこと以外は問題なく快適に歩けるこの街をキリコは気に入っていた。コンパクトでありながら小洒落ていて、日本独特のにおいがすると言えばいいのだろうか。
 運転で疲れているだろうから近くのサロンで飲み物でも──キリコが恋人への気遣いを発揮しようとした時、BJがまた珍しく自ら主張した。
「喉渇いた。お茶したい」
「もちろん。じゃあ──」
「行きたいとこ、決まってるから」
「あ、そうなのか、珍しい」
 本当に珍しい。意外な顔をするキリコにBJは笑いかけた。
「デートみたいじゃない?」
「いや、デートだろ?」
 キリコも笑い返す。何とも可愛らしくてならない。普段からもう少し外に連れ出して、分かりやすい「恋人同士らしい時間」を作ってやった方が良いのかもしれないな、と思った。
 最近、この店に来たような気がする。BJが決めた店に入り、キリコはふと考えた。この銀座では伝統ある老舗のパーラー。モダンな雰囲気と上質なサービスの割にはリーズナブルで、女性と二人でいる時に一息つくには悪くない場所だ。
 いつ来たっけ、と考えるキリコを尻目に、BJがアテンダントにソーダ水をオーダーした。ソーダ水。何だっけ。漠然と何かを感じつつも、キリコはコーヒーにする。そう言えばビール以外の炭酸を飲むBJは珍しい。
「珍しいな」
「何が?」
「おまえがビール以外の炭酸を飲むのは」
「──うーん、今日は特別かな」
 小首を傾げて答える恋人の可愛いこと、可愛いこと。たまにはいいね、と答える以外に何ができようか。運ばれて来たレモンフレーバーのソーダ水を口にし、慣れない味に目を丸くする姿も可愛かった。とにかくキリコは機嫌がよかった。
 それからふと思い出した。──ああ、この間、あの女と来たばっかりだったな。名前も覚えてないけど。
 ここのソーダ水って女の子に人気があるんだな、あの女もオーダーしてたし。BJの手前、口には出さず、老舗パーラーの洒落た雰囲気とコーヒー、そして目の前の恋人の可愛らしさを楽しんだ。
「あ、帰りは運転して」
「いいよ」
 じゃあランチで酒は飲めないな、でもどこかで泊まってもいいわけだし、とキリコは色々と考える。そう言えばランチはどうする、何が食べたい、と訊こうとした時、やはり可愛くBJが言った。
「お昼、この近くで行ってみたい店があるんだ」
「いいね。何の店?」
「イタリアン」
「ふうん?」
 これもまた珍しい。BJは外食であまりイタリアンを選ばない。和食か多国籍の創作料理、もしくはキリコが選ぶ店ならどこでもいいと言う。
「もう予約してあるから、行こう」
 今日は本当に、自分で全て決めたいのだろう。そんな心持ちになった理由が気にならないわけではなかったが、ずっと笑顔で可愛らしく、普段の気難しさをどこかへ捨てて来ているBJに、どうしたんだ、何かあったのか、と訊いて、今の可愛さを曇らせる選択はできなかった。とにかく可愛い。キリコはすこぶる機嫌が良かった。
 連れて行かれたイタリアンの店の前で、キリコはふと足を止める。ここは、この店は、つい先日あの女と──偶然に苦笑を押し隠しつつ、早く、と手を引くBJを可愛いと思いながら店に入る。先日もいたウェイターはキリコを覚えていた顔をしたが、それもほんの一瞬で、まるで初めて来る客に対するように迎え入れてくれた。連れている女性が違えば、しかも手を繋いでいればそれが正しい接客というものだ。キリコは彼を高く評価した。海外ならチップを多めに渡したかもしれない。
「お食事はご予約の通りでよろしいですか?」
「うん、お願いします」
「かしこまりました」
 料理まで予約を済ませていたとは意外だった。雑誌やメディアで紹介でもされたのかな、とキリコは今日数度目の思考に陥りそうになる。だがその前にふと思い出し、BJに言った。
「俺は運転だから飲まないけど、おまえは飲めよ。せっかく予約までして来たかった店なんだから」
 BJはにっこりとキリコに微笑みかけ、ありがとう、と言った。
「じゃあ、ハウスワインを一杯だけ」
 ボトルを入れてもいいのに、とキリコが言いかけた時、ウェイターがちらりとキリコを一瞬だけ見た後、BJに笑顔を向けて「赤ですね」と問う。普通なら赤か白かを問うはずで、その訊き方はキリコに多少ならず違和感を持たせた。だがBJが「うん」と言ったので、それ以上言及する必要がないと判断した。
「ごめん、ちょっと」
「ああ、うん」
 グラスが供される前にBJがレストルームへ立つ。そこへ素早くあのウェイターがやって来て、テーブルセッティングをしながら、キリコに小さな声で親切めいたことを言った。
「バレてますよ」
「──何だって?」
「ご予約のお食事、前回の女性の時とまるっきりご一緒ですから」
 お客様は目立つから覚えていたんです、と呟き、親切なウェイターは再び姿を消した。
 残されたキリコは少なからず、いや、ここ数年では最も高速で思考する。どういうことだ、いやそういうことなのは分かるがちょっと待て、そう言えば資生堂パーラーでもまったく同じものを頼んでいたし、そもそも人目が多い場所を嫌がるあいつが銀座に来たがるなんて珍しいなんてものじゃないし、それでこの店、同じメニュー? そう言えば酒もハウスワイン、しかも赤を一杯だけ?
「顔色が悪いけど?」
 いつの間にか戻って来たBJが優しい声で言った。
「ああ、何でもない、気のせいだよ」
「それなら良かった」
 BJがにっこりと微笑んだ。可愛かった。だが既にキリコはその笑顔を無条件で、心底可愛いと思えなくなった自分に気付いた。妙な冷や汗をかいている事実にも。
「お待たせ致しました」
 再びやって来たウェイターがBJの前に赤のハウスワインが入ったグラスを置き、理想的な客商売の声音と表情で言った。
「すぐにお食事をお持ち致します」
 死刑宣告にしか聞こえないことが不思議だ、とキリコは思おうとした。無駄な努力だった。死刑宣告だと認めるしかなかった。
 食事は申し分なかった。ランチでこんなに美味しいんだからディナーもきっと素敵だろうね、とBJは可愛らしく言う。ああ、そうかもね、とキリコは答えるしかできない。普段ならじゃあ次は夜に来てみようと言うところだが、もはやそんな口を利ける状況ではないと理解している。
 気のせいだ、偶然だ。まだそう喚きたい自分もいるが、冷静な自分が無理だと告げる。腹を括れ、こいつのことだ、次はこう言うに違いない。
 “ねえ、ちょっとドライブしたい”。絶対に言う。間違いない。
「ねえ」
 キリコにとっては無味無臭の食事が終わる頃、やはり可愛らしい笑顔でBJは言った。
「ちょっとドライブしたい」
「……いいね」
 おお神よ、なぜわたくしにこのような試練を。必死で作った笑顔の下、キリコは神に責任転嫁をしたのだが、神は鼻で笑ったに違いないとなぜか簡単に予想できた。


 ドライブ中もBJは可愛らしく笑っていた。だがその笑顔が貼り付いたものだと既に理解していたキリコは運転に集中するしかなく、話しかけられては生返事をし、その会話の内容も先日の女と交わしたものと被る部分が多々あることに気付いてはとめどなく冷や汗をかく。BJが行きたがる先がやはり全て先日の女と同じ場所であれば、もう観念するしかなかった。
 一通り記憶にある場所を巡った後──正確には巡らされた後──不意にBJの笑顔が消える。同時にキリコの胃が軋む。
「じゃ、ホテル行こっか。予約してるから」
「……どこ」
「何て言ったかなー、普段行かないようなとこー?」
「……ふうん?」
「仕事なら贅沢なとこだけど、こう、デートで二人で行くにはちょっと? みたいな? 割と安いとこ? やれればいい? みたいな?」
 普段のBJからは想像もつかない言葉選びだ。女の子らしい口調ならこの上なく可愛いし、可愛いこと言うんじゃねえよ、と笑ってキスをしてやりたくなるようなものだ。
 だが無感動、無感情、極限まで怒りを抑えていますと言いたげな、地の底から吐き出されるような低いその声に、可愛いなどと寝惚けたことはとても言えなかった。
 耐えられなかった。密林の中の拷問がどれほどましだっただろう。
 つまり、白状した。
「……Aホテルだったかと」
「601号室」
「……いっそ殺して……!」
 部屋番号まで抑えられていた。言い訳どころか謝罪をする余地もないとキリコは理解した。とにかく車を出せ、話があるしキャンセル料取られたくねえからさっさと行けよ、と助手席から殴られ、もうどうにでもなれと思いながらアクセルを踏んだのだった。
 チェックインを済ませ、部屋に入るなり、BJはいつもの医療鞄から封筒を取り出してキリコに投げ付けた。キリコは溜息をこらえ──ここで溜息などついたら大爆発される──封筒から出した書類をめくる。細部まで読む必要性がないほど分かり切った内容だった。
 普段仕事を頼む闇のマネージメント会社の調査報告書だった。
「隠し方は完璧だったと思うよ」
 脱いだコートを放り投げ、煙草に火を点けたBJが言う。報告書に目を通しながら──相変わらず完璧な仕事だと思わざるを得ない完成度だった──キリコはようやく質問を試みた。
「どうやって知った?」
 まさかユリが言ったとは思えない。あの店員とも思えない。BJは相変わらず不機嫌な声で短く答えた。
「女の勘」
「……と言いますと」
「一回目の後だと思うんだけど。正確な回数なんか知らないけど。キリコの車に乗った時、何となく。理由はない。残置物も残り香もなかったし、何で分かったのかわたしにも分かんない」
「……参りました」
 おそらく本当にそうなのだろう。完全に隠したつもりだった。過去に他の女と付き合っていた時も、この遊び方をして知られたことはなかった。だが相手が悪かったと言えばいいのか。宇宙人すら治療するBJと言う生き物が、過去の女と同様であるはずがなかったのだ。
「本当にすみませんでした、ごめんなさい」
 普段の紳士振りはどこへやら、キリコは全力で謝る。土下座を求められれば応じるつもりだったが、BJはそれすら思い付かないほどに怒りの最高潮にあるようだった。
 泣き喚くならまだ楽だ。謝り続けて宥めればいいのだから。だが今はとにかく怒りの感情を爆発させたくない、醜態を晒したくないと必死でまだ自分を制御している。余りにも痛々しい。奇妙な話かもしれないが、キリコはBJのこの姿を見て心底後悔したのだった。
「一回目で終わりにしてればこんなことしなかったのに」
「ごめん」
「わたしと別れてからやればいいのに、馬鹿にして」
「してないよ。別れるなんてとんでもない」
 ユリの心配を今更ながら痛感した。とにかく謝るしかないし、余程でなければBJの要求を受け入れなければならない。まだ怒りで支配されていることは見れば分かるが、時間が経てばあの厄介な状態になる。「どうせわたしなんか」スイッチが入るのだ。そうなれば手の付けようがないほどの自虐モードに突入し、下手をすれば数日浮上しない。
「調査と尾行と写真と録音、フルオプションで依頼したからすっごい高かったし」
「俺が払おうか?」
「『払おうか』だぁ!?」
「払わせて下さい!」
「当たり前だ、ふざけんな!」
 言葉選びを間違えたと後悔する間もなく、遂に怒りを爆発させたBJが絶叫した。次の瞬間には飛んできた部屋のメモパッドが額に命中し、痛みに呻く暇すら与えられずに灰皿が飛んで来る。その後も手あたり次第だ。やめろと言えばヒステリックな罵声を上げて更に激高し、ごめんと謝ればじゃあ最初からやるなともっともな絶叫が響く。
 投げられる物を避け、時には当たり、後悔しながら耐える時間が終わるまで、キリコはひたすら待つしかなかった。
 そしてその時間が終わった後こそ最大の試練が訪れる。やはり避けることができなかった「どうせわたしなんか」スイッチの発動だ。キリコは長丁場を覚悟した。ヒステリーのままに殴る蹴るをされた方がよほど楽な時間とも言う。
 外見への劣等感が苦手な恋愛トラブルのストレスとリンクして自虐を呼び、果てしなく落ち込み、ベッドに潜り込んで毛布の中で丸くなる。そのままぐすぐすと泣き始め、とても人前には出られない状態になったBJを見て、キリコは本当にもう二度としない、俺が悪かった、と言い続け、最終的には「別れたくない、ごめん」と何とも情けない、だが本音の台詞を繰り返し言い続けた。
「どうせわたしなんか」
「ごめん、悪かったよ」
「どうせわたしなんか可愛くないし、醜いし」
「それはおまえの主観で、俺はおまえが世界で一番可愛い」
「じゃあ何で浮気した」
「浮気じゃないんだ、悪かったよ、本当だ」
「浮気じゃないなら本気ってことだ」
「違うって!」
「どうせわたしなんか」
「そんなことないから! ごめん! 本気でごめん!」
 闇の住人すら一目置く死神の化身と天才無免許医がいる部屋だと、信じられる者は誰もいない空間に成り果てている。無論そんな人物がいるとは想像もしないホテルスタッフが、騒動を聞き付けた隣の部屋の客からの通報を受けて部屋を訪ね、投げて壊れた備品、傷付いた家具を見て呆れに呆れた後、修繕費を請求することになります、と無慈悲にキリコに告げたのだった。


「浮気者に罰が下ったわね。神様はお見通しってことよ」
 軽蔑を通り越し、もはや「そうなって当然よ」と言わんばかりの冷たい顔と声でユリが言う。物を投げられて痣だらけになった兄を見ていい気味だと思ったし、眉間や他の急所には当ててないBJに感謝した。
「許してもらえたの?」
「おまえに関係あるか」
「あるわよ。わたしとしては嫌な仮定だけど、もしもにいさんと先生が別れるなら、にいさんから慰謝料取りなさいよって先生にアドバイスしなきゃいけないんだし」
「結婚してないってのに慰謝料かよ」
「それなりに長い事実婚なら発生するのよ。事実婚を証言する人なんて一杯いるでしょうし、逃げられないわよ」
「どいつもこいつも何で俺たちを既婚者にさせたがるんだ……」
 逃げるつもりなどないが、しかしキリコは呻くしかなかった。確かに事実婚の証言ならいくらでも集まるだろう。先日は英国首相にもそう認識されていると知ったし、彼女とよく話す米国大統領もそうだと思っている可能性がある。証人としては人類最強クラスが勢揃いしかねない。どうしてこうなった、と自分の人生を振り返りたくなる瞬間だった。
「許してもらったと言うか、保留されたと言うか」
「保留? 何それ、しばらく距離を置きたいってパターン? 絶対別れるやつじゃないの、それ」
「いや、そうじゃなくて」
 嫌な例えをした妹の言に胃痛を覚えつつ、キリコは説明する。
「『あの女と同じことしても全然楽しくなかったから、旅行に連れてけ』との仰せだよ。楽しかったら許してくれるんだとさ」
「そりゃ楽しくないでしょうよ。女性からすればセックスしてもいい男かどうかの品定めなんだもの。先生、絶対そういう遊び方は向いてないし」
「おまえも言うねえ」
「向いてないし、先生みたいな生き方の女性なら、本来経験しなくていいデートでしょ。誰のせいで経験することになったと思ってるのよ」
「仰る通り、って、おまえに説教される筋合いはねえぞ」
「あります。わたしは先生が好きだから。分かる?」
「分からないね」
「にいさんとは一生他人になれないけど、元々他人の先生とは簡単に他人に戻れちゃうの。でもわたしは先生が好きだから可能な限り家族でいたいの。だからにいさんにはやむを得ない事情以外で先生と別れて欲しくない。これで分かってくれる?」
 よく回る妹の口に辟易しながらも納得したキリコは深い溜息をつき、仰る通り、ともう一度言った。
「旅行で許してもらえるならいいじゃない」
「条件があって」
「何よ」
「『安楽死の報酬を使わない旅行』」
 そしてまた深い溜息をついた兄をしげしげと眺め、ユリは「ふうん」と呟いた。女心と医者の信念、あの人って生きにくそう、と思った。そこが好きになっちゃう理由なんだけどね、とも。
「フォート・デトリックの契約料があるじゃない。あとは心療内科関係も。薬関係もやってなかった?」
「ったく、あいつと関わってから副業が増えるばっかりだ。本業の収入を超えちまいそうだよ」
「それで旅行に行けるならいいじゃない。どこ行くの?」
「どこにすりゃいいんだか」
 兄の信念を蔑ろにするつもりは毛頭ない。だが生命の行方を案内する兄の顔を目の当たりにする時にはいつも迷う。きっと兄の恋人もそうなのかもしれない。
 ──だからわたしはあの人が好きで、あの人に、にいさんと一緒にいて欲しいって思うのよ。
「優しい妹がリサーチして来てあげるわ。先生とピノコちゃんにご飯の誘いの電話しなきゃ。明日の晩は空いてるかな」
「余計な世話だ。自分で探す」
「あらそう。でも三人でご飯を食べに行きたいから電話しようっと」
 電話に向かいながら笑う妹の後姿を見送り、キリコはソファに深く腰掛ける。途端に服の下の痣が痛み、しばらくはこの痛みに苦しめられそうだと思った。だが流石に自業自得だと分かっている。挽回のためにかなりの努力が必要だろう。
 それにしても、別れたくないなどと女に向かって口走ったのは初めてだ。しかも一方的に自分に非がある状況で。あまりに身勝手で情けない自分を思い出すだけで赤面しそうになる。
 だが彼女が人生最後の女なのだから、なりふり構っていられなかったのだと言い訳し、そしてその言い訳に納得した。
 人生最後の女に人生最初の情けない姿を晒してしまった、それはそれで幸せなのだ。そんな存在が傍らに在るということなのだから。
 妹の楽しそうな声が聴こえる。明日の夜でいいのね、にいさんから食事代もらうから、三人でちょっといいとこ行きましょう。
 財布ごと持って行け。ほとんど投げ槍に呟きながら、帰りは迎えに来るよう言われるのだろうと予想し、明日の夜は酒を飲まないで待っていなければ、と決めた。