電話が来なくなった。電話をしても出なくなった。嫌な予感、否、BJにとっては忌々しい予感しかしなかった。目の前の仕事を片付け、ピノコに今日は帰らないかもしれないと伝えてから家を出る。
車の窓を開ければ過剰に湿気を孕んだ空気が車内に飛び乗ろうとし、閉口して窓を閉め、諦めて普段は使わないエアコンをつけた。吝嗇家としては燃費の問題もあるが、不自然な冷え方で指先が冷たくなることが好きではなかった。熱中症で死ぬよりはましだと自分に言い聞かせてアクセルを踏む。
夕方、男の家がある都内に入る頃、増えすぎた湿気に限界を悟ったのか、雲が一斉に雨として湿気を放出した。豪雨とも言えるそれはあの密林のスコールを思い出させる。キリコが夏は日本を離れたがる理由が分かるような気がした。
豪雨の中、たどり着いた家のカーポートには車がなかった。思わずハンドルを叩いてしまう。もし帰ってこなかったら──帰って来たとしても安楽死の仕事の後だったとしたら──考えるだけで鼻の奥が痛くなった。
二台分停められるカーポートに自分の車を入れ、直接家の中に入れるドアのお陰で雨に濡れなくて済んだ。だがそんなことは幸運だと思えない。
「キリコ」
家の中には人の気配がなかった。雨空で薄暗い室内は静まりかえり、それがBJに再びの絶望を与えた。出掛けているだけだ、と自分に言い聞かせながら電気を点けてキリコの姿を探す。一階のリビング、キッチン、バスルーム、どこにもいない。一階には他に診察室があるが、そこに足を踏み入れたことはなかったし、これからもないと決めていた。気配がないことは分かった。
二階の寝室、客間、書斎──どこにもいない。書斎のデスクには読みかけの本が置いてあった。几帳面なキリコにしては珍しかった。
溜息をついて一階へ降り、冷蔵庫の中を確認する。家を長期間空けても──海外の仕事の時にはいつもこうだ──問題のないような、日持ちするものしかなかった。
リビングでコートを脱ぎ捨て、ソファに沈み、雨の庭を眺めながら何度も溜息をついてしまう。出掛けているだけ。きっとすぐに帰ってくる。そう思いたかった。もし海外に行っていても、定期的に必ず行っているワシントンのフォート・デトリックに──それが違うと分かっていた。あの仕事の日程は年間を通してほぼ決まっていて、BJもキリコに知らされている。今はその期間ではない。それでもそう思いたかった。
明後日からは仕事で西ドイツに行く。その前に会いたい。今すぐにでも帰って来て、この不安感を笑い飛ばして欲しかった。キリコが決して自分の不安感を笑い飛ばさないと分かっていても、どんなものでもいい、笑顔を向けて欲しかった。
俺の仕事は神聖なんだ。彼はいつもそう言う。そのたびに違う、それは人殺しだと言い返す。その考えは今でも変わらない。そんな仕事は辞めてしまえと何度も言う。そして昔とは違う感情も生まれている。──その仕事をやめて欲しい。誰かを──あなたの言葉で言うのなら、安らかな世界に案内するその仕事、案内をするたびに心がすり減ることを知っている。患者に全ての愛を与えて空っぽになってしまうあなたを見ることがとても辛い。
美しく整えられた庭が雨にけぶる。死神の医院を訪れる患者が少しでも楽しめるよう、一年を通して必ず何かの花が咲く。その花々も今は豪雨の暴虐に晒され、嵐が過ぎ去る時を待つばかりだった。
一時間待ってもキリコは帰って来なかった。少し遠くに出掛けているだけ。帰って来る。そう思いたかった。現実の中で時間が過ぎる空間が嫌になり、寝室へ上がった。いつも綺麗に整えられているベッドが、今日はいやに寒々しかった。
薄暗い中、電気も点けずにナイティに着替えてベッドに潜り込む。身体を丸め、薄いブランケットを頭まで被った。
ブランケットや寝具からキリコのにおいがした。思わず枕を頭から外して抱き締める。今まで何度もこうやって、キリコがいない時間を過ごしたことがある。どうしても寂しくなった時、どうしてもやり切れない感情に襲われた時、逃げ込んで落ち着ける場所だった。
それなのに今は違う。焦るばかり、寂しさが増すばかりだ。どうか違う仕事でありますように。どうか出掛けているだけでありますように。帰って来ますように。
安楽死の仕事を終えた時のキリコを思い出すだけで寂しくなる。患者を愛しすぎた男が自分の恋人の顔を思い出すまでの時間がとても寂しい。すぐに思い出すこともあれば、数日かかることもある。思い出した時、必ず謝られることも寂しい。
いつの間にか涙が出ていた。頬を寄せていた枕に染みこんでしまう。後で洗わなきゃと思いながら、それでも涙を止められなかった。寂しくて仕方なかった。
──どうしてわたしとキリコは同じ生命に対して、こんなにも考え方が違ってしまったんだろう。全ては同じ生命のはずなのに。望まれて産まれた生命の行き先を、どうして同じように考えられないんだろう。
仕事のことで口論になれば、辞めろと必ず言ってしまう。それは本音だ。言って後悔することはない。だが死神の顔をしたキリコはおまえこそ考え方を変えるべきだと主張する。同じ生命に対して、人生で最後の恋人だと決めた相手と、これだけは添うことができない。医者の立場として考えれば寂しさなど感じない。感じるのは憤りだ。だが恋人の立場になった途端、なんて寂しいことなんだろうと心底思う。なんて寂しいことなんだろう。なんて不自由なことなんだろう。
訊けばいいのかもしれない。ねえ、教えて。
ねえ、教えて。──だが訊くことが恐ろしい。キリコが教えてくれた時、自分は今の自分でいられるだろうか。そんな恐怖が心の奥底に巣喰っている。
だから訊けない。
ねえ、教えて。
初めて患者を案内した時のこと。
どんな人だったの。どんな症状だったの。
どうして安楽死でしか救えないと思ったの。
納得してしまう自分がいたらどうすればいいのだろう。
納得できずに憎む自分がいたらどうすればいいのだろう。
思い出したキリコがもしも傷付いたら。
傷付くような記憶であったのなら。
どうすればいいのだろう。
そんな恐怖が付き纏う。だから訊けない。
涙が溢れる。分かっている、ただの感傷だ。帰って来ない男を待つ苛立ち、寂しさ、不安、荒れた天気、薄暗い室内が、元々強靱とは言えない精神面を刺激しているだけだ。
分かっているのに涙が止まらないのは仕方のないことだ。セルフコントロールが崩壊した時の人間などそんなものだ。
枕に涙が染み込んでしまうのが嫌だと思った。キリコのにおいが消えてしまうような気がした。身体を強く丸めてブランケットをきつく被り直し、枕が涙で濡れないように胸に抱き込む。
雨の音が少し弱くなっていた。不安を呼び起こす不規則な雨音は消え、雨粒が規則的に柔らかく降り注ぐ音が聞こえる。
やがて疲れた精神と柔らかな雨音が睡魔を呼び寄せ、BJは泣きながら眠っていた。
キリコのにおいがする。なんていい夢なんだろうと思った。キリコが抱き締めてくれている。それだけの夢なのに、この上なく幸せだ。わたしはどれほどこのひとが好きなんだろうと不思議でならないほど、ああ、すき、と夢の中でも思った。
キリコ、あのね、と呼びかけた。
「うん?」
キリコは優しい声で返事をしてくれた。だから嬉しかった。
キリコ、あのね、待ってた。帰ってくるのを待ってたの。
帰って来てくれたの。嬉しい。
夢の中でも嬉しかった。また涙が溢れた。
「マフィン?」
目元を拭われる感触がいやに現実的で、ゆっくりと目を開ける。泣いて腫れぼったくなった瞼が重い。それから、ああ、と口の中で呟いた。ひとつだけの青い瞳が自分を見ていた。ブランケットをきつく被っていたはずの身体を抱き締めてくれていた。枕は本来あるべき位置に戻されていた。
ああ、と思った。──ああ、帰って来た。帰って来てくれた。
「帰って来たよ」
夢現の言葉を拾った男は優しく言う。BJは頷き、息を吐いてキリコの胸に頬を寄せた。よかった。帰って来た。わたしを愛していることを覚えている顔で。患者に全ての愛を与えていないまま。この男の愛をわたしから奪う患者なんていなかったんだ。
「買い出しに行ったらあの雨だ。カフェで時間を潰してた」
でもおまえが来るなら早く帰って来れば良かった。キリコはそう言ってBJを安堵させた。
ここ数日、電話が通じなかったのはタイミングのせいだったと説明された。読んでおきたい論文が溜まっていて書斎に籠もりきりだった、気が付いたら夜中で電話ができなかった、おまえからの電話に気が付かなかった、留守番電話にメッセージが入っていなかった──そう言われたBJは反省する。留守番電話が苦手でいつも何も言わずに切ってしまうのだ。
「冷蔵庫に何もなかったから」
「うん?」
「海外に行ったのかと思って」
「──それはないよ。偶然だ」
言外に安楽死の仕事に出たのではないかと思っていた、と告げられ、キリコは腕の中のBJにキスをする。明後日には西ドイツで安楽死を希望する患者に会うために出立するが、それを言うつもりはなかった。
寝室でBJを見つけた時、不安を感じた状態で眠ってしまったことは一目で分かった。それが自分に起因するであろうことも。可哀想なことをした。だがこればかりはキリコが除いてやれる種類の不安ではなかった。
不自由だ。そう思う瞬間だった。
俺たちはたまに不自由だ。愛しているのに。愛し合っているのに。互いが譲れない生命の行方だけを、互いの人生で認め合えない。それを嘆いたのはこんな雨の日だった。愛し合わなければいい。互いが互いを愛していても。そんな馬鹿な結論を出して、ボーダーラインの上で馬鹿な恋愛ごっこをした。愛し合うと決めるまでに愚かな時間を過ごした。
分かっている。本当はあれから、何ひとつ解決していない。歪みはそこに存在したままだ。お互いに分かっている。気付かない振りをしている。愛し合っていることは真実だ。本当だ。だがいつか、この歪みが二人の前に取り返しのつかない過ちとして現れないよう願うしかないことも、本当は分かっている。
愛している。本当だ。真実だ。
いつかそれだけでは乗り越えられない日が来るのかもしれない。
それでもその日は今日じゃない。俺たちはそれに安堵している。
安堵してまた目を背ける。
「マフィン──クロオ」
いつかこの女は訊くのだろうか。
俺が初めて誰かを別の次元へ案内する死神になった日のこと。
どんな患者だったのか。どんな症状だったのか。
俺はそれに答えられるだろうか。
ああ、答えてしまうだろう。
愚かにも、俺は正直に答えるだろう。
俺たちが等しく傷付くと分かっていても。
それが生命の行方について、生涯をかけて歩む道に必要である話だと、互いに理解してしまった瞬間が訪れるのなら。
「愛してるよ」
心からの真実を告げると、愛する男と共にひとつの真実から目を背けている女が、可愛く、嬉しそうに微笑んだ。わたしも。そう言った。
「わたしも。愛してる」
愛する女が告げた真実に、愛する男は微笑み返した。
ああ、愛している。愛しているよ。あなたを。おまえを。
本当だ。真実だ。
愛している。
いつか目を背けている他の真実に直面する日。
どうかその日が少しでも遠くありますように。
その日までは目の前の真実を愛しみ、抱き合い、愛していると囁き合えますように。