You Are The Reason



 ばらばらになった身体を神様が繋ぎ合わせてくれてから、それはもう長い時間、わたしは多くの人が「普通」と言う生活ができなくて、誰かが聞けば大いに同情してくれるような、そして大抵の人はよく頑張ったねと言ってくれるような、少し違った生活をしていた。
 実際のところ、生活をしている、という感覚はあまりなかった。手にスリッパを履いて這いずって、おかあさんのことばっかり考えて、いつも苦しくて辛くて、でも優しい神様が力尽きたわたしを必ず抱っこしてベッドに連れて行ってくれることを知っていたから、力尽きる時を待ち焦がれて、生きるための訓練をする日々だった。
 時間の感覚がおかしくなっていたかもしれない。だって松葉杖をついて社会に戻った時、最初に不思議だと思ったことが、夜が明けて日が暮れるっていうことだったから。
 夜明けも日没も知っている。痛み止めが切れて痛みで目が覚めた時、窓のカーテンの外は真っ暗だった。痛みを我慢しているうちに上った太陽が、朝の様子を見に来たわたしの神様を照らした。手に履いたスリッパで這いずる廊下の窓から差し込む夕日を浴びた。
 だから夜明けも日没も知っているはずなのに、外に出たわたしは不思議で仕方なかった。夜明けが連れて来る街の喧騒、日暮れが与える静かな時間。不思議だった。でもある日突然気付いた。怖いんだ。
 日が暮れると眠らなきゃいけない。目が覚めたらわたしは外じゃなくて、またあのベッドの中で、夜明けが来る頃には痛くて目が覚めて、神様の訪れを待って、それからまた手にスリッパを履いて這いずり回るのかもしれないって。
 そのうちあまり眠れなくなった。多少は寝ていたけど、明らかに睡眠不足になった。
 起きた時に感じる痛みが一番怖かった。あの頃よりずっと軽い痛みでも、またあの夜明けなんじゃないか、またわたしは這いずり回るんじゃないかって、痛みよりも恐怖に呻いてカーテンを開けて、ああ、あの日々じゃない、ってやっと溜息をついていた。
 だから日記を書いた。覗いた間久部が呆れるくらいに細かく。あの頃よりもずっと滑らかに動かせるようになった指で、とにかく何でもノートに書いた。そのうち間久部はわたしの様子が異常だと気付いたのか、それとも他の考えだったのか、もしくは気まぐれだったのか、それは分からないけど、私が書き漏らしたことを口で付け足してくれたり、わたしが眠れば必ず枕元にノートを置いてくれた。
 起きた時にノートを開いて、わたしが覚えていることと書いてあることに違いがないと安心した。毎日そんなことをした。いつの間にか安心を毎日積み重ねていた。
 松葉杖も痛みもなくなって、間久部と違う学校へ進んだ頃には、そこまで細かい日記を書かなくなっていた。習慣になっていたから書き続けてはいたけど、朝起きてから寝るまでのことを病的に細かく記す状態からは抜け出していた。
 学校では友達らしい友達はできなくて、それどころかクラスで一番綺麗な、でも一番強気な女の子に嫌われて、はっきり言えばいじめられてた。毎日面白いってわけじゃなかったけど、学校へ行かないって選択肢はなかった。何をされても言われても、手にスリッパを履いて床を這いずり回ることに比べればどうってことない。それよりどうにか医者になって金を稼いで借金を返して、それからあいつらに──そんなことばっかり考えてた。現実は厳しかった。彼女たちの相手をしている暇はなかった。
 強気な女の子と取り巻きはそんなわたしがどうしても許せなかったのか──ああいうタイプはどうして自分が人を許す立場に在ると思うんだろう? ──最初は聞こえるように悪口を言ったり物を隠したりする程度だったけど、そのうち教科書を破かれたり(全部貼り合わせてやった。指先のリハビリを思い出して気分が悪かった)、囲まれて堂々と嫌味を言われるようになった。
 先生なんてあてにならなかった。いい先生もたくさんいたけど、わたしの担任はたくさんじゃない方だった。強気な女の子たちは担任のお気に入りだったし、わたしみたいな生徒なんて出席の返事だけしてればいい、できれば来ないで欲しいと思われていた。
 日記にはあまり、彼女たちにされたことは書かなかった。これは覚えていなくてもいいことだ、って。その代わり、それ以外のことはまた細かく記録を始めたから、わたしはやっぱり思った以上にストレスを感じていたんだろう。ストレスを文字に移して吐き出していたんだ。
 それから少し経った頃、ゲラのことがあった。取り立て屋のこと、ダーツのこと──それからゲラが遠くの病院へ行ってしまったこと。その全てがわたしをまた孤立させた。
 わたしは学校中の生徒から嫌われていたし、強気な女の子のような子たちには嫌がらせの標的にされた。男子生徒にはやり返したけど、女の子にはやり返さないってバレてたからかもしれない。
 ある日、男子生徒がゲラのことを引き合いにして性的に馬鹿にするようなことを言って来た。吐き気がした。ダーツでもやろうか、って言ったら逃げて行って、それからわたしは男子生徒に完全に避けられるようになった。女の子は相変わらずだった。
 男っていうのは見た目や攻撃力、つまり腕っ節で判断する。動物の本能だから当然だ。でも女は違う。相手の弱い部分を見抜いて、自分が安全である範囲を見極めて攻撃をする。見極めを失敗して反撃されれば被害者ぶる。そういう生き物だってわたしは知ってる。外の世界で生きるようになってから思い知ったことだった。
 またあまり眠れなくなった。勉強が忙しいから、って自分に言い訳した。でも詳細な日記を止めることはできなかった。目が覚めた時に痛みがあると──寒い時期はどうしても痛みが出る──起き上がるのが怖かった。立てなかったらどうしよう。また手にスリッパを履かなきゃいけない。
 一度、間久部がわたしに会いに来た。名門校の制服を着た間久部を校門前に見つけた時、久し振りに会えて嬉しくて手を振った。佇まいだけで注目を集めていた間久部に手を振り、あまつさえ、クロちゃん、と笑顔で呼ばれたわたしにまで注目が集まったことには気が付かなかった。
 間久部はその日、わたしの家に来た。わたしの日記を勝手に見て、何これ、って呟いてた。何これ、クロちゃん、また細かく書くようになったんだね、って。わたしは適当に誤魔化しておいた。間久部はそれ以上何も言わないで、一緒に勉強をして、夕飯を作って帰って行った。
 次の日、わたしは学校であまり話をしたことのない、クラスの女の子に声をかけられた。強気な女の子や取り巻きじゃなくて、いわゆるごく普通の女の子だった。
 間さん、間久部くんと知り合いなの? って訊かれて凄くびっくりした。間久部の名前が知られてるってことに驚いたんだ。わたしは情報共有をする友達なんかひとりもいなかったから、間久部が近辺の女子高生から注目される──要は間久部に恋をする女の子が多いってことを知らなかった。
 気を付けた方がいいよ、ってその子は教えてくれた。何を言われているのか分からなかったけど、ちょうど教室に入って来たあの強気な女の子がわたしを睨み付けたから、ああ、あの子、きっと間久部が好きなんだ、って知った。
 でもわたしは間久部とそういう仲じゃないよ、とその子に説明した。幼馴染なだけ、わたしが動けなかった時に世話しててくれただけ。きちんと説明すればするほど誤解されるって、この時のわたしは全く気付かなかった。
 その日は校外学習だった。東京の記念館で戦争の記録を見る、高校生にはちょっと退屈だけど大切らしい学習行事だ。いつもこういう時は一人でいるんだけど、なぜか間久部のことを訊いてきた子とそのグループの子たちがずっと一緒にいてくれた。東京まで行くバスの中でも、途中休憩の時も、必ず誰かがわたしのそばにいた。最初は訳が分からなかったけど、強気な女の子たちを近づけないようにしてくれているんだってことに気が付いて、この子たちはどうしてわたしに優しいんだろう、って思った。醜くて、学校中の人から嫌われているわたしなんかに。
 わたし、何かしちゃったかな。珍しくわたしからその子に質問したら、その子は呆れ顔で、そういうのが反感買うんだよ、って言った。怒らせたのかと思って落ち込んだら、その子は溜息をついて、そういうの直した方がいいよ、ただでさえゲラの件でびびられてるんだから、って言った。他の子たちも頷いて、似たようなことを言っていた。
 それから、あの強気な子が間久部に告白して振られたって教えてくれた。そっか、そんなことあったのか、でもあの子は間久部の好みじゃないから仕方ない、って思ったけど、流石にこれは言っちゃまずいのは分かって黙っておいた。
 記念館に着いたら自由行動になった。その子たちはやっぱりわたしを一緒に連れて行ってくれた。戦争の記録の展示を見て、わたしがたまたま知っていたことをその子たちに話したら、前から思ってたけど間さんって物知りだよね、話してみたかったんだ、って言われた。ちょっと嬉しかった。少し調子に乗って他の展示についても話したら、その子たちはすごく熱心に聞いてくれた。そう言えば成績上位の子たちのグループだった、ってやっと気が付いた。孤立にもほどがあるけど、寂しいと思ったことがなかったから分からなかった。
 強気な子たちのグループは、わたしたちのそばに張り付いていた。わたしが一人になるのを狙ってるって分かった。
 外国から来た観光客も何人かいて、英語が聞こえることもあった。何を言ってるかよく分からない。もっと英会話を勉強しなきゃ、と思った。
 その途端に背の高い誰かにぶつかって、ごめんね、って少し訛った声で謝られた。外国の訛りだ。男の声だった。
 急にあの爆発の瞬間を──わたしとおかあさんと吹き飛ばしたあの地獄の始まりの瞬間を──思い出した。不発弾になった爆弾を落とした国の男かも知れない。
 そう思ったらぞっとして、わたしは半ばパニックになって、顔を覆って、ノー、ノー、って、英語とも言えないような酷い発音で繰り返して、そこから走って逃げ出した。怖くてたまらなかった。泣きながら走った。こんなのおかしいって自分で分かったけど、そうだ、わたしは外で外国人と接したことがなかったんだ。爆弾を落とした国の人を知らなかったんだ。
 記念館の中庭にベンチがあった。誰もいなかったから座り込んで、何とか涙を止めようとした。大丈夫、さっきの人が爆弾を落としたわけじゃない、不発弾はここにはない──帰ったら日記を書きたかった。細かく何でも書いて、今の恐怖を全部文字に移してしまおうと思った。ああ、もしも明日の朝が来るなら、起きた時に身体が痛くありませんように。痛みで目が覚めることがありませんように。今が夢で、床を這いずる日々が現実じゃありませんように。それが現実にならないのなら、今の恐怖は必ず乗り越えてみせるから。だからお願い。
 間さん、って優しく呼ばれた。それからベンチを囲まれた。あの子たちが心配して来てくれたのかと思って顔を上げて、ああ、と思った。ああ、現実だ、こっちも嫌だな、と思った。間久部に振られた強気な子が綺麗な顔でわたしを見下ろしていて、取り巻きの子たちがベンチを囲んで、わたしが逃げられないようにした。
 いじめられたことは日記に書かないようにしてたけど、今日のこれは書いてもいいかもしれないってくらい、理不尽な嫉妬を叩き付けられた。酷いことを言われた。他の女の子たちも同意しては似たような言葉でやっぱり酷いことを言った。
 やめてよ、って言えばよかったのかもしれないけど、囲まれてわあわあ言われて、何だかもう全部嫌になっちゃって、こんなの床を這いずることに比べれば、いつかする復讐のことに比べれば、ゲラのことに比べればどうってことないはずなのに、本当はずっと嫌だったんだ、辛かったんだって分かってしまった。
 わたしはそんなことすら分からなかった。普通じゃなかった。それが分かったら急にまた涙が出て、それも罵られた。どうすればいいのか分からなくて顔を覆って泣いてしまった。自分でも驚くくらい、自分が普通じゃないってことがショックでショックで、どうしても泣きやむことができなかった。
 それでも彼女たちはやめてくれなくて、わたしは泣き続けて、そのうち誰かがベンチの脚を蹴った。急に大きな揺れを感じたわたしは悲鳴を上げた。揺れるのも大きな音も大嫌い。怖い。どうするの? 爆発したらどうするの? だから叫んでしまった。そんなはずがないことを叫んでしまった。もうパニックで、今の状況が分からなくて記憶が混乱しきってしまったんだと思う。──やめて、不発弾が爆発したらどうするの! おかあさん!
 途端に女の子たちはぴたりと黙った後、それから大声で笑い出した。そんなわけないじゃない、ってすごく馬鹿にした声で笑った。それからあの強気な子が、すごく怒ってる声で言った。間さんのそういうところ大嫌い、可哀想って思って欲しがってるのが透けて見えるんだもの。
 そんなの知らない、思ってない。それなのに強気な子は続けた。どうしてわたしがあなたに負けなきゃいけないの。どうしてわたしが間久部くんに振られなきゃいけないの!
 またベンチの脚を蹴られた。わたしはまた悲鳴を上げて泣いた。何度も蹴られて、泣き続けるしかなかった。強気な子が泣きながらわたしを罵っていた。取り巻きの何人かが彼女を慰めていた。まるで彼女が被害者みたいな言い方だった。
 怖くて怖くて、もうどうしたらいいか分からなくて、上半身を丸めてしまった瞬間、訛りのある日本語が響いた。
 何をしているんだ、やめなさい。さっきの外国人の声だった。怖くて顔を上げられない。ストップイットナウ、って女の人の声も聞こえた。やめなさい、って意味だったかな。すぐにわたしは細い腕に抱き締められた。でも怖くて顔を上げられないし、丸めた身体を起こすこともできない。アーユーオーケー、ダイジョウブ? って女の人が抱き締めながら訊いてくれるのに答えられなかった。
 女の子たちは急に現れたガイジンたちに驚いているのか、勢いがなくなっていた。
 訛った日本語が怒りを抑えていることが分かる声音で響いた。──たった一人を囲んで何をしている、これは暴力だ、俺はきみたちの先生か警察に報告する。
 わたしはなぜかそれでまた泣いてしまった。誰かがわたしのために怒ってくれていることに驚いたから。
 それが嬉しかったから。
 男の人はまた言った。訛りはともかく、日本語がすごく上手だった。──きみたちはもう大人だ、仲直りしなさいなんて綺麗事を言う気はない。だが暴力はいけない。反省と謝罪は必要だ。
 それからわたしに向かって言った。──きみも言い返すべきだ。泣いていても暴力は止まらない。卑怯者に自分の権利を主張する勇気を持つべきだ。
 途端に強気な子と取り巻きたちは喚きだした。卑怯者と言われたのが悔しかったんだろう。中には外国人に対する聞くに堪えない侮蔑の言葉があって、この人たちが知らない日本語でありますようにと願うしかなかった。
 でも女の人が立ち上がって、テイクイットバック! って怒鳴ったから、きっと分かっちゃったんだ。取り消しなさい、って意味だったはずだもの。男の人がシマーダウンベイビーって言ってる。これは意味は分からない。でもベイビーってことはたぶん奥さんとか恋人なのかな。それとも妹とか? 正義感が強い人たちなんだ。わたしみたいに卑屈で自分のことしか考えてない人間とは大違い。
 何してるの、って今度はまた別の怒鳴り声が聞こえた。わたしを守ってくれていたあの子たちだった。先生呼んでくる、って声、フーアーユーって外国の男女に問う声、それから二つの女の子グループの大喧嘩が始まって、そこになぜか女の人も英語で参戦してて、何だかもうすごい光景になっていたんだろうに、わたしは相変わらず泣いてて、顔を上げることもできなかった。


「ちぇんちぇい、これ何なのよさ?」
 納戸の大掃除中、だいぶ古い地層──納戸っていつの間にか物が重なって地層みたいにならない? ──を掘り進んでいたピノコが数冊のノートを持ってわたしに見せに来た。おお、これは。わたしは内心で冷や汗をかきながら、動揺を隠してピノコからノートをもらう。
「学生の時の書き付け。これはいいよ、わたしが片付けるから」
「まさか秘密のノートなのわよ……?」
 鋭い、流石はわたしの可愛いピノコ。
「馬鹿を言いなさんな。ほら、早く片付けて。夕方に間に合わない、きっとプリンが一緒だよ」
「あらまんちゅ!」
 夕方に訪れるであろう甘味を期待して、ピノコはまた熱心に掃除に取りかかる。別に今日やらなきゃいけない掃除でもないんだけど、わたしがいつまた長く家を空けるか分からないから、出来る時にやってるだけ。
 それにしても──これ、引っ越しのたびに捨てようって思てるのに、結局捨てられなくてこの家まで一緒に来てしまった。ちょっとページをめくるだけで呻きたくなるような、明らかにメンタルバランスがおかしい思春期の女の子の日記。そりゃそうだ、あんな経歴でまともなメンタルバランスなはずがない。今は落ち着いているのでどうってことない。落ち着いている。たぶん。……たぶんね。わたしより心療内科に詳しい死神野郎にはメンヘラクソビッチって呼ばれることもあるけどね。
 うわあ、こりゃすげえ、って思いながらぱらぱらページをめくっていくと、今でもたまに思い出す日のページを見つけた。
 校外学習で東京の記念館に行った日だ。
 あの日は本当に大変だった。結局わたしは泣いて泣いて、いつの間にかその場から連れ出されてて、助けてくれた外国人の男女にお礼を言えなかった。でもなぜかそれがきっかけで、わたしを守ろうとしてくれた女の子たちと仲良くなって、相変わらず卑屈なのは直らなかったけど、でも直した方がいいってことは分かった。
 何だか、普通、っていうことが分かったのもあの子たちのお陰だった。わたしは普通じゃなかったし、普通の生い立ちじゃなかった。でもあの子たちと一緒にいると普通でいられることが分かったし、普通じゃないって主張する必要なんてないってことも分かった。
 あの日に仲良くなった子たちとは受験勉強も一緒にしたり、大学は違うけど、医者になった子もいる。今はもう全然連絡なんて取ってない。借金を本格的に返し始めた頃、わたしから関係を切った。でも一緒にいて楽しかったことはたくさん覚えてる。初めて女友達ができた思い出は一生忘れないと思う。わたしのためにあの日、彼女たちもまた怒ってくれたってことも。
 強気な女の子と取り巻きは相変わらずだったけど、ある日突然強気な女の子が学校に来なくなった。街で男性に酷い目に遭わされたらしかった。取り巻きはそれからおとなしくなった。
 なぜか間久部がその話を知っていて、わたしに教えてくれた。わたしはびっくりして、だから学校に来なくなったのかな、って言ったら、ふうん、そうかもね、つまんない女だしね、ってつまらなそうに言っていた。間久部のこういうところは冷たいってその時はそれしか思わなかったけど、あれから色々あって、間久部のわたしへの執着を思い出したら──やめよう、証拠なんてないから。わたしは相変わらず卑怯だ。証拠なんてない。だから知らない振り、気付かない振りができてしまう。
 ただ、あの強気な女の子に言われたことは覚えている。『可哀想って思って欲しがってるのが透けて見えるんだもの』。あの頃はそんなことを考えてもいなかった。でも今なら分かる。わたしの本質にはそんな卑怯でみっともない部分がある。それを逆手にとって闇社会を切り抜ける瞬間が多いことも。
 あの外国人の男女はどうなったんだろう。あの後、すぐ担任が来てたのは覚えてるけど、本当にすぐその場から連れ出されてしまったし、後で何か言われたわけでもなかったし、そもそも担任はわたしになんて話しかけなかったし。
 でも勇気のある人たちだった。外国で見かけただけの揉め事に口を出すなんて。しかも女の子の集団なんて面倒な存在に。顔も見なかったし、わたしの顔も見られなかっただろうけど、わたしはあの人たちを尊敬している。わたしを守ってくれた。わたしのために怒ってくれた。それだけでわたしがどれほど救われたことか。
「ちぇんちぇい」
「──あ、何?」
 不満げなピノコに背中に乗られて、自分が随分思い出にふけっていたことに気付いた。
「じーっと読んでてずるいのわよ。見せるのよさ」
「このページだけね。他のも似たようなやつだから」
 仕方ない、見せられる部分だけ見せて誤魔化そう。この日のこのページなら見せても構わない。
 何たって一行しか書いてないんだから。
「……ちぇんちぇい、妄想れもちてたの?」
 ピノコが顔をしかめて言った。そうだろう、そうだろう。
 そりゃそうだろう。
【正義の味方に会った】
 それしか書いてないんだから。
「何これぇ?」
「何だったっけ。忘れちゃった」
「ほんと?」
「昔のノートだからね。ほら掃除」
「ひえっ」
 ピノコはわたしが背中を反らせると、ころんと可愛く背中から転がり落ちた。それからまた掃除をした。日記のノートは後で捨てようって思った。でもきっとまた捨てそびれるんだろうって分かってた。
 今、日記を書くとしたら──そんなことをふと考える。患者のことは守秘義務として書かないけど、どこかへ行った、何を食べた、ピノコが可愛い、って書くんだろうな。わたしより心療内科に詳しい死神野郎のことや、そいつの素敵な妹のことも。それから、今のわたしは昔のわたしより少しは成長しているから、やたら事細かに日記を書き出したら自分でまずいって判断して、メンタルケアができると思う。
 もし今日、書くとしたら。家の前に停まる車の音が聴こえて、ちょっと笑った。嬉しかったから。手土産のプリンと一緒に、わたしより少し心療内科に詳しい死神野郎──わたしの好きな男が来た。
 もし今日、書くとしたら。
 好きな男が来た、って書けばいいのかな。
 書いちゃうだろうな。
 読み返した時、わたしの記憶と事実が一致して喜ぶために。
「プリン、冷蔵庫に入れたぞ。──何だ、すごいな。大掃除?」
 埃だらけの納戸で掃除スタイルのわたしたちを見て、いつも通り洒落た姿で現れたキリコが笑った。それから何も言わずに客間──今ではすっかりキリコの部屋──に行く。着替えて手伝ってくれるつもりだろう。ちょっとやってて、とピノコに言って後を追った。おふたりさんでごゆっくりなのよさ、って聞こえたけど、わたしの可愛いピノコはそんなませたこと言わないからきっと空耳。
「ねえ」
「うん?」
「納戸はわたしとピノコがやってるからいいよ。リビングの照明の電球を換えてくれない?」
「いいよ」
 脱いだ服をハンガーにかけてからわたしにキスをして、埃だらけだな、って笑いながら抱き締めてくれた。
 もし日記を書くならこれも書いちゃうんだろうな。
 キスして抱き締められて嬉しかった、って。


 夕飯前にはユリさんも来た。今日は都内でボランティアをしていたらしい。中々仕事が決まらないユリさんだけど、今の日本じゃ外国人の看護師は働きにくいから仕方ないかも。
 夕飯が終わればいつも通りリビングで女子会、キリコはわたしの書斎に逃げる。21時にはピノコが寝室に引き上げて、それからは大人三人でちょっと飲み直したりするんだけど、今日はユリさんも疲れていたらしくて、ピノコと一緒に寝てしまった。
「二人とももう寝たよ」
「何だ、もうそんな時間か」
 キリコが時計を見てびっくりする。時間を忘れるくらい読書に集中していたのかな。何読んでたの、って聞こうとして、それからわたしは思わず悲鳴を上げて、キリコの前に広げられていたノートの数々を奪い取った。
「……いや、おまえ、それ、壮絶としか……」
 キリコが何とも言えない顔でわたしを見る。そんな顔して見るな、そんな目で見るな! ああ、もう、心療内科に詳しい死神野郎に日記の数々を読まれたわたしの悲劇! 中高時代の日記を見られるのってかなり恥ずかしいと思わない!? しかもこの内容!
「勝手に読むな!」
「置いてあったんだ、今更だろ」
 確かに患者のカルテ以外は何でも見ていいルールになってるけど、でも、それでもこればっかりは! ああもう、書斎に持ってくるんじゃなかった、すぐしまおうと思って忘れてた!
 勝手に読みやがって、もう、とわたしは自分でも分かるくらいに真っ赤になってぶつぶつ言いながら、書架の隅っこにノートを詰め込む。キリコが笑って背後からわたしを抱き締めた。キリコのにおいがして少し落ち着いた。動揺させた男のにおいで落ち着くなんて皮肉な話だ。
「よく頑張った」
 ああ、もう──ああもう。こんなこと言うから。言ってくれちゃうから。やっぱりこの男が好きでたまらない。よく頑張った、なんて言われたら、涙腺が緩んじゃうじゃない。
 それから一冊だけノートを持って、キリコのベッドに寝っ転がりながら二人で色々話した。考えてみれば思春期の女の子のメンタルケアとしてはかなり貴重な資料になるわけだし、まあ、恥ずかしいのは仕方ない。そこはわたしも医者、天才、うん、納得する、……納得する努力をする。
 それにキリコは一度も笑わなかった。真剣に読んで真剣に考えていることが分かるから、わたしも恥ずかしいと思わなくて済んだし、この男は根っこから真摯な医者なんだって改めて知った。
 たまにわたしの髪にキスするのは、決まって当時のわたしが辛そうだって一目で分かるページにさしかかる時だった。そのページに書かれたことを鮮明に思い出せることもあれば、思い出せないこともあったけど、キスしてくれるたびにあの頃のわたしが慰撫されるようで嬉しかった。
「これは?」
 あのページを見たキリコが首を傾げる。【正義の味方に会った】。わたしはつい笑った。
「そのまんま。正義の味方が助けてくれたんだ」
 顔も名前も知らないけどね。そう言うとキリコは詳しく聞きたがった。少し長い話になるよと言っても、それでも構わないから聞きたいっていってくれた。
 キリコは最初は頷きながら聞いてたんだけど、そのうち「あれ」と呟いた。
「何?」
「いや、その記念館って、都内の──」
 キリコが言った記念館はまさにあの日、校外学習で行った場所だった。
「知ってるんだ?」
「まあ、ここは戦争関連の記念館としちゃ有名だからな」
 あの記念館は結構有名だし、もしキリコが行ったことがあれば話に出て来た館内の特徴なんかで分かったのかもしれない。
 でもキリコの答えはちょっとばっかりわたしの予想を裏切った。
「俺も昔、行ったんだよ。在日米軍に研修に来た時に」
「え、そんなことあったんだ。研修?」
「在日米軍は海軍だからな、陸軍の俺は研修扱いだった。まあ、要はベトナム行きを想定した訓練だよ」
「ふうん」
 あの頃、確かにとっくにベトナム戦争は始まっていて、わたしはテレビの中のニュースで見るばっかりだった。自分がベトナムへ行くなんて考えてもみなかったし、密林の中でキリコと出会うなんて想像もできなかった。でもキリコは目の前にベトナムが迫っていて、そのために日本に来たことがあったなんて、何だか不思議な気持ちになった。
「おまえさ」
「うん」
「行ってた高校って──」
 キリコが口にした高校の名前を聞いて、わたしはぽかんと口を開けてしまった。
 わたしが通っていた高校だったから。
 キリコは目を丸くしてわたしを抱き起こしながら自分も起きて、それからノートをもう一回見て、わたしをまた見て、それから目をすがめて何かを思い出す顔をする。
「女の子にぶつかって」
「……うん」
「その子が泣いて逃げたから──謝りたくて探しに行ったんだ」
 そうしたら、ベンチのところで。女の子たちが何人も。泣いている子を囲んでいて──キリコはそう言った。わたしは開いた口を閉じられなくて、ついでに目が丸くなってるのも分かって、でもキリコも似たような顔をしていて──
 ああ、──ああ。まさか。
 嘘みたい。
 嘘でしょう。
 あの日、正義の味方に会った。
 わたしのために怒ってくれて、わたしに権利を主張する勇気を持つべきだって言ってくれた正義の味方がいたんだ。
 いたんだ。
 こんなところに、ずっと一緒に!
「嘘だろ」
 キリコが驚き半分、でも奇跡を見た時のように嬉しそうな顔で、あの頃よりもずっとネイティブな発音になった日本語で言う。わたしもきっと同じ顔をしている。
 同時に笑い出した。大声で笑った。ゲラみたいに笑ってたかもしれない。
 大声で笑って抱き合って、ベッドの上を転がって、嘘だろう、嘘みたい、って言いながら何度もキスをした。
 キリコは研修中の休暇の日にあの記念館に行って、そこでわたしにぶつかったんだって。一緒に助けてくれたあの女性は当時の恋人だ、ってはっきり白状された。過去の女にすら嫉妬する病的なわたしだけど、今回は許す。
 だってあの女の人だって正義の味方だもの。片言の日本語で、ダイジョウブ、って声をかけ続けてくれたこと、抱き締めてくれた腕の優しさは忘れない。だからキリコが正直に言ってくれて嬉しいくらいだった。
 あんまり大きな声で笑っていたからか、ピノコとユリさんが起きてしまった。一人で様子を見に来たユリさんに──「変なプレイでもしてるんじゃないかと思ったわ!」って言われてわたしたちはどんな目で見られてるんだろうって心配になった──謝って、すっかり目が覚めてリビングにいたピノコにも謝った。
「もう、ろうちたの、ちぇんちぇい。おっきい声らったのよさ」
 いつもならピノコにはそのまま寝なさいって言うところだけど、今日は何となくわたしもキリコも高揚しちゃって、面白いことがあってね、って思わず話しちゃった。
 聞いていた二人は目を丸くして、ぽかんと口を開けて、それがさっきのわたしたちそっくりで、わたしとキリコはまた笑った。
 あの時は想像もしていなかった。だからあの頃のわたしに教えてあげたい。
 
 大学に入る頃には日記を書くのをやめてしまうよ。
 どういうわけだかベトナムに行くよ。
 そしていつか、それこそ本当にどういうわけか、そこで出会った軍医と愛し合うようになる。
 それがまた不思議なことでね。
 あの時の正義の味方はその軍医だったんだ。
 だからまた日記を書きたくなるんだよ。
 今日の日記は決まってる。
 日記を書かなくちゃ。
 きっとあの日と同じ文章になってしまうけど。

【正義の味方に会った】。

 それから少し書き足すかもしれない。
 目が覚めて日記を読み返して、わたしの記憶と一致するはずの文章を少しだけ。
 現実がどちらかを迷わないためじゃなくて、そう、きっと、わたしがわたしに自慢したいのかもしれない。
 だから書くんだ。
 少しだけ書き足すんだ。
 正義の味方に会った。
 その正義の味方は、

【わたしのたいせつなひと】。